第9話 シンコウゴーゴー!

文字数 35,664文字

 始業式まであと少し。けれど日差しは強いまま夏の1日が始まっている。商店街へ買い物に来た八喜子(やきこ)は困っていた。
周りを八喜子(やきこ)の人生の年月の4〜5回分過ごした大先輩たちにかこまれ拝まれているからだ。皆、口々にありがたや、とつぶやいている。

八喜子(やきこ)ちゃん! こっち! 」

魚屋の娘の朱珠(しゅしゅ)に手を引かれ八喜子(やきこ)は輪から逃げ出した。待ってくれと追い縋られることはなく拝まれるだけですんだのは幸いなのかもしれない。
2人は先の小路まで来るとふうと息を吐いた。

「商店街に来るのやめたら? また拝まれるよ」

夏休みの初めに行方不明になってからというもの八喜子(やきこ)は一部の老人たちから信心の対象となっていた。

「でも、スーパーは高い時もあるし」
「それはわかる。負けないようにオヤジたち研究してるからね。う〜ん……そうだ! 」

朱珠(しゅしゅ)は閃きを全身で表現した。

「イメチェンしようよ! 年寄りって若い子の見分けつかないし。これから買い物行こう! 」
「でもタイムセールが! 」
「どうせ買い物にならないでしょ。ほらほら! 」

朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)の肩を後ろから掴むとぐいぐいと押していった。


 夕方。帰宅した雪輝(ゆきてる)は夕飯の仕度に台所へ立つ八喜子(やきこ)を見てうわっと声をあげた。

「おかえり……変? 」
「ただいま。駄目。その格好は駄目。なんか下品だな。九重(ここのえ)みたいに」
「それ絶対に朱珠(しゅしゅ)ちゃんに言わないでね! 」
「メガネまでかけてどうしたんだ? 」
「あのね! 大発見! メガネかけると見えないんだよ! 」
「そうか。よかったな」

雪輝(ゆきてる)の頰がゆるんだ。
どちらかといわなくても野暮ったい格好の八喜子(やきこ)がこざっぱりとしたことが雪輝(ゆきてる)は嬉しかった。ずっと人の心が見えていた妹の負担が減ったことはもっと嬉しかった。


 翌日。朝のランニングを終えた八喜子(やきこ)は滴る汗を首にかけたタオルでぬぐいながら、おうまの屋敷の玄関の扉へ手をかけた。それと同時に目の前に影が落ち後ろから抱きすくめられ、きゃあと小さく悲鳴をあげる。顔を見なくとも八喜子(やきこ)には誰なのかわかった。屋敷の主のおうまだ。

「……かわいい」

少し頰を赤く染めたおうまが耳元でささやく。おうまの周りには白い光が見えている。久しぶりに会う彼が自分の外見のことを言っているわけではないことが八喜子(やきこ)にははっきりわかった。


『かわいい。いい匂いがする。たまらない。なめたい』

「離れてください! 」

八喜子(やきこ)は額や頰に近づいてくるおうまの口を両手で押し戻しながら、ばたばた暴れた。

「ちょっとだけ! お願い! 」
「嫌です! 汗ですよ? 」
「じゃあ、そんなに汗だくで来ないでよ」
「じゃあ、ペットボトルロケットで車を壊さないでくださいよ」

しばらく見つめ合った後、2人は声をあげて笑った。

「あれ面白かったね! 実友(みとも)が慌てたの久しぶりに見たよ」
「怒ってたように見えましたけど」
「ほかの車、ちょうど車検だったんだよね。俺、代車ってなんか嫌だし」
「じゃあ、走ってくるしかないです。オキ様のところは行くなって言うし」
「誰が? 」
鷹司(たかつかさ)先生です」
「誰? 知らないな」
「学校の美術の先生でトッカとかに入ってるそうです」
「ああ、もしかしてあの燃えてる人? 」
「たぶんそうです。それで、離してください」
(あらが)いがたいなぁ」

おうまの瞳は潤んできらきらと輝いている。周りに見える白い光で八喜子(やきこ)は頭がくらくらした。

「……わかりました」
「いいの? 」
「これで」

八喜子(やきこ)は首に巻いたタオルをしゅるりと取るとおうまに差し出した。

「……さすがにそれはちょっと抵抗あるなぁ」
「ちょっとなんですね」
「……いや、越えちゃいけない一線な気がする」

八喜子(やきこ)は言い直したおうまに今度はつっこまなかった。本当に抗いがたいらしい。


 しばらくして八喜子(やきこ)は掃除を始めた。おうまのいる大広間に入ると彼は本を読んでいる。メガネをかけて掃除をしている八喜子(やきこ)を見て、おうまは読んでいた本から顔をあげた。

「どうしたの、その眼鏡」
「これをかけてると見えないんです! 」

八喜子(やきこ)はにこにこと笑顔でこたえた。

「そう。よかったね。便利なものはどんどん使えばいいよ」

そういって柔和に笑うおうまの手元にはタブレットがあり画面には電子書籍が映っている。

雪輝(ゆきてる)みたいにダメって言われるかと思いました」
「何でも便利な方がいいじゃない。どんなものも時代に合わせて形を変えていくものさ。似合ってるよ」

八喜子(やきこ)は二階の書庫を思い出した。何十万冊とありそうで棚がずらっと並んでいるが、ずいぶんと古い本ばかりだ。
学術書、とでも言うべき八喜子(やきこ)にとっては難しい本ばかりだが、はたきをかけおえた充実感はこの屋敷で一番かもしれない。

「嬉しいです! 」

八喜子(やきこ)は満面の笑みを浮かべ、おうまに背を向けて掃除を続けた。さて、向こうを、と振りかえると、おうまは顔を両手で覆い周りには白い光が散っている。

「どうしたんですか? 」
「……抗いがたい」
「え! ? 私、まだ汗くさいですか? 一応、着替えたんですけど」
「……いや、掃除してもらってるしね。汗もかくよ、仕方ない」

おうまの顔は手で隠れて見えないが、いつものように顔が赤いのかもしれないと八喜子(やきこ)は思った。

「……おうまさん」
「何? 」
「さっき着替えた服おいていきましょうか? シャツとかぐっしょりだし」
「そういう思いやりはいらないよ! 」


 おうまの屋敷の玄関で掃除を終えた八喜子(やきこ)が帰ろうとしていると視界に影が落ちた。見上げるとおうまがいる。

「その格好で帰るの? 」
「走らないですよ。スカートだし。帰りに買い物するんです」
「その格好で? 」

心なしか笑顔ではあるもののおうまが困っているようにも八喜子(やきこ)には見えた。

朱珠(しゅしゅ)ちゃんが選んでくれたんですけど雪輝(ゆきてる)みたいに下品だと思いますか? 」
「……ある意味ね」
「お店の人も似合ってるって言ってくれたんですけど、やっぱり売りたいだけだったんですね。メガネかけてるとわからなくて」

でも高かったし、とつぶやく八喜子(やきこ)におうまは困ったような笑みのまま実友(みとも)に送らせるから少し待ってと言い残し外へ出て行った。
日課の散歩だろう、と八喜子(やきこ)は、その背を見送った。なんだかよくわからないが胸が痛いと思いながら。


 空がややオレンジ色に染まりはじめた頃八喜子(やきこ)は自分の家にたどり着いた。

「ありがとうございます! 」

買い物の荷物まで運んでくれた仙南(せんなん)八喜子(やきこ)は深々と頭を下げた。

「仕事ですから。失礼します」

仙南(せんなん)はこの暑さだというのに汗ひとつかかず、きっちりしたスーツ姿と佇まいのまま立ち去った。
家に入ると先に帰ってきていた雪輝(ゆきてる)が眉間にしわをよせている。

「その格好は駄目」
「だって拝まれないのに! 」
「買い物は俺がするから着ないでくれ」
「どうして? 下品って朱珠(しゅしゅ)ちゃんだって似たような服だよ」
「あいつはまな板だからな」

ぽつりと雪輝(ゆきてる)がこぼした。

「? 魚屋さんだから? 」
「いや……とにかく駄目! 」


 翌日。お昼には少し早い頃。朱珠(しゅしゅ)とパンケーキのお店でお茶をしながら八喜子(やきこ)は彼女に昨日のことを話した。
雪輝(ゆきてる)に着るな、と言われたとしか言えなかったが朱珠(しゅしゅ)は明らかに不機嫌になった。

「ふぅん。男どもにはわからないんでしょ」
「お店の人、売りたいだけだったんだね。わからない」
「メガネはとれば? あたしと八喜子(やきこ)ちゃんの仲なんだし」
「ありがとう。でも朱珠(しゅしゅ)ちゃん以外も見えちゃうから」
「そっか。よくわかんないけど大変だね。ばーちゃんがシンジー深いっての? だから小っちゃい頃は本当に神さまがいると思ってたけど本当でびっくり」

朱珠(しゅしゅ)は明るく笑う。

「あたしは似合うと思うし気にしないで着ちゃいなよ。今日みたいに雪輝(ゆきてる)がバイトに行った後ならバレないし」
「うん、選んでくれてありがとう。朱珠(しゅしゅ)ちゃん」
「今日、彼氏とお勉強しないの? 」
「彼氏じゃないよ! ……なんか気が重いから休んだ」
「夏バテ? 魚食べてる? 」


 朱珠(しゅしゅ)と別れた八喜子(やきこ)が家路についていると後ろから金扇(かねおうぎ)さん、と声をかけられた。振り向くと以前、鷹司(たかつかさ)《たかつかさ》たちと一緒にいた少年が学生服で竹刀袋を持ち立っている。


 名前は確か……そうだ!


