第37話 there’s something about happiness

文字数 38,394文字

 B市総合病院。
時刻は昼を過ぎている。
付き添いが泊まれる個室に入院することになった八喜子(やきこ)は落ちつかなかった。

矢継早(やつぎばや)さん、ここって、いくらするんですか?」

八喜子(やきこ)の目には包帯が巻かれ、常に目隠しをされている状態だ。それでも彼女は正確に矢継早(やつぎばや)の方へ目を向ける。

「気にしなくていいですよ。領収書をもらっていきますから」
「でも! 特課(とっか)に出してもらうって、本当にいいんですか?」
「やっきー、去年の夏に殺されかけたの忘れましたか? もらっとけばいいんですよ。出すんですから」

それは、と八喜子(やきこ)の声音が暗くなる。

「私がまだ逢魔(おうま)さんといると思われてるせいですか?」
「今までだって、お手つきの人たちには、かなりの援助があったんですから、気にしなくていいんですよ。だいたい、それを言い出したら、あなたたち兄妹は国保になりますけど、お金払うんですか? 払えますか?」

月々の金額を言われ八喜子(やきこ)は言葉につまった。バイトも減り、週末に浮いていた食費や光熱費がこれからかかるとなると、かなり厳しい。

「……ありがとうございます」

八喜子(やきこ)はベッドに腰かけたまま深々と頭を下げた。
本当に、と八喜子(やきこ)は、あらためて思う。
逢魔(おうま)には経済的にも、かなり助けられていた、いや、いる、と。
『神さま』と言われるのを本人は嫌がっていたが、自分と雪輝(ゆきてる)にとっては『神さま』だ。
主に金銭的な理由で。
お礼がたりなかったな、と思ったが、いくら言葉をつくしても足りはしないし、代わりにあげられるものは何もないし、なかった。釣り合うことは、ずっとないし、なかったのだ。
ずっと利用していただけで苦しめてしまった。
「彼」は頭がいい。だから、気づいて傷つけてしまった、と八喜子(やきこ)の胸は痛んだ。
たくさんくれたし、もらうだけだった。
「彼」は「神さま」だから。

矢継早(やつぎばや)が言う。

「お昼ご飯を買って来ますね。尿瓶(しびん)使いますか?」
「使いません! トイレくらい、わかります!」
「見えるんですか?」
「どうなんでしょう? 矢継早(やつぎばや)さん、寒くないですか?」
「山の近くは冷えますね。暖房つけときますね」

じゃあ、と矢継早(やつぎばや)は病室を出る。しばらくするとノックの音がきこえ八喜子(やきこ)は嬉しそうに言った。

雪輝(ゆきてる)!」

ドアが開いた音がして中に入ってくる足音がする。

矢継早(やつぎばや)さんが、ご飯を買ってきてくれるって。雪輝(ゆきてる)はもう食べた? また、お肉ばっかりじゃなくて、おさかなと野菜も食べないとダメだよ」

返事はなかったが八喜子(やきこ)は話し続けた。

「あのね、矢継早(やつぎばや)さんが、すごく優しいんだ。前みたいに。お姉さんがいたら、こうなんだろうね。……よかったんだよね」

八喜子(やきこ)は返事をしない兄に顔を向けた。何も見えないがいるのはわかった。

「よかったんだよね? ちょっとだけど、お礼も言えたし。やっぱり、私、ばちがあたったんだ」

雪輝(ゆきてる)が悲しんだような焦っているような、どちらともとれる状態なのがわかり八喜子(やきこ)は、笑った。

「あのね、逢魔(おうま)さんが元カノにきついこと言った時に喜んだから。今度は私の番。だから、私が言われた。お母さんが言ってたよね。言いたいことは自分で言いなさいって。雪輝(ゆきてる)(むつみ)ちゃんが私に直接、悪口を言うから嫌いだけど、直接言うのって、お母さんみたいだから、私は嫌いじゃないよ」

ビッチとかヤリマンとか、言われるけど、と八喜子(やきこ)は、ため息を吐いた。

「あのね、雪輝(ゆきてる)。私ね、逢魔(おうま)さんが好きだよ、大好き。また一緒にいられるなら、その、えーっとね、雪輝(ゆきてる)は怒るんだろうけど……」

八喜子(やきこ)は赤くした顔に手をあてた。

「体ですますようなことっていけないんだろうし、逢魔(おうま)さんも言葉だけでなら、そう言うけど、すごく喜ぶし……。逢魔(おうま)さんだから、嫌じゃないし。でも、逢魔(おうま)さんは嫌になっちゃったんだよね……。優しいから、また私が泣いたら、いいよって言ってくれるんだろうけど。それじゃ」

八喜子(やきこ)の胸がちくちくと痛んだ。

「ダメだよね。無理に笑ってもらっても悲しいだけだから。雪輝(ゆきてる)!」

八喜子(やきこ)は、えへん、と胸をはる。

「私、ちゃんと我慢したよ! えらい?
大人になったな、って、またほめて! ……ほめてよ、お兄ちゃん。私、ちゃんと……泣かなかったんだから」

八喜子(やきこ)の目に巻かれた包帯の下から涙が落ちる。

「私が泣くと、いつも笑ってくれるから、私、泣かなかったよ。逢魔(おうま)さんが悲しんでたから。私、泣かなかったよ……」

ドアが開き、出て行く音がする。
八喜子(やきこ)は、しばらく泣き続けた。


 八喜子(やきこ)の病室を探して廊下を歩いていた鷹司(たかつかさ)は向こうからやって来た背の高い、サングラスとマスクをした男を見て顔をしかめた。彼の後ろには忠実な使用人がいる。

「何しに来たんだ? ストーカーだな」
「……今すぐ消えるか、誰も俺に逆らえないように君臨したい」
「どんな2択だ?」

(あやま)は頭を抱えて悲鳴のような雄叫びのような声をあげる。

「全然オッケーだよ! なんで、あそこで捧げてくれなかったんだ! ああ、過去の自分が憎い! だから俺は自分の名前が嫌いなんだ!」
「何のことか知らんが、うるせえ! ここは病院だ」

(あやま)の代わりに仙南(せんなん)が周りに頭を下げていた。



 八喜子(やきこ)の病室。
ノックの音に返事をすると鷹司(たかつかさ)が入ってきた。

「先生。雪輝(ゆきてる)を見ませんでしたか?」
「いや。来てたのか?」
「さっき、きてたんですけど」

ノックとともにドアが開き雪輝(ゆきてる)が入ってきた。
雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)の頰に水のペットボトルをつける。

「冷たい!」
「ちゃんと、きこえた。がんばったな。大人になって、お兄ちゃんは嬉しいぞ」

八喜子(やきこ)は、包帯の下の目をぱちぱちとさせ、ほほえんだ。


 矢継早(やつぎばや)と入れ替わるようにして鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)は旅館にもどることにした。
駐車場に行くと千平(せんだいら)すみれがおり、2人に向かって笑顔を向ける。どうぞ、と言われ、彼らは、すみれの愛車であるコンパクトカーに乗りこんだ。

「お嬢様なら、もっといい車に乗りそうだが」

後部座席から鷹司(たかつかさ)に言われ、すみれは笑った。

「大きい車に乗ってると、乗せてほしいと、わずらわしいのです」

取り回しも楽ですし、と言いながら、すみれはスピードを上げていく。

八喜子(やきこ)さんのご様子は?」
「異常なし。疲れたんだろう。学校が臨時休校でよかったな」
「……鷹司(たかつかさ)さん。平平(ひらだいら)さんに新しい金属バットをお願いされた理由をきいても、よろしいですか?」
「素振りで壊れた。いい加減なものを、つくったんじゃないか?」

やっぱり、と雪輝(ゆきてる)は思っていた。八喜子(やきこ)の護衛を任された上に学校まで行きたくない。
鷹司(たかつかさ)が、そう思っているのが、彼の耳にはきこえていた。

 旅館につくと、すみれは当然のように鷹司(たかつかさ)たちについて来て部屋に入る。
雪輝(ゆきてる)は雰囲気におされ上座に座る彼女にお茶をいれ成り行きを見守ることにした。

()(かた)八喜子(やきこ)さんのご関係は?」
逢魔(おうま)の方がストーカーになってたな。未練があるなら、土下座でもすりゃいい」
八喜子(やきこ)さんの方はどうなんですか?」
「さあな。元気そうだが」

ふたりに目を向けられ雪輝(ゆきてる)は、無理だと思います、とこたえた。

「それは八喜子(やきこ)さんがですか?」
「いや、どっちも。お互いに遠慮するっていうか。逢魔(おうま)の方で八喜子(やきこ)が安全になるまでは見守ってくれるのは確かです。なんていうか」

義務、と雪輝(ゆきてる)は下を向いた。

「『義務』だと思って納得してるっていうか。なんかもう、お互いに無理ですよね。そういう時って」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)も大人になったな、と小さくつぶやき、黙りこんだ。

「そうですか。ありがとうございます。困りましたね」
特課(とっか)としては、何が困るんだ? 逢魔(おうま)八喜子(やきこ)にかかりきりになるから、今までと何も変わらんだろう」

そうですね、と、すみれは鈴を転がすような声で笑った。
ところで、と彼女は笑顔で質問を続ける。

八喜子(やきこ)さんが『安全になるまで』とは、どういった意味ですか?」

すみれは笑顔のまま眼光を鋭くして鷹司(たかつかさ)を見る。

「今までだって、そうだろう? 八喜子(やきこ)の方が急に関係を終わりにされたら留年するわ、風俗に身を落とさなきゃ生活できなくなるわで大変だろうが」
「あら、その心配はありません」

征士郎(せいしろう)のお嫁さんにもらいますから、と、すみれはうふふ、と笑った。

「え!?」

雪輝(ゆきてる)が思わず声をあげる。すみれは穏やかな調子で続けた。

八喜子(やきこ)さんは『さとり』 で、お父様から遺伝した貴重な方です。『さとり』の方々を人為的にふやすことができれば、千平(せんだいら)は、また違った形での繁栄ができるでしょう」

鷹司(たかつかさ)が鼻を鳴らす。

逢魔(おうま)が許すはずがない」
「ですから、どうですか、とおききしたのです。()(かた)八喜子(やきこ)さんを『安全』だと思われて、ご関係が清算されたら教えてくださいね」

それでは、と、すみれは帰っていった。
雪輝(ゆきてる)は、ぽかんとして閉じられたドアを見つめている。
鷹司(たかつかさ)が舌打ちすると彼は我にかえった。

「ああいう奴らだったな。逢魔(おうま)のおかげで、おとなしくしてたが」
「いや、違います。ああ言ってますけど、『さとり』って今まで、ずっと一代限りだったんですよね? そう、すみれさんが思ってました」
「なんだ、そりゃ?」

雪輝(ゆきてる)は、すっかり冷めたお茶をごくごくと飲み干した。

「口実です。征士郎(せいしろう)八喜子(やきこ)と結婚するための。すみれさんは本気で征士郎(せいしろう)に幸せになってほしいっていうか」
「誰かの不幸の上に成り立つのが幸せか?」

それも大丈夫です、と雪輝(ゆきてる)は続けた。

「人為的に増やす、なんて言ってましたけど、無理だと思ってます。千平(せんだいら)だって、1000年は歴史がありますよね? もっとひどいことができた時代だって無理だったんだからって」
「今も充分ひどいぞ」
「本気だったら妾の子の征士郎(せいしろう)じゃなくて、千平(せんだいら)の直系の兄たちとです」

なんていうか、と雪輝(ゆきてる)は頭を抱えた。

「フットワーク軽いっていうか、ちょっとは、こっちにも考えさせてほしいです」
「こちらの要求を通したけりゃ思考させないのが定石だからな。ああいうのはハイエナの群れとか屍肉をあさるハゲタカとか言うんだ」

