第8話 夜明けの葬列

文字数 24,818文字

夜明けの葬列

 照りつける太陽の中、虫の鳴き声が会話もできないほど大きい。
連日の熱中症注意報はどこ吹く風。何故かおうまの森は涼しい。

「じゃあ、ペットボトルロケットをつくろう。気体と液体と気圧の勉強だよ」
「それっておうまさんがやりたいだけですよね」
「楽しいからいいじゃないか」

おうまの日課である森の散策に付き合いながら八喜子(やきこ)は空を見上げた。どこまでも続きそうな青い空に雲がくっきりと輪郭を形づくり輝いている。

「しばらくお休みします」

八喜子(やきこ)の言葉におうまは一瞬、考えを巡らせた。

「もうそんな頃だった? 早くない? 」

八喜子(やきこ)の顔があっという間に真っ赤になる。暑さのせいではない。

「違います! 雪輝(ゆきてる)のアルバイトが決まったから一緒に行くだけです! 短期ですけど」
「俺のところ以外のバイトは禁止にしたはずだけど」
「私は違います。海の家のバイトだから朱珠(しゅしゅ)ちゃんがだしにして遊びに行こうって」
「そう。しばらく静かになるね」

おうまはいつも通りにこにことしていたが、からかうような語調で続けた。

「追々々試は? 」
「受かりました! おかげさまで! 」

よかったね、とおうまはくすくすと笑った。


 ギラリと日差しが肌をさす。砂から熱気が立ち上る。よせては返す波の音。
朱珠(しゅしゅ)《しゅしゅ》は歓声をあげてタンキニ水着のスカートをひらひらとさせながら海に飛びこんだ。日に焼かれた肌に心地よい。都心から離れた海岸のせいか人影もまばらだ。

八喜子(やきこ)ちゃんは入らないの? 」

朱珠(しゅしゅ)は波打ち際で足先をぬらしている八喜子(やきこ)へと声をかける。八喜子(やきこ)はゆったりとした白地に英字がプリントされたTシャツにデニムのショートパンツ姿だ。

「泳げないし……あ、カニ。とったら食べられるかな」
「食べない、食べない」

砂遊びをはじめた2人に品がいいとは言えない男たちが話しかけてきた。

「ねえ、君たち。2人だけ? 」
「ナンパはお断り。この子、彼氏いるし」
「いないよ! 」

八喜子(やきこ)は慌てて否定した。

「こういう時はいるって言うの! 」

朱珠(しゅしゅ)が叱りつける。

「じゃあさ、俺たちと遊ばない? 」

朱珠(しゅしゅ)がはっきり断っても男たちはしつこく食い下がった。八喜子(やきこ)は男たちの周りに見えるショッキングピンク色の妄想に吐き気がして思わず口をおさえしゃがみこむ。1人がやや乱暴に朱珠(しゅしゅ)の腕をつかんだ時、誰かが男の肩を叩いた。

「うちの生徒に何か用か? 」

男が振り向くと黒いスーツを着た鷹司(たかつかさ)《たかつかさ》が立っていた。

「暑い中ここまで走らせやがって、ふざけんなよっ! おいコラァッ! 」

鷹司(たかつかさ)の怒声に縮みあがり男たちは逃げていった。

「先生! ……我慢大会でもしてるんですか? 」と、朱珠(しゅしゅ)

「またスーツ破れたんですか? 」と、八喜子(やきこ)

「先に礼を言え。男も連れずにこんなとこに来て誘ってんじゃないのか? 」
「あ、ありがとうございました。違いますぅー。遊びに来ただけですー」
「ありがとうございます。雪輝(ゆきてる)がバイトしてるから」

八喜子(やきこ)が海の家を指す。

「逆か」
「はぁ! ? どういう意味? てか先生こそなんでいるの? 」

朱珠(しゅしゅ)が顔を赤くして、まくしたてる。

「見ての通り法事だ」
「ついにそっちにいったんじゃなかったんだ」
「そっちってなんだ。俺は真面目な好青年だろ。見るからにな」



 夜。民宿で夕飯をつつきながら朱珠(しゅしゅ)はぼやいた。

「つーか、ガラガラ? 雪輝(ゆきてる)のバイト代でるのかな」
「地震があったからお客さんが来なくなったらしいよ」
「あー、あったね。しょっちゅう揺れてたら大丈夫じゃない? 八喜子(やきこ)ちゃんも水着買えばよかったのに」
「泳げないし」
「悩殺水着を彼氏に見せたげれば喜ぶでしょ? 」
「彼氏じゃない! それに」

八喜子(やきこ)は真面目な顔で言った。

「そういうものの興味まったくないから」

なめたいとは思うけど、と八喜子(やきこ)は心の中でつけたした。

「へー。そんな人もいるんだね。そうなの? 先生」
「知らん。お前ら向こうへ行け。俺は1人で静かに食いたい」
「だってー、可憐な乙女二人組だとなにかと物騒なんだもん」
「最初から来るな。あほか」
「先生いつ帰るの? 」
「明日の予定だったが長引くだろうな」

鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)へ目を向ける。

金扇(かねおうぎ)妹。お前、何か変なもん見ただろう」
「……海岸に人がいっぱい」
「ぎゃっ! 八喜子(やきこ)ちゃん、また幽霊? 霊感あるんだっけ」
「それよりもっと厄介だ」

鷹司(たかつかさ)はため息をつきながら開け放たれた窓の外の海岸を見た。誰か呼ぶか、とぼやきながら。



 いつから見るようになったのか。
トイレの洗面台で手を洗い鏡を見ながらふと、八喜子(やきこ)は思った。
自分が見えている光が皆には見えないことを母から教わったのは小学校へあがる頃だった。だんだんと光の色と発せられる言葉が違うことが増えてきた。
「かわいいね」と口にしながら内心は罵りの言葉で溢れていることも多い。
クラスメイトの(むつみ)朱珠(しゅしゅ)と同じく違うことがない。心で思う通りの罵詈雑言ばかりなので朱珠(しゅしゅ)は嫌っているが八喜子(やきこ)は睦が嫌いではなかった。

笑顔の奥で黒や赤、そんな色をまとっている人の方がよほど苦手だ。
挙動不審になってしまい、より心の中で罵られるのだから。

朱珠(しゅしゅ)には霊感で幽霊が見える、ということにしてあるが秘密をかかえていることが心苦しくもあった。見えているのは霊、と言われるものだけではない。具合が悪くなるのは病弱なだけ、というのが嘘なことも。
それを伝えた時に彼女が何を思うのか。
八喜子(やきこ)にはまだ勇気がもてなかった。

八喜子(やきこ)は鏡を見て髪を整えながらまたのびてきたな、と思った。
朱珠(しゅしゅ)には変だよ、と言われながらも、のびてきた前髪をピンで横にとめただけの髪型を続けている。母が生きていた頃、髪のベールを通して見る世界はいくらかましだった。
おうまに前髪を切られ自分を隠せないで見る世界は思っていたよりも怖くなく思っていたよりもきれいなものがたくさん見れた。

 八喜子(やきこ)は真っ暗な廊下を泊まっている部屋へ向かって歩いた。非常灯の明かりだけが奥にぼんやりと光っている。
げろげろと爬虫類の鳴き声のようなものが廊下に響く。びくりとして後ろを振り返るが何もいない。おそるおそる前を向くと上からぽたりと生臭いねばついた体液がたれ八喜子(やきこ)の頰を伝って落ちる。
上を向いて八喜子(やきこ)は息を飲んだ。べろりと長い舌をつきだし膨れ上がった紫色の顔をした男が天井から立っていた。
逃げなくては、と思ったが足の力が抜け、ぺたりと座りこんでしまう。
また、鳴き声がした。男の目が左右ばらばらの方向を見ながら舌がゆっくりと近づいてくる。生臭い息がかかる。男の周りには暗闇よりも暗い闇が拡がっている。八喜子(やきこ)はぎゅっと目をつぶった。
途端、おぞましい悲鳴があがる。
八喜子(やきこ)が熱さを感じて目を開けると男が炎に包まれていた。廊下がオレンジ色で明るく照らされる。炎は男とともにあっという間にぎゅぅっと縮んでいき、すぅっと消えた。