「らいだー君、どうしたの? 先生とはぐれたの? 」

千平(せんだいら)です、と征士郎(せいしろう)は心の中で思った。

金扇(かねおうぎ)さんこそどうしたんですか。前にお会いした時とは随分、印象が違いますね」
「そうですか」

また下品と言われるんだな、と八喜子(やきこ)は思ったが征士郎(せいしろう)は似合わないわけではないです、と言葉を濁した。

「どうしたの? 」

八喜子(やきこ)はもう一度、同じ質問を繰り返した。

「僕も少し調べようと思いまして。お話をうかがってもいいですか? 」
矢継早(やつぎばや)さんに話した通り変なところへは行ってないです」

「さとり」の八喜子(やきこ)が「怪異」を見ると見られたことに喜んで「怪異」が元気になる、とは鷹司(たかつかさ)の言葉だ。
そのため八喜子(やきこ)の行動範囲を詳細に矢継早(やつぎばや)に伝え「怪異」らしきものを見た時は連絡するようにしている。
しかしR市内の「怪異」は減らず八喜子(やきこ)が見ているところ以外で増えているらしい。
何度目かの同じ説明を八喜子(やきこ)は今度は征士郎(せいしろう)からききながら家路を一緒に歩いた。

「変わったことは何もしてないです。ランニングだってしてるのは言いました」
「またタタリギのところへですか? 」
「オキ様には先生が行くなって言うからいってません! ……タタリギって何ですか? 」
「あなたを取り込んだ怪異の名前です」

そういえば、おうまが以前、タタリギは賢いのにね、と呟いていたことを八喜子(やきこ)は思い出した。

「あの……ずっとききたかったんですけど」
「はい。なんでしょうか」
「おうまさんって人間なんですか? 」

途端、2人の背後で吹き出す声がきこえた。鷹司(たかつかさ)と黒いスーツ姿の矢継早(やつぎばや)がけらけらと笑っている。

「今頃ですか! 今頃すぎません? 笑えますね! ていうか」

矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)の胸元を指差した。

「そんなにおっぱい見せてたら千平(せんだいら)のお坊ちゃん落ち着きませんから。なんですか、その格好とメガネ。ですよね? 鷹司(たかつかさ)さん」
「ああ。誰かにさわってほしいのか? 」

八喜子(やきこ)は顔を耳まで赤くして首を横にぶんぶんと振った。


 R市内。某ファミレス。矢継早(やつぎばや)の用意したカモミールティーが四つ並んだ席に4人は座っていた。

「あー若い子にありがちですね。露出しすぎて売春婦みたいになってることに気づかないファッション」

八喜子(やきこ)から話をきいた矢継早(やつぎばや)がけらけらと笑った。

八喜子(やきこ)は小さいから千平(せんだいら)のお坊ちゃんくらいでもめちゃくちゃ見えるぞ。ちょっとずれれば乳首まで見てるぞ」

鷹司(たかつかさ)の言葉に八喜子(やきこ)はますます顔を赤くした。征士郎(せいしろう)は見てないです! と慌て彼も顔を赤らめている。

「おっさん、気持ち悪いです。具体的に言わなくていいです」
「こういうのは誰かが言わないと気づかないだろ」
「セクハラしたいだけじゃないですかね? おっさんの人生半分くらいしか生きてない子供相手にセクハラですか」
「それで、そのメガネがあると見えないんだな? 」
「はい」

鷹司(たかつかさ)はひょいと八喜子(やきこ)からメガネを取り上げた。

「駄目だ。こんなものに頼るな。じぶんの力で見ないようにしろ」

ええ、という八喜子(やきこ)の抗議はききいれられず助けを求めて矢継早(やつぎばや)を見るも肩をすくめるだけで期待できそうにない。
八喜子(やきこ)はうなだれてはい、と頷くと鷹司(たかつかさ)に手を差し出した。

「2980円です」
「まだ壊してないだろう」


 夏と言えどもさすがに暗くなって来た頃。金扇(かねおうぎ)家も夕飯時を迎えていた。

雪輝(ゆきてる)、お弁当屋さんのバイトどう? 」
「みんな親切だ。鷹司(たかつかさ)先生が常連だった」
「よかったね。先生ってそうなの? おうちで食べないのかな」
「食べる時間がないんだろう」
「そっか。あのね、先生に会ったんだけど雪輝(ゆきてる)が下品っていった意味がわかった」
「そうか。よかったな」
「もったいないなぁ」
「上着を買えばいい」
「うん。明日、朱珠(しゅしゅ)ちゃんとまた行ってみる。雪輝(ゆきてる)はらいだー君を覚えてる? 」
「? ……ああ、もしかして刀を持ってた奴か」
「うん、そう。明日から私に付いてるって。カイイとかいうのが減ってないから」
「そうか。先生も一緒か? 」
「夕方まで寝てるから矢継早(やつぎばや)さんが一緒だよ」
「……おうま、って呼んでたよな。あいつのところにもか? 」
「ううん。……ねえ、雪輝(ゆきてる)。驚かないでね。おうまさんって人間じゃなかったんだって」
「今さら言うことか? 」

笑う雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)はむきになって言い返した。

「だって、はっきり言ってくれる人いなかったじゃない! 」
「言ってたと思うが」
「ううんとね……幽霊とか怖いのをカイイって言うんでしょ? 公園とか学校で見たみたいに」
「そうだな」
「悲しすぎたりして怖くなってるけど、おうまさんはそうじゃないし。おうまさんからは怖かったりとか、ひどいことをされたわけじゃないし。いつも笑ってるし」
八喜子(やきこ)はそう思うのか。それで? 」

なめるのはいいのか? と雪輝(ゆきてる)は心の中で思った。

「なめるのはちょっとあれだけど……アラガーガタイらしいよ。お礼を言われても何も思ってないのがわかるけどシャコージレー? って言うの? それってメガネをかけて見てるのと同じで……」
「同じで? 」

言葉につまった八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)がきき返す。

「同じで……よくわかんない」

八喜子(やきこ)はうなって黙りこんだ。

「そうか……菅原道真って昔の人が罠にはめられて死んだら祟りを起こしたらしい。それで神様として祀ったらご利益をくれるようになったんだ。ここまでわかるか? 」
「うん」
「自分にとって都合がよければ神様で自分にとって怖ければ化け物。それくらいでいいんじゃないか。嫌いじゃないんだろう? おうまのこと」
「うん……先生の方がひどい。メガネ預かっておくって持っていったのにお金くれなかった」
「そりゃ極悪人だな。先生は粗暴だから絶対壊すだろ」

雪輝(ゆきてる)は深く頷いた。


 翌日。朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)はまたショッピングモールへと来ていた。

「いや、これは駄目ですね。乳が見えすぎますし下着が透けます。こっちですね」

しっかりついてきた矢継早(やつぎばや)に却下され朱珠(しゅしゅ)は、えーと声をあげる。征士郎(せいしろう)は居心地悪そうに下を向いていた。

「あのね、あなたたちみたいな若い子は無防備すぎるんですよ。男は狼なんですよ。ご存知でしょう? 」

きょとんとする八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)は首をかしげた。

「あれ? 狼さんに食べられてるんじゃないんですか? あ、ゴリラか」

矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)の耳元でささやくと彼女は顔を赤くして首を横に振った。

「なになに? まだ清い関係なの? 」

盗み聞きしていた朱珠(しゅしゅ)が目を輝かせながら八喜子(やきこ)をつつく。
矢継早(やつぎばや)はしばらく腕組みをしていたが、にこりと笑うと言った。

「お店を変えましょう。女子同士かわいい下着もみませんか? メガネも買いましょう。鷹司(たかつかさ)さんに全部つけときます」

征士郎(せいしろう)は顔を赤らめて、しばらく失礼します、と言い残し立ち去った。


 K市。郊外にある山のふもとは和洋を問わずお屋敷、といった風合いの建物ばかりの閑静な住宅街が広がっている。
真上に来た太陽が傾きだした頃、その中でも一際大きい日本家屋の一室に呼び出された鷹司(たかつかさ)はあくびをかみころしていた。
彼の向かいには千平(せんだいら)すみれが座りさらに彼の背後には黒いスーツの男たちがぞろりと立っている。

「虚偽の報告をなさった理由は? 」

すみれは美しいと賞賛される笑顔を鷹司(たかつかさ)に向けた。

「俺の勘違いだった。俺は男だから女の気持ちはわからない」

鷹司(たかつかさ)は頭をぼりぼりとかきながらこたえる。

「そうですか」

すみれが男たちに目配せすると鷹司(たかつかさ)はすぐさま取り押さえられ床に頭を押しつけられた。

特課(とっか)にいらして20年。発火能力(パイロキネシス)の方は貴重なんですが残念です」
「じゃあ貴重な俺の子供を孕めよ。お前も女だろう? 他人にやらせるなら自分もやれ
。俺はこの場でやってかまわない」

すみれは笑顔を崩さず続けた。

「あいにくとわたくしは今日は子供ができない日です。残念です。折りなさい」

黒いスーツの男たちの手によって鷹司(たかつかさ)の右腕がのばされ関節とは反対側に力任せに折り曲げられる。ごきり、と鈍い音が響いた。

「声ひとつあげないんなんて素晴らしいです。さすが狂犬ですね」
「俺がいなくていいのか? 人手不足は深刻だろう? 」

すみれはにらみつけてくる鷹司(たかつかさ)の目を笑顔で見る。

「民間で『怪異』と対処されている方々がいます。念のため砕きましょう。鷹司(たかつかさ)さん、お疲れ様でした」

用意されたハンマーが鷹司(たかつかさ)の右腕めがけて振り下ろされた。



 虫の鳴き声がぐわんぐわんと頭を揺らす。ああ、やかましい、と思いながら私は山道を歩いた。日は傾きつつあるもののまだまだ暑い。


おっちゃんめ! 「お宝があるかもしれないから調べてこい」なんて気楽に言ってくれちゃって! 私は可憐な女子高生! ちょっぴり霊感? っていうの? そんなのがあって幽霊っていうの? そんなのをぶっ飛ばせるだけなのに!


「なにこれ? 」

私は変なものを見つけて足を止めた。
洞窟に鉄じゃないけど木の格子がはまってて牢屋みたいになってる。
中を覗きこんで見ると奥に人がいる。私と同じくらいの男の子。
男の子は読んでいた本から顔をあげた。

色が白くて和服みたいのを着てる。そして!

「カッコいい! あなた名前は? 私はシキコ! 」

男の子はあきら、とだけ言いほほえんだ。
転校先の猿みたいな高校生たちとは違う優雅な王子様みたいな笑顔で。
ああ、やっと見つけた! 私の王子様!
あきらは困ったように笑っている。
それも全部がかわいくてたまらなかった。
今すぐ襲いかかって私のものにしたい。

「それはちょっと……」
「! あきら、あなたもしかして」

おっちゃんにきいたことがある。考えていることがわかる能力をもった人たちがいるって。そういう人たちはこう呼ばれている。

「さとり」

あきらが言った。

「そう、僕はさとりです」
「じゃあ……」

私は言葉につまった。
あきらは少し悲しそうに私をみて笑っている。


告白しなくたっていいじゃん! 好き! 好き! 大好き! もう一目惚れ!
かーわいい! 今すぐ襲いたい!


あきらは眩しそうに目を細め驚いたような顔で私を見ている。


早くここをぶっ壊そう! 王子様を助けなきゃ!


「ま、待って。シキコさん。落ち着いて」
「大丈夫! 私ってちょっとすごいの! 脱いだらもっとすごいの! 」
「だから、待って。落ち着いてください」
「いっくよー! さがってて! 」

私はいつもの通りかまえると正拳突きを繰り出した。これでどかーんと……
目の前が白く光り次に真っ暗になった。


 気がついた私は林の中へぶっ倒れていた。
遠くに見える格子から私を呼ぶあきらの声がきこえる。


私を心配してくれてる! ああ、なんて優しいの! 素敵!

「大丈夫ですか! シキコさん! 」
「うん! 平気! 」

私は立ち上がるとびょんと格子の前に降り立った。あきらが私が無事なのを見てほっとしてる。


ああん、もう好き! 好き! 早く既成事実をつくりたい!