言って鷹司(たかつかさ)はハイエナやハゲタカに失礼だな、と笑った。


 深夜。B市総合病院。
目が覚めてしまい寝つけない八喜子(やきこ)は隣で寝ている矢継早(やつぎばや)を起こさぬよう、そっと病室を出た。非常灯だけが緑色に照らす廊下を見えているかのように進んでいく。目に包帯を巻き病院着の自分を誰かが見たら、おばけだと思うだろう。
そう思うと、なんだかおかしくて八喜子(やきこ)は笑ってしまった。
逢魔(おうま)に切られるまで「前髪オバケ」が彼女の仇名だ。鼻のあたりまで前髪をのばし夜道を歩いて霞末(かすえ)の森に向かい逢魔(おうま)と出会った。
あの時も道行く人々を怯えさせていたな、と思い出す。
入院患者が面会客と会うラウンジがあり、テーブルとイスがならんでいる。
八喜子(やきこ)はいすに座った。
のどが渇いたと思い、立ち上がると、壁際に設置された無料の給水機から水を紙コップにいれ、またいすにもどる。
不意に誰かが目の前に座ったのが、わかった。物音一つ立てずに突然、現れたのだ。
ひんやりと寒い。八喜子(やきこ)はごくりとつばを飲みこんだ。静かな空間に自分の鼓動だけが響いているようだ。

「……誰ですか?」

返事は返ってこなかった。沈黙が続いている。どうしよう、と八喜子(やきこ)は思った。見えなくとも誰なのかはわかる。名前をよぼう、彼女はそう決心した。

「……あ」

口を開いたが、でた言葉は、そこまでだ。寒かった。自分の肩を抱くようにして、ぎゅっと閉じた口から八喜子(やきこ)は大きく息を吐いた。ふたたび名前をよぶ。

(あがま)さん。どうしたんですか?」

八喜子(やきこ)の向かいに座ったまま黒づくめの男、(あがま)は静かな声を発した。

「見えるのか?」
「なんとなく、わかります。誰がいるのかくらいか、ですけど」
「そうか」

また沈黙がおとずれた。

「あの! 何しに来たんですか! 私はもう……」

続く言葉は言えず八喜子(やきこ)はうつむいた。

(あやま)にいらないと言われたな」
「言わなくていいです! 」

八喜子(やきこ)は目の前においた紙コップを手に取り、ごくごくと飲み干した。人心地がついた彼女がコップをテーブルに置くと、その手を優しくつかまれ八喜子(やきこ)は身をこわばらせる。凍りついたように動けない彼女にかまわず(あがま)は彼女の白い手をしげしげと見つめていた。

「昔と違って、きれいな手だ」

八喜子(やきこ)の全身に鳥肌が立った。八喜子(やきこ)(あがま)の手を振り払い立ちあがると、そのまま背を向けて走り出す。
彼女の走り去る足音が遠くなっていく。
ぐっと気温がさがった。
(あがま)の後ろに(あやま)が現れる。(あがま)は振り返らず腕を組む。

「安心しろ。危害は加えられない。それをどうするか、だな。お前も私も退屈だ。ちょうどいい」

(あがま)の笑い声が暗闇に響く。
彼の姿は周りに溶けるようにして消えた。


 八喜子(やきこ)は自分の病室の中へ駆けこんだ。ドアを閉めて鍵をかける。気休めにしかならないと思いながら、それでも少し落ち着いた。
眠っていた矢継早(やつぎばや)が目を覚ます。

「どうしたんですか?」
「……なんでもないです。矢継早(やつぎばや)さん」

八喜子(やきこ)はドアの外を透かして見るかのように、顔を向けた。

「トイレ、ついてきてください! もういないんですけど、怖いです!」
尿瓶(しびん)じゃだめですか。女同士なんですから」
「嫌です!」

八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)につきそってもらいトイレに着くと最初に手を丁寧に洗った。

「逆じゃないですか?」
「いいんです!」

ごしごしと執拗に手を洗う八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)は、あくびをしながら待っていた。




誰かが名前を呼んでいる。


 ー や ー   ー し ー   ー る ー
    ー か ー   ー あ ー
        ー い ー
     ー て ー


白くてあたたかい心地よい光が見える。すべすべとした冷たい肌が気持ちいい。肌をふれあわせていると、だんだんとあたたかくなってきた。ふわふわして気持ちがよかった。目が合うと、ほほえでくれる。優しい言葉が嬉しい。明るい色の瞳と髪をしている彼はー。


 八喜子(やきこ)は目を覚ました。同時に吐き気を覚える。口をおさえて、そなえつけの洗面所に吐き出した。目に巻かれた包帯はずれている。
八喜子(やきこ)の様子に矢継早(やつぎばや)が目を覚まし彼女の背をさする。八喜子(やきこ)は真っ青な顔で肩を震わせながら吐き続けていた。

矢継早(やつぎばや)さん!」

しばらくして落ちついた八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)にしがみつくようにして、彼女の腕をつかんだ。

「私、ちゃんと寝てましたか? どこにも行ってないし、誰も来てないですよね?」

泣きそうな顔で言う八喜子(やきこ)の頭を矢継早(やつぎばや)は、ぽんぽん、となでた。

「ずっと、そこで寝てましたよ。なんなら、カメラ見ますか?」

矢継早(やつぎばや)はテーブルの上のスマホを取り上げた。そこには、うなされながら眠っている八喜子(やきこ)の姿が映っている。

「……色っぽい寝言ですね」

八喜子(やきこ)は、また吐いたが胃液しか出なかった。


 昼になり雪輝(ゆきてる)鷹司(たかつかさ)が見舞いに来ると八喜子(やきこ)は喜んだ。健康な彼女にとって病院は退屈なのだ。しかし、見えないことを理由にさぼろうとしたが雪輝(ゆきてる)に教科書を並べられ八喜子(やきこ)は口を尖らせた。

「教えてくれないくせに〜っ」
「だから、余計にがんばらないとダメだろ」
「……はぁい」

八喜子(やきこ)は渋々、教科書を開いた。目には包帯が巻かれたままだ。
何の不便も感じずにノートを開いてシャーペンをもつ彼女の様子に鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)は感心した。そして八喜子(やきこ)の不出来さにあきれかえった。


 夕方になり雪輝(ゆきてる)たちが帰ると八喜子(やきこ)はベッドに突っ伏し、うとうととした。
夢だ、と彼女は思う。
今朝、見たのは夢だ。矢継早(やつぎばや)が自分の寝ている姿を撮っていたから間違いない。
夢なのだ。耳にきこえる穏やかな声も、体に優しくふれるもの、すべては夢の中の出来事だ。夢なのだが確かに




ー 昔と違って ー


遠い昔、昔の夢。夢の中で私はー。
「かや」と呼ばれている。


八喜子(やきこ)の胸がずしりと重く、苦しくなる。彼女は思う。


今の私は誰なのだろう。
いったい誰を好きになったのだろう。
「彼」が好きになったのは誰なのだろう。
わからない。


 翌日は月曜日。
検査の結果、八喜子(やきこ)の退院が決まった。
目を使わないように、と経過観察のため巻かれていた包帯をようやく外せるようになったが、彼女はためらっていた。
迎えに来た鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)に荷物を持ってもらい矢継早(やつぎばや)に手を引かれて歩く。補助は必要なかったが不審がられる、という用心のためだ。
駐車場についた八喜子(やきこ)を知った声が呼ぶ。彼女は振り返り包帯の下の目をまたたかせた。彼女の好きな白い光を感じる。八喜子(やきこ)は指先で包帯を上にずらした。

「大丈夫ですか?」

心配そうに彼女を気づかう征士郎(せいしろう)の周りには白い光が見えている。見えなくなっていた他人の顔が八喜子(やきこ)の目には見えるようになっていた。八喜子(やきこ)には珍しく思える私服姿だ。
彼女にじっと見つめられ征士郎(せいしろう)は、ややたじろぐ。彼の肩を雪輝(ゆきてる)が叩いた。

「心配して来てくれて、ありがとう。八喜子(やきこ)、嬉しいよな?」
「え? ……うん! ありがとう、征士郎(せいしろう)君」

八喜子(やきこ)に満面の笑みで言われ征士郎(せいしろう)は、やや顔を赤らめながら笑顔を返す。
朝、というよりは明け方、姉のすみれに叩き起こされ、わけもわからぬまま早く支度をしなさい、と叱責され、酔いそうになる姉の運転で連れてこられた疲れはふっとんだ。


 征士郎(せいしろう)を加え旅館にもどると時刻は昼を少し過ぎた頃だった。八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)と部屋へ荷物を置きに行く間、鷹司(たかつかさ)征士郎(せいしろう)が同じ部屋に泊まれるようフロントに話をしにいく。
雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)はロビーのいすでそれを待っていた。

征士郎(せいしろう)、どうして来たんだ?」
()(かた)から八喜子(やきこ)さんの護衛を言いつかっているので、いきなさい、と姉さんから言われました。学校も休校中ですし」
「いつもの刀もなしに?」
「目立つから、これにしなさい、と言われました」

言って征士郎(せいしろう)はカバーに入った金属バットを雪輝(ゆきてる)に見せる。

「なあ、先生って……」
「そうですね。それで一本駄目にしたようです」

雪輝(ゆきてる)は、やっぱり、と思った。ちょうど鷹司(たかつかさ)がもどってくる。彼らも、いちど部屋にもどることにした。


 八喜子(やきこ)が喜びそうだ、と矢継早(やつぎばや)が昼食に選んだ店は女性客であふれていた。こういう店では食べた気がしない、という鷹司(たかつかさ)に引き連れられ雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)は別の店にいっている。
矢継早(やつぎばや)と向かい合って丸いテーブルに座りながら八喜子(やきこ)は、ぼんやりとしていた。

「今日も夢見が悪かったんですか?」
「え!? また今日も見てたんですか?」
「寝言は言ってなかったから、大丈夫だと思いますよ」

矢継早(やつぎばや)に言われ、八喜子(やきこ)は、ほっとして笑って礼を言う。

矢継早(やつぎばや)さん、寝てないんですか?」
「いいえ、動画をチェックしました。見たら消してるので安心してください」

艶っぽい寝言の方も、と言われ八喜子(やきこ)は顔を赤くした。矢継早(やつぎばや)はけらけらと笑って言う。

「しかし、男子ーずは、つきあい悪いですね。せっかくの快気祝いなのに」
「女の子の多いお店だと、見られるから嫌だって言ってました」
「それは雪輝(ゆきてる)君ですか? それとも元彼ですか?」

八喜子(やきこ)は目を伏せ、雪輝(ゆきてる)です、とこたえ、暗い声で続ける。

逢魔(おうま)さんとは、あんまり出かけなかったですから」
「おうちデートにしたんですね。今度は」

矢継早(やつぎばや)の言葉にひっかかりを感じ、八喜子(やきこ)は彼女をじっと見た。彼女は苦虫を噛み潰したような顔で言う。

「わたしは特課(とっか)に7年います。ひとりだけしか、直接見たことないですけど、あなたの前の、うーん、彼女っていうよりは、彼女になる前の人でしょうね。やっきーの元彼にとっては、そんな扱いの人と、よく出歩いてたの見たことあるんです」
「……やっぱり、きれいな人だったんですよね」

私と違って、と八喜子(やきこ)はますます暗い顔をした。
矢継早(やつぎばや)は、いいえ、と、けらけらと笑う。

「ブランドの服にブランド物に宝石じゃらじゃらで、全部、買わせてましたね。しかも店員さんに、ものすごく偉そうな態度で。あなたの元彼、それを注意しないで店員さんをねぎらうものだから、怒られたりしてました。2週間もたなかったですけどね。元彼は最後の方は無関心なのが顔にでまくってて『ああ、そう』しか言ってなかったです」