金扇(かねおうぎ)妹」

よれよれのTシャツに半ズボンといった格好の鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)を見下ろしている。

「早く寝ろ、これ以上何も見るな。俺を寝かせてくれ」


 少し前。R市内。
夜の暗闇が公園をつつんでいる。
円戸(えんど)はベンチに座って高々と両手をつき上げた。

「終わったー! 」
「ゴリラは静かにしてください。不審者って通報されたらどうするんですか。ただでさえ夜なのに。昼でも通報されるんですから」

矢継早(やつぎばや)は何十個も丸の中にバツ印が書かれた地図の最後の丸の上へバツを書き込んだ。

「いやー、我ながらいい作戦ですよね! やっきーの行動ルートの把握と変なものみた場所を聞いておけば辿りながら、あいつら処分すればいいんですからね! あ、電話。はい、矢継早(やつぎばや)です。ああ、鷹司(たかつかさ)さん。お疲れ様です。なんですか? 有給中ですよね? 社会人の有給は学生さんたちと違って休めば休むほど自分の仕事がたまるだけなんですから早く戻ってきてくださいね。え? は? はぁ? はぁぁっ! ? 人なんかいるわけないですよ! 言いましたよね! 小此木(おこのぎ)一派がやらかしたって! ていうか、あいつらのいらんことしいのおかげでもっと大変になったんですけど! ほっとけばご飯食べておとなしくしてたのも危なくなるし! おまけに特課の人数まで減らして! 何考えてんですかね? え? 寝れない? お互い様ですよ! いつものことじゃないですか。え? さとりが見ると昼も出るって仕方ないじゃないですか。やっきーにずっと目つぶっててもらうんですか? いつも通りばーっとぼーっと燃やしつくせばいいじゃないですか? いっぱいいるなら、かえって楽じゃないですか。じゃ、お疲れ様でした! わたしたちは終わったので。これから帰って寝るので! え? 来い? 行くわけないですよ。有給楽しんでください」

矢継早(やつぎばや)は電話を切った。
 

 翌日。空は晴れわたっていたが、やはり海岸に人はまばらなままだった。
波の音以外は静か、と言ってもいい海岸に朱珠(しゅしゅ)の大声がよく通る。

「だから! しつこい! お断り! 」

昨日の男たちが懲りずに朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)へ絡んできていた。

『昨日、恥かかせやがって』

『思い知らせてやる』

赤とショッキングピンク色の光が混ざって男たちの周りに散っているのが八喜子(やきこ)の目には見えた。鷹司(たかつかさ)は寝る、と民宿で寝ており助けを求めようにも遠くから好奇の目を向けていた人々はゆっくりとさらに遠くへ離れ始めている。

『巻きこまれないようにしよう』

八喜子(やきこ)には助けを求めても無駄なのがわかってしまった。
ひゅっと空を切ってペットボトルが飛んできて男たちの足下に叩きつけられひしゃげる。ばきり、と折れるようにして中味が吹き出した。

「俺の彼女に何か用か? 」

飛んできた方へ目を向けると八喜子(やきこ)の兄の雪輝(ゆきてる)《ゆきてる》がさらにペットボトルを投げようと構えていた。

「次はデッドボールにするか? 」

男たちは舌打ちしチビが、と毒づきながら立ち去った。

雪輝(ゆきてる)! ありがとう! 」

八喜子(やきこ)が駆け寄ると雪輝(ゆきてる)は軽く彼女の額を小突く。

(りょう)も誘えばよかったのに。2人だけで来るな」

そう言えば朱珠(しゅしゅ)は、と八喜子(やきこ)が振り返ると朱珠(しゅしゅ)は顔を赤らめている。

『彼女! ? 彼女ってあたし! ? マジ! ? 』

朱珠(しゅしゅ)の周りに見えるピンク色の光は空の太陽よりも眩しかった。


 「嘘ぉ! ? 嘘ぉ……」

朱珠(しゅしゅ)はうなだれた。先ほど、彼女ってどういうこと? と雪輝(ゆきてる)にきいてみたら淡々と「嘘だ」という答えが返ってきたからだ。

雪輝(ゆきてる)、嘘はダメだよ」
「嘘も方便だ。あいつらには気をつけろ。なんだか怪しい」
「そうみたいだね。なんか怖い」
「俺だってくっついてるわけにいかない。もう帰った方がいい」
朱珠(しゅしゅ)ちゃん、大丈夫? 先生のところに行こう? 」
「先生? 」
鷹司(たかつかさ)先生が法事で来てたんだよ」
「先生はいつまでいるんだ? 一緒に帰ればいい」
「昨日までだったんだけど……」


 民宿の一室。鷹司(たかつかさ)は来客の声で起こされ不機嫌な態度を隠そうともせず布団の上に座った。

「寝てるところ、悪いな」
「悪いと思うなら起こすな。何の用だ? 」
「タカは拝み屋みたいなことやってるってきいたんだ。頼む! 」

線の細さを感じさせる男は鷹司(たかつかさ)の旧友で名は正臣(まさおみ)といった。彼は鷹司(たかつかさ)の前に土下座する。

「助けてくれ! 」

鷹司(たかつかさ)はあくびをしながら頭をぼりぼりとかいた。

「話による。コーヒー持ってきてくれ」


 山に住むのに町田、と町田(まちだ)正臣(まさおみ)はよく笑われた。海岸沿いの町並みから離れ山の方へ行くと30戸ほどの集落があり彼の母の実家はその中にある。母は都内へ出たものの、うまくいかず小学生の頃、正臣(まさおみ)をつれてこの村へ戻ってきた。
学校は海側にあり正臣(まさおみ)たち村の子は山の民、とよくからかわれた。
そう言われるほど海側とは違う習慣がいくつかあり山側の大人たちは海側の大人たちに対しどこかよそよそしかったからだ。

 正臣(まさおみ)は今度、同じ村の千鶴子(ちずこ)と祝言をあげる、と言った。

「だけど、千鶴子(ちずこ)が変なんだ」
「変ってどういう風に? 」
「みんなは俺の勘違いだというが、おかしい。あれは……」
「あれは? 」
「あれは千鶴子(ちずこ)じゃない」

もともと健康そのもの、といった顔つきではないが正臣(まさおみ)の頰はこけ目だけがぎらぎらと生気にあふれている。

「さっぱりわからん」

鷹司(たかつかさ)正臣(まさおみ)が持ってきたコーヒーをぐいと飲み干し立ち上がった。

「んじゃ、行くか。千鶴子(ちずこ)さんに会ってみよう」
「ありがとう! タカ」

正臣(まさおみ)は泣き出しそうな声で鷹司(たかつかさ)に礼を言った。



 民宿まで道路沿いのアスファルトの上を歩きながら朱珠(しゅしゅ)は歓声をあげた。

「いいんですか? こんなにもらっちゃって! 嬉しい! 」
「ええ。たくさんあるから」

木田千鶴子(きだちずこ)と名乗ったその女性は静かにほほえんだ。

「やったー! おばさんに焼いてもらおう! ありがとうございます! 」

朱珠(しゅしゅ)はわけてもらったサザエが入った網にほおずりをする。
山の方の村から来た千鶴子(ちずこ)がくらくらと暑さからめまいを起こし座りこんでいたところへ八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)が通りがかり介抱したのだ。お礼に、とサザエをわけてもらい同じ方向だからと一緒に歩いている。