「無事でよかったですが……落ち着いてください。これは呪具(じゅぐ)です。壊せないように呪がかけてあります」
「そうなんだ。じゃあ、もっと強くやればぶっ壊せる! 」
「待って、話をきいてください。あなたにケガをしてほしくないです」
「それは私がかわいいから? かわいいっていうより美人だから? 」


これはもう両思いだ!


あきらは眩しそうに目を細める。


私が眩しいのかな?


「その話は一旦おいておきましょう。僕は閉じこめられているわけではありません。さとりだからここにいるだけです」
「? やっぱり閉じこめられている? 私は大丈夫! 私が出してあげる! 」
「気味が悪いでしょう? 心を読まれるんですよ。僕もひとりの方がいいのです」
あきらはほほえんだ。
「ありがとうございます。出してくれようとして」


えー……だってこの檻どうにかしないと、またがることもできないし。それに……


「じゃあ、なんで私に名前を教えたの? 」

あきらは目をぱちぱちとさせている。


かーわーいーいー! なんてきれいな目なんだろう。もっと近くで見たい。


「私に知って欲しかったんでしょ? 」
「……そうかもしれません」


照れてるー! かーわーいーいー!
ああ、もうあんあん言わせたい!


「……女の子がそんなことを思うのはどうなんでしょうか」
「えへへー! 待ってて! また来るから! 」

私は駆けだした。


絶対外に出してあげる! 私の王子様!



 夜。深夜のオフィス街は静まり返っている。その中に円戸(えんど)の巻き舌でドラムロールのような雄叫びが響き渡った。

「お前を終わらせた者の名前を覚えておけ! 俺はエンド! 」
「それって毎回言わなきゃいけないんですかね。ていうかきこえてないと思います。もう消えましたから」

矢継早(やつぎばや)は大きなあくびをした。

「昼に寝ないで遊んでて眠いとか言うなよ」
「仕事です。やっきーの行動範囲が教えてもらったものと違ってないかの確認です。あの子、薄ぼんやりしてますからね。ていうか」

矢継早(やつぎばや)ははぁと大きくため息をついた。

「勝手についてくるって言い出したくせに勝手に帰ったり千平(せんだいら)のお坊ちゃんは気楽ですよね。勝手をするたびに下々のわたしたちが書類の提出に追われるなんて思ってもいないでしょうから」
「ふーん。タカ兄は? 」
「さあ? 長期休暇に入ったって連絡が本部からきました。またどっかでケガしたんじゃないですかね? 年一くらいであるじゃないですか。絶対かなわないのに噛みついたんですよ。狂犬ですから」
「ふーん。あ! お前を終わらせる者の名前を覚えておけ! 俺はエンドだ! 」

叫んで駆けだした円戸(えんど)の後を矢継早(やつぎばや)は眠そうに追いかけた。


 翌日。おうまの屋敷の大広間で八喜子(やきこ)はおうまに宿題を教わっていた。
八喜子(やきこ)はシャーペンを置くとばんざいをする。

「終わった! ありがとうございました」
「奇跡だね」
「努力の結果です」

むっとする八喜子(やきこ)におうまは、くすくすと笑いながらききかえした。

「それは俺の? 」

八喜子(やきこ)は頰をふくらませていたが、ふと閃くとにっこりと笑った。

「2人のです」
「そうだね」

おうまも無邪気に笑う。その笑顔を眼鏡ごしに見ながら八喜子(やきこ)仙南(せんなん)の言葉を思い出していた。勘違いしないように、と。


 何も見えなかったら……勘違いをしたまま今も楽しいんだろうな


暗い顔で黙りこんでいる八喜子(やきこ)をおうまが不思議そうに見る。

「どうしたの? 」
「いえ、えーっと……この間はすみません。変な格好してたから」
「いや、かわいいことはかわいかったよ。ただ」

おうまはにこりと笑う。

「今の方がかわいいよ」

眼鏡をかけた八喜子(やきこ)の目には何の光もみえない。いつもの通りに。
なんだからよくわからない気持ちがあふれて八喜子(やきこ)は苦しくなってきた。
下を向いたまま帰ります、と伝え逃げるように外へ出る。


 走って帰ろう。そうすれば苦しい理由は走ったせいだから。


八喜子(やきこ)は駆けだした。



 また虫の鳴き声と山。でも今日は気にならない。だって私には会いたい人がいる。私はシキコ。足取り軽くスキップ! スキップ!

私はあきらのいる檻の格子にしがみついた。今日も本を読んでいて私に気がつくと笑ってくれる。

なんて素敵なんだろう!
早くめちゃくちゃにしてやりたい!

「……女の子がそう思うのはどうなんだろう」
「えー? 恋は幻想! 愛は本能よ! 」

私は格子を改めた。食事を入れるための小さな出入り口以外は鍵穴すらない。

千平(せんだいら)の家が封じてるんだよね」
「そうです。よく調べられましたね」
「へへん! おっちゃんは元手品師で手先が器用なんだ! ぱぱっと開けたり拝借したりお手の物! 」
「あまり関わらない方がいいです。僕はこのままでいいですから」
「私がよくない! 」

こんな山の中、楽しいことは何にもありゃしない! だいたい!

「檻の中のままじゃ既成事実がつくれない! 」
「ええと……なんと言ったらいいのか……」
あきらはさっきからずっと目を細めている。

私が眩しくて見えれないのかな?
照れちゃって! かーわーいーいー!

「……ええと、シキコさん。僕も人とは離れている方がいいんです。色んな人の心が見えてしまうとつらいですから」
「えー? そんなの私も見てきたよ? ほらぁ、私ってかわいいっていうか美しいからぁ、じろじろ見られちゃうし」
「そういったこととは違うのです」
「親なし捨て子で赤の他人のおっちゃんとおばちゃんと全国放浪して拝み屋っていうかお祓い屋みたいなのやってるし」
「わかります」
「うさんくさいとか罵倒されたり、お金が入ると騙そうとしてくる奴、親切そうでそうじゃない奴、親切だけど押しつけな奴」

私は両手を広げた。

「いーーーーーっぱい見てきました! 私も心が見える! ていうか人が何考えてるかなんて、みんなだいたい態度とか言葉に出るんだからそんな特別なことじゃないし」

あきらはびっくりして私を見つめている。


ああ、なんてきれいな顔。
どんな顔で喘ぐのかな?


「……ええと、あなたはその、ないですよね。ご経験が」
「うん、そう処女! だから! 最初はスペシャルなものにしたいの! 」
「……ご期待にはそえないかと思います」
「大丈夫! 勉強してるから! 」

あきらは眩しそうに目を細めてはいるが私から目を逸らさない。


これはもう、するしかない!


「また来るから! 」

王子様をお姫様が助けるのよ!


私は来た時よりも早く山を駆け下りた。



 夕方。金扇(かねおうぎ)家には窓からオレンジ色の光が差しこんで来ていた。ぼんやりと台所兼リビングの椅子に座っている八喜子(やきこ)を見て雪輝(ゆきてる)は顔をしかめる。

「具合悪いのか? 」
「……気持ち悪い」

八喜子(やきこ)はテーブルに突っ伏した。
もやもやした気持ちはおさまらないまま何もする気にもならない。


 優しい。優しいのがつらい。どうせなら優しくしないでほしい。優しくされるのが嫌だ。自分がみじめだ。見てもらえない。
悲しい。腹立たしい。どうして自分は見えてしまうんだろう。どうせならー


八喜子(やきこ)

雪輝(ゆきてる)の声に八喜子(やきこ)の思考はとまった。

「それはいけない」

八喜子(やきこ)の眼鏡ごしに見る雪輝(ゆきてる)はいつものように静かな表情をしているが、きっと周りには青い色が見えているのだろうことがわかった。悲しい時の青い色。

「俺はきこえてるんだ。八喜子(やきこ)ほどはっきり見えないが何となくわかるぐらいで」
「きこえてるって考えてることが? 」
「そんな感じだ。はっきりしてきたのは母さんが死んでからだけど」
「どうして教えてくれなかったの? 」
「確信がなかった。色々あったから、はっきりしないことで悩ませたくなかった。八喜子(やきこ)

雪輝(ゆきてる)は今度は悲しそうな顔をした。

「つらいのはわかる。でもそれだけは考えないでくれ。母さんがいつも言ってたことを否定しないでくれ」


 ー あなたは幸せだ ー


「……ない」

八喜子(やきこ)の目からぽろぽろと涙がこぼれおちた。一度、泣いてしまうととまらず次々とあふれてくる。

「わからない……私はバカだからわからない。雪輝(ゆきてる)、教えて」
「俺もよくわからない。けど、あいつが好きなんだろう? あの、おうまって奴」

八喜子(やきこ)はしばらく雪輝(ゆきてる)を見つめて目をぱちぱちとさせた。雪輝(ゆきてる)は頭を抱える。

「いや、もう、本当に! やめてほしいんだけどな。なめられるとかレベル高すぎんだろ……」
「……え? 」

八喜子(やきこ)がようやく発した言葉はそれだった。



 時間は少し戻って昼過ぎのおうまの屋敷には来客が来ていた。しばらくの沈黙の後、大広間のソファでクッションに顔をうずめて横たわったままの弟に兄のアガマが声をかける。

「いつまでそうしている」
「傷心なんだからほっといて」
「いらん知恵だ」
「兄さんにはわからないよ。ああ、誰だろう。いいなぁ……着飾ってもらえて。俺にはあたりがきついのに。いや、たまにかわいいんだけど」

色付きのリップクリームまでつけて、とぶつぶつ言っているおうまにアガマは表情のない声で言った。

「人のものをそこまで見ているのは気持ち悪いな」
「ほっといってってば! 」



 夕方から夜になり金扇(かねおうぎ)家には電灯が点いた。固まったままの八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は黙って見守っている。



 好き? 好き? 好きって……好き? 好き? 好きって……好き?