矢継早(やつぎばや)はぐっとグラスを握る手に力をこめた。

「そういう豪華だけど貧しい関係しか築けないんですよ。人間じゃないんですから。やっきーは、おうちデートでも充分、楽しかったんでしょう? おうちデートで、お金がかからなくたって、楽しくすごせる人が1番です」

八喜子(やきこ)は勢いよく首を横にふる。

「お金かかってます。私、水道代に食費に電気代に、破かれた制服代も払ってないです……」
「そうですか。やっきーはペペロンチーノですか? ここのは辛いって評判だそうです」
「はい!」

八喜子(やきこ)は嬉しそうに返事をし、メニューのデザートを選びだした。その様子を見て安心しながら、破いたってなんだよ、と矢継早(やつぎばや)は思い、八喜子(やきこ)が別れたことを改めて喜んだ。


 昼食を終えた八喜子(やきこ)たちが店を出ると鷹司(たかつかさ)たちが待っていた。げんなりした顔で鷹司(たかつかさ)が言う。

「やっと来たか。女の飯は長いな」
「ドーンと出て、どっかり食べて終わり! じゃないですから」

すみません、と謝る八喜子(やきこ)とは違い矢継早(やつぎばや)は、けらけらと笑っている。

「さて、どうしましょうか」

あごに手をあてる矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)が手をあげる。

「あの、少し体を動かしたいです。病院って運動するところなかったし」

鷹司(たかつかさ)があきれたように言う。

「お前、目に包帯、巻いてたんだからな? 普通はあんなに動けないぞ」
「山登りよりは公園を散歩しに行きましょうか」

矢継早(やつぎばや)の提案に皆が賛成した。


 山すその自然公園。近くの駐車場は2箇所が大きく陥没し、ひび割れていてカラーコーンと黄と黒のポールで囲われていた。駐車所の周りは木々だけでなく草も茶色く枯れている。
鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)は一瞥しただけで特に何も言わず、なんとなく八喜子(やきこ)たちも、きく気になれなかった。
雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)をともなって走り出したので、八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)と一緒に遊歩道を歩くことにした。
大きな池の周りに出ると強い風がふいており湖面に波が立っている。
池を半周すると看板が立っている。
「龍の神様に愛された娘」という昔話が書いてあり、八喜子(やきこ)の顔は暗くなった。タイトルだけで続きは読めず、彼女は湖面を見つめる。
矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)は昔話を読んでいる。

「これって人身御供の暗喩ですかね」
「だろうな。『愛された』だなんて、詭弁だ」

やや離れたところから雪輝(ゆきてる)が叫ぶ。

「そんなことないです!」

雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)が走ってくるのを待ってから鷹司(たかつかさ)がきく。

「何がだ?」
「……いや、なんとなく。『神さま』も色々と悩んでると思います」
「そうか。冷えてきたな。帰ろう」


 旅館に戻ると夕飯まではまだ時間がある。皆は温泉に入ることにしたが八喜子(やきこ)はロビーの奥のくつろぎ用のスペースで時間を潰していた。
疲れた、と言い訳をしたが、ひとりになりたかったのだ。
ひとり用のいすに座り、なんとなく膝の上で開いていた雑誌を知らない手に取り上げられる。気がつくと大学生らしい男たち数人に囲まれていた。
何が起きたかわからず話しかけてくる男の顔を凝視していると馴れ馴れしく肩にさわられる。

つまらなそう。ひとり? おいでよ。

ほかにも色々と言われたが混乱する八喜子(やきこ)の頭でわかったのは、それだけだった。
八喜子(やきこ)が硬直していると地の底から出てきたような低い声が、彼らにかけられる。

「お前ら、何してんだ? その子は俺の連れだ」

カタギには見えない目つきと態度の鷹司(たかつかさ)に言われ彼らは素早く退散した。

「……先生。お風呂、早いんですね」

浴衣姿の鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)の隣のいすに、どっかりと腰をおろす。

「まずは礼を言え。お前は本当に危なっかしいな」

鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)に顔を隠す方法を考えてもらえ、と言い目を閉じた。
顔、と言われ、八喜子(やきこ)は頰を両手でなでる。
隠すのは胸じゃないだろうか、と思ったが口には出せず、矢継早(やつぎばや)にきこうと思った。


 夕飯を皆で楽しく食べ終え、八喜子(やきこ)は温泉に向かった。
矢継早(やつぎばや)は早く寝てしまっている。やはり、昨日は寝ないでいてくれたのではないか、と八喜子(やきこ)は申し訳なく思った。
脱衣所に人はまばらで空いている。明日は月曜だからだろうか、と思いながら八喜子(やきこ)は温泉に向かった。帰るのは水曜日だ。
髪が短いと楽だな、と思いながら体を洗い終え露天風呂につかる。
あと2回かと思い、もっとよく見ておこうと星空をじっくりと見上げた。
しばらくして男湯の方から、騒がしい声がきこえる。のぼせかけていたこともあり、八喜子(やきこ)はあがることにした。


 男湯では雪輝(ゆきてる)が腹を抱えて笑い、征士郎(せいしろう)は複雑な表情をしていた。
顔を嫌悪で歪ませた(あやま)は投げ飛ばした男を見もせずに言う。

「気持ち悪い……」

連れ立って来ていた男たちは詫びの言葉を口にしながら倒れた男を抱えて出ていった。雪輝(ゆきてる)は笑いながら(あやま)の肩を叩く。

「お前、もてるんだな」
「全然っ! 嬉しくないよ!」

(あやま)を見て惚けていた若い男が辛抱できずに鼻息荒く、彼に迫ったのだ。雪輝(ゆきてる)(あやま)に心酔している平平(ひらだいら)を思い出しながら言う。

「惚れられるのは女からだけじゃないんだな。裸だし、刺激が強いのか?」
「ああいう自制できない(やから)は人間相手にも普段から、そうだろうね。ああ、嫌なものを見た……」

(あやま)はげんなりとした顔で湯につかる。
楽しそうに話している、雪輝(ゆきてる)(あやま)に頭を下げ、征士郎(せいしろう)は先にあがることにした。


 征士郎(せいしろう)が部屋にもどろうとすると、ちょうど八喜子(やきこ)も女湯から出てきたところだった。

征士郎(せいしろう)君。雪輝(ゆきてる)は?」
「まだ入っているそうです」
「そうなんだ。征士郎(せいしろう)君って着物が似合うね」

にこにこと笑いながら八喜子(やきこ)に言われ、征士郎(せいしろう)は顔を赤らめて、どうも、と返す。
ふたりは並んで歩き出した。

八喜子(やきこ)さんは髪を切ったんですね」
「うん……すみれちゃんから、きいた?」
()(かた)と難しいご関係になられた、と伺っています」
「うん。もう……会えないから。ドライヤーの電気代もかかるし!」

ぐっと両手を握りしめる八喜子(やきこ)征士郎(せいしろう)は、たくましいな、と思った。
時折、悲しそうな表情を見せ、それは思わず見惚れてしまう、脆さを感じさせるものだったが、笑う姿は年相応の無邪気さと弾けるような明るさがあふれている。
征士郎(せいしろう)八喜子(やきこ)を、とても魅力的だと思うと同時に逢魔(おうま)雪輝(ゆきてる)に苛立ちを覚えた。
八喜子(やきこ)が傷つかなかったはずがないのに、彼女の気持ちなど考えずに呑気に過ごしているように思えるからだ。
いらない、と言ったのなら、未練がないのなら、早く八喜子(やきこ)から去ればいいのに、いつまでも近くにいるのも、まだ八喜子(やきこ)の心の中にいるのも、どちらもたまらず憎たらしかった。

征士郎(せいしろう)君は運動好き?」
「はい」
「じゃあ、明日! 山登りしようよ! 近くにあるんだって!」

先生と矢継早(やつぎばや)さんは、やだって言うし、と八喜子(やきこ)は口を尖らせる。

「かまいませんが、山登りのご経験はありますか?」
「うん! お母さんと山菜を採りに行ってたんだ」

八喜子(やきこ)は、はっとして口に指を立て声をひそめる。

「ないしょだよ。採ったらダメなとこもあるから!」
「はい」

部屋の前につき、じゃあ、と中に入ろうとする八喜子(やきこ)征士郎(せいしろう)が呼びとめた。

「なあに?」
「あの、八喜子(やきこ)さんも似合いますよ。髪型も、浴衣も」

八喜子(やきこ)は、びっくりしたように目を見開いたが、嬉しそうに、にっこりと笑った。

「ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみなさい」

お互いに少し頰を染めながら、ふたりはそれぞれの部屋に入った。
ドアが閉まると征士郎(せいしろう)はあたたかい気持ちに、八喜子(やきこ)は重くるしい気持ちになる。
自分は卑怯だ、と、ふたりは思っていた。
逢魔(おうま)がいなくなったから、八喜子(やきこ)の気を引こうとしている、と征士郎(せいしろう)は思う。
逢魔(おうま)がいなくなったから、征士郎(せいしろう)の優しさに甘えている、と八喜子(やきこ)は思う。
雪輝(ゆきてる)以外からの自分への白い光。金扇(かねおうぎ)八喜子(やきこ)への好意を表す白い光。
「かや」へ、ではない。
八喜子(やきこ)逢魔(おうま)からの気持ちが誰へのものか、自分へではなく初恋相手の「かや」へだったのではないかと怖くて悲しくて、苦しかった。
対して征士郎(せいしろう)は「かや」を知らない。知るはずがない。
金扇(かねおうぎ)八喜子(やきこ)しか知らず、彼女を好きだと、ずっと思ってくれている。八喜子(やきこ)には「見えている」。
嬉しかった。安心した。
けれど、それはとても独りよがりの喜びでしかなく、心にできた傷を埋めているだけなのだ。征士郎(せいしろう)を利用しているのがつらかった。
もし、と八喜子(やきこ)は考えた。
彼が逢魔(おうま)のように積極的になったら、後ろめたさから嫌とは言えないだろう。彼が望む通りに穢されれば、ずっと自分だけを見てくれる。
八喜子(やきこ)には「見えている」。


 翌日はあいにくの雨だった。
雨の翌日の山も危険だ、と鷹司(たかつかさ)に言われ八喜子(やきこ)は、がっかりした。雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)もジャージ姿なので鷹司(たかつかさ)は修学旅行か、とあきれ、矢継早(やつぎばや)は笑う。
どうしようかと考えていると買い物に出かけましょう、と矢継早(やつぎばや)が言う。
鷹司(たかつかさ)は明らかに嫌そうな顔をしていたが、護衛でしょう、と言われ渋々、助手席に乗った。
矢継早(やつぎばや)の車の後部座席には八喜子(やきこ)たちが乗る。
大きなショッピングモールにつくと八喜子(やきこ)は縁の太い、顔をおおうようにレンズの大きい眼鏡を買った。顔が隠れ、わかりにくくなる。

「すっぴん隠しで、こういう眼鏡をかけたりしますからね」
矢継早(やつぎばや)さん、服も選んでもらえませんか?」
「いいですよ。あそこで嫌そうな顔しているおっさんは気にせずに、ゆっくり選びましょうか」

矢継早(やつぎばや)は近くの3人がけのいすに座っている鷹司(たかつかさ)を指差して、けらけらと笑った。
不意に照明が一瞬、またたく。すぐに暗闇は明けたが八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)の腕にとびついた。顔をこわばらせ不安そうに、あたりを見ている。雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)の頭をぽんぽんとなでた。

八喜子(やきこ)。大丈夫だ。雷のせいだ。きこえなかったか?」

そうなんだ、と八喜子(やきこ)は、ほっとして兄の腕を離した。
鷹司(たかつかさ)はトイレ、と立ち上がり雪輝(ゆきてる)にも来るように言う。彼はからかうように矢継早(やつぎばや)に声をかけた。

矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)を迷子にさせるなよ」
「さすがに迷子センターじゃ預かってくれないですからね。気をつけます」
「なりません!」

ぷうっと頰をふくらませる八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)と歩き出す。征士郎(せいしろう)は彼女たちについていった。
彼女たちの姿が見えなくなると鷹司(たかつかさ)は低い声で雪輝(ゆきてる)に言う。

逢魔(おうま)にきいてみろ。兄貴が八喜子(やきこ)に、もうちょっかい出してきてんじゃないのか?」
「そうですね。兄貴の方が来るかと思って怖がってたんで」

携帯を取り出した雪輝(ゆきてる)の肩に冷たい手がふれた。彼が見上げると(あやま)が立っている。彼の服装はいつものように奇抜ではないが背の高さとサングラスにマスクという出で立ちが人目を引いていた。スーツ姿の仙南(せんなん)は彼の後ろに控えている。逢魔(おうま)雪輝(ゆきてる)の隣に座り、口を開いた。

「兄さんなら、もう病院に来てたよ」

鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らす。

「フットワーク軽いな。八喜子(やきこ)は無事だったようだが」
「たとえ兄さんでも、八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)君に危害は加えられない。俺のものだからね」

(あやま)の言葉に鷹司(たかつかさ)は、ちょっと雪輝(ゆきてる)から離れた。

「違います! そういうことじゃなくて!」
「大声だすと迷惑だぞ。ここは公共の場だからな」

ふたりの、その様子を見て(あやま)はマスクの下で、くすくすと笑う。

雪輝(ゆきてる)君たちには俺の獲物だという処置をしてある。『怪異』たちからも危害は加えられない」

ほう、と鷹司(たかつかさ)(あやま)に目を向ける。

「そういうのは、有効期限があるんじゃないのか?」
「俺が死ねば期限切れさ。不思議パワーの製造元がなくなるからね」
「さっきの停電はお前か?」

(あやま)は首を横に振る。

「いいや。君たちが出かけたのがわかったから、車でついてきたよ」
「今日もストーカーか。ご苦労なこった。お前の車、止められるのか?」
「ちゃんと、小さい車で来たよ」

せまいんだよね、とぼやく(あやま)に、きっとそれでも大きい車なのだろう、と雪輝(ゆきてる)は思った。また照明がちらちらとまたたく。

「これはお前の兄貴か?」
「そうといえば、そうだね」

(あやま)はサングラスの奥の目元をゆがませた。


 八喜子(やきこ)の年齢からすれば落ち着きすぎる服が並ぶテナントで彼女は服を選んでいた。顔には先ほど買った眼鏡をかけている。

「茶色とかばっかり見ますね。こういうのは嫌でも着なきゃいけなくなるんですから、もっとかわいいのにしたら、どうですか?」
「……目立ちたくないんです。それに」

もう、かわいいって言ってもらえないし、とうつむく八喜子(やきこ)を見て矢継早(やつぎばや)征士郎(せいしろう)に笑顔できく。

征士郎(せいしろう)君。かわいいですよね? やっきー」
「はい!」
「ほら、言ってくれますよ。あっちのお店に行きましょう」

矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)の背を押し、強引に店の外に連れ出した。ぱちり、と音がして、また照明が消える。八喜子(やきこ)は、びくりと体を震わせ矢継早(やつぎばや)の腕をつかんだ。
雨のため、外からの光はなく暗い。ざわざわとした声があちこちからする。

「雷、すごいんですかね? 雪輝(ゆきてる)君の耳には、きこえるみたいですけど」

矢継早(やつぎばや)はビジネスバッグのファスナーを開けたままにした。
征士郎(せいしろう)もバットのカバーを開けておく。

「やっきー。何か見えますか?」

言われて八喜子(やきこ)は、おそるおそる辺りに眼鏡越しの目を配った。

「……何かいます。すごく黒いのがふたつと、それよりは、もうちょっと薄いのが、みっつ」
鷹司(たかつかさ)さん、あっちにいましたよね。トイレがすんでればいいんですけど」

行きましょう、と歩き出した矢継早(やつぎばや)の後ろについて八喜子(やきこ)は歩き出した。
ぎゅっと手を握りしめ不安そうな彼女に征士郎(せいしろう)が声をかける。

「大丈夫ですか?」
「……うん」

彼の周りに見える白い光に、いくらか落ちつきを取り戻し八喜子(やきこ)は、ほほえんだ。

「あの、もし、怖かったらですがー」
征士郎(せいしろう)君、両手はあけといてくださいね。気持ちはわかりますが鷹司(たかつかさ)さんからも怒られますよ」

背を向けたままの矢継早(やつぎばや)から、とんできた声に征士郎(せいしろう)は顔を赤くした。
鷹司(たかつかさ)は先ほどのいすに座っており雪輝(ゆきてる)の姿がない。矢継早(やつぎばや)にきかれ鷹司(たかつかさ)は立ち上がる。

雪輝(ゆきてる)はウンコだ。野菜が足りないから長いんじゃないか。あいつは足も早いし、耳もいいから大丈夫だろう。八喜子(やきこ)は見えるのか?」
「眼鏡があるから、あんまりはっきりは……」
「そうか。怖いだろうから、そのままかけとけ」

鷹司(たかつかさ)に言われ、明らかに八喜子(やきこ)は、ほっとした。
側の出入り口に向かうと開かず、困惑した客たちが自動ドアのガラスを叩いたりしていたが音がしない。
八喜子(やきこ)の顔がこわばった。
音がしない。彼女には覚えがある。
あの時にきたのはー。


 雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)八喜子(やきこ)たちの様子を離れたところから伺い見ていた。仙南(せんなん)も彼らの近くにいる。

「なあ、逢魔(おうま)。近くにいてやれよ」
「また八喜子(やきこ)に『見られなかった』ら、俺は消える。君が俺を『見て』くれれば何とかなるけど」

(あやま)はマスクとサングラスをはずし八喜子(やきこ)を、じっと見つめる。

「眼鏡のおかげで今は見つからないようだね」
「だから、よりを戻せよ。あんなに怖がってるじゃないか」

八喜子(やきこ)は不安そうに震える手を合わせて握りしめている。

「俺だって、大丈夫だって言ってあげたいよ。……でも、駄目なんだ。俺では言えない」
「大丈夫だって」
「駄目だ。俺が八喜子(やきこ)を怖がらせる」
「大丈夫だって。頑固だな」
「年寄りだからね。雪輝(ゆきてる)君、兄さんはどこかわかる?」

雪輝(ゆきてる)は耳をすませた。気持ち悪そうに、えづく。

「……よっつ。兄貴とお前と、もうふたつ、なんかいる。もう無理」
「ありがとう。俺がわかるのと同じ数だね。実友(みとも)、わかる?」

主人に言われ仙南(せんなん)は首を横に振る。

「私の感覚器官がはたらきません」
「兄さんが邪魔してるね。でも」

何のためだろう、と(あやま)は彼にとっては問題のない暗闇を見つめた。


「携帯も使えませんね」

矢継早(やつぎばや)は携帯をしまった。不安が苛立ちに変わり、店員へ怒鳴りだす客が目立ってきている。
その大声に八喜子(やきこ)は、びくり、と怯え耳をふさいだ。その様子を見て鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)へ言う。

矢継早(やつぎばや)。俺にまかせて八喜子(やきこ)をみてろ」
「はい。やっきー、大丈夫ですよ」

八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)にしがみついた。彼女が人並みだと言う胸に抱きとめられると、あたたかく柔らかかったが、矢継早(やつぎばや)の鼓動も落ちつきがない。八喜子(やきこ)の不安は変わらなかった。
不意にどこかから悲鳴があがる。悲鳴は小さく場所がわかりづらい。すぐにざわざわとした喧騒にまぎれきこえなくなる。
征士郎(せいしろう)に見てくるよう頼み、鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)たちから離れなかった。

鷹司(たかつかさ)さん、なんだか優しいですね」
「俺はいつでも優しい男だぞ」
「前はやっきーに、すぐ見ろって言ってませんでしたか?」

鷹司(たかつかさ)は周囲に目を配りながら言う。

「……矢継早(やつぎばや)逢魔(おうま)八喜子(やきこ)をうまいと言ってただろう? あいつら『怪異』どもに、うまいと思われる『さとり』が逢魔(おうま)の庇護がなくなったら、どうなると思う? 俺はこんな風に閉じこめられたことがある。相手は霞末(かすえ)の色なしだ」

鷹司(たかつかさ)が名前を出すと八喜子(やきこ)は、ますます表情をかたくした。

「あれが来るんですか?」
「さあな。来たら終わりだ。俺たちも」

八喜子(やきこ)は、ぎゅっと目を閉じていた。
ショッピングモールの社員証を下げた男女が非常灯を手に誘導をはじめる。
社員用の出入り口から出られるそうだ。皆がぞろぞろと列をなし歩き出す。
鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)は顔を見合わせ、八喜子(やきこ)とともに列の最後尾に続いた。


 バックヤードへ続く扉から、ダンボールの並んだ通路を歩いて行く。
コンクリが打ちっ放しの簡素な空間だ。
平時であれば物珍しさが勝るのだろうが、今は暗闇。社員たちのもつ懐中電灯だけしか明かりはない。
廊下の奥、右手側に警備員室があり左手が階段だ。階段の方からは非常灯の緑の明かりが落ちてきている。階段の上が出口だ。
ちりちりと全身の毛が逆立つ気がした。
先頭を歩く社員が階段をのぼりだす。ゆっくりと列は進んでいく。
何かがおかしい、と八喜子(やきこ)は思った。唯一の出口。一本道。皆が列をなして歩いている。
ぞっとするような咆哮と悲鳴がした。鷹司(たかつかさ)が駆け出していきオレンジ色の炎が彼の右手から噴き出す。

「逃げろ! 待ち伏せてる!」

彼の怒鳴り声に駆け出したのは矢継早(やつぎばや)に手を引かれた八喜子(やきこ)だけだった。彼女たちの後ろで悲鳴が渦巻く。


 やられた、と(あやま)は呟いた。
彼はまだ雪輝(ゆきてる)仙南(せんなん)をともないモールの方で身を隠していた。視線を向けてきた雪輝(ゆきてる)に彼は言う。

「危害が加えられないけれど『怪異』が八喜子(やきこ)を狙ってる。俺が『怪異』を始末したら、八喜子(やきこ)に『見つかる』。彼女が俺を『見なければ』俺は消されるから、できない」
「俺と一緒に八喜子(やきこ)のところに行けばいい」
八喜子(やきこ)は今、怖がっている。俺が君と近づいたら、俺を『見つける』。俺は八喜子(やきこ)に『見つかった』ら、『消される』かもしれない。八喜子(やきこ)は思いこみが激しいからね」

雪輝(ゆきてる)は、うなったような声をもらす。

「だから、さっき会えばよかったんだよ」
「最悪、俺は見つかってもいいから、兄さんたちをなんとかするさ。閉じこめられたままじゃ、雪輝(ゆきてる)君、君も八喜子(やきこ)も餓死する」
「それって……」

