第9話

文字数 2,026文字

二月八日
 中尾先生の前回の診察からちょうど一週間経つ。そろそろだと見込んで、看護師に次の診察はいつですか、と聞いてみた。すると、
「ちょっと、待ってて。聞いてみるわ」
と返ってきた。携帯で何やら連絡を取っている様子だ。

 しばらくして返事が来て
「ごめん、今日は来れないみたい。明日以降になりそうって言ってた」
いつもならガッカリしてしまうところだが、余裕のある態度で
「分かりました、気長に待ちます」
と応じることができた。
「あの先生は悪い人じゃないんだけど、とにかく忙しいから。ほら話は聞いてくれるでしょ?それでいて、ざっくばらんにお話される…」
看護師のフォローもそこそこに聞き、部屋に戻った。中尾先生は悪い人ではない。ただ目が血走っているのは、怖いから治してほしいと思うだけなのである。

 しばらくすると、田辺君が
「ちょっと時間があるんで、散歩に行きませんか?診察を待ってもらっているのも申し訳ないんで」
と提案してくれた。
「ちょっとってどのくらい?」
「十分くらいですかね」
「わかった、行こう」
 僕と田辺君はこうして散歩に行くことになった。そうは言っても病院の敷地内をぐるりと回るのが精一杯の時間だ。病棟を出ると、外の風が皮膚を刺すように冷たく感じられて、身をすくめた。二月も初旬なので、まだまだ簡単には暖かくならない。

 心が軽いと何もかもに寛容になれる。そう実感するには十分な日々を送っている。以前なら、入院患者がマイペースに生活を送っているにさえイライラし、新聞やテレビから流れる報道にも苛立ちを隠さなかった。それがどうだろう、今となってはこう考えられるようになった。
「あの人もあの人なりに一生懸命に生きているのだな」
 自分は自分、他人は所詮他人と思えれば、何事も客観的に見ることができる。だから、他人を許せるようになれた。これは大きな進歩だろう。

二月九日
 今日も待ってみたけど、中尾先生の診察はない。

 今日はあえて看護師には何も言わなかった。しつこく待っていると思われるのが恥ずかしく感じられたからだ。そして、感情を極力表に出さない、それこそがポジティブな態度だと思えるようになってきた。

 それはさておき、病室に新しい入院患者がやってきた。元々僕のいる病室は四人部屋なのだが、二床ベッドが空いていたのである。そのうちの一つが埋まった。僕は元々同室の患者とはあまり話さないようにしていた。そこに新しい入院患者が現れても、自分には関係ないことだと思っていた。僕がベッドで寛いでいると、
「ごめん、ちょっといいかな」
と声がする。特に断る理由もなかった。
「どうぞ」
看護師だと思っていたら、見知らぬ中年男が立っていた。
「こんにちは、岡安といいます。今日から入院したんで、よろしくお願いします」

 岡安という新しい入院患者が自分のフィールドに入ってきた。しかも、ベッドにやおら近づいてきたかと思ったら、僕の目の前まで寄ってきたのである。きっと、彼のパーソナルスペースは僕のそれより小さいのかもしれないが、勘弁してほしい。

「あぁ、よろしくお願いします」
と返すほかなかった。彼の持つ圧力に気圧されて、二の句を継ぐことができなかった。僕のフィールドを離れると、同じように向かいのベッドを使っている同年代の男-川端というらしく僕は最近名前を知った-にも挨拶していた。そいつも岡安に対して、とても面倒くさそうに対応していた。

 岡安は挨拶を終えると、鼻唄を歌いながら持ってきた荷物を整理し始めた。その鼻唄も僕の求める静けさを侵すようなものだったので、病室を離れようと思った。でも、行くところも行きたいところもなく、食堂の近くにあるテレビを見ることにした。これで心が落ち着くと思ったのも束の間、三十分程すると、岡安が僕の座るベンチの横に座ってきた。
「テレビ見てるんか?昼過ぎはワイドショーかサスペンスの再放送ばかりでつまらんのぉ」
と言いながら、誰よりも食い入るようにテレビを見ていた。もう逃げるのを諦めて、一緒に岡安とテレビを見て過ごすことにした。他人と見るテレビはストレスが溜まる。例えば、好きな時にザッピングができない。つまらない話題の時でも同じチャンネルを合わせていないといけない。たまらなく苦痛でならなかった。

 そのうち、岡安は食堂の横にある喫煙所に行って、一服していった。何が何だか分からなくなった僕は病室に戻ってベッドに横になることを選択した。一事が万事この調子だから、食事場所だけは離れたところであってほしいと願った。幸いにも違うテーブルで食事を摂るようだ。近くで食べるとなったら、ストレスで食欲が落ちてしまうかもしれないと不安だったので、ホッと一息をついた。

 どうも岡安みたいな周囲を容易に巻き込んでしまうようなタイプの人間は苦手だ。こっちのペースまで掻き乱される。他人のスペースに入り込んでいくことが分かったので、このメモのこともバレないようにしなくてはならないだろう。
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