千鶴子(ちずこ)さんってなんか大人ってかんじ」
「そうかな。年をとっているだけよ」
「ううん! なんか大人の色気って感じ! いいなぁ、あたしガサツだから」
「そんなことない。明るくてとってもいいお嬢さんよ。あなた……八喜子(やきこ)ちゃんだったわね。どうしたの? 」
「具合悪い? 」

八喜子(やきこ)は無言で首を横に振った。
千鶴子(ちずこ)の周りには赤黒い光が炎のようにゆらめいているのが見える。


『許さない』


との言葉とともに。



 民宿の前で八喜子(やきこ)たちは鷹司(たかつかさ)たちと出会った。

千鶴子(ちずこ)! どうしたんだ? 」
「お母さんが貝を食べたいっていうものだから」
「こんな暑い日に出歩いて大丈夫なのか? 」
「少しめまいがしただけよ。このかわいい子たちが助けてくれたし」
「君たちが……そうか、すまなかった。
千鶴子(ちずこ)、タカだ。昨日、話しただろう? 」
「暑いから中で話そう」

鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)たちにも来るようにいった。


 民宿の食堂の中へサザエの焼けるいい匂いがただよってくる。昨日、幽霊を見た! と騒ぐ客があいつぎ泊まっているのは鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)たちだけだ。八喜子(やきこ)は心の中で人のいい女将さんに詫びた。
冷たいお茶を飲みながら鷹司(たかつかさ)が口を開く。

「で、正臣(まさおみ)と結婚するってきいたが本当にこいつでいいのか? いっつもぴーぴー泣いてた頼りない男だぞ」
「先生っていじめっ子っぽいもんね」

朱珠(しゅしゅ)があはは、と笑った。

「いいや、俺は真面目な真面目なリーダーだったぞ」
「ガキ大将? ジャイアンみたいな? てか」

朱珠(しゅしゅ)はうつむいたままの八喜子(やきこ)の顔をのぞきこむ。

「大丈夫? 具合悪い」

八喜子(やきこ)は無言で首を横にふった。
千鶴子(ちずこ)が視界に入ると赤黒い炎のような光に飲まれそうになる。


『許さない許さない許さない許さない』


正臣(まさおみ)朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)にちらりと目を向けるたびにそれが大きくなる。
千鶴子(ちずこ)は体が弱い、と正臣(まさおみ)が言ったように彼女の肌は青白く儚げで静かにほほえんでいる。だが彼女の周りには暗闇に近い赤黒い光があった。

正臣(まさおみ)。生徒の具合が悪いみたいだから今日はこれですまん。また明日話そう」
「ああ。千鶴子(ちずこ)、帰ろう」

礼をいい2人は帰っていた。
千鶴子(ちずこ)がいなくなると八喜子(やきこ)のお腹がぐーっとなる。

「おなか空いてたの? 言えばいいのに」

朱珠(しゅしゅ)がげらげらと笑った。


 食事をおえると八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)の部屋へと呼ばれた。

千鶴子(ちずこ)さんをどう思う? 」

鷹司(たかつかさ)にきかれた八喜子(やきこ)はこたえていいかわからず鷹司(たかつかさ)の目を見たまま黙りこんだ。

正臣(まさおみ)に頼まれた。様子がおかしいから調べてくれって。何か見えたか? 」

 見えたのは赤黒い光。暗闇みたいな。あれはお母さんが言ってたー

「怨み」
「怨み? 」
「怨みの色でした。お母さんが怒りは溜めこむと怨みになる、って言ってたのと同じ色」
「そうか。ほかには」
「許さない、って。すごく強く思ってました」
「そうか。明日、お前も来てくれ。どうせ泳がないんだろ? 」
「どうしてですか? 頼まれたのは先生ですよね? 」
金扇(かねおうぎ)妹。お前が離れてあちこち行くと怪異どもがどこで元気になるかわかったもんじゃない。一緒にいてくれ」

鷹司(たかつかさ)はため息をついた。

「俺を寝かせてくれ」
「ちょっと! ? どういうこと! ? 」

ちょうど廊下を通りがかった朱珠(しゅしゅ)が怒鳴りこんできた。


 鷹司(たかつかさ)の説明を受け朱珠(しゅしゅ)は顎に指をあてて考えこんだ。

「んー、つまり、千鶴子(ちずこ)さんのところへ行くの? あたしも行く! 」

勢いよく手をあげた朱珠(しゅしゅ)鷹司(たかつかさ)は顔をしかめた。

「怖い人たちがいるから雪輝(ゆきてる)も先生と一緒にいろって言ってました」
「……いや、それならここの女将や金扇の海の家でバイトまでいかなくても手伝いをして親しくなれ。山側の連中について情報がほしい。九重(ここのえ)、お前にしかできない。お前はおばちゃん受けがいいからな」
「おうよ! まかせて! なんか探偵みたい! 」

朱珠(しゅしゅ)はぱちぱちと拍手をする。

「じゃあ、明日。俺は寝る」

鷹司(たかつかさ)はごろりと布団へ寝転がった。


 夜になると幾分暑さがゆるみ快い風が部屋の中を通り抜けていく。明かりを落とした自室の布団へ横になったものの正臣(まさおみ)は寝つけずにいた。開け放した窓からきこえる虫の鳴き声が急にとまる。
窓へ目を向けると藤色の着物を着た千鶴子(ちずこ)がこちら側へ足を下ろして腰掛けていた。朱色の帯と唇の紅が暗闇に映えている。


ああ、あれが来た。


ひやりと冷たいものが背をなでていく。正臣(まさおみ)の体がぶるぶると震えだした。千鶴子(ちずこ)へ目を向けたまま布団の中から動くことができない。
千鶴子(ちずこ)はいつもの笑みをうかべている。
どこかへ消えてしまいそうな儚げな笑みだ。彼女はゆっくりと窓の外へ身を投げる。飛び起きた正臣(まさおみ)がのばした手はかすめもせずに千鶴子(ちずこ)は落ちていく。
そのまま地面に落ちる前にとけるように消えていった。唇を歪めて笑いながら。


 翌日。また暑さの厳しい中。鷹司(たかつかさ)に手を引かれながら八喜子(やきこ)は山側の村へ向かって歩いていた。彼女は目にアイマスクをつけているので何も見えない。

「先生……暑いです」
「奇遇だな。俺もだ」
「これつけてなきゃダメですか? なんかくさいし……」
「うるせぇ。一応洗ってある」

八喜子(やきこ)は何度目かの抗議を繰り返したがまたしても無駄に終わる。
八喜子(やきこ)は暗闇の中を歩きながら昨日見た母の夢を思い返すことにした。



いいこと? どんなに屈強な相手でも眼球を鍛えることはできないの。狙うなら目よ。

はい。お母さん。


いいこと? 攻撃においてリーチが一番。得物の交換を持ちかけてくる相手は疑ってかかりなさい。

はい。お母さん。


いいこと? 凶器を手にした相手は興奮状態で視界が狭まっているの。だから低い位置、足下を狙いなさい。

はい。お母さん。


いいこと? 女の子はとにかく逃げ足が大事よ。毎日オキ様までランニングして鍛錬を怠らないように。

はい。お母さん。


母はにこにこと穏やかな笑みを浮かべながら色々なことを教えてくれていた。


 ……お母さんって何であんなこと教えてきたんだろう?
朱珠(しゅしゅ)ちゃんやるる子ちゃんはそんなこと教わらないって言ってたし……



 夢の最後は小さな自分が泣いている。泣いている自分を抱きしめながら母は優しく笑っていた。


いいこと? あなたを怖がらせたのは男じゃなくて獣。雪輝(ゆきてる)も男だけれど八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)が怖い?


ううん。


それはね、雪輝(ゆきてる)が男だからよ。男も獣は大嫌い。女を獣から守ってくれるのは男なのよ。


わかんない。


雪輝(ゆきてる)のような人を見つけなさい。八喜子(やきこ)には見えるでしょう? それはとても幸せなことよ。


ふふっと母は笑って続ける。


キンシンソウカンモノが好みになったらお母さんも考えるけどね。


キンシーソウカモノって何?