不安そうに自分を見上げ雪輝(ゆきてる)(あやま)は、ほほえんだ。

「だから、頼むよ。君が俺を『見て』くれていれば、俺は消えずにすむ。まだ、消えたくないかな」

行こう、と歩き出した(あやま)の後に雪輝(ゆきてる)仙南(せんなん)は続いた。


 ずるずると引きずるような足音がきこえる。うなるような声も。
八喜子(やきこ)は、ぎゅっと目をつぶり耳をふさいだ。
彼女はテナントの中の回転ハンガーラックの中にもぐりこんでいた。隙間なく、ぐるりと丸く服がかけられており、小柄な彼女が(ひざ)を抱えて座っていれば暗闇もあいまって見つからない。
床からのびてきた白い手が矢継早(やつぎばや)をつかんで転ばせ、彼女から八喜子(やきこ)は逃げるように言われたのだ。
声が遠くなっていくと、少し安心したが、彼女の早い鼓動はそのままだ。手のひらが汗ばんで気持ちが悪い。ジャージのふとももに、こすりつけて汗をぬぐう。八喜子(やきこ)のものではない手が彼女の膝をなでた。
青白く冷たい手が両膝にかけられて八喜子(やきこ)の足を開く。足の間の床の中から緑色の肌をした、男か女かわからないほど、くずれた顔がのぞいていた。八喜子(やきこ)は動けなかった。開いた口からは荒い呼吸しか出ない。逃げなくては、と思ったが顔を凝視したまま動けない。笑ったのか顔がさらに崩れた。
不意に八喜子(やきこ)の周りの服がなくなる。ハンガーラックが持ち上げられたのだ。軽々と、けれど音を立てないようによせられる。暗闇の中に黒づくめの格好で立つ男を見て崩れた顔は床にもぐるように消えた。
男、(あがま)が差し出した手を見て、八喜子(やきこ)は床に座ったまま、じりじりとさがっていく。
それを見て(あがま)はおかしそうに笑った。

八喜子(やきこ)。私は何度も、お前を助けている。違うか?」

そういえば、そうだと思ったが八喜子(やきこ)は礼を言い、(あがま)の手をとらずに立ち上がる。
彼の周りに見える白い光に、いくらか心が落ちついた。


 兄の(あがま)を感じとり、その様子を、やや離れたところから隠れて見ていた(あやま)は、うめき声のような、うなり声のような声を発した。隣には雪輝(ゆきてる)仙南(せんなん)がいる。
雪輝(ゆきてる)の耳には(あがま)八喜子(やきこ)に敵意がないのがわかった。
向けられているのは好意だ。

「は? え? 何? お前の兄貴も八喜子(やきこ)を落とそうとしてんのか? かわいいからって、モテすぎだろ、俺の妹」
「……わかった」
「何が?」
「兄さんがこんなことをしてる理由だよ。吊り橋効果だ。怖い思いをした時のドキドキを相手への恋だと錯覚する」
「セルフでお化け屋敷つくるわ、規模でかすぎて、兄弟そろって、すごい迷惑だな」

八喜子(やきこ)(あがま)の様子を見て血の気が引いていく(あやま)は冷静に頭が働いた。兄との会話を思い出す。

「……『そうだな』、そうだ。兄さんは知ってたんだ。『さとり』と子供をつくれるのを。死んだ「かや」を食べている」

かやって誰? ときく雪輝(ゆきてる)(あやま)は「さとり」で恋人だった、とこたえる。

「もしかしたら、だけど」

歩き出したふたりを目で追いながら(あやま)は言う。

八喜子(やきこ)は……」


「かや」だったのかもしれない。
どこまで彼女は『見えていた』のか。
俺を好いたのも、かつて愛した兄の姿を重ねただけだったのではないか。
やはり俺は愛されず、愛すことなどできやしない。


(あやま)は言わなかったが雪輝(ゆきてる)の耳には「きこえていた」。彼はたまらず口をひらく。

「……逢魔(おうま)
「何?」
「バーカ!」
「ああ、そうだね」
「かやだかなんだか知らないけど! あれは八喜子(やきこ)だ! 金扇(かねおうぎ)八喜子(やきこ)! かわいい俺の妹! ふざけんな、バーカ! ほら、行くぞ!」

雪輝(ゆきてる)が腕をひっぱったが(あやま)は、びくともしなかった。

「お前! ちゃんと言えよ! 別れたくないんだろ?」
「だからといって、そばにいられるほど甘くなかったんだよ。俺は化け物だ」
「……この末っ子! 甘やかされてんじゃねぇっ!」

雪輝(ゆきてる)は大きく息を吸いこんだ。

「立てっ!!!」


 暗闇の中に大きく響いた声に八喜子(やきこ)は振り返った。

「……雪輝(ゆきてる)?」
「お前の兄か」
「はい。あっちにいるみたいです」

指差して歩き出そうとする彼女の背に(あがま)は声をかける。

特課(とっか)の連中を襲ったものが、向こうにいるのではないか」

ぴたり、と八喜子(やきこ)の足がとまる。怖かったからだ。
(あがま)が一緒に来てくれるだろうか、と八喜子(やきこ)は思った。
たしかに、彼は何度も助けてくれている。そう思った。

八喜子(やきこ)さん!」

彼女が振り返るとショッピングモールの社員であろう制服姿の男性に、肩を貸しながら征士郎(せいしろう)が歩いてきていた。征士郎(せいしろう)は反対側の肩にカバーに入った金属バットを担いでいる。男性の名札は鳴海屋(なるみや)と書いてあった。

征士郎(せいしろう)君……その人は?」
鳴海屋(なるみや)さんです。足を噛まれています」

鳴海屋(なるみや)のスラックスは、ところどころ裂け、血が滲んでいた。
彼は震えながら言う。

「床から……顔が。何度も噛まれて。何度も。何度も。誰も助けてくれなくて……」
「顔……私も見ました。緑色の」

鳴海屋(なるみや)は目を見開いて八喜子(やきこ)を見る。

「俺が見たのは白い奴だ。口だけあって歯が黄色い」

征士郎(せいしろう)は形のよい眉をよせる。
不意に明かりに照らされ彼らは目を細めた。光の方を見ると懐中電灯を持った女性が立っている。

「まあ。征ちゃんに八喜子(やきこ)さん。こちらにいらしたんですね」

女性、征士郎(せいしろう)の姉、千平(せんだいら)すみれは、鈴を転がすような声で笑った。

「姉さん。どうして、ここに?」
「わたくしも温泉に来てましたから。今日は雨なので買い物です」

八喜子(やきこ)があたりを見回すと(あがま)の姿はない。
すみれの懐中電灯の明かりと征士郎(せいしろう)から彼女に向けられる白い光に八喜子(やきこ)は、ほっとした。鳴海屋(なるみや)が悲鳴をあげる。

「あっちに何か……白いあいつだ!」

すみれが懐中電灯の明かりを向ける。明かりを避けて暗闇の中を白いものが素早く動いていた。
八喜子(やきこ)が短く叫んで足下を見る。白い光が弾け、床から出た顔は吹き飛ばされる。

「いすに立ってください! 高いところへ!」

征士郎(せいしろう)が大声で言う。
3人がけのいすが背中合わせに2脚、置いてある。征士郎(せいしろう)鳴海屋(なるみや)を手伝い、皆がいすにのぼる。
いすの下で口だけがある白い顔が、がちがちと歯を打ち鳴らしていた。鳴海屋(なるみや)が、か細い悲鳴をあげる。
白い顔を懐中電灯で照らしながら、すみれが言った。

「高いところには、のぼってこれないのですね。征ちゃん、よく気がつきました」

すみれは子供を褒めるような明るい調子で、エクセレント、と続ける。
征士郎(せいしろう)は油断なく、いすの下を這い回る白い顔を見ながらこたえた。

鳴海屋(なるみや)さんが襲われている時に、わかりました」
「よく見てましたね。偉いですよ。まるで、たか(おに)です」

すみれの穏やかな、うふふ、という笑い声が場違いに暗闇に吸いこまれていく。


 彼らの様子を離れて見ながら雪輝(ゆきてる)は舌打ちした。逢魔(おうま)は彼が散々、下からだが耳元で怒鳴りつけたが動かないままだ。

「お前の兄貴は?」
「まだいるよ。様子を見てる。兄さんさえ帰れば開くんだけど……」

(あやま)はうなだれる。

「兄さんを追い払いに行ったとして、兄さんが、ちょっと気になる存在になっちゃった八喜子(やきこ)に見られて、俺は無視されるとか考えただけで、きつい」

うじうじと決心のつかない(あやま)に苛立ちを覚えた雪輝(ゆきてる)より早く仙南(せんなん)が言った。

「そういうのは、あとにしてください。八喜子(やきこ)奥様を外に出すのを優先すべきです」
「ああ、うん、そうだね。ちょっとうるさいかもしれないけど、行ってくる」

言い終わるなり(あやま)は跳躍し、あっという間に姿を消した。

仙南(せんなん)さんは、一緒に行かなくていいんですか?」
雪輝(ゆきてる)さんをお守りするよう、言いつかっております」
「よろしくお願いします。逢魔(おうま)って、いっつもああなんですか?」
兄君(あにぎみ)に甘やかされてますから」

兄貴に嫌われたかと思ったのは、それはそれはショックだったんだろうな、と雪輝(ゆきてる)は思った。


 ショッピングモール内。従業員入り口前の廊下。
腕や足の肉を噛み千切られた人々が、うめき声をあげている。大小の違いはあったが、皆、どこかにケガをしている。警備員室の備えで応急処置が終えると鷹司(たかつかさ)は店内に向かって歩き出した。
床に座る、足を噛まれた中年というには少し年を重ねた男が彼の足にしがみつく。

「待ってくれ! どこに行くんだ?」
「連れの様子を知りたい」
「あんたがいないと、また来たら、どうするんだ!」

鷹司(たかつかさ)は深々とため息をつくと、どっかり腰を下ろした。

「誰か俺の連れを見に行けるか?」

皆、彼から目をそらす。自分のケガをアピールするかのようにおさえる者もいる。

「……ケガ人には無理だな」

彼は考える。八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)のおかげで大丈夫だ。矢継早(やつぎばや)征士郎(せいしろう)が心配だった。彼らでは対処は難しい相手だろう。
鷹司(たかつかさ)は光の届かない廊下の奥へ目を向けたが暗闇があるだけで誰も現れなかった。


 ショッピングモール内。森の大通り。
八喜子(やきこ)征士郎(せいしろう)、すみれ、鳴海屋(なるみや)の4人は通路中央のいすの上から動けなかった。いすの下では「怪異」が、がちがちと歯を打ち鳴らし続けている。
鳴海屋(なるみや)は頭を抱えお経をずっと唱え続けていた。

「すみれちゃん、矢継早(やつぎばや)さんを見ませんでしたか?」
「ええ、見ておりません。鷹司(たかつかさ)さんも今はどちらに?」

八喜子(やきこ)は、すみれが来た方とは反対側を指差す。

「あっちで、つかまれた時に私に逃げろって……。先生はお店の人が使う出入り口で怖いのが出たから逃げろって……無事ですよね?」

八喜子(やきこ)の目の端に涙が滲んでいく。

鷹司(たかつかさ)さんは大丈夫でしょう。矢継早(やつぎばや)さんは、わかりませんね。ここまで害意のある相手に、どこまで対処できるか、わたくしにもわかりません」

言って、すみれは首をかしげる。

「ご覧になったら、いかがですか? 八喜子(やきこ)さんにはできるでしょう?」

八喜子(やきこ)は口を、ぎゅっと結ぶ。まばたきを繰り返しながら眼鏡に手をかけた彼女を征士郎(せいしろう)がとめた。

「怖ければ無理しないでください。矢継早(やつぎばや)さんは僕が見てきます」

八喜子(やきこ)より早く、すみれが口を開く。

「征ちゃんで大丈夫でしょうか? 一度、八喜子(やきこ)さんにご覧になって頂いてからの方がいいですよ」
「足には自信があります。これもありますから」

征士郎(せいしろう)はカバーから金属バットを取り出す。征士郎(せいしろう)の肩を鳴海屋(なるみや)がつかんだ。

「行かないでくれっ! あんたがいなくなって、こいつが襲ってきたら、どうしたらいいんだっ!」
「高いところにいれば大丈夫だと思います」
「そんな保証どこにあるんだよっ! あんたがいなくなったら、のぼってくるかもしれない!」