雪輝(ゆきてる)の耳には八喜子(やきこ)が混乱しているのがはっきりときこえていた。
さらにしばらくしてから八喜子(やきこ)は困惑したまま雪輝(ゆきてる)を見る。

「……雪輝(ゆきてる)、わからない」
「何が? 」
「だって好きって、もっときれいなんじゃないの? 朱珠(しゅしゅ)ちゃんみたいに、いつもにこにこ笑って。私は苦しいし悲しい」

八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)の様子を思い返しながら続けた。

「すごくきれいなんだよ。ピンクの色がきらきらしてて、雪輝(ゆきてる)のことを話すとすごく嬉しそうに笑うんだ。私はピンク色の恥ずかしい気持ちなんてないし」
「……ピンク色って恥ずかしい色なのか? 」
「そうじゃない? 誰かと話してる人に見えることが多いし、みんなちょっと顔が赤いし」

雪輝(ゆきてる)は目をつぶったが、しばらくしてうなりながら目を開けた。

「なあ、八喜子(やきこ)。お前、最近、俺の裸を見たことがあっただろう? あの時の俺は何色だった? 」
「え? あの時は……ピンク」
「本当に同じ色か? 」

雪輝(ゆきてる)は携帯を取り出し八喜子(やきこ)へ画面を向ける。

「どっちだ? 」
「こっち」

八喜子(やきこ)は色の濃い方を指差した。

九重(ここのえ)に見えるのは? 」
「こっち」

八喜子(やきこ)は淡い色のピンクを指差した。

「違う色だろ? ピンクの色味で思っていることは違うんじゃないか? 」
「じゃあ、好きの色が朱珠(しゅしゅ)ちゃんのピンクで雪輝(ゆきてる)のピンクが恥ずかしい方なの? 」
「みたいだな。八喜子(やきこ)、あんなに楽しそうに話してて、おうまの奴のこと好きじゃないのか? 」
「わかんない」
「あいつに勉強を教わってる時もにこにこ笑ってるし」
「それはお菓子がおいしいから」
「食べてない時もだ。それに何であいつから目をそらすんだ? 前に挨拶したのに顔も見ないで帰っただろう」
「いつ? 」
「俺がついていった時だ。八喜子(やきこ)は見えるから見たくないんだろう。悲しいのは八喜子(やきこ)は自分が好きになってもらえないことがわかるからだ」
「……わかんない」
「明日、見てみろ。自分があいつの横に座って話してる時のことを」
「……おうまさんって好きになったらいけない人だよね」
「そうだ! 八喜子(やきこ)がそう思うならそれでいい! 気持ちを落ち着けたらいい奴を探そう! 」

八喜子(やきこ)は目を細めた。
雪輝(ゆきてる)の周りが黄色い濃い光でまぶしい。



 おうまの屋敷も暗くなり機能的な照明がつけられたが屋敷の主はまだ同じ格好でぶつぶつと心のわだかまりをこぼしていた。仙南(せんなん)が何杯目だろうかアガマにお茶のおかわりを用意する。

「せっかくほめたのに。いつもなら嬉しいとかありがとうとか言うのに。あれ絶対あれだよね。俺にほめてほしいんじゃないって奴だよね。あなたのために着飾ってないって奴だよ。初めて言われた……いっつもみんな俺のためにきれいにしてくるのに。黙って座ってても何でもしてくれるのに。初めて食べたフォーがおいしかったとか誰と行ったんだろう。俺だってそれくらいできるし、でもほどこしてるみたいだし」

アガマはゆっくりとお茶を飲んだ。

仙南(せんなん)、この鬱陶しい状態はずっとか? 」

仙南(せんなん)はいつもの通りきっちりとしたスーツで姿勢を正してこたえる。

「いいえ、アガマ様がいらしてからです。甘えていらっしゃるのかと思います」

アガマは鼻をならした。おうまはちらりとアガマを見る。

「……きいてよ、兄さん」
「放っておいてほしいんじゃないのか」
「黙ってきいててほしい」
「きいてるだろう。鬱陶しい」
「かわいい弟でしょう? 」

おうまはようやく体を起こしアガマと向かい合って座った。

「違うな。愚かでかわいい弟だ」
「兄さん! 」

アガマは抱きつこうとするおうまの額を掌で押し戻した。いい音がしておうまはソファに倒れこむ。

「また人間の真似事か? 愚かものらしく、さとりの娘が好きとでも言うのか? 」
「……どうなんだろう」

おうまはしばらく考えこんでから口を開いた。

「俺は食べたいだけだと思う」
「じゃあ、食ってしまえ。ほかの奴に食われる前に」
「それはなんかやだなぁ。なんていうか……」
「何だ? 」
「なめたい。すごくおいしいんだ」

瞳を潤ませ少し頰を赤らめ、うっとりとした表情でおうまは言う。
アガマは笑うように目を細めて言った。だから食え、と。


 R市内。とっぷりと日が暮れ外は暗い。ファミレスの窓側の席から鏡のような窓を見ていた矢継早(やつぎばや)《やつぎばや》は向かいに座る水咲(みずさき)《みずさき》へと視線を戻した。

鷹司(たかつかさ)さんはどこにいるんですか」
「知らない。またいつもの長期休暇だそうだが」

水咲(みずさき)はずれ落ちた眼鏡をぐいと指先で戻した。

「本部にきいても入院先を教えてくれないんですよ。おかしくないですか? 私がいかなきゃ誰がし瓶のナースコールを押すんですか? 」
「自分で押すだろう」

水咲(みずさき)はコーヒーを飲みながら静かにこたえた。

「わたしたち制服組は何か隠されてませんかね? 先輩は背広組に誰かお知り合いがいませんか? 」
「いるわけない」
「ですよねー」

矢継早(やつぎばや)は手元のグラスへと目線を落とした。グラスの中には水が入っていて氷が浮かんでいる。

「……一度だけ、一度だけですよ? 本当に一度だけ優しかったことがあるんです、鷹司(たかつかさ)さん。わたしがまだ特課に入ったばかりで色々まいっちゃった時にすごく優しかったんです」

矢継早(やつぎばや)はささやくような静かな声でつづけた。

「本当にすごく優しかったんですけど何にもなりませんでした。傷口を舐めあったって痛いのは変わらなかった。自分はずっと深い穴の中にいるしかないんだって。そうはっきりわかっちゃったんです」

氷が溶けてからり、と音を立てた。
絵でも描くかのように矢継早(やつぎばや)はグラスの水滴を指でなでる。

「あの人だってそうなのに。わたしよりもっともっと、うんと深い穴の中にいるんですよ。それなのに、めんどくさいとか眠いとか、ぶーぶーうるさいくせに穴の中の人たちをひっぱりあげようとするんですよ」
「少し違うな」

コーヒーを飲み干してから水咲(みずさき)が口を開いた。

「下から押し上げようとしてくる。それで自分がもっと下へ行く」

矢継早(やつぎばや)水咲(みずさき)を見てにやっと笑った。

「そうですね。また何かして傷だらけでぼろぼろですよ。狂犬ですから」
「調べよう」
「はい。おかわりします? カモミールティーにしますか? 」



 夜。格子越しの空には月が浮かんでいる。シキコにあきら、と呼ばれる少年にとっては暗闇ではない暗闇から虫の鳴き声がする。ずいぶんと涼しくなってきたな、とあきらは思った。早くしろ、とあきらの上にまたがる女が言う。一回りほど年上の女はむっとした顔で腰を動かしている。
哀れで惨めだな、とあきらは思ったがすぐに可笑しさがこみあげてきた。
ふふっと笑みをこぼしたあきらを女がいぶかしげに見つめる。
自分の方がもっと哀れで惨めだ。
ここには何の光もない。


 翌日。おうまの屋敷についた八喜子(やきこ)は大広間の窓を開けた。屋敷の主はまだ現れていない。晴れ渡る空を見上げてから、くるりと振り返り眼鏡を外すとソファを見る。
じーっとしばらく見ていると透けている自分とおうまの姿が見えた。
昨日、宿題を教わりながら笑っている自分とおうまの姿だ。どちらも楽しそうに笑っている。おうまの周りには何の色も見えない。自分の周りの色はー

がちゃりと扉が開く。八喜子(やきこ)はとび上がって驚いた。扉へ目を向けると、おうまがいつものように柔和な笑みを浮かべて立っている。

「やあ。今日も暑いね……どうしたの? 」
「……何でもないです」

八喜子(やきこ)は慌てて眼鏡をかけた。顔が赤いのは胸がどきどきとしているせいなのが自分でもわかる。

「今日もかわいいね」
「そうですか」
「またそれ? 」
「かわいげないですよね。すみません」
「元気もないね。どうしたの? 」
「わからないです。色んなことが」
「じゃあ、教えてあげるよ。何がわからないの? 」
「それがわからないです」
「何がわからないのか考えてみようか。座ろうよ」

八喜子(やきこ)はおうまの向かいに座る。おうまは少し目を見開いたが、すぐにいつものように笑みを浮かべながら話はじめた。




 山をこえ行こうよ! スキップ! スキップ! しながら!

私はシキコ。恋する乙女。自然と歌えちゃうくらい心も体も軽いまま山をかけのぼり洞窟の牢屋を目指した。

ああ! あきら! 今日は私を待ってたのね!
格子の前に立っててくれるなんて!

「おはよう。もう、こんにちはかな? 」
「あなたに会えたらどっちでもいい! 」

近くで見るともっとカッコいい!
まつげが長い。肌がきれい。目も素敵。
格子の間からどうにかできないかな?

「それはどうなんでしょう……」

あ、照れてる。かーわいい!

「シキコさんは強いですね」
「うん! 私、すごいよ! 脱いだらもっと! 」
「すごく眩しいです」
「やっぱり? 私って美しいから! 」
「そういった意味ではなくて心の強さです。心の強さは光の強さでもあります。あなたはとても眩しいです」
「それって私があなたを好きな気持ちが? 」
「そうみたいです。僕になんかもったいないです」
「はぁ? 」

あきらは私を見るとぎょっとして数歩、後ろにさがった。

「どういう意味? 」
「あなたのような人は僕なんかより素敵な人がふさわしいです。気に障ったなら謝ります」
「私は! 私のこの気持ちは、あきらだからあるの! ほかの誰かに代わりなんてできない! あなたが好き! すごく好き! 今すぐ私のー」
「そこから先は言わないでください! わかりますから! 」


慌てちゃって。かーわーいーいー!


あきらは困ったような、でも嬉しそうな顔をしている。

「どうして、そんなにきれいなんでしょう」

私は悲鳴をあげた。あきらがびくっとする。


うれしー! きれいって言われた! やっぱり!
今日はパチンコ帰りのおっちゃんをぶっ飛ばさないかも? いや、やっぱりぶっ飛ばそ
う!