八喜子(やきこ)も大人になったらわかるわ。



「わかりたくない! 」
「? 橋はもう渡ったぞ」

山側の村へは川にかかった橋を渡らなければならない。
八喜子(やきこ)はアイマスクをずらした。砂利道が林の中へと続いている。林を抜ければ村があると鷹司(たかつかさ)からきいた。
林を抜けるとまばらに並んだ家の間をぬうようにして砂利道がぐねぐねと続いている。八喜子(やきこ)正臣(まさおみ)の家はこっちだ、と先を歩く鷹司(たかつかさ)の後に続いた。



 先生は男だ。じゃあ……



 同時刻。おうまの屋敷の大広間。おうまは派手にくしゃみをした。
くつろぎ兼応接用のソファに向かい合って座る兄のアガマが感情のこもらない語調で淡々と言う。

「掃除しろ」
実友(みとも)がやってくれてるよ。兄さん、北海道に行ったんだね」

おうまは目の前に置かれたお菓子の箱を嬉しそうになでる。

「仕事で、だ。アヤマ、話がある」
「これは俺だけで食べていいんじゃないの? 」
「バームクーヘンから頭を離せ」
「北菓楼っておいしいよね。食べたくてもすぐに買いに行けないし」

無邪気に笑うおうまを無視してアガマは話をすすめた。

「さとりの娘はどうしてる? 」
「友達と海に行ったよ」
「手元から離して、ほかの奴に食われたらどうするつもりだ」
「目だけは残るよ。俺の物だ」
「女なら(はら)に入れておけばいい。そうすれば誰も食わない」
「だーからっ! そういう話はしないでくれって言ってるだろう? 」
「よく考えろ」
「考えないようにしてる。やめてくれる? 」

おうまは頰を赤く染めて目を伏せる。

「あんなにちっちゃかったら壊れちゃうでしょ」
「考えてるじゃないか」

アガマは笑うように目だけを細めた。



 正臣(まさおみ)の家は村の一番奥にあった。砂利道はそこで途絶えているが家の裏手はすぐ山になっており八喜子(やきこ)はおうまの屋敷を思い出した。
町田家の周りには雑草が生い茂り草の中をかき分けるようにして歩くとちくちくと足首を刺してくる。

「タカ! 」

こちらに面した縁側に座っていた正臣(まさおみ)が立ち上がる。砂利の敷かれた庭にはまだ雑草は生えていなかったが時間の問題だろう。ところどころ砂利の隙間から草が顔を出している。町田家はどこか荒れた印象を与えた。開きっぱなしの戸はやや傾いているようにも見える。
縁側から見える家の中は物が乱雑に散らばっていた。

「すまない。ちょっとな……」

正臣(まさおみ)は言葉をにごし鷹司(たかつかさ)たちを招き入れた。


 とりあえず、と押しのけるようにしてつくられた隙間に座りながら鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)正臣(まさおみ)から話をきいた。

「夜に千鶴子(ちずこ)さんが来るんだな? 」
「ああ、そうだ。タカ」

正臣(まさおみ)は頭を抱える。

千鶴子(ちずこ)はどうなってしまうんだろう」
「さあな。金扇(かねおうぎ)妹。何か見えるか? 」
「……変なものは何も」

八喜子(やきこ)は首を横に振りながらこたえた。彼女の目には正臣(まさおみ)の周りに濃い灰色の光が見えている。心配している時の色だ。

正臣(まさおみ)のお袋さんとじいさんとばあさんはどこだ? 」
「村長の家だ。もうすぐ祝言があるから」
「これだけ汚いのは引越しの予定でもあるのか? 」
「まさか。……いつもこうなるんだ。夜に千鶴子(ちずこ)が来た日は」
「お前のお袋さんたちはどう言ってる? 」
「何も見ないし知らない、としか。夜の千鶴子(ちずこ)を見るのは俺だけだ」

正臣(まさおみ)鷹司(たかつかさ)の腕をつかんだ。

「頼む、助けてくれ」

正臣(まさおみ)の生気のない顔に目だけがぎらぎらと光っている。

「今の状況じゃなんとも言えないな。もう少し調べる。行くぞ」

鷹司(たかつかさ)の後を八喜子(やきこ)は慌てて追った。


 町田家を出ると鷹司(たかつかさ)は山の方へと歩いていく。八喜子(やきこ)はその背中に話しかけた。

「先生、千鶴子(ちずこ)さんに会わないんですか? 」
「昨日、会っただろう? アレ以外何かみえたのか? 」
「いいえ、何も」
「なら、必要ない。『さとり』の目には見えるはずだ。もし化け物になってるならな」

鷹司(たかつかさ)はくるりと振り返り八喜子(やきこ)を見る。

「化け物になってたか? 」

八喜子(やきこ)はいいえ、と首を横にふった。
鷹司(たかつかさ)が言う化け物の色は暗闇より深い黒。
決して近づいてはいけない、と母が教えてくれた色。


 なだらかな山をのぼっていくと急に拓けた場所へ出た。草が刈り取られ六角形のお堂のようなものが建っている。
鷹司(たかつかさ)は観音開きの木製の扉をぎいと押し開きその中へ入る。八喜子(やきこ)も後に続いた。お堂のような建物の中は中央に天井つきのベッドのようなものがあり、その周りに明かりとりの窓からの光がおちている。

「この村じゃ祝言後に、ここに入るんだ。村公認のラブホだな」

八喜子(やきこ)はぎゃっと叫んで外へとびだした。勢いよく外へ出たため転げてしまう。

「おい。何かないか、よく見ろ」
「嫌です! 嫌です! 気持ち悪い! 」
「お前、まだ生娘なのか? 死んだらあいつに目をやるんだろう? 」
「それとどう関係があるんですか? 」
「いや、知らないならいい。そこからでもいいから何か見えないか? 」

八喜子(やきこ)は頰を染めながら扉の奥へと目をこらした。
中央に透き通った男女が見える。正臣(まさおみ)千鶴子(ちずこ)だ。裸でお互いをむさぼるように激しく絡み合っている。そばには脱ぎ捨てられた衣服が散らばり赤い帯が血のようにも見えた。

「何が見えた? 」

顔を赤くし両手で覆う八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)が容赦なくきいてくる。八喜子(やきこ)は小声でこたえたが何度も訊き返され最後には叫んだ。

「セックスしてるんです! 正臣(まさおみ)さんと千鶴子(ちずこ)さんが! 」
「おお、そうか。ラブホだからな。今日は帰るか」

鷹司(たかつかさ)が先に歩いていく。八喜子(やきこ)は顔を赤くしながら後に続いた。


 民宿で夕飯を食べた後、八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)鷹司(たかつかさ)の部屋へ来ていた。
窓の外から潮の香りを波の音とともに風が運んでくる。

「んーとね。山の人たちって海の人たちにあんまよく思われてないみたい」
「昔からそうだな」

朱珠(しゅしゅ)の報告に鷹司(たかつかさ)は明らかに落胆した。

「じゃあ、これは? 変なお葬式がある! なんと遺影を先頭にぞろぞろと町を練り歩くのです! 大名行列みたいに。鐘をちりんちりん鳴らしながら」
「昔からそうだ。それに鐘じゃなくてお(りん)だ」
「ええー……新情報だと思ったのに。そっちは何かわかったの? 」
金扇(かねおうぎ)妹が性行為を見たくらいだ」
「なにそれ! ? どういうこと! ? 」
「先生! 」