(まく)し立てる鳴海屋(なるみや)征士郎(せいしろう)がなだめたが彼は聞く耳をもたない。征士郎(せいしろう)の肩をつかんで離さなかった。
八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)がいるであろう暗闇に目を向ける。
「見れば」、わかる。でも、もし彼女の無事ではない姿を見てしまったら。そう思うと怖かった。


  ー 何度も助けた ー


八喜子(やきこ)(あがま)の言葉を思い出す。
もし。もし、もう一度、助けてくれるのなら。八喜子(やきこ)の目は彼の周りに見せていた。
白い光。自分への好意をしめすものだ。それが「八喜子(やきこ)」ではなく「かや」へのものだったとしても、(あがま)なら助けてくれるかもしれない。
いつも彼女を助けてくれた「彼」からは、もう見えることはないのだから。
あたたかい白い光は、もう……。

「……あ!」

八喜子(やきこ)が急に声をあげると鳴海屋(なるみや)は、ひっと悲鳴をあげた。

「私、矢継早(やつぎばや)さんを探しに行ってきます!」

すぐに征士郎(せいしろう)がとめる。

「危険です。八喜子(やきこ)さんは見えても何もできません」
「大丈夫!」

言って八喜子(やきこ)はいすから、ぴょんと飛び降りた。
白い光が弾け、八喜子(やきこ)に噛みつこうとした「怪異」は遠くへ吹き飛ばされる。

「ほら! 大丈夫! さっきもこうでした!」
「……()(かた)のご加護ですね」
「はい! 行ってきます!」

すみれの言葉に八喜子(やきこ)はにっこりと笑い、駆け出した。
暗闇の中を走りながら彼女は考える。
「彼」に別れを告げられた。
「彼」と一緒に過ごした時間は、とてもあたたかく幸せな時間だった。だから、自分は「彼」が言ったように、好きにならなければよかったとは思わない。今も好きで、好きだから悲しい。
でも、残るのは悲しみだけではない。
「彼」が自分を愛していると言ってくれたのは本当のことだ。愛してくれていたのは本当だ。彼女には見えている。
白い光が弾けるたびに八喜子(やきこ)は思う。
いつかはこれも消えてしまうのだろう。でも、あったことは確かなのだ。


 せわしなく動き回る兄の気配を追いながら(あやま)は違和感を覚えていた。人の姿をしている兄の足音がわからないからだ。
彼は聴覚だけで言えば「きこえるさとり」の雪輝(ゆきてる)よりも優れている。嗅覚や視覚も、とらえられる範囲だけで言えば彼と同等なのは兄だけだ。意図的に消しているのか、そうでなければ、と(あやま)は考える。
これは兄ではない、と。
彼が追うのをやめた途端、兄の気配は動かなくなる。

「……どこだ?」

(あやま)は立ち止まり目を凝らした。暗闇の中で金色に瞳が輝く。
吹き抜けになっており、見える下の通路を八喜子(やきこ)が走っている。
それを見た彼が一瞬、気を抜いた。背後に現れた(あがま)が頭をつかみ吹き抜けの柵に叩きつける。
透明板が砕け、手すりが壊され下に落ちていく。それらは八喜子(やきこ)に降り注いだ。とっさに頭をかばった八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)が飛びつき、ふたりで床に倒れこむ。彼ら兄妹を仙南(せんなん)が引っ張り、自分の背でかばった。
八喜子(やきこ)のいた場所に鉄板などが散らばり派手な音を立てる。
(あがま)はさらに(あやま)を床に叩きつけた。タイルにヒビが入り大きくへこむ。(あやま)は立ち上がろうと、ついた手ごと、さらにめりこまされていく。亀裂が大きくなっていき床が崩壊し、落ちた。轟音があたりに響き渡る。
音と舞い上がったコンクリの破片などが落ち着くと仙南(せんなん)金扇(かねおうぎ)兄妹から離れた。

「お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)に手を貸しながら立ち上がって礼を言った。八喜子(やきこ)も頭をさげながらきく。

仙南(せんなん)さん、どうしてここに?」

こたえようと口を開いた仙南(せんなん)は、すぐに口を閉じ八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)の目の前の床を叩くようにした。
そのままつかんだ「怪異」を引きずり出す。「怪異」の白い肌に毛はなく、つるりとしており、顔には口しかなく黄色い歯が並んでいる。がちがちと歯を打ち鳴らす、「それ」の口に仙南(せんなん)は、もう一方の手を握りこぶしにして殴りつけるように、ねじこんだ。そのまま頭の後ろへと貫通させる。
八喜子(やきこ)は悲鳴をあげて雪輝(ゆきてる)の背に顔をうずめた。
白い顔の「怪異」は灰のように崩れ去っていく。

「失礼を。邪魔でしたから」

仙南(せんなん)は何事もなかったかのようにスーツの汚れを払った。

「いや、ありがとうございます。逢魔(おうま)は?」

雪輝(ゆきてる)は崩壊した瓦礫の山に目を向ける。遠くの方から、また建物が崩れる音と振動が伝わってきた。

「派手に喧嘩されてますね。建物がもつといいのですが」

八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)の肩をつかみながら仙南(せんなん)へと目を向ける。
ききたかったが言えなかった。
瓦礫の山を迂回するように足をひきずった矢継早(やつぎばや)がやってくる。

矢継早(やつぎばや)さん! 足、どうしたんですか?」
「したたかに噛まれました。やっきーも、ゆっきーも無事ですね。よかったです」

矢継早(やつぎばや)は、けらけらと笑い後ろを振り返る。轟音が響いてきていた。

「あっちに行くと建物、崩れてきますね。向こうへ逃げましょう」

仙南(せんなん)を見て顔をしかめながら彼女は言った。


 八喜子(やきこ)たちが征士郎(せいしろう)たちのところにもどると照明がついた。携帯も鳴り出す。
鳴海屋(なるみや)が歓声をあげた。
仙南(せんなん)八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)に頭を下げると立ち去る。轟音はしなくなっていた。
矢継早(やつぎばや)が携帯で次々と連絡を入れていく。それを見て八喜子(やきこ)も携帯を取り出したが、すぐにしまった。


 夜。温泉旅館の部屋で八喜子(やきこ)は、ひとりでいた。矢継早(やつぎばや)は病院だ。寝つけず何度も寝返りを繰り返した。何度も携帯を見ては枕元にもどす。何十回目かもしれない。八喜子(やきこ)は携帯のアプリを開いた。


 温泉旅館の一室で、ぐっすりと眠っていた(あやま)はチャイムの音に、ゆっくり目を開けた。仙南(せんなん)が出るだろう、とまた目を閉じたが、部屋にいないのがわかる。また、チャイムが鳴った。無視を決めこんだが一定の間隔でチャイムは鳴り続けている。(あやま)はのろのろと立ち上がり寝乱れた備えつけの浴衣を直しもせずにドアを開けた。
不満をぶつけようとした彼の口は開いたまま動かない。八喜子(やきこ)が立っていた。浴衣姿で顔が隠れるような眼鏡をかけている。

「寝てましたよね。ごめんなさい」

少し顔を赤くした八喜子(やきこ)に言われ(あやま)は乱れた浴衣を直しながら、彼女を中に招き入れた。
布団を押しやり畳の上に向かい合って座る。八喜子(やきこ)は眼鏡を外し(あやま)に頭を下げる。

「今日はありがとうございます。助けてくれたのを、さっき仙南(せんなん)さんから、ききました」
「ああ、そう」

(あやま)は胸の高鳴りを感じた。いつもと違う浴衣姿の八喜子(やきこ)は、とてもかわいらしく、髪を切ったせいで、きれいなうなじが見える。

「あの、温泉でも下のいすのところにいたら、男の人たちに囲まれて」

八喜子(やきこ)は伏し目がちに言う。

「先生が助けてくれたんですけど。今日も。雪輝(ゆきてる)が追い払ってくれて。ほかにも……私と、その……」

彼女は真っ赤な顔で消え入りそうな声で続きを言った。セックスしたがっている、と。それを耳にすると意識してしまい、(あやま)も落ちつかず目を泳がせながら相づちを打つ。

「それで。それで……私、まだ、まだ、あなたが好きです」

上気した頰で瞳を潤ませた八喜子(やきこ)に言われ、(あやま)は目を見開いた。顔が赤くなり鼓動が早くなるのがわかった。嬉しかった。すごく嬉しい。
が、話のつながりがおかしいな、と考える彼の疑問はすぐに解けた。

「初めては、あなたがいいんです。……してください」
「は?!」

思わず(あやま)は大声を出した。八喜子(やきこ)は真っ赤な顔で下を向いている。(あやま)が返したのは現実的なことだった。

「ゴムがないよ」

ちくりと八喜子(やきこ)の胸が痛んだ。

「……大丈夫だと、思います。もう、会いませんから。今日だけで」
「子供ができたら、そんな無責任なことしないよ」

(あやま)は彼女の髪をなで布団の上に横たわらせた。
耳や首すじをなで、八喜子(やきこ)の浴衣をはだけさせていく。

「あの、電気消してください」
「駄目。よく見たい」

彼の指や舌がふれるのを感じながら八喜子(やきこ)は目を閉じた。
見えないからだ。
彼はいつものようにキスをしてくれなかった。彼が彼女の中に入ってきた時も八喜子(やきこ)は、ぐっと布団を握りしめて、痛みに耐えた。体が引き裂かれるようで、思わず開けた目が、ちかちかした。彼は荒い息を吐き、激しく彼女を求めている。八喜子(やきこ)は内側から削られるようで痛かった。
どんどん気持ちも削られていく。名前も呼んでもらえない。ただただ虚しかった。もう終わったのだ、と、どこかでしていた期待はついえて消えた。

(あやま)は嬉しかった。名前を呼びたかった。いつものように何度もキスをしたかった。かわいい、と、きれいだ、と、嬉しい、と気持ちを伝えたかった。でも、と彼は考える。
それでは、またもどってしまう。終わりにしなくてはならない。道具のように、快楽だけを考えてあつかう。手を握りたかった。痛みに耐えている顔を違うものにしたかった。同時に八喜子(やきこ)を征服している、と満たされていく。どちらでも、と(あやま)は思う。彼女が苦痛に耐えていても、ともに快楽を感じていても、変わらず心地よさを感じる自分はやはり化け物なのだ。彼女の中で果てると満たされるのと同じくらい虚しさを感じた。

お腹の中で熱いものを感じ、八喜子(やきこ)は大きく息を吐いた。終わった、と思うと涙が出る。泣きやまなくては、と思ったが、とめられず涙が次から次へとあふれでる。(あやま)は手のひらで彼女の涙をぬぐった。
そのまま困ったように彼女を見ていたが彼は、また八喜子(やきこ)を求め出す。

「もうやめて……」
「俺にしてほしい、と君が言ったんだ」

(あやま)八喜子(やきこ)をかき抱いた。

「……俺の子供を産む? そうすれば、一緒にいられるよ。いっぱいしようよ。毎日でも。俺から君に会いに行く」
「やだ、もうやだぁ……」

八喜子(やきこ)(あやま)の腕の中で泣いていた。
これも呪いだ、と(あやま)は思う。ほかの男とは抵抗があってできなくなる。
強く、強く、身勝手に思う。
誰にも渡さない。


 ーー 2週間後。
目の前に差し出された薔薇の花束を見て、八喜子(やきこ)は目をぱちぱちさせた。抱えるほどの本数がある。

ここは金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)の自宅である。
放課後、まっすぐ帰宅し、バイトの雪輝(ゆきてる)が帰ってくるまで、復習と予習、いよいよもってカウントダウンが始まった資格試験の勉強に勤しんでいた。
そんな中、チャイムが鳴り、出ると目の前には薔薇の花束。そして、いつものように黒づくめの(あがま)が立っていたのだ。


