第36話 cry cry crime

文字数 39,079文字

 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
日曜日で今日は雨。来客がやってきていた。
鷹司(たかつかさ)は金属バットをたずさえ征士郎(せいしろう)とともに応接用のソファに座った。向かいには主人である逢魔(おうま)と隣に八喜子(やきこ)が座っている。逢魔(おうま)は手に鉄扇を持っていた。腰を下ろすなり挨拶もせず鷹司(たかつかさ)は言う。

「一体どういうことだ?」
「まずは、俺にお目通りが叶ったことに対して何かないの?」

素早く立ち上がった鷹司(たかつかさ)が振りかぶった金属バットが逢魔(おうま)の顔の前でぴたりと止まる。八喜子(やきこ)は悲鳴をあげた。

「手加減しなかったら、お前の顔面を潰してるぞ? 見えなかったのか?」

逢魔(おうま)は無言で金属バットを軽く押す。鷹司(たかつかさ)はまた座った。

「先生! バットは人に向かって振ったらダメだって雪輝(ゆきてる)が言ってました」
「こいつは人じゃないから大丈夫だ」

八喜子(やきこ)に言われて鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らす。

「一体なんなんだ? お前が弱くなってるって色なしが言いふらしてるせいで、あちこちから『怪異』どもが移動してきてるぞ。R市内に入らないまでも近くまで来てる」
「みたいだね」

逢魔(おうま)は気のない返事を返した。

「それで、非常に不服ながら、お前のことを守れって、命令がきた」
「誰から?」
千平(せんだいら)清太(せいた)陰陽庁(おんみょうちょう)の長官だ」
「ああ、そう。謀反に対しての誠意? 今の俺は役立たずだって思わないんだね」

逢魔(おうま)は興味なさそうにソファに体を預け天井を見上げる。

千平(せんだいら)は、まだお前を『神さま』だと信仰するつもりらしい。一部は反発している」
「ああ、そうだろうね。これ幸いと俺がいなくなればいいだろうし」

言って逢魔(おうま)は深々とため息をついた。いなくなればいいのかな、と小さくもらし、うなだれる。
八喜子(やきこ)は彼の背中をさすりながら手を握りしめた。鷹司(たかつかさ)は眉をひそめる。

「なんだ? 珍しくへこんでるな」

八喜子(やきこ)が口を開く。

「先生、お兄さんがどうして、こんなことしたのか、わかりますか?」
「知るか。余計な仕事を増やしやがって本当にふざけた兄弟だな」
「だって……」

言いよどんで口をつぐんだ八喜子(やきこ)の後を逢魔(おうま)が言った。

「俺にいなくなってほしいみたいだよね。俺が弱ってるって、ばれないように棣雅(たいが)だって捕まえてあるのに。みんなにばらしたってことは俺を襲わせたいみたいだし」

扉が開き仙南(せんなん)がお茶を運んできた。鷹司(たかつかさ)はそれを見ながらきく。

「小僧の方は?」
「兄さんのところに呼び戻されたから帰った。護衛も減らすってことは俺が襲われてもいいってことだね」
「心あたりがあるのか?」
「さあ? いっつも怒られるから何で怒ってるのかもわからない」

逢魔(おうま)はため息とともに言うと、それきり黙りこんだ。しばらく沈黙が続いた。

八喜子(やきこ)を」

逢魔(おうま)は顔を上げて鷹司(たかつかさ)を見る。

八喜子(やきこ)を頼むよ。俺はいい。どのみち人間じゃ役に立たないさ。俺に会いに来るのは、その辺の幽霊じゃない」
「そうか。じゃあ、帰るか」

でも、とためらう八喜子(やきこ)の髪をなでながら逢魔(おうま)は、ほほえんだ。大丈夫、と。八喜子(やきこ)の目には彼の周りに白い光が見えていた。



 金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)征士郎(せいしろう)に送り届けられた。先に帰って来ていた雪輝(ゆきてる)が彼女を、おかえり、と迎える。