「喜んでいただけて嬉しいです。シキコさんは本当に強いですね。どうしてでしょう」
「それは私がかわいくて美しくて正直だから! 自分の気持ちに気づいたら素直になるの! 」

私は格子にとびついた。あきらが私を見てくれている。

「自分の気持ちに一度でも気づいちゃったら嘘なんてつけない! 押しこめることなんてできない! 私はちゃんと向き合う! 」


そう。私はー


「私は逃げない! ちゃんと立つ! 」



 空高くのぼりきった太陽が傾き始めた頃。おうまの屋敷の奥に広がる森には川があり泉を形づくっている。
そんなに暑いなら水遊びでもしようか? という、おうまの提案で八喜子(やきこ)は彼とここへ来ていた。
彼女が泉の淵の岩に腰掛けて足を濡らしていると気持ちのよい風が通り抜けていく。冷たい透明な水面がきらきらと光を放っていて、そのせいか八喜子(やきこ)には何もかもが眩しく見えた。眼鏡のせいだろうかと思い八喜子(やきこ)は眼鏡を外した。

「さっき……」

隣に座るおうまが口を開いたが、それ以上言葉は続かない。八喜子(やきこ)はおうまを見上げた。やはり周りには何の色も見えない。八喜子(やきこ)の胸が苦しくなってきた。


 やっぱりそうだ。やっぱり何もない。
見えてしまう。


「さっき見えたんです。大広間のイスで。先生が物の過去が見えるって言ってたように過去のことが」



見えてしまう。


「は! ? じゃあ、兄さんとの……見たの? 」
「何をですか? 」
「いや、見てないならいいんだ。見てないなら」

心底安心したようなおうまの様子がおかしくて八喜子(やきこ)は笑い声をあげた。


 見えてしまう。


「おうまさんって不思議ですね。私は楽しくなかったら笑えないです」
「知ってるよ」

おうまはにこにこと笑っている。



 見えてしまう。



「勉強を教えてもらうのも今日でおしまいでいいです」



 見えてしまう。



「私だけ楽しいだけですから」



 もう見たくない。



「ありがとうございました」

八喜子(やきこ)は下を向いた。水面が静かにきらきらと光っている。おうまのそう、という声だけがきこえてきた。


 眩しい。水面が光っている。きらきらしてきれい。どうして朱珠(しゅしゅ)ちゃんはあんなにきれいな光に包まれているんだろう。
どうして自分はあんなに色につつまれているんだろう。
お母さんは恋は素敵で、とってもきれいなのよ、と言っていたけど、自分はそうじゃなかった。
近づいてはいけない黒い色。


 水面がきらきら光っている。だんだんと八喜子(やきこ)の視界から厚みがなくなった。暑さのせいか頭がぼんやりとしてくる。



「好き」



八喜子(やきこ)は自分の声ではっとした。
おうまを見ると困ったように笑っている。

「言ってほしい言葉じゃなかった」

がつんと殴られたように八喜子(やきこ)の頭がぐらぐらする。頭の中は後悔と焦りと悲しさでいっぱいで何も言えなかった。

「君はクビだよ」

おうまはいつものように微笑んだ。

「お疲れさま」



 夕方というよりは夜になる時間。遅めに帰宅した雪輝(ゆきてる)は真っ暗な家の中でぼんやりと座りこんでいる八喜子(やきこ)を見てうわ、と驚きの声をあげた。

「ただいま。どうした? 」
「おかえり……雪輝(ゆきてる)

八喜子(やきこ)はわっと泣いて雪輝(ゆきてる)にとびついた。

「バイト、クビになっちゃった! ごめんなさい! 」
「ああ、そうか。それなら安心しろ」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)を座らせ明かりをつけると床下収納を開いた。

「俺と八喜子(やきこ)の通帳だ。母さんが貯めててくれた」
「お母さんが……」

八喜子(やきこ)は自分の通帳をぎゅっと抱きしめた。

「就職するまでなんとかなる」
「でも相場の3倍が……」

八喜子(やきこ)はがっくりと肩を落とした。

「理由をきいてもいいか? 」
「……おうまさんに嫌われた」
「そうか! 残念だったな! 俺がバイトしてるから安心しろ」

雪輝(ゆきてる)はにこにこと笑顔になる。八喜子(やきこ)の目には雪輝(ゆきてる)の周りに濃い黄色が見えている。

「全然そう思ってない」
「あたりまえだろ」



 暗い部屋の中で横たわる鷹司(たかつかさ)の荒い息遣いだけが響いている。壁とドアがあるであろう面と同じく鉄格子がはまって開け放たれた窓の外は暗く夜になったことをしめしていた。不意にぱたぱたと軽い羽音をたてながら、ひらひらと折り鶴が窓から舞い降り鷹司(たかつかさ)の目前へと落ちた。

「……水咲(みずさき)か」

朱色の折り紙できっちりと折られた折り鶴を見て鷹司(たかつかさ)は荒い息づかいのまま、ゆっくりとささやいた。

「腕を潰された。最後の餌は19時。戸締りは22時。就寝は23時だ」

鷹司(たかつかさ)はうめき声をあげ続ける。

「15年……前か? 千平(せんだいら)《せんだいら》はさとりを死なせている。繁殖させようとして失敗した。今度も手元に置いて繁殖させるつもりだ」

折り鶴はふわりと舞い上がり、また軽い羽音を立てながら静かに窓の外へ出ていった。



 夜になり、おやすみなさい、と自分の部屋で布団にもぐった八喜子(やきこ)はぼんやりと天井を見つめた。今日のこと思い返すと自分の愚かさが嫌になってくる。


 私は好きなんて言ってはいけなかった。
だってお金をもらってる。
私は好きなんて言ってはいけなかった。
だって勉強をただで教えてもらってる。
私は好きなんて言ってはいけなかった。
朱珠(しゅしゅ)ちゃんみたいにきれいじゃない。
私はあんなに醜かった。真っ暗な暗闇。
恋なんてちっとも素敵じゃない。
つらくて悲しくて苦しくて醜い。
お母さんの嘘つき! 私はー


「幸せなんかじゃない! もう見たくない……」

八喜子(やきこ)は声をあげて泣いた。



 翌日。八喜子(やきこ)の顔を見た朱珠(しゅしゅ)はうわっと驚きを全身で表現した。

「どうしたの? その目! はれてる! 」

朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)から眼鏡をとりあげ、じろじろと見る。

朱珠(しゅしゅ)ちゃん……ふられた」
「え? なになになに? どうしたの? とりあえず、そこ座ろう」

暑いためか道路沿いのコーヒーショップの外の席は人がまばらだ。その隅に座りながら八喜子(やきこ)は眼鏡をかけ直し、ぼそぼそと朱珠(しゅしゅ)に昨日の話をした。

「うそぉ! ? まだそんな関係だったんだ」
「あの人は何も思ってないんだよ。私が勘違いした」
「えー? 学校来てた時めっちゃ笑顔だったのに? 」
「たぶん笑ってるのが普通の人なんだと思う。店員さんみたいな感じかな」
「営業スマイルかー。イケメンってわかんないね」
「……うん」

八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)朱珠(しゅしゅ)のことは気づいているが何も言われてないから知らないふりをする、と言っていたのを思い出した。
相手を気づかうのは自然なことで、そこに特別な意味は何もない。八喜子(やきこ)は自分を納得させた。雪輝(ゆきてる)みたいな人だったんだ、と。

一台の黒い車が店の前に止まった。
黒いスーツの男たちが数人おりてくる。
矢継早(やつぎばや)さんみたいだな、と八喜子(やきこ)が思っていると男たちが自分の方へ向かってきた。
声をあげようとした口はふさがれ男たちは手慣れた様子で八喜子(やきこ)を車に押しこむ。
突き飛ばされた朱珠(しゅしゅ)が立ち上がると車はあっというまに走り去った。


 九重(ここのえ)あけみは今日も日課の縁側でのお茶を楽しんでいた。息子夫婦に夫と築いた店はまかせ孫も手はかからなくなった。今はのんびりと自分の時間を楽しんでいる。
見慣れぬ車が通りすぎたのを横目に携帯をいじりながらお茶とお菓子を楽しむ。すべてがゆっくりに感じられた。
そこへ孫の朱珠(しゅしゅ)が泣きながら走っているのが目に入り、あけみはびっくりして孫を呼んだ。

「ばーちゃん! 八喜子(やきこ)ちゃんが拐われた! 」

わんわん声をあげて泣く朱珠(しゅしゅ)の背中をなでながら、あけみは優しくきいた。

「もしかして黒い車かい? 」
「うん……どうしよう」
「神さまの嫁さんを攫うなんて! なんて奴らだろう。大丈夫、ばーちゃんにまかせな! 」

あけみは携帯をいじりだす。

「そうか! 警察! さすがばーちゃん! 」

あけみはちっちっちっと舌を鳴らし画面を朱珠(しゅしゅ)に見せた。

「チェキスタ! さっき変な車が通ったからあげたんだよ。そしたら、ほら! 境さんのとこ通ったって! 写真も撮ってくれたよ」
「あ、すごい! 」
「この道路は源さんちの息子さんが働いてる会社があるから、ちょっとどっちに行くか見てもらおう。その先は小田原さんちの従兄弟のお婿さんの同級生がいるからー」
「ばーちゃんすげぇっ! 」


 数時間後。八喜子(やきこ)は見知らぬ日本家屋の一室にいた。車の中で頭が痛くなったかと思うとここにいたのだ。
敷かれた布団の上に自分が寝ているのを理解するのにしばらくかかった。まだ八喜子(やきこ)の頭はずきずきと痛んでいる。

「気がつかれましたか? 」

鈴を転がすような声に目を向けると自分より少し年上の女性がにっこりと笑顔で座っている。

「何もおっしゃらなくてもよろしいですよ。それは私も同じですね」

笑顔をくずさない女性の心が八喜子(やきこ)には見えた。


千平(せんだいら)すみれ。征士郎(せいしろう)の姉です。刀を持ったあなたと同じくらいの男の子の』


「らいだー君のお姉さん? 」
「そうです」

すみれの手には八喜子(やきこ)の眼鏡があった。

「眼鏡があると見えないそうですね」

『よかった』

矢継早(やつぎばや)さんが買ってくださったとか。たまにはいい仕事をされますね」

『騒がれる前に連れて来れた』

「姉のわたくしが言うのもなんですが征士郎(せいしろう)はいい子です」

『幸運ですよ』

「そう思いませんか? 」

征士郎(せいしろう)の子供を産んでください』

「どうしました? 」

青ざめる八喜子(やきこ)にすみれは困ったような笑みを向ける。

「でも子供はしばらくの間、無理ですね。残念です」

八喜子(やきこ)は気がついた。自分の服が白装束のようなものになっていることを。下腹部が鈍く痛み足の間がどろりとして気持ち悪かった。
よく休んでください、とすみれはふすまを閉めて出ていき八喜子(やきこ)は1人残された。
痛む頭で腰より上の障子を開けると窓があり庭が見える。笑い声がきこえた気がして八喜子(やきこ)は振り返った。


[ この辺ってまだ雪降るんだね ]

窓の外を見ながら自分と同じくらいの少女が大きくなったお腹をさすっている。
季節は冬だ。窓から見える庭もすっかり白くなっている。八喜子(やきこ)はぼんやりと厚みのない光景を見ていた。

[ 山の近くだからですね。寒くないですか? ]

色の白い少年が少女を気づかっている。

[ うん! ね! ね! 名前! 考えてくれた?  ]
[ はい。男の子なら僕から一文字とって雪輝(ゆきてる)。女の子ならあなたから一文字とって八喜子(やきこ) ]
[ 一文字? ]
[ ええと、僕が(あきら)だから雪輝(ゆきてる)。あなたは志喜子(しきこ)、だから八喜子(やきこ)八百万(やおよろず)の神さまたちよりもたくさんの喜びをくれる子だから]

(あきら)という少年が指で文字を書きながら志喜子(しきこ)という少女に説明する。志喜子(しきこ)は目を輝かせて(あきら)に抱きついた。
(あきら)は慌てて志喜子(しきこ)とお腹の子供を気づかっている。

[ まだ雪降ってるもんね! 雪輝(ゆきてる)ぅー! 早く出ておいで! ]
[ 早すぎます ]