 数十分後、(あがま)から教わり資格の勉強を終えた八喜子(やきこ)は笑顔で礼を言った。

「ありがとうございます!」

(あがま)は口元をゆるめる。
薔薇の花は金扇(かねおうぎ)家には花びんなどという洒落たものがなく、何かに使える、と取っておかれていた空き容器に活けられていた。
それを見て(あがま)は、また声をあげて笑う。
臨時休校が終わり、2週間。
(あがま)金扇(かねおうぎ)家を訪れるようになって同じくらいだ。
(あやま)とは、ようやく彼が寝入った明け方に逃げ出すように部屋を出てから会っていなかった。会いたいとも思わなかった。
夜になると来るのではないかと怯えていたが、(あやま)から来ることもなかった。
眼鏡を外している八喜子(やきこ)の目には変わらず(あがま)の周りに白い光が見えている。
最初に彼が訪れた時には驚いたが白い光が見えていたので招き入れた。
その時も勉強を教わったな、と八喜子(やきこ)は思い出した。
雪輝(ゆきてる)はバイトか図書館によってから帰ってくる。
だから兄は知らず、なんとなく言い出せないままだったが今日は言わなくては、と八喜子(やきこ)は思った。
勉強が終わるとお茶を飲みながら話をする。
最初は、と八喜子(やきこ)は思う。
どうして来たのか、など質問攻めにしてしまった。そうしたら(あがま)は「彼」を思い出させる笑顔で笑い、言ったのだ。質問は会話ではない、会話をしよう、と。
今では会話をしている。とりとめのない会話だが楽しいものだ。
その中で八喜子(やきこ)は知った。
(あがま)は「かや」には貧しい暮らししかさせられなかったそうだ。だから、代わりというのも奇妙な話だが八喜子(やきこ)に贅沢をしてほしいということだった。華美にならない程度であれば、と八喜子(やきこ)は承諾している。
休日に食事に誘われたこともある。
ファミレスよりは豪華だったが、いつかの高級ホテルのようではなく八喜子(やきこ)は安心して楽しんだ。
(あがま)は大人だな、と八喜子(やきこ)はたびたび思う。
立ち居振る舞い、誘い方ひとつとっても、余裕があった。ちらりと彼女の脳裏に浮かぶ誰かとは大違いだ。八喜子(やきこ)はすぐに頭に浮かんだ誰か、を思考の片隅に追い出した。
(あがま)も大切な人を失い傷ついているのだ。いつまでも追悼の色の髪と瞳、服を身につけている。
傷の舐め合いかもしれない、と八喜子(やきこ)は思った。けれども、お互いに心地よい。彼女には見えている。


 霞末(かすえ)の森。(あやま)の屋敷。書斎。
(あやま)は派手にくしゃみをした。

「埃でしょうか。すみません」

仙南(せんなん)がすぐに窓を開ける。冬の冷たい風が入ってきた。
(あやま)は礼を言い、またタブレットに視線をもどす。

(あやま)様。八喜子(やきこ)奥様をお迎えするのは、いつですか? セックスされたのですよね」

(あやま)の持つタブレットにひびが入った。

「……何で知ってるの?」
「奥様の胎内に入ってますから、わからないはずがありません。それに部屋に戻るな、とご命令がありました」
「ああ、うん、そうだね」
「奥様は生娘だったのですから責任を取ってください」
「人間みたいなことを言うね」
「教えてくださったのは、あなた様です」

ああ、そう、と返し(あやま)は黙りこんだ。そういえば、とあの夜のことを思い返す。名前を呼ばなかったし、呼ばれなかったな、と。

(あやま)様。今までの奥様たちに傷つけられたからと、八喜子(やきこ)奥様を傷つけていい理由にはなりません」

しびれを切らした仙南(せんなん)が言った。

「終わりにするのであれば、奥様が置いている服をどうなさるのか、ご確認なさってください」
「君の仕事じゃない?」

(あやま)は背を向けたまま言う。

「下着までありますが、もしも、仮に、あの八喜子(やきこ)奥様が、処分を、とおっしゃった場合、私がふれてもいいのですか?」
「ただの布でしょう? 君の仕事だ」
(あやま)様が八喜子(やきこ)奥様に直接、ご連絡なさらないなら、(あやま)様が下着を愛でていらっしゃいますが、どうしたらいいか、とききます」
「変態じゃないかっ! 俺は中身にしか興味がないよ! ……わかった。連絡する。あと、見づらいから新しいのを」

(あやま)は携帯を取り出し、画面がひび割れたタブレットを仙南(せんなん)に差し出す。はい、と返事をして仙南(せんなん)は退出した。


 金扇(かねおうぎ)家。
(あがま)を見送り玄関に鍵をかけた八喜子(やきこ)の携帯が鳴る。画面を見ると、(あやま)からだが携帯の表示は「逢魔(おうま)さん」のままだ。胸が重く苦しくなる。むかむかと吐き気もした。
通知の内容を見ると(あやま)のところに残ったままの服をどうするか、という内容だ。しつこく3回ほど「処分してもいいか」と文面に書いてある。
会いたくないんだな、と八喜子(やきこ)は思った。もったいないとは何度も思ったが、「彼」からのバイト代で買ったものだ。処分してかまわないし、こちらにある服も処分する、返信はいらない、と八喜子(やきこ)は返した。吐き気がひどくなる。
たまらず八喜子(やきこ)はシンクに吐いた。ぎりぎりと下腹部も痛む。経血が太ももを伝って流れ出した。シンクにしがみつくようにして吐き続けていた彼女は気がつかない。吐いたものの中と、足を伝う血に混ざって白い球状のものがあったことを。それは外気にさらされると灰のようにして崩れて消えた。


 霞末(かすえ)の森。(あやま)の屋敷。書斎。
八喜子(やきこ)からの返信は、(あやま)の胸にぐさり、と突き刺さった。同時に八喜子(やきこ)が「彼のもの」ではなくなったのを感じとる。彼は立ち上がると周りに溶けるようにして消えた。


 金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)はリビング兼台所の床に座りこんでいた。シンクに手をかけたが下腹部が痛くて立ち上がれない。足元には血だまりができている。
ぐっと気温が下がったが八喜子(やきこ)はわからなかった。
冷たい手が彼女にふれ、支える。
大丈夫かときかれたが、八喜子(やきこ)は痛みでぼんやりする頭で首を横に振った。「彼」によりかかりながら彼女は思う。冷たい、と。あの夜は、あの時は、あたたかかったな、と。
激しくなる痛みに八喜子(やきこ)の意識は遠くなっていった。


 雪輝(ゆきてる)が帰宅すると家の中は暗かった。
ドアを開けて最初に目に入るのはテーブルの上の薔薇の花。引き戸が開けっ放しの八喜子(やきこ)の部屋の中に(あやま)の背が見える。彼の前で布団に寝ている八喜子(やきこ)も。
シンクの前に丸まって脱ぎ捨てられた八喜子(やきこ)の服は赤茶色で汚れていた。

「おい! どうしたんだ?」
「……わからない」

(あやま)は憂いを帯びた目で八喜子(やきこ)の寝顔を見つめている。

「彼女の中に『入れて』いたものが、吐き出された。よほど、俺のことが嫌いらしい」
「嫌われることばっかりしてるからだろ。暴言は吐くわ、レイプするわ、最悪だぞ、お前。今さら花で、ご機嫌とりかよ」
「花は俺じゃないよ。兄さんだ」

そうか、と(あやま)は独り言のように言う。

「俺が邪魔なら、俺だけ消してしまえばいい。八喜子(やきこ)の心を手に入れてしまえば、消されることもない。いつから、だろう。あの時からかな」


 八喜子(やきこ)は夢を見ていた。
夢の中の自分は子供で母に甘えている。
お母さん、お母さん、と八喜子(やきこ)はきく。

王子様って、いるのかな?

いるわよ。お母さんには、お父さんがそう。

じゃあ、雪輝(ゆきてる)

雪輝(ゆきてる)は、お兄ちゃん。王子様は違う人よ。でもね、八喜子(やきこ)

なあに?

王子様が呪われたら助けるのは、お姫様。だから、ね

だから?

今日のチャンバラは凶器をもった相手を想定します! 凶器に頼って視界がせばまっているので足をねらいなさい!

はい、お母さん!



今の自分が母に甘えている。


お母さん、お母さん。あのね……しちゃった。あげちゃった。

このおバカ!


母はぴしりと八喜子(やきこ)のお尻を叩いた。


自分を大事にしなさいって、言ってきたでしょう! あんなの最悪な初体験じゃない! レイプよ! レイプ! がっついてる童貞かっ! あるいは自称肉食系かっつーのっ!

だって……今まで、いっぱい我慢させたから。いっぱい好きだって言って、見せてくれたから。

何それ? 愛はなかったのね。

……うん。何にも見えなかった。

おバカ! 八喜子(やきこ)、あんたにもよ。自分をオナホに使ってくださいって自分で言ったんだから。

おなほって、なあに?

雪輝(ゆきてる)にききなさい。
ねえ、八喜子(やきこ)。ごめんなさい、とか、かわいそう、でセックスするのは大人になってからにしなさい。あんたはまだ子供! まだ早い!
好きだから、で、セックスしなさい。

お母さん、お母さん。私、好きだよ、大好きだよ。大好きだから、もう会えないから、だから……

八喜子(やきこ)、それは誰?
あんたは誰に会いたいの?



 目覚まし時計が鳴り八喜子(やきこ)は目を覚ました。
今日は日曜日。開いたままの引き戸から見えるリビングに雪輝(ゆきてる)が布団を敷いて寝ている。
起きた雪輝(ゆきてる)と目が合う。

雪輝(ゆきてる)、おはよう。おなほって、なあに?」
「おはよう、まだ寝てていいぞ。携帯で調べてくれ」

うん、と返事をして八喜子(やきこ)は携帯をいじり出す。意味がわかると彼女の顔は赤くなった。
雪輝(ゆきてる)が引き戸を閉め支度をしている音がする。
八喜子(やきこ)は、そのまま携帯から「逢魔(おうま)さん」に連絡を入れた。会いたい、と。


 八喜子(やきこ)に呼び出された(あやま)は待ち合わせした隣の市のコーヒーショップに来た。「神さま」らしい服ではなくカジュアルな服装でサングラスをかけている。車もいつものリムジンではなく国産車だ。彼を下ろすと仙南(せんなん)が運転する車は走り去った。
店外のテラス席に座っていた八喜子(やきこ)が立ち上がる。テーブルには飲み物が、ふたつあった。

「すみません、こんなところまで」

八喜子(やきこ)は白のニットセーターにピンクのタイトスカートをはき黒いボアのショートコートを羽織っている。彼女はかけていた、縁の太い大きなレンズの眼鏡を外す。サングラス越しに八喜子(やきこ)を見て、かわいい、と思いながら(あやま)は彼女の向かいに座った。
八喜子(やきこ)(あやま)に紙袋を差し出す。紙袋は今はないR市老舗の百貨店のものだ。(あやま)は受け取らず八喜子(やきこ)へ目を向ける。

「服、返します。昨日は、うちに取りに来たんですよね?」

(あやま)は、がっくりと肩を落とした。

「俺は君みたいに生活に困窮してないから。これは?」

(あやま)はテーブルの上のコーヒーを手に取る。

「来てもらったの私ですから」
「君に奢らせるほど、落ちぶれてないよ。失礼だ」
「じゃあ、いいです!」

八喜子(やきこ)(あやま)の手からコーヒーを奪い取ると、ごくごくと飲んだが、すぐに顔をしかめ苦い、と舌を出す。
それを見て(あやま)は笑った。

「春菊も食べられない子がブラックコーヒーは無理だよ」
「……おいしくないです」

八喜子(やきこ)は自分の甘くしたカフェラテを飲んで、ほっと息をはく。
(あやま)はくすくすと笑いながら言う。

「君の服も返そう。あとで届けさせるよ」

八喜子(やきこ)は顔を赤くして首を横に振った。

「どうして? もったいないでしょう?」
「……下着もありますから」
「捨てるとしても、どうせさわるんだから同じでしょう?」
「同じじゃないです! ……あきらめます」