「ただいま……」
「大変だな」
逢魔(おうま)さん、ひとりで大丈夫かな?」
「大丈夫だから、ひとりになったんだろう」
「……うん」

八喜子(やきこ)はうかない顔で逢魔(おうま)の屋敷の方角へ目を向けていた。



 深夜、というには早いが遅い時間。
都内のマンションに住む(あがま)のもとに来客があった。
コンシェルジュから連絡を受けた樹楼尓(じゅろうじ)は来客を迎えに行き玄関で待つように告げる。いつものようにスーツ姿の彼はリビングに戻ると、いつもは鋭い目つきを不安げに揺らめかせながら主人にきいた。
八喜子(やきこ)奥様が来ていますが、どうされますか、と。
 広さで言えば、逢魔(おうま)の屋敷よりはせまいが、それでも充分すぎるくらい広いリビングに通され、八喜子(やきこ)は目を丸くした。リビング兼ダイニングにはカウンターキッチンが続いている。
(あがま)は挨拶をした彼女に目もくれずソファに座り本を読んでいる。
小さく笑った彼女の声に(あがま)は目だけを彼女に向けた。

「ごめんなさい。逢魔(おうま)さんはタブレットばっかりだから。お兄さんとは違うんですね」

言って八喜子(やきこ)は眼鏡のない瞳で、じっと目を凝らした。(あがま)は立ち上がり優雅な仕草で彼女の額を本の背で叩く。ぱしり、といい音が響いた。

「……痛いです」
「何の用だ」
「どうして、逢魔(おうま)さんの具合が悪いのを広めたんですか?」
「どうやって来た?」
「お兄さんのことが気になってたら見えました!」

えへん、と胸をはってこたえた八喜子(やきこ)(あがま)は質問を続ける。雪輝(ゆきてる)に気づかれぬよう部屋の窓から家を抜け出したことと、電車と徒歩だと八喜子(やきこ)がこたえると(あがま)はキャビネットの時計を見た。

「終電の時間だ。帰りは歩くのか?」
「駅に書いてあった時間まで、まだあります」
「R市まで行く電車がない」
「あっ! そうか……。走ります! 明日、学校があるから」

ぐっと両手を握りしめて言う八喜子(やきこ)樹楼尓(じゅろうじ)がすかさず言った。無理です、と。

八喜子(やきこ)奥様、4時間はかかりますよ」
雪輝(ゆきてる)にお弁当を頼めば7時半までは寝られるから……」
「走るのはやめないんですか?」

そのために今日はスカートではなく動きやすい格好に髪を結んでいるのか、と樹楼尓(じゅろうじ)はあきれながら感心した。彼は開きかけた口を閉じ(あがま)へと目を向ける。(あがま)は何の表情もうかべずに言った。

樹楼尓(じゅろうじ)が背にのせて走るのは目立ちすぎる」

言い終わると彼はソファに座った。

「そうですが……夜道は危険です。お送りします」
「お前の主人は誰だ? 私は命令していない」

言われて樹楼尓(じゅろうじ)は、下を向き謝罪の言葉を口にした。
(あがま)はまた本に目線を落としながら言う。

「泊まっていけ。始発で帰る方がましだ」
「でも……」
「寝室を私は使っていない。使ったことがあるのは弟だけだ」
逢魔(おうま)さんも(あがま)さんのところに泊まるんですね」

お前が入り浸るようになってからはない、と言われ八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせた。

「お兄さん、寂しいんですか?」

樹楼尓(じゅろうじ)は、ぎょっとして八喜子(やきこ)を見たが彼女は続けた。(あがま)は本を読み続けている。

雪輝(ゆきてる)も寂しいって言ってたから、お兄さんも、そうなんですか? あの、言ってもらわないと逢魔(おうま)さんは、わからないです。今日も……」

言って八喜子(やきこ)は口を真一文字に結び(あがま)から本をとりあげた。

「話をしてる時は、ちゃんとこっちを見てください!」

樹楼尓(じゅろうじ)の顔がさっと青ざめた。(あがま)は腕と足を組み、目だけを細めて八喜子(やきこ)を見る。緊張から不自然に早くなる鼓動と嫌な汗を感じながら樹楼尓(じゅろうじ)は見守るしかなかった。
八喜子(やきこ)は両手を腰にあて(あがま)を見る。