慌てる(あきら)志喜子(しきこ)は明るく笑う。
その笑顔は八喜子(やきこ)に見覚えのあるものだった。

「……お母さん」



 数日後。雪輝(ゆきてる)朱珠(しゅしゅ)はあけみの運転する車の中から豪勢な日本家屋を見張っていた。

「あの家で間違いないのか? 」

雪輝(ゆきてる)朱珠(しゅしゅ)がにらみつける。

「ばーちゃん疑うの? 」
「ほれ」

あけみは雪輝(ゆきてる)に携帯を見せた。黒い車が中に入っていく写真だ。

「で、こっちが朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)ちゃんをさらったって言った車」
「確かにナンバーが同じだ。ありがとうございます。ここからは俺が」
「バットで何すんの! ? 待ちなって! 」

雪輝(ゆきてる)朱珠(しゅしゅ)が慌てて引き止めた。さわぐ孫たちを尻目にあけみは考えを巡らせていた。

「どうしようかね……これは寄り合いだね。一旦帰るよ」
「でも八喜子(やきこ)が」
「大丈夫。こんな豪華なお屋敷なら悪いようにはされてないよ。警察はあてにならないしここは年寄りにまかせな」

あけみは車を走らせた。



 同時刻。おうまの屋敷で仙南(せんなん)はぼんやりと外を見ている屋敷の主人に姿勢を正して話しかける。

「そろそろ森を歩いてください。雑草が生い茂っています」
「……俺を除草剤みたいに言わないでくれる? そのうちね」
「先日も申し上げました。いつですか」
「だーかーらー! 君たちは! ちょっとは傷心の俺をなぐさめようとかしないの? ねぇ! 」

おうまは座っている兄のアガマを振り返る。

「いらん知恵だ。片づけろ」

アガマに言われ仙南(せんなん)がテーブルに所狭しと並んでいる本や数式の書かれた紙を片づけだした。

「まだ使ってるってば! 」
「何の意味がある? 」

アガマに言われ、おうまはしばらく考えこみ首をひねってこたえた。

「……暇つぶし? 」
「潰れるのか? こんなもので。高校レベルの参考書だ」

おうまは大きくため息をついた。

「全然楽しくない」
「捨てろ」
「はい」仙南(せんなん)が片づけを続けた。
「待ってってば! 」
「何のためにこんなことをしている? 」
「……さあ? 」

俺も楽しかったんだけど、と呟くと、おうまはまたため息をついた。

「いいや、捨てて。もう必要ない」
「はい。書類にサインをお願いします。書斎の机にまとめて置いてあります」
「そのうちね」

おうまはまたぼんやりと窓の外を見つめた。

「そこまで執着するなら何故放逐した? 」
「……さあ? よくわからない。最初はさぁ、すごく生意気だと思ったよ」



 全然、笑わなかった。


「でも仕事はちゃんとするしバカ正直にきくなって言ってたことも守ってたし。まあ、ちょっと言葉の意味をとらえるのが、かなり相当苦手だけど。見えるせいだろうね」


 見られた。



「怖いんだよねぇ、暴力にためらいがないし」



 見られた。



「何にも言ってないのに勝手に怒るし」



 見られた。



「心を見られるから隠さなきゃいけなくてしんどいし」



 笑うようになったのを見た。
真珠色の肌が気に入っていた。



「勝手に怒るから」



 笑うのを見てた。
琥珀を日に透かしたようにきらきらと輝く瞳が気に入っていた。



「めんどうだよねぇ」



 一緒に笑うことが何度もあった。
俺も楽しかったのだけど。
言えなかった。



「目だけは俺の物だから」


 いつもは横に座るのに離れられるのがつらかった。
理由はきけなかった。
誰か、俺の知らない相手に向けて笑っているのだろうから。
好き、という言葉。あれはー。



「いいんじゃない? 」


 俺が言わせた。
彼女は見たんだ。俺を。



無邪気に笑っているおうまを見てアガマが鼻をならす。

「愚かもの」
「そうだね」


 まったくもってそうだ。
それでも嬉しい愚か者だ。
俺は彼女を食べてしまう。



 千平(せんだいら)家の所有する屋敷の一つに軟禁状態の八喜子(やきこ)はふらふらと屋敷を歩き回り母と父の過去を追っていた。
ぼんやりとしている八喜子(やきこ)を気味悪く思い彼女の姿を見かけると女中たちはひそひそと話はじめる。

「本当にすみません」

縁側に座って庭を見ている八喜子(やきこ)征士郎(せいしろう)が頭をさげる。

「姉は少々行き過ぎるところがありまして……僕がなんとか説得してみます」
「……に? 」
「すみません、もう一度お願いします」

八喜子(やきこ)は庭から征士郎(せいしろう)へ目をうつす。

「愛してもらえないのに? 」

征士郎(せいしろう)は小さく息を呑み八喜子(やきこ)をじっと見る。

「自分が愛してもらえないのに同じように子供をつくるの? 」


『考えるな。心を読まれる。彼女はさとりでー』


「化け物? ……そうだと思う。誰も側にいたくない」

八喜子(やきこ)は庭の池へ目線を戻した。
庭の中央に12畳ほどの大きさの池があり水面にはぐるぐると渦が巻いている。

「……ひとつ奪ったらひとつ与える」
「クァ様のことですか? 」

八喜子(やきこ)の目には透けている父の(あきら)が池の前に立っているのが見えていた。



[ ひとつ奪ったらひとつ与える。僕の目ごと全てを与える ]



[ だから志喜子(しきこ)さんを見えないようにしてほしい。彼女に悪意を持つ者たちから ]



[ 彼女が子供たちと外へ逃げ出せるように。彼女ならきっと大丈夫 ]




 中学生になる前に死んでしまったおじいちゃんが言っていた。
お母さんは大きなお腹で雪輝(ゆきてる)を抱いて突然、帰ってきたのだ、と。
いい加減で競馬とかが好きでよくお母さんに投げ飛ばされていた楽しいおじいちゃん。
大丈夫だったよ、お父さん。




[ 魂だけは渡さない。志喜子さんのところへ帰るから ]

片足を引きずりながら透けている輝は渦巻く池の中へと身を投げた。

この家の中には色々な思い出が残っている。母のためにこの屋敷に戻してくれ、もう逃げません、と土下座をする輝の足の腱を白髪の老人が切るのが見えた。

「どっちが化け物? 」

呟く八喜子(やきこ)征士郎(せいしろう)は目を伏せ小さな声ですみません、と返した。
八喜子(やきこ)の後ろから香の香りが漂ってくる。振り向くとすみれが笑顔で立っていた。白地に花をあしらえた着物を身につけている。

「お加減はいかがですか? 」

すみれは足を折って座ると八喜子(やきこ)と目線を合わせる。

「この屋敷は気に入っていただけましたか? あなたのお母様とお父様が過ごした屋敷です。調べるのが大変でした。皆、あなたのお母様の記録が見えないんですから」

すみれはにこにこと笑顔のまま続ける。

「ご両親に比べたら、あなたは幸せでしょう? 」

怖い、と八喜子(やきこ)は思った。
すみれの周りは明るい緑色の光にあふれている。相手を心から思いやるあたたかい色のはずなのに八喜子(やきこ)にはとても怖いものに見えた。

「すみれ姉さん、こんなのはいけないと思います」

すみれは今度は征士郎(せいしろう)へと笑顔を向けた。

「あなたがそれを言ってはいけません。自分の生まれを否定するのですか」

すみれは口元だけは笑顔で続けた。

「あなたのお母様もきっとそう言います」

征士郎(せいしろう)は唇をかんで黙りこんだ。

「もうすぐですね。八喜子(やきこ)さんが男の子だったらもっとよかったのですけど」

すみれはほうっと息をもらす。美しく優雅な所作で。



 それから、すみれはずっと八喜子(やきこ)の側にいた。従うように征士郎(せいしろう)も。

「あなたは幸せですよ」

何かを話しかけられるたびに最後は必ずそう繰り返された。

「あなたを連れてきた殿方たちに子供をつくらせてもいいのですけれど」

すみれはにこにことよく通る声で話す。

「そんな人権を無視した時代は終わりましたから。姉のわたくしが言うのもなんですが征士郎(せいしろう)はいい顔立ちをしているでしょう? 霞末(かすえ)の色つき様には劣りますが」

すみれは夢見るようなうっとりとした顔で歌うように続ける。

「本当に素敵なお方でした。わたくし、ずっとヘアピンで自分の手を刺していなければ虜にされてしまいそうでした。彼の方はとても魅力的ですね。残念ながらどこか壊れてしまった方々にはわからないようですが」

すみれはふうっと息を吐いた。

「それは……先生のこと? 」
「ええ。ほかにも何人か。矢継早(やつぎばや)さんもですね」

すみれの周りには悲しみの青い色が見えている。

「いつも失礼なことばかりして……わたくし、恥ずかしく思います」

八喜子(やきこ)はしばらくの間、嘆いているすみれを見つめていたが、やおら立ち上がると、すみれにつかみかかった。

「謝って! この……ぶす! 」
「…………………………は? 」

すみれは優雅に八喜子(やきこ)の手を抑えながら長い沈黙のあとにききかえした。それはそれは冷たい声だった。

「何も知らないくせに! 謝って! あなたって本当にぶす! 」
「…………は? 」

すみれの顔は能面のように無表情だ。征士郎(せいしろう)が青い顔をしてなだめようとしたが、どちらの耳にもとどかず無駄だった。

「だから、おうまさんにもぶすって言われるんだよ! 」
「……は? 」

おうまに君の顔って好きじゃないなぁ、と言われたことが頭をよぎり八喜子(やきこ)を抑えるすみれの手に力が入る。

「あなた、ご自分がおかわいいと思ってらっしゃるのね」
「そんなの関係ない! あなたがぶすなの! 大切な人を亡くしたことがないくせに! 」
「亡くなっておつらい気持ちはわかります。でもいつまでも悲しんでも仕方ないではありませんか。現にあなたは楽しく過ごされていたでしょう? ()(かた)のところで」
「楽しくて何が悪いの? 笑って何が悪いの? お腹は空くしお金は必要だし生きてるんだからしょうがないじゃない! 先生も矢継早(やつぎばや)さんも笑ってたって心の底から楽しくないんだよ。笑ってしまう自分を責めながら謝りながらー」

八喜子(やきこ)の目からぽろぽろ涙がこぼれた。

「笑わなきゃいけないから笑う時もあるんだよ。目の前にいる誰かのために。あなたと違う」
「壊れているじゃありませんか。わたくしは間違っていません」
「だからぶすなの! 私はおうまさんにかわいいって言ってもらってたもん! 」
「……でもお手つきにはなっていないでしょう? 魅力がないのではありませんか」
「ぶすって言われてないもん! 先生たちに謝って! 」