沈痛な面持ちで言う八喜子(やきこ)を、しばらく見つめ、(あやま)は口を開いた。

「取りに来る? 俺は、かまわないよ」

八喜子(やきこ)は暗い顔のまま、きく。

「……取りに行ってもいいんですか?」
「ああ」
「……しないですか? この間みたいに」
「君が言ったんでしょう? 俺とセックスしたいなら、そう言えばいい」
「したくないです! じゃあ、行きます」

八喜子(やきこ)は、にこにこと笑顔になる。(あやま)はテーブルの上の紙袋を見ながら言う。

「今日はこれだけのために呼んだの? わざわざ隣の市に」
「……だって、逢魔(おうま)さん、目立ちますから。R市だと誰かに見られて、また噂になるし」

八喜子(やきこ)は女子トイレで(あやま)と別れたことを(むつみ)に揶揄され号泣してしまったことを思い出しながら言った。朱珠(しゅしゅ)よりも、るる子が激怒し、ちょっとした騒ぎになった。
雪輝(ゆきてる)が意外だ、と言っていたが学年主任の野呂(のろ)から(むつみ)は淡々と説教され、あとで謝られたのだ。

「だから、普通の格好でってこと? 君から来ればよかったじゃないか。君の家でもよかったし」
「だって……この間みたいに」
「セックスすると思ったの? あれは君が俺とセックスしたいって言ったんでしょう?」

八喜子(やきこ)は顔を赤くする。
それを見て、くすくす笑いながら(あやま)はブラックコーヒーを飲んだ。八喜子(やきこ)もカフェラテを飲んでから声を発する。

「私はあんなに何回もじゃなくて、一回だけで……」
「言わなかったでしょう? 一回だけ抱いてくださいって」
「……そんなの、したことないから、わかんないです」

八喜子(やきこ)は赤い顔のまま目を伏せて言う。

「……ごめんなさい。迷惑でしたよね」
「どれが?」
「あの、その……抱いてくださいって。えーっと、おなほに使ってくださいって言われたのと同じだし」

(あやま)は飲んでいたブラックコーヒーを吹き出しそうになり咳き込んだ。

「どこで覚えたの? そんな言葉……」
「大丈夫ですか? 携帯で調べました」
「ああ、うん。携帯も便利だけど、ね。……『迷惑』」

呟くように言われ、八喜子(やきこ)は目を伏せた。その様子を見て(あやま)の胸は痛んだ。

「気持ちよかったよ。もっと濡れてくれれば最高だった」
「はっきり言わなくていいです!」
「君からきいたんでしょう?」
「知りません!」

八喜子(やきこ)は、ぷい、と横を向いた。(あやま)は無邪気に笑いコーヒーを飲み干した。ようやく気づいた八喜子(やきこ)は、はっとする。

「あの、私、それに口つけてましたけど」
「だから、まずいコーヒーでもおいしかったんだろうね」
「それは気持ち悪いです」

八喜子(やきこ)は、きっぱりと言うとカフェラテを飲み干した。
彼女がカップをテーブルにおくと(あやま)八喜子(やきこ)の手を握る。あたたかい手に八喜子(やきこ)はびっくりして(あやま)を見た。
彼は柔和な笑みを浮かべて言う。

「せっかくだから、デートしよう」
「え? でも、逢魔(おうま)さん、私のこと『いらない』って」
「わざわざ呼びつけたんだから、俺に付き合ってよ」

(あやま)はテーブルの上の紙袋を、いつのまにか側に来ていた仙南(せんなん)に渡すと立ち上がった。
仙南(せんなん)は自然な仕草で(あやま)に財布を渡す。
八喜子(やきこ)は彼に手を引かれながら歩き出した。


 八喜子(やきこ)が選んだコーヒーショップは、たまたまだったが主要駅の近くにあったのだ。映画館やゲームセンターがある。(あやま)八喜子(やきこ)とゲームセンターに入った。
八喜子(やきこ)は最初は(あやま)の散財に頭痛を感じていたが彼が効率よくクレーンゲームで景品をとると目を輝かせた。

逢魔(おうま)さん、すごいですね!」

(あやま)がとった大きな黄色いネズミのぬいぐるみに頬ずりしながら八喜子(やきこ)は笑った。

「ああ、そう」

(あやま)も柔和な笑みを返した。その彼の肩を、やや背伸びしながらガラの悪そうな男たちがつかむ。

「なんか、豪勢じゃん」
「イケメン。彼女もかわいいし。いーなー」

(あやま)はサングラスの奥の目を細めた。

「彼女じゃない」
「マジ? もらっていい?」

八喜子(やきこ)は、ずしり、と胸が重くなった。

「彼女じゃない」。そうだ、自分はー。

「妻だから、あげないよ。いいでしょう? 礼儀正しくするなら、ついてこさせてあげてもいいよ」



 貸し切りにした映画を観終わり、中崎と中里、通称がザキとサトだという青年たちは野太い声をあげた。
彼らは今、憧れていたという高めの焼肉屋にいる。

「うぉーっ!!! 霞末(かすえ)さん、マジぱねぇっす!」

霜降り牛がくるとザキは叫んだ。サトは拍手する。

「いいんすか? マジありがとうございます!」
「うん、うん。若いのに礼儀がなってて大変よろしい」

どこかの暴力教師と違って、と(あやま)は無邪気に笑った。

「おつぎします! ビールっすか!」
「ばっか、お前。お酌は奥さんいんだろ!」
「さーせん!」

八喜子(やきこ)は肉、野菜、野菜、野菜、野菜、野菜ぐらいの比率で(あやま)の皿に盛っていく。

「もうちょっと、肉が食べたいな」
「入ってます」
「ああ、そう」

八喜子(やきこ)がトイレに席を立つと(あやま)はザキとサトに声をひそめて、きいた。知りたいことがある、と。


 食事を終え店を出るとザキとサトは深々と頭を下げて礼を言った。
空は暗くなっている。彼らと別れ(あやま)八喜子(やきこ)と手をつないで歩いた。
コインパーキングに止めた車まで来ると(あやま)八喜子(やきこ)を助手席に乗せ運転席に乗りこんだ。
八喜子(やきこ)はびっくりして彼を見上げる。

逢魔(おうま)さん、運転できるんですか?」
実友(みとも)ほど、上手くはないけどね。これ、マニュアルにしなきゃよかったよ」
「マニュアルって何ですか?」
「マニュアルって言うのはね」

(あやま)は説明しながら車を走らせた。仙南(せんなん)との違いは八喜子(やきこ)にはわからなかったし、マニュアルとオートマもよくわからなかったが、(あやま)の横顔を見て、どきどきしていた。


  ー 妻だから ー


(あやま)に言われたことを思い出すと嬉しくて泣きそうになった。
けれど、あの場での冗談なのだろう、と思う。彼女の目には彼の周りに黒い色がずっと見えているからだ。
涙がこぼれそうになり、八喜子(やきこ)は慌てて窓の外へ目を向けた。
街灯や住宅がどんどん減っていく。車は山道を登り出し広い駐車場に止まった。(あやま)に言われて車をおりると空には星が見え、駐車場の端からは夜景が見える。鉄製の柵に手をかけて八喜子(やきこ)は喜びの声をあげた。

「……きれい。逢魔(おうま)さん、逢魔(おうま)さん、きれいですね!」

八喜子(やきこ)は笑顔で隣の(あやま)を見上げた。ほほえむ彼の後ろには星が輝いている。
しばらく、ふたりは何も言わず夜景を見ていた。八喜子(やきこ)の手を(あやま)が握る。

「……八喜子(やきこ)

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせ(あやま)を見つめる。瞬きがとまると、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。嬉しかった。いつも、あたりまえのように呼んでくれていた名前を、ずいぶんと久しぶりに呼んでもらえたからだ。(あやま)は彼女の頰に手をそえて、べろりとなめ、まぶたに口づけをする。

八喜子(やきこ)。君は本当に自己評価が低いね。謝ってばかりじゃないか。俺が君を好きになったことを後悔したのに。それだけじゃない。ひどいことを言ったし……」

(あやま)八喜子(やきこ)を抱きしめ髪をなでる。あたたかい、と八喜子(やきこ)は思った。

「君が捧げてくれた体も手荒にあつかった。俺はね、それでも、それが、気持ちいいんだ。最高だったよ。だから、やめられなかった」

(あやま)八喜子(やきこ)の頰に両手をそえて彼女の瞳を見る。

八喜子(やきこ)、俺は人間じゃない。『神さま』でもない。都合よく(まつ)りあげられている化け物だ」

八喜子(やきこ)が見上げる(あやま)の瞳は金色に輝いている。

「それでも、化け物の俺でも、君を好きだ。だから、駄目なんだ。俺は人間じゃない。君を愛することはできないんだ」

八喜子(やきこ)の目は彼の周りに黒い色を見せていた。夜空よりも暗い黒い色。

「化け物だから、たくさん傷つけた。許しはこわない。償いはする」

(あやま)は優しく八喜子(やきこ)の髪をなでた。彼は笑っている。でも、それは泣いているようであり、八喜子(やきこ)の好きな逢魔(おうま)の笑顔ではなかった。
暗闇よりも暗い黒い色。
逢魔(おうま)に好きになってもらえない、と自分に見えた色。
八喜子(やきこ)からの1番好き、が自分ではない、と雪輝(ゆきてる)に見えた色。
近づいてはいけない、と母に言われた色。
「怪異」たちに見える色。
濃淡の差はあれど、同じ色だ。
皆、何かが欲しくて、とらわれている。
もともともっていて、奪われたものや、最初からもっていなくて、欲しくなったもの。
欲しいものが見つかるまで、とらわれる。
まるでー。

逢魔(おうま)さん! あれ!」

八喜子(やきこ)に後ろを指差され、振り返った(あやま)は足を払われ尻もちをついた。

「痛っ! 何をー」

八喜子(やきこ)は彼の襟首をつかみ
、くちびるを重ねた。目を見開いてる(あやま)にかまわず何度も軽くふれてから舌を入れた。ためらいがちに彼も手をのばし八喜子(やきこ)の髪をなで、舌をからめる。息が荒くなり頰が上気すると八喜子(やきこ)は彼から離れた。金色に輝く瞳を見つめて言う。

「知ってます。逢魔(おうま)さんが人間じゃないこと」

八喜子(やきこ)(あやま)の襟首から手を離した。

「わかってます! いっぱい愛してくれてるの! だって、私には見えますから!」

にっこりと笑って自分の目を指差すと八喜子(やきこ)(あやま)に抱きついた。あたたかく力強い鼓動がきこえる。

逢魔(おうま)さん、好きです! 好き! 大好きです!」

八喜子(やきこ)(あやま)の頰に両手をそえ、ほほえんだ。

「大丈夫! 見えるから!」

八喜子(やきこ)の瞳は、きらきらと輝いていた。日に透かした琥珀のように輝きを放っている。

「……いいの? 俺は化け物だよ」
「知ってます。見えますから」
「ひどいことを言ったよ」
「わかってます、どうして言ったかも。見えますから」

(あやま)は頰にそえられた彼女の手にふれる。あたたかかった。

八喜子(やきこ)、君が好きだ。大好きだ」
「私の方が、もっと逢魔(おうま)さんを好きです! 大好きですから」

どちらから、ということはなく(あやま)八喜子(やきこ)はくちびるを重ねた。長いキスを終えた八喜子(やきこ)の目は(あやま)の周りに白い光を見せている。
八喜子(やきこ)は思う。
王子様の呪いは解けたのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み