八喜子(やきこ)は顔を赤くして慌てた。

八喜子(やきこ)ちゃん、幽霊のってこと? 」

こくりと頷きながら、八喜子(やきこ)はふと気がついた。

正臣(まさおみ)さんたちは生きてる……どうして見えたんだろう」
「なんだ、お前。何も知らないのか? 」

鷹司(たかつかさ)があきれたような声を出す。

「『さとり』が見えるのは人の心だけじゃない。幽霊や化け物、あとは場所や物の過去なんかも見えるらしい」
「場所の過去……それで見えたんですね」
「ちょっと」

朱珠(しゅしゅ)がいつにない真面目な顔をして八喜子(やきこ)を見ている。

「『さとり』ってどういうこと? 」
「なんだ、知らなかったのか? こいつには人の心が見えてるんだぞ」

鷹司(たかつかさ)が詳しく余計な説明を付け加えた。教師らしく。


 八喜子(やきこ)からしどろもどろな説明を朱珠(しゅしゅ)は黙ってきいていた。

「ごめんなさい! 」

話終わった八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)に土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。

「何で黙ってたの? 」
「だって……気持ち悪いでしょ」
「はぁ! ? 」

朱珠(しゅしゅ)は大きく息を吐くと続けた。

「あのね! あたしは! 九重(ここのえ)朱珠(しゅしゅ)! 裏表ないのが自慢の看板娘! 見られて困ることなんてない! 」

朱珠(しゅしゅ)はべちっと両手で八喜子(やきこ)の頰を叩いた。

「これで許したげる。朱珠(しゅしゅ)さんをなめないでね」

朱珠(しゅしゅ)はにこりと笑い八喜子(やきこ)はぼろぼろと涙をこぼした。

「泣かない、泣かない」
「ごめんなさい……ありがとう」

不意に朱珠(しゅしゅ)が大声をあげた。

「ってことは! ? あたしが雪輝(ゆきてる)を……わかっちゃってたってこと? 」
「気づいてないのは金扇(かねおうぎ)本人とお前くらいだぞ? 」

鷹司(たかつかさ)があくびをしながら言う。

「先生もさとり! ? 」
「あほか」


 八喜子(やきこ)からさらに話をきき今度は鷹司(たかつかさ)が大声を出した。

「何もきいてないって霞末(かすえ)のゴリラは何も教えてないのか? 」
「きいちゃダメだって最初に言われました。たまに気まぐれで教えてくれますけど」
「火星のゴリラって誰? 」

朱珠(しゅしゅ)がげらげらと笑い転げる。
鷹司(たかつかさ)が大きく息を吐いた。

「……そうだな、そういう適当な奴だ。よし、教えてやる」

鷹司(たかつかさ)の立てた指の先に炎がゆらめく。

「俺も似たようなもんだ。まずは集中の仕方と心を見ないようにすること」

八喜子(やきこ)はおお、と感嘆の声を発した。

「先生みたい」
「先生だ。見ない方が先だな。話をきくかぎりお前の母親もさとりみたいだが……どうして教えなかったんだろうな」



見えるのは嫌だ、と泣いた私にお母さんは言っていた。
怖いものが見えないと逃げられない。だから、よく見なさい。
あなたは幸せだ、と。



「心を見ないためには何か言葉を決めておけ。それを繰り返して自分の意識をそらすんだ」
「! 雪輝(ゆきてる)みたいに? えーっと、しきそっくぜっく……」
「……アップルパップルプリンセスとでも唱えとけ」



 ひと通り説明を終えた鷹司(たかつかさ)はぼりぼりと頭をかいた。

正臣(まさおみ)の家は見てなかったのか。明日もう一度、だな。まあ、それでも見えないこともある」
「どうしてですか? 」
「まだ過去を見るのは不安定みたいだな。お前がよっぽど見たいと思わなきゃ見えないだろう。……お年頃だな」

八喜子(やきこ)はきょとんとしていたが、はっとしたかと思うと、みるみるうちに顔が真っ赤になった。

「ち、違います! あれは先生が見ろって言ったから! 」
「まあまあ、誰にでもあることだからな」
「違いますー! 」
「てか、先生は八喜子(やきこ)ちゃんがさとりだって知ってるのに平気なの? 露出したい、みたいな感じ? 」
「変態みたいに言うな。俺は大人だからな。心を閉じればいい」
「閉じる? 」

朱珠(しゅしゅ)がききかえす。

「社交辞令に気持ちはこめないだろう? それと同じことだ」

朱珠(しゅしゅ)は首をかしげているが八喜子(やきこ)は知っている。ちくりと少しだけ八喜子(やきこ)の胸が痛んだ。


 難しい話だから、とスマホをいじりだした朱珠(しゅしゅ)がにまにま笑い出す。

「えへへー! 雪輝(ゆきてる)があたしと付き合ってることにしとけって! しょうがないなー! 」

八喜子(やきこ)はよかったね、と笑い鷹司(たかつかさ)は生返事を返す。
朱珠(しゅしゅ)の周りにはきらきらとピンク色の光が散っているのが八喜子(やきこ)の目には見えた。


 夜も更けて雪輝(ゆきてる)がバイトをしている海の家では地元の人たちによる宴会が催されていた。

「おう、ゆき坊。ビール! 」
「はい」
「お前、働き者だってな。うちの娘の婿にどうだ? 」
「お前の娘は三十路だろう」

げらげらと年配の男たちは笑った。

「大塚の宿に泊まってる子かわいいんだって? 」
「俺の彼女と妹です。妹、彼氏いるんで」

雪輝(ゆきてる)朱珠(しゅしゅ)とやりとりをしていたスマホをいじり画面を見せた。

「うおっ! イケメンだな。俺よりは劣るけど」
「じじいが何言ってんだ! 」

またげらげらと大きな笑い声が響いた。

「色男、金と力はなかりけりなんて言うけどな」
「すんごいセレブで掃除も人を頼むぐらいです。力もあって俺ぐらいなら簡単に持ち上げれると思います」
「完璧だな、なんか難しい式書いてるし」
「こういうのは理屈じゃねえよなぁ? 」
「完璧……ですかね? 」

雪輝(ゆきてる)は顔をくもらせ深々とため息をついた。

「妹をなめるの好きなんです」
「ぎゃはは。俺はなめてもらうほうがいいな! 」
「だな! 」

まだまだ続きそうな愉快な宴会の喧騒は夜の闇に吸いこまれていった。



 同時刻R市内。某ファミレスで矢継早(やつぎばや)円戸(えんど)は若く凛とした女性と向かい合って座っていた。女性も矢継早(やつぎばや)と同じく黒いスーツを着て長い髪をまとめている。

「って言われましても。わたしたちはちゃんと仕事してます! ほら、みてくださいよ、この地図。やっきーの行動範囲に沿って処分してきましたよ」

矢継早(やつぎばや)はテーブルの上に地図を広げた。

「そうですか。でも『怪異』たちの目撃や被害はまだあります。見落としがありませんか」
「そうだぞ! 矢継早(やつぎばや)! 」

矢継早(やつぎばや)円戸(えんど)が女性の味方をするのを無視してスマホを取り出し画面を女性へと向ける。

霞末(かすえ)のゴリラのチェキスタ見ても出歩かずにペットボトルロケットの計算とかしてますよ? だから自然発生した分じゃないですかね? 」

チェキスタとは世界でつかわれているSNSで写真などの投稿が盛んに行われている。女性はA.K.というアカウントを見ながら考えこんだ。

「そのようですね。霞末(かすえ)の色つき様は人生を楽しんでるようでよかったです」
「何がいいんですか」

矢継早(やつぎばや)のとげのある言い方に女性はにこりと笑って返した。

「楽しんでいれば被害はでませんから。私たちのお役目は彼らとの共存です。戦争ではありません」
「はいはいはいはいはいはいはい! 何度もご高説承っております」
「……金扇(かねおうぎ)さんがお母様を亡くしたのは3月でしたね。それから『怪異』が増えだした」