睨み合う2人に恐る恐る征士郎(せいしろう)が話しかけた。

「やめましょう。どちらも悪いということでおさめませんか? 」
「「こっちが悪い! 」」

八喜子(やきこ)とすみれはお互いを指差した。


 夜になり部屋の中が暗くなる。八喜子(やきこ)は明かりもつけず暗い部屋の中で座りこんでいた。
透けている母と父がにこにこと笑っている。たびたび父は母に謝っていた。君も閉じこめて、ごめんなさい、と。
そのたびに母は明るく笑い一緒にいられるのが嬉しいと父に抱きついていた。
悲しいことははんぶんこ。嬉しい楽しいことはうんと増える。こんなに幸せなことはない、と。
それは僕の方だ、と父が目を細める。
心の底から愛してくれているのがわかる。
こんなに幸せなことはない。僕は幸せな目をもって生まれた。子供たちにもそう伝えてほしい、と。
うん、もちろん! と母は笑った。



 ……いいなぁ。私もいつか、そう思えるのかな。



八喜子(やきこ)はじっと耳をすませた。寝静まっており静かだ。連れて来られた時の服を身につけ音を立てないようにそっとふすまを開け忍び足で廊下を進む。

「どちらへ? 」

背後からの声にびくりと体をふるわせ振り向くとすみれが立っていた。
まだ寝ていなかったのか昼間と同じ着物姿のままだ。

「……トイレです」
「こちらですよ。ご案内しましょうか」

先を歩くすみれの後ろを八喜子(やきこ)は黙ってついていった。

「そういえば」

しずしずと歩きながらすみれが言った。

「あなたにはお兄さんがいましたね」

くるりとすみれが振り向く。

「お兄さんはさとりですか? 」

八喜子(やきこ)は黙って首を横に振った。

「そう……本当かどうかはわたくしにはわかりませんが数は多い方がいいですね」

廊下の明かりは落ちており窓から月明かりだけが差しこんでいる。暗がりの中ですみれの目だけがらんらんと輝いているようにも見え八喜子(やきこ)の背を冷たいものがなでていった。
ぱっと背を向けて駆けだした八喜子(やきこ)をすみれはすぐさま羽交い締めにした。

「縛っておきましょうか。足を切るような時代ではありませんから」



 夜。静かな住宅地の中を矢継早(やつぎばや)の運転する車がやや乱暴に走り抜けていく。
後部座席には円戸(えんど)鷹司(たかつかさ)をのせている。

「タカ兄、タカ兄……何したんだよぉ、死んじゃうよぉ」

円戸(えんど)は顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。鷹司(たかつかさ)のスーツの右腕は赤黒く染まり本来あるはずの厚みがなかった。

「悪いな。くさいだろう」

運転しながら矢継早(やつぎばや)がこたえる。

「窓、開けてありますから。何で嘘の報告なんてしたんですか。閉じこめてたのを出しちゃって、これで我々も一蓮托生なんですから教えてくださいよ」
「俺に言いくるめられたと言え。恩があって断れなかった、と」
「病院! 矢継早(やつぎばや)! 病院行けよ! 」

円戸(えんど)がヘッドレストをつかんでがくがくとゆする。

「無理だな。千平(せんだいら)の奴らに邪魔される」
「そうですね。いいんですか? 」

矢継早(やつぎばや)は車を止めた。高い塀に森が囲まれている。

「ああ。円戸(えんど)、悪いが運んでくれ。塀を越えたらすぐ逃げていい」
「死んじゃうよぉぉ」

円戸(えんど)は鼻水までたらしながら泣いている。

「わたしは待ってます。お坊ちゃんがすみれに言うなんて思ってなかったので、わたしのミスです。だから帰ってきてください。それとどうして、やっきーのことを嘘ついたのか教えてください」
「……ヒーローらしい」
「はぁ? 」
「俺たちはヒーローらしい。八喜子(やきこ)にとっては助けられなくても助けてくれようとするだけでいいらしい」
「はぁ? なんですか、それ。笑えますね」

矢継早(やつぎばや)はけらけらと笑ったが目をごしごしこすった。

「待ってますから。戻ってきてくださいね」


 夜の森の暗闇の中に屋敷が建っている。明かりはついていない。鷹司(たかつかさ)に肩をかしながら屋敷を見上げた円戸(えんど)はがちがちと歯を鳴らした。

「もういい。帰れ」

円戸(えんど)はごめん、と呟きながら伸び放題の草をがさがさとかき分け走り去った。
鷹司(たかつかさ)は荒く息をしながら屋敷へ歩み寄り扉に左腕をかけた。鍵はかかっていない。拍子抜けするくらい軽く扉は開いた。中は暗い。扉から外の薄明かりが入るのみだ。

「来客の予定はなかったけど? 」

階段の上から屋敷の主のおうまが見下ろしている。鷹司(たかつかさ)はスーツの内ポケットから眼鏡を取り出すとおうまに向かって放り投げた。おうまはそれを受け止め眉をよせる。
暗闇の中に炎が煌めいた。鷹司(たかつかさ)の全身を炎がつつんでいる。

「俺の命ごとここを燃やす。報復しろ。八喜子(やきこ)を助けてくれ」

ふわりと体が浮く、と思った次の瞬間、鷹司(たかつかさ)はおうまに首をつかまれ外の草の上に叩きつけられていた。すうっと温度がさがり鷹司(たかつかさ)の体をつつむ炎が消えていき周りの草もぶるぶると震えながら頭をたれるようにして枯れていく。

「色々と気に入ってるんだから燃やさないでほしいな」

おうまは立ち上がり鷹司(たかつかさ)を見下ろす。

「俺は今、機嫌が悪い」

おうまは眼鏡をあらためながら続けた。

鷹司(たかつかさ)先生が八喜子(やきこ)ちゃんを呼び捨てにしてる理由と、あっちの木の上に隠れてるつもりの彼を見逃すぐらいには機嫌がいいよ」



 千平(せんだいら)家の屋敷に八喜子(やきこ)の叫び声が響き渡った。

「はーなーしーてー! ぶーすー! 」
「もう遅いですからお静かに」

すみれは八喜子(やきこ)の腕と足を紐で縛りあげた。

「すみれ姉さん、やりすぎではありませんか」

征士郎(せいしろう)はおろおろしている。

「ゴリラのように暴れるのですから仕方ありません。本当にはしたない」

八喜子(やきこ)は床に倒れたまますみれを見上げる。

「……ぶす」
「……ほら、元気です。何を心配するのですか」
「女の子を縛るなんてどうなんでしょうか」
「そう……ああ、そうです」

すみれは八喜子(やきこ)を抱えたうつぶせに寝かせる。

「せっかくですからこのまましてしまいなさい。もう大丈夫です」

八喜子(やきこ)の全身に鳥肌がたった。
隙間ができるように縛らせた腕の紐をほどきすみれに平手をする。ぱんっと音が部屋に響いた。
すみれは叩かれたまましばらく動かなかったが静かに立ち上がると言葉をうしなっている征士郎(せいしろう)から無言で真剣をとりあげる。

「本当にはしたない。足の腱を切りましょう」

すみれはすらり、と鞘から真剣を抜く。
八喜子(やきこ)は足の紐をほどくと襖を開けたまま逃げ出した。

廊下をかけぬけ庭へでると渦を巻いている池がある。



 ー庶民が立ち向かっても何もできないー
   ー俺はきこえてるんだー       ー数は多い方がいいー
 ー僕の目ごと全てを与えるー
   ー幸せな目をもってうまれたー



 雪輝(ゆきてる)……ごめんね。



  ーひとつ奪ったらひとつ与えるー



八喜子(やきこ)は池の中に飛びこんだ。




 私の目も全部あげる。だから雪輝(ゆきてる)を見えないようにして。悪い人たちから。



渦はあっというまに八喜子(やきこ)を飲みこんでいった。



 征士郎(せいしろう)が名前を呼びながらのばした手は遥かに届かず池の渦が八喜子(やきこ)を飲みこんだ。池の淵に座りこみ渦の中を見ても何も見えない。

「まあ……親子ですね」

真剣を鞘におさめ、姉のすみれが横に立つ。

「なんてことを……お兄さんがいるのに」
「そうですね。まだいましたね」
「姉さん! 」

すみれは笑顔のまま征士郎(せいしろう)を見下ろしていた。美しいと賞賛される笑顔は月明かりに照らされて不気味に輝いている。すうっと気温が下がり2人に影が落ちた。すみれは振り返り影の主を見ると頰を少し染める。

霞末(かすえ)様……」
「ああ、君か」

おうまはすみれが持つ真剣を抜き取ると彼女の太ももに突き刺した。すみれは痛みで声をあげうずくまる。征士郎(せいしろう)は屋敷に向かって人を呼んだ。

「邪魔だからそうしてて。鬱陶しい」

おうまはひらりと池の渦の中心へと飛びこんだ。水がざあっと空へ向かって滝のようにのぼっていき池の底が見えた。
深い穴の底には黒く丸くひれと髭をもつものがいた。肌はぬるぬると光っている。
それは人の頭ほどの大きさで仰向けに倒れている八喜子(やきこ)の胸の上にのっている。おうまの姿を見ると抗議するようにげっげっと鳴き声をあげた。

「悪いんだけどね」

おうまがそれを掴むとそれはぶるぶると震え干からびていき、ぱらぱらと崩れ落ちた。おうまは優しく八喜子(やきこ)を抱きかかえると跳躍し池の淵に降り立った。空へのぼっていた水の滝が穴の中へ流れ落ち池となる。池の水面は静かだ。
おうまは優しく八喜子(やきこ)を抱きかかえたまますみれを見下ろした。

八喜子(やきこ)ちゃんを助けなよ。得意じゃないんだ。死んだら皆殺しじゃすまさない」

足の痛みに苦痛の声をあげながらはい、とすみれは返事をした。
病院へ、とすみれが声をかけると屋敷の中で立ち尽くしていた黒いスーツの男女が駆けよってきた。


 翌日。屋敷の外の騒がしさで目覚めたすみれは着替えると足を引きずりながら様子を見に外へ出た。
老人、と言っていい年齢の者たちが多数、座りこんで拝んでいる。

「なんですか? 」
「すみれ様、すみません。どくようにはいっているのですが……」

黒いスーツの男は困りはてていた。

「神さまの嫁さんを返しとくれぇ」
「お願いしますお願いします」
「じいちゃん! ほら! 迷惑だから帰ろうって! すみません」
「神さまがお怒りじゃあ」

通報をききつけやってきた警察官たちもおいおいと泣きすがられ困り果てていた。
すみれはその中でも若い女の子が携帯をいじっているのを目ざとく見つけ声をかけた。

「あなた。何をしてらっしゃるの? 」
「え? チェキスタ。アクセスすごい! 」

女の子はすみれに画面をみせた。
友達が誘拐された! とタイトルがついている。

「あんたが偉い人か? 」

最年長らしい老人が震える手ですみれの腕をつかむ。

「頼む! 神さまの嫁さんを返してくれ! 神さまはみんな死んでしまってひとりぼっちなんじゃあ! わしと一緒じゃあ! 」

老人はおいおいと泣き声をあげながら土下座する。

「お願いします! 」

小柄な少年が老人の横にそろって土下座する。

「妹を返してください! たったひとりの家族なんです! 」

女の子がその様子を撮影している。アクセスすごいー、と呟きながら。

「……何か誤解があるようですね。わたくしは彼女のお母様に大変お世話になっていましたから」

すみれは少し口元を引きつらせながら笑顔で言った。



 八喜子(やきこ)は気がつくと暗い山の中にいた。鬱蒼と木が生い茂りあたりは暗い。木の奥は少し行けば真っ暗だ。空には月もない。

 ここはどこだろう?