物思いにふける様子の女性を円戸(えんど)はうっとりと見つめている。
矢継早(やつぎばや)は気のない返事をかえした。

「みたいですねー」
「お母様の死がきっかけでさとりのお力が強くなり『怪異』の数が増えた。そう考えてよさそうです」
「だからー、やっきーの行動範囲を中心に仕事しましたけどー? あ、カモミールティーはお口にあいませんかね? 」
霞末(かすえ)の色つき様が出歩いたことで『怪異』が活性化しているわけでもなさそうです。では、よろしくお願いします」

女性は美しい仕草で頭をさげた。

「は? 」
「原因を調べてください。もちろん処分の方も引き続きお願いします」
「はぁ? それは背広組のお仕事じゃないですかね? わたしたち制服組なんですけど」

うっとりと女性を見ていた円戸(えんど)矢継早(やつぎばや)にまくしたてる。

「バカバカ矢継早(やつぎばや)バカ! すみれ様に口答えするな! 」
「はぁ? あなたにバカって言われたくないんですけど? だいたい何ですか、矢継早(やつぎばや)バカって。語呂悪いじゃないですか。矢継バカぐらいうまいこと言えないんですか? 」
円戸(えんど)さん」
「はい! すみれ様! この円戸(えんど)におまかせください! 」
「わたくしを下の名前で呼ぶ許可をしてません」

すみれは笑顔のまま穏やかな口調で円戸(えんど)へ言い放った。

「はい! 千平(せんだいら)すみれ様! 」

円戸(えんど)は敬礼をしたが顔はしまらないままだった。
ぶつくさと不平をもらす矢継早(やつぎばや)に、すみれはにっこりと笑いかける。

矢継早(やつぎばや)さんには征士郎(せいしろう)が大変お世話になっていましたね。ありがとうございます。とても頼りになる方だと言ってましたよ」
「それって、わたしじゃなくて鷹司(たかつかさ)さんの方じゃないですかねー。狂犬鷹司(たかつかさ)



 暗闇に静かに波の音と水分をふくんだ物を叩く音が規則正しく響いている。

許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない

ごぼごぼと男の口からは血がこぼれ落ちるだけで言葉は出てなかった。
真っ赤に汚れた鉈は規則正しく振り下ろされる。男が絶命した後にも。



 翌日。少し寝坊した八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)が大ニュース! と叫びながら起こしに来た。

「殺人事件だって! 」
「……え? 」
「なんか海にいたしつこい奴ら? あいつらがみんな殺されちゃった」
「え! ? 」
「先生は朝早くからどっか行ったよ。あたしもうちょい話きいてくる! 」

心なしかどこか楽しそうに朱珠(しゅしゅ)は部屋を去った。

「ええ……」

八喜子(やきこ)は呆然と布団の上で座りこんでいた。


 手持ちぶたさな八喜子(やきこ)が町を歩いていると千鶴子(ちずこ)が道端にうずくまっていた。
慌てて駆け寄ると、またいつもの目眩だ、という。心配しなくてもいいと。
そうは言われても心配になった八喜子(やきこ)千鶴子(ちずこ)を送り届けることにした。
礼を言う千鶴子(ちずこ)の周りにはあいかわらず赤黒い光が見えている。

 橋を渡り山側の村へ向かって林の中の砂利道へ入ると暑さがかなり和らいだ。

「……あなたかわいいわね。とっても」

それまで無言だった千鶴子(ちずこ)が急に口を開いた。

「え? 千鶴子(ちずこ)さんはきれいですよ。朱珠(しゅしゅ)ちゃんが言ってた大人の色気っていうんですか? そんな感じです」
「そう……ありがとう」

千鶴子(ちずこ)の周りの赤黒い光がさらに大きくなる。

「あなた本当にかわいいわ」

『パッチリとした目がかわいい』

「目もきれいで」

『白い肌がかわいい』

「みんなぴかぴかで」

『……穢れを知らない』

「胸も大きいし」

『穢れを知らない』

「足も長くて」

『穢れを知らない! 』

千鶴子(ちずこ)の赤黒い光に一瞬視界を奪われた八喜子(やきこ)はえづいて側の木の根元へ戻した。

「大丈夫? 」

千鶴子(ちずこ)が優しく八喜子(やきこ)の背をさする。

「……る」
「え? 」
「あっぷるぱっぷるぷりんせす……」

ぶつぶつと繰り返す八喜子(やきこ)を優しく見守る千鶴子(ちずこ)の周りには灰色の光があふれていた。


 心配した千鶴子(ちずこ)に逆に彼女の家で休むように言われ八喜子(やきこ)はありがたく休ませてもらうことにした。出された冷たいお茶を口にすると身体中に染みわたるようでほっとする。

「熱中症かしら? ごめんなさいね」
「……千鶴子(ちずこ)さんのせいじゃないです」

八喜子(やきこ)は目を伏せた。

「いいえ、わたしのせいよ。送ってもらったから」
「……千鶴子(ちずこ)さんのせいじゃないです」

八喜子(やきこ)千鶴子(ちずこ)の目をまっすぐ見た。

千鶴子(ちずこ)さんのせいじゃないんです」

泣かないようにしても涙が浮かんできてしまう。

「……正臣(まさおみ)さんは違います。獣じゃないです……男の人です。男の人は獣が嫌いなんです! 」

千鶴子(ちずこ)はどこか困ったように黙って八喜子(やきこ)の言葉をきいている。

「結婚するんですよね? 好きなんですよね? 好きならもっと素敵なはずなんです……朱珠(しゅしゅ)ちゃんみたいに。もっときれいできらきらして」

八喜子(やきこ)はぼろぼろと涙をこぼした。

「ごめんなさい! ごめんなさい! 」

長い沈黙の後、千鶴子(ちずこ)が口を開いた。

「ありがとう」

静かなとても優しい笑みとともに。
周りには泣く八喜子(やきこ)を気遣う色と少しばかりの黄色い光があった。


 千鶴子(ちずこ)の家の玄関で八喜子(やきこ)は深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」
「わたしこそ。ありがとう。気をつけてね」

顔をあげた八喜子(やきこ)は玄関の隅に鉈が置いてあるのに気がついた。刀身を白く鈍い光を放っている。ぐにゃりと一瞬、八喜子(やきこ)の視界がゆがみ鉈が真っ赤に染まった。
思わず息を飲んだ八喜子(やきこ)の腕を千鶴子(ちずこ)が静かにつかむ。

「……どうしたの? あれは、山で使うのよ。草木がすごいから」
「……そう、ですよね」

鉈の刀身は白く鈍く光ったままで汚れはどこにもない。


 八喜子(やきこ)は林の中の砂利道を民宿へと向かいながら歩いていた。じゃりじゃりと自分の足音と虫の声が混ざる。
虫の声が遠くなった。じゃりじゃりと歩く自分の足音以外にもうひとつ。ずるずるじゃらじゃらと何かが近よって来る。
八喜子(やきこ)は足を早めた。だんだんと虫の声が小さくなってくる。
暑いはずなのに背中を流れる汗は違うものが流れ出し鼓動が早くなる。


見ないように。見ないように。見てはいけない。


八喜子(やきこ)は視線を落としがちに歩き続けた。
林の先がひらけて橋が見える。ずるずるじゃらじゃらと近づく音はしなくなった。
ほっとして八喜子(やきこ)は橋へ向かって駆け出そうとした。途端、ずしりと目の前に落ちてきた。仰向けになった男が裂かれた腹から真っ赤に染まった臓物をあふれさせ口からゴボゴボと血をあふれださせている。目はおちくぼみ真っ黒だ。

八喜子(やきこ)は小さく息を呑みかけだそうとしたが足から力が抜け転んでしまった。べたりと尻餅をつき這うように逃げようとしても震えてしまい動けない。男がずるずるじゃらじゃらと砂利の上を近づいて来る。


逃げなくては。逃げなくては。逃げなくては。


そうは思っても八喜子(やきこ)は男から目を離せなかった。思うように手足が動かない。

八喜子(やきこ)! 」

男の向こう側から誰かが叫ぶ。
目を向けると鷹司(たかつかさ)が走ってきている。

「立て! 来い! 」


 ー 立ちなさい ー


 ー 立たなくては走れません。走れなくては逃げられません ー


ー 立ちなさい、八喜子(やきこ)。どんなに怖くても立ちなさい ー



鷹司(たかつかさ)がかつての母の姿と重なる。八喜子(やきこ)ははじけるように立ち上がると男の傍を走り抜けた。

「よし! よくやった! 」

鷹司(たかつかさ)は走ってきた八喜子(やきこ)を自分の後ろに下がらせるとずるずるとこちらへ向かって来る男に掌を叩きつけた。男の姿が燃え上がる。ごぼごぼと水をふくんだ断末魔はあっという間に虫の声にかき消された。



 「ーあれは昨日、殺された奴だな」

腰が抜けて立てなくなった八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)の背に負ぶわれながら宿へ向かっていた。

金扇(かねおうぎ)妹、海岸の方へ行ったか? 」
「いいえ。先生、さっき『八喜子(やきこ)』って」
「ああいう時に金扇(かねおうぎ)妹じゃ長いだろ」
「長いならいつも八喜子(やきこ)でいいです」
「ああ、そうか」

道端でタバコを吸っていた老人が話しかけて来る。

「おう、タカ坊じゃねえか」
「どうも」
「その子、彼氏のちんぽなめるの好きな子じゃねえか。人のもんに手出すんじゃねえぞ」
「俺の生徒なんで。熱中症みたいです」

八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)の背中に赤い顔を埋めた。
一体誰が言ったのか、と思いながら。


 宿についた鷹司(たかつかさ)は重かった、とすぐさま部屋でごろりと横になった。八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)の隣に座る。

「ありがとうございました」
「俺の生徒だからな。しかし早すぎる」
「早いってどういうことですか? 」
「昨日、殺されたばかりなのにもう怪異になって出てきた。普通は一ヶ月かそこらかかる」
「私、見てたんでしょうか」
「海岸で死んでたからな。朝に窓から見たかもしれない。見ての通りぐちゃぐちゃで凶器は長さと重さのある刃物らしい」
「……鉈、とか? 」
「何を見た? 」
「……見間違いかもしれないです」

鷹司(たかつかさ)は体を起こす。

八喜子(やきこ)千鶴子(ちずこ)さんを送って行ったんだったな? 」
「見間違いかもしれないです! みんなは私をさとりだって言うけれど私が見てるものが本当に正しいなんて、どうしてわかるんですか? 」
「そりゃ、お前。普通の人に心の色なんか見えないからな。何を考えているかもわからない」
「もうやめましょう! せ、先生だって! 正臣(まさおみ)さんのことは面倒だって思ってるし! ただ単に『怪異』っていうのが憎いだけじゃないですか! だって家族をー」

鷹司(たかつかさ)ににらみつけられ八喜子(やきこ)は言葉を失った。周りに赤黒い光が炎のようにゆらめいている。

「家族を殺されて憎くないはずがない」

鷹司(たかつかさ)は立ち上がると八喜子(やきこ)の横を通り過ぎて出て行く。ひどく冷たい声で吐き捨てるように言い残して。

「これ以上、心を覗き見るな。化け物」



 「それは八喜子(やきこ)が悪い」

話をきいた雪輝(ゆきてる)は泣きじゃくる妹の頭をぽんぽんと叩きながら言った。休憩時間に妹が駆けこんできて何事かと思ったが話をきいて情けないやら何やらで鷹司(たかつかさ)に対して申し訳ない気持ちになった。

「だって……」
「失礼だろう。色々と世話になってるのに」
「化け物は言い過ぎ! 」

朱珠(しゅしゅ)はぷんぷんと怒っている。

「やっぱり見られたらやましいことがあるじゃん! 隠し事するのって最低! 」
「先生だって色々あるんだろう。何でもかんでも本当のことを言えばいいってもんじゃない。それで」

雪輝(ゆきてる)は泣きやんできた八喜子(やきこ)に優しくきいた。

八喜子(やきこ)はどうしてそんなことを言い出したんだ? お兄ちゃんに言ってごらん? 」

雪輝(ゆきてる)の周りには八喜子(やきこ)の大好きな白い光が見えている。

「うん……千鶴子(ちずこ)さんが酷い目にあって傷つけられた。それでもし千鶴子(ちずこ)さんがあの殺された人たちに何かしたんだったら、それを言わなきゃいけない」
「そうか。お兄ちゃんも一緒に謝ってやるから、あとで先生のところに行こうな」
「うん……」
八喜子(やきこ)はどう思う? 千鶴子(ちずこ)さんが男たちに何かしたのが見えたか? 」

八喜子(やきこ)は首を横に振った。

正臣(まさおみ)って人は千鶴子(ちずこ)さんがおかしいって言うけどどうなってんの? 」

八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)の2人は雪輝(ゆきてる)に事情を説明した。



 「俺は祝言後に使うラブホが先に使われてるのがどうなってんのかと思うけどな」
「したんじゃないの? シューゲン」

朱珠(しゅしゅ)が首をかしげる。

「祝言ってのは結婚式のことだろう? そんなにぽんぽん簡単にできることじゃない」
「じゃあ……したんだ。祝言」
「だから、八喜子(やきこ)。結婚式だぞ? 」
「だから、したんだよ! 夜に来る和服の千鶴子(ちずこ)さんと。正臣(まさおみ)さんは私たちの知らない千鶴子(ちずこ)さんと結婚したんだ」


 しくしくと女が泣いている。荒れた部屋の中で明かりもつけずに。窓や戸はすべて開け放たれ外から月明かりが入ってくる。薄ぼんやりとした暗闇の中で正臣(まさおみ)は泣く母を見つめていた。

「また……千鶴子(ちずこ)が? 」
「ああ、本当にお前は何を言ってるんだ」

正臣(まさおみ)の母は体を折って泣き伏した。

「もう駄目じゃ」

歳のせいでくぐもった祖母の声に正臣(まさおみ)が振り向くと戸口のところへ生気なく立っている。

「山へ行け。もうお前はお山のもんじゃ」
「おばあさん、何を言ってるんですか? これは千鶴子(ちずこ)が……」
「わしらにゃ何も見えん。お前は魅入られた。もう無理じゃ。これは! 」

急に祖母が大声をはりあげた。

「お前じゃ! お前がやったんじゃ! さっさと行け! 」

正臣(まさおみ)の母は泣いたまま何も言わない。祖母の気迫におされ正臣(まさおみ)はふらふらと外へ出た。

虫の声はしない。風が吹いている。
藤色の着物姿の千鶴子(ちずこ)が朱色の帯をしめ紅をさした唇でいつものように笑いながら立っていた。誘うように差し出された千鶴子(ちずこ)の手をとり正臣(まさおみ)は歩き出す。山へと向かって。
2人が見えなくなると思い出したかのように虫たちが鳴き出した。


 夜の海を見ようとするかのように開けた窓の外を無表情で見つめている鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)はそろって土下座した。