八喜子(やきこ)はぼんやりと立ち尽くしていた。背後がざわざわと騒がしくなる。振り返ると暗闇の中から真っ黒な腕の形をした影が何本もせまってきている。


 ああ、あれにつかまるんだ。


八喜子(やきこ)は腕がせまってくるのをぼんやりと見ていた。突然、目の前に白い光がきらめく。思わず目をつぶった八喜子(やきこ)が目を開けると自分と同じくらいの少女が目の前に立っている。少女は白い光を放っており影の腕は近づけない。

八喜子(やきこ)。走りなさい」

少女が笑みを向ける。どこか自分に似ているな、と八喜子(やきこ)は思った。

「行っけー! 」

少女が腕をつきあげて叫ぶ。それと同時に八喜子(やきこ)は走り出した。
足が思うように動かず息が苦しかった。
走っても走っても暗闇はかわらない。
少女の白い光はもうとっくに見えなくなっている。前にはどこまでも暗闇が広がっていた。
急に心細くなり少女のあたたかく白い光が恋しくなった。戻ろうか、と足をとめたところで前に光が見えた。色白の和服姿の少年が穏やかな笑みを浮かべて先を指差している。
少年が指差す先にはまた白い光が見えていた。八喜子(やきこ)が走り抜けると少年は少女の方へ向かって歩き出す。

もうすぐ白い光につく。もうすぐ。もうすぐ。とまったまま動かない光に向かって八喜子(やきこ)は走り続けた。
白い光のところへ来ると見上げるほど背の高い男がいた。


 あれは……ああ、そうだ。知ってる


八喜子(やきこ)は彼へとびついた。

雪輝(ゆきてる)! 」
「おおっと、そっちか……」
雪輝(ゆきてる)じゃないの? 」
「うーん……まあ、いいか。呼びたいように呼べばいいよ」

男はにこにこと笑った。

「ここはどこ? 」
「峠、かな。君が自分の力で歩かなきゃいけない」
「ひとりで? 怖い……」

男は不安そうに見上げる八喜子(やきこ)の頭をなでた。

「一緒に行こうか」
「うん! 」

八喜子(やきこ)は頭にのせられた男の手をぎゅっと握る。白い光が強くなったような気がした。


 なだらかだが長い上り坂。暗闇の奥は何も見えない。明かりは男の白い光だけだ。八喜子(やきこ)は男と手をつないで歩いていた。

「あのね」

話しかけられて八喜子(やきこ)は男を見上げた。

「君にはそう見えてなかったとしても俺は楽しかったよ」
「なんのこと? 」
「いいんだ、どうせ忘れちゃう。きいてくれる? 」
「うん」
「生意気で怖いし、かわいげはないし」
「それって私のこと? 」
「うん。がちゃがちゃ騒がしかった」
「ごめん」
「君がいると落ち着かなかった。最初は気持ち悪かった」
「そうなんだ」
「心が騒ぐんだ。今はー」

急に目の前がひらける。眩しい光につつまれ八喜子(やきこ)は目を細めた。

「もう大丈夫。怖くないだろう? 」
「うん」

八喜子(やきこ)は握った手をひっぱった。

「だから一緒に行こう! 」

男は何度か瞬きをして嬉しそうに笑った。



 白い天井。見覚えがある。白い色は……


 八喜子(やきこ)は飛び起きた。どう見ても病院といったベッドに自分は寝ている。
ベッドの横の椅子には目を閉じて背の高い男が座っている。男の周りには白い光が散っていた。


 あの人はさっき会ったー


八喜子(やきこ)は男にとびついた。男が目を開ける。

雪輝(ゆきてる)! 」
「またそっち? 」
「……怖かった」
「そりゃ真剣を振り回されればね。あれで斬られると痛いし」

男はぼろぼろ涙をこぼす八喜子(やきこ)の頭を優しくなで、べろりと舌で頰をなめた。


『かわいいかわいいかわいいおいしいかわいいかわいいかわいいたまらないかわいいかわいいかわいいおいしいかわいいかわいい』


八喜子(やきこ)のまだぼんやりした頭は白い光でくらくらした。涙をなめられ目に優しく口づけされるたびに体が甘くしびれる。男の潤んだ瞳と目が合うと胸がどきどきとした。自分もきっと頰が赤いのだろう。男の唇が自分の唇と重ねられると思った時に怒号がとんできた。

雪輝(ゆきてる)は俺だ! 」

部屋の開け放たれた入り口で雪輝(ゆきてる)はまだ好きなのかよ、と呟き、がっくりと膝をついた。その横ではあらあらと朱珠(しゅしゅ)が両手で口をおさえて、にやにや笑っている。八喜子(やきこ)は我に返りすぐにおうまから離れた。

「……いつから見てた? 」
雪輝(ゆきてる)、のとこから」

朱珠(しゅしゅ)はにやにやしながら言う。

「言ってよ! 」
「おジャマだったよね〜」

顔を赤くする八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)は笑いながらつつつく。朱珠(しゅしゅ)が外へ声をかけるとぞろぞろと老人たちが入ってきた。

「嫁さん起きたか〜。あ! 」

最年長であろう老人がおうまを指差す。

「もしかして……あっくん? 」
「……誰? 」

おうまは首をかしげ老人を見返す。

「俺だよ、俺! ゲンジロ! ガキのころ森で秘密基地つくったろ? 」
「ああ、ゲンちゃんか。大きくなったね」
「縮んだよ、ばかやろ。マジで神さまだったんだな」
「そんなにいいものじゃないよ」
「色男のままだしよ。あっくん、チェキスタって知ってるか? いいぞー。若い子におじいちゃんかわいーなんて言われるんだぜ」
「ああ、知ってる。面白いよね」
「俺のアカウントさがしてみ? じろげんであるからよ」
「そのうちね」

拝んだりわいわいと騒がしい老人たちに雪輝(ゆきてる)は深々と頭をさげお礼を言う。
八喜子(やきこ)もそれにならった。

不意に沈黙がおとずれた。部屋の温度がぐっと下がり寒いくらいだ。吐く息が白くなる。おうまは入り口を見て、あららと呟くと立ち上がった。入り口には黒づくめの陶器のような肌をした男が立っている。
顔立ちは整っていてどこかおうまに似ていたが八喜子(やきこ)の目には男の周りに飲みこまれそうな深い黒い色が見えた。
誰も口を開かない。寒さのせいかがたがた体が震えだした。

八喜子(やきこ)ちゃん」

おうまに呼ばれて目を向けると八喜子(やきこ)の目には彼の周りに白い光が見えた。

「ばいばい」

おうまは無邪気に笑うと男と歩いていった。



 それっきり私はおうまさんに会えなくなった。


 カーペット以外は何もないが高級さを醸し出している広い部屋の中央におうまは立っていた。
周りを人の姿をしているがどこかおかしさを感じさせる様々な年齢の男女が囲んでいる。怪異、と呼ばれている彼、あるいは彼女らはぎらぎらした目でおうまを見ている。

「ひとつ奪えば、ひとつ与える。何も与えずただ奪ったものは皆にひとつ与える」

アガマが静かに言うと怪異たちはおうまに手をのばした。

「腕を」「足を」「太ももの肉を」「膵臓を」「心臓を」「肝臓を」「骨を」「腹を」「指を」「ハラワタを」

めりめりと引きちぎる音とばりばりくちゃくちゃと咀嚼する音が部屋に充満する。
食べ方はそれぞれ異なっていたが皆、恍惚の表情を浮かべている。
首だけになったおうまを和服の少女が捧げるように両手で拾い上げた。少女の目は黒く内側から無数の棘が生えている。
ぽっかり開いた口の中は暗闇が広がりぎいと木をこすりあわせるような音が一度だけ出た。心配してくれているんだな、優しい子だ、とおうまは思った。

「やあ、タタリギ。この間は悪かったね。君も食べるといい」

タタリギは首を傾けおうまの右目に吸いついた。眼球をえぐり出しごくりと飲みこむ。タタリギはアガマに捧げるようにおうまの首を差し出した。アガマはおうまの髪をつかんで首を持ち上げると自分の顔の前へともってくる。

「舌を出せ」

アガマはおうまの舌を噛みちぎり喉をならして飲みこんだ。食べ終わった怪異たちがドアを開けて賞賛の言葉を口にしながら外へ出て行く。タタリギはおうまを見て口の奥の暗闇の中からぎいっと一度だけ音をもらすとそれに続いた。

「頑張ったな。たった1人の弟だ。見捨てはしない。安心しろ」

アガマはおうまの首を我が子のように抱くと溶けるように薄れて消えた。


〈 シンコーごー! ごー!  おわり 〉


エピローグ

 新学期が始まり始業式後の教室はざわざわと騒がしかった。

やべぇかわいい。夏休みデビューってやつ? でも彼氏いんじゃん。

「ゆっきー。八喜子(やきこ)ちゃんはあれ? 一夏の経験したの? 」

(りょう)雪輝(ゆきてる)に好奇心を隠しもせずにきくと雪輝(ゆきてる)はしばらく考えてからこたえた。

「遠距離恋愛になっただけだ。どれだけ遠いかはわからない」
「マジ? あの人、海外行ったん? 」

 新学期に八喜子(やきこ)と会ったるる子は眼鏡か、眼鏡はなぁとぶつぶつぼやいていた。

「あの人と何かあったの? 」

(むつみ)が目をぎらつかせながらきいてくる。

「ううん、ふられちゃった」

八喜子(やきこ)はにこにこと笑いながらこたえた。

「えー? 残念だったね」

睦はにやにや笑う。

「うん。あのね、ひどいんだよ。自分の話ばっかりで私の話をきいてくれないの」

八喜子(やきこ)はぷうっと頰をふくらませてからにっこりと笑った。

「だからね、今度は私が話すんだ。ちゃんときいてもらう」

八喜子(やきこ)は廊下から美術教諭の鷹司(たかつかさ)に呼ばれぱっと教室を出ていった。鷹司(たかつかさ)は右腕にギブスをはめて吊っている。小声で怪異が見つかったから来い、と言い先を歩いて行く。八喜子(やきこ)は後に続いた。


 あの後、雪輝(ゆきてる)と忍びこんだおうまさんの家で仙南(せんなん)さんと会った。
 ずっと帰って来ないときいた。
 いつになるかわからないらしい。
 私が生きている間かどうかも。
 だから、探しに行く。
 はじめて会った時に鬼ごっこだと言われた。
 あっさり私はつかまった。
 だから今度は私が鬼。
 きっと見つけてみせる。
 あなたが忘れると言った峠でのこともちゃんと覚えている。
 だって私には幸せな目があるのだから。
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