「「「ごめんなさい! 」」」
「……九重(ここのえ)は何を謝るんだ? 」
「えー? なんか、ノリで」

朱珠(しゅしゅ)はけらけらと明るく笑った。

「ノリで謝ってすむことじゃねえよ」

黒いスーツのメガネをかけた水咲(みずさき)と名乗った男が鷹司(たかつかさ)をたしなめる。

「子供相手におとなげない」
「……八喜子(やきこ)。今回だけ特別に許す。二度と言うなよ」

はい、と八喜子(やきこ)はうなだれた。

「先生、千鶴子(ちずこ)さんはどうなったんですか? 」

鷹司(たかつかさ)はちっと舌打ちする。

「村長にとめられたよ。こちら側ですべて済ます、だと」

朱珠(しゅしゅ)が両手でばんざいするように挙手する。

「先生! わかりません! 」

鷹司(たかつかさ)は面倒そうに息を吐きながら八喜子(やきこ)たちへ目を向けた。

正臣(まさおみ)は山の神、とでも言えばいいのか? そんな奴に気に入られて婚姻までした。だからもう帰ってこれない」
「さっき八喜子(やきこ)ちゃんが言ってた通りだね! すごいじゃん! 」

朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)の手をとってきゃっきゃっとはしゃぐ。

千鶴子(ちずこ)さんはどうなるんですか? 」
「さあな。知らん」

八喜子(やきこ)のもの言いたげな目を受けて鷹司(たかつかさ)は続けた。

「安心しろ。人殺しはいない。犯人は山の獣だとよ。だから何もきかれない。どういう理由か知らないがお前がかばった千鶴子(ちずこ)さんが犯人ってことはない。女の力じゃ無理だ」
「じゃあ……」

八喜子(やきこ)正臣(まさおみ)さんが、という言葉を飲みこんだ。

「……もう山の神のものだった。人間じゃない」
「先生の……お友達じゃないんですか? 」
「助けに行けってか? 無理だ。前に言っただろう。俺がどうにかできるのなんてほんの一握りだ。お前ら、この会社の社長を知ってるか? 」

鷹司(たかつかさ)はテーブルの上の缶コーヒーを指差した。3人は一様に首を横に振る。

「そういう金持ちで雲の上の存在でいる奴らのうち人間はどれくらいいると思う? 怪異どもととって代わられても誰も気づかない。金も権力もそっくりそのまま君臨し続ける。そんな奴に庶民が立ち向かっても何もできない」
「お金って大事ですもんね! 」

八喜子(やきこ)はぐっと両手を握りしめて言った。

「あとは物理的に無理な場合もある。俺じゃ全く歯が立たない。最悪なのが両方の奴だ。霞末(かすえ)とかな」



 じゃあ、正臣(まさおみ)さんは……



沈黙がおとずれた。


『俺たちは家族を奪われた』


八喜子(やきこ)はびっくりして鷹司(たかつかさ)の目を見た。


『頼むから見ないでくれ。ずっと見ないでやってきた。蓋をして奴らに憎しみをぶつけて』


鷹司(たかつかさ)の目は静かに八喜子(やきこ)を見返す。


『見られたら心が壊れてしまう。もう立てない』


八喜子(やきこ)は頷いた。

「先生」

雪輝(ゆきてる)がまっすぐ手をあげる。

「なんだ、金扇(かねおうぎ)
「なんで俺の妹を名前で呼んでるんですか? 」



 翌朝。食堂で最後の朝食を食べていた八喜子(やきこ)たちのところへ女将さんがかけこんできた。

「ちょっとタカさん! 外見て! 外! 」

面倒くさそうな鷹司(たかつかさ)の後を朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)は顔を見合わせてから追った。

 外に出るとちりーん、ちりーんとお(りん)のが響いていた。道の向こうからゆっくりと喪服に身を包んだ人々が列をなし歩いてくる。
八喜子(やきこ)千鶴子(ちずこ)の姿を見て言葉を失った。千鶴子(ちずこ)は白無垢姿で正臣(まさおみ)の遺影の横を歩いている。遺影を持つのは彼の母なのか泣きはらし目がはれていた。
千鶴子(ちずこ)八喜子(やきこ)と目が合うとほほえんだ。それは花嫁らしいとても満ち足りたものだった。
(りん)の音に合わせて、ゆっくりと葬列は進んでいく。



『愛しています』


『愛しています』


『誰にも渡さない』


白く眩しい光に包まれる白無垢姿の千鶴子(ちずこ)はとても清らかで恐ろしく、そしてひどく悲しいものだった。



 数日後。R市内。某ファミレス。
矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)は向かい合って座っていた。

「今回の報告書に敗因は何って書けばいいですかね? 」
「人手不足と寝不足」
「またそれですか。ちょっとは真面目に書いてくれませんかね? 毎度毎度毎度わたしが書き直すはめになってるのわかってますよね? むしろわかっててやってますよね? 」
「事実だろう。回らん頭で考えてられるか」

鷹司(たかつかさ)はコーヒーを飲む。

「ばっちり寝てても結局フィジカルでごり押しするじゃないですか。狂犬っぷりは健在ですねー。ていうか、やっきーに化け物って言ったって帰りの車の中で九重さんが怒ってましたよ。化け物が化け物って言うとか笑えますね。ちゃんと謝りましたか? 」
「ああ」
「絶対に謝ってないですよね。子供相手に何を怒ったんですか? 化け物が化け物って言うとかないですよ。おとなげない」

鷹司(たかつかさ)はコーヒーを飲み干した。

「ああ、そうだ。『さとり』は霞末(かすえ)の種付済みだ。それも報告しとけ」
「はいはいはい。ほかに何かあります? 」
正臣(まさおみ)はどうやっても無理だったな。相談してくるのが遅すぎた」
「山の神でしたっけ? 契約しちゃってたら駄目ですからね。お友達でしたよね? お疲れ様でした。少しは落ちこんでるかと思いましたけど、やっぱり平気ですね」
「もう何年も会ってない子供の頃しか知らん奴だ。救えない奴の方が多いのにいちいち気にしてられるか」
「そうですね。さすが20年も狂犬してるだけあります! 」

矢継早(やつぎばや)はけらけらと笑った。


 深夜。R市内。某公園。
鷹司(たかつかさ)はベンチに座り一息ついていた。
たたっと軽い足音に目を向けると八喜子(やきこ)が走ってくるのを見て身構える。

「! ……先生、燃やさないでください」
「本物か? 俺はお前みたいにわからん」
「本物です! お疲れ様です。コーヒー入れてきました」
「気がきくな。深夜徘徊していい理由にはならんが。お前は俺を睡眠不足で殺す気か」
「ちゃんとできるだけ何も見ないで来ました! 」
「わざわざ来た理由は? 」

鷹司(たかつかさ)は自分の隣を手で叩き座るようにうながす。八喜子(やきこ)はそれにしたがった。

「……先生は面倒くさいって思ってますけど、ちゃんといつも助けてくれてたから、お礼をちゃんと言いたかったんです」
「仕事だからいらん」
「思ってることと違っても、ちゃんと助けてくれてるんだから、ひどいこと言いました。ごめんなさい」
「それはもういい」

鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)からコーヒーを受け取り、ゆっくりと飲んだ。

「いつも怖い時に助けてくれて雪輝(ゆきてる)みたいなヒーローです! ありがとうございました! 」
「ヒーローなんかじゃない。たまたまだ。助けられないことの方が多い。この間みたいにな」

しばらく沈黙があった。先に口を開いたのは八喜子(やきこ)からだった。

「……それでも、死ぬ時に痛くて怖かったとしても誰かが助けようとしてくれてたなら、そんなにひどい死に方じゃないと思います。だからやっぱり先生はヒーローです! 」

鷹司(たかつかさ)はコーヒーを飲み干した。

「お前バカだな。眠るように死ぬのが一番だろ」
「バカですけど、もしもの話です! 」
「あそこで待ってる兄貴と早く帰れ。子供は寝る時間だ。もっとバカになるぞ」
「はぁい……がんばってください」
「ああ……化け物同士頑張ろう。悪かったな」

八喜子(やきこ)は嬉しそうに笑うと手を振って雪輝(ゆきてる)の元へ走って行った。雪輝(ゆきてる)鷹司(たかつかさ)へ頭を下げる。鷹司(たかつかさ)は面倒くさそうに手を振って2人が見えなくなるまで見守った。
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