逢魔(おうま)さんが悲しんでました! お兄さんにいなくなってほしいって思われてるのかって! どうして逢魔(おうま)さんが具合が悪いのを広めたんですか!」

語気を強めて言い終わると八喜子(やきこ)は、じっと(あがま)の黒い瞳を見つめた。静かな瞳からは何も見えない。
(あがま)はまた時計を見る。

「そろそろ寝ろ」
「まだ教えてもらってないです!」
「独り寝が寂しいのか? 添い寝をしてやろうか?」

からかうように言われ八喜子(やきこ)は顔を赤くして勢いよく首を横に振る。それを見て(あがま)は声をあげて笑った。逢魔(おうま)によく似た無邪気な笑い方だ。
(あがま)が懐かしい、と思っているのが八喜子(やきこ)にはわかった。
やっぱり兄弟だな、と思う八喜子(やきこ)の後ろで樹楼尓(じゅろうじ)は、驚きのあまりぽかんとしている。
 使え、と言われた寝室に入り八喜子(やきこ)は、また驚いた。
自分と雪輝(ゆきてる)の部屋を合わせたのより、はるかに広い。
寝そべるのにためらいを感じながらベッドに横になると、すぐに八喜子(やきこ)は眠ってしまった。彼女の目には見えるからだ。透けている逢魔(おうま)の姿、過去の光景が。
深夜になり、やってきた雪輝(ゆきてる)樹楼尓(じゅろうじ)を起こしても八喜子(やきこ)はぐっすりと眠っていた。



 翌日。朝日を感じ目を開けた八喜子(やきこ)は見慣れない光景を見て、ぼんやりとしていた。
携帯は8時をしめしている。
それを理解すると八喜子(やきこ)は慌てて、部屋を出た。

リビングには雪輝(ゆきてる)樹楼尓(じゅろうじ)がいた。
学校、と慌てている八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)がなだめる。

「臨時休校だ。2週間は無理」
「どうして?」
「昨日の夜、誰かが校舎を壊して授業ができないそうだ。まるで金属バットで壊されたみたいに」
「そうなんだ……よかった。お兄さんは?」
「仕事だそうだ。帰れ、って言ってたけど、どうするんだ?」
「まだ教えてもらってない」
「そうか」

昼が近くなり帰宅した(あがま)雪輝(ゆきてる)は深々と頭を下げた。1週間ほど、お世話になります、と。
(あがま)は目だけを細めて雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)を見る。樹楼尓(じゅろうじ)は胃がきりきりとしながら見ているしかなかった。雪輝(ゆきてる)(あがま)の黒い静かな瞳を、まっすぐ見る。

「危ないからR市からは離れてろって鷹司(たかつかさ)先生と千平(せんだいら)すみれさんから言われてます。俺たちは『さとり』だから」

それで、と雪輝(ゆきてる)は続ける。

(あがま)さんのところなら絶対安全ですよね? 危なくなったのは(あがま)さんのせいでもあるし、八喜子(やきこ)が理由を教えてもらうまで絶対に帰らないです」

(あがま)は、そうか、とだけ返し、樹楼尓(じゅろうじ)に用意を、と言いつけて、また外出した。

「じゃ一旦、家に帰ろうか」

雪輝(ゆきてる)に頷く八喜子(やきこ)樹楼尓(じゅろうじ)が引き止めた。

「R市に入っては駄目です。必要なものは買いに行きましょう」
「いいのか?」
「断って(あがま)様に恥をかかせないでください」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)は思った。(あがま)はいい人だな、と。



 買い物を終え帰宅した3人は夕飯の支度を始めた。八喜子(やきこ)は眼鏡のない瞳を樹楼尓(じゅろうじ)に向ける。

「お兄さんは、どれくらい食べるんですか?」
弟君(おとうとぎみ)と一緒の時だけです。あなた方と僕だけですので帰られる前にすませましょう」
「そうなんですか……やっぱり寂しいんですか? 私が逢魔(おうま)さんと、ずっといるせいで、お兄さんが一緒にいられないし」

間髪いれずに樹楼尓(じゅろうじ)はこたえた。

「よくあることです。奥様たちや恋人たちがいましたから」
「……逢魔(おうま)さんの方が寂しかったりしないんでしょうか?」
「子供じゃないんだから、ほっといて、と、よく言ってます。寂しかったら、(あがま)様が大変、忙しい時にも押しかけてきますから大丈夫です」

八喜子(やきこ)は、くすり、と笑った。

「仲がいいんですね」

言って、すぐに彼女は顔を曇らせた。

「お兄さんは、どうして……」
「僕にはわかりません。何もきいていませんし、きかないのが使用人です」



 霞末(かすえ)の森。
夕闇は過ぎ、あたりは暗闇に包まれている。逢魔(おうま)は、ぼんやりと空を見上げていた。彼は草の上にあぐらをかいている。

「おい! 霞末(かすえ)! おめぇが狙われてんだから、ぼさっとしてんな!」

九尾の白い大猫の姿で棣雅(たいが)が怒鳴る。彼は威嚇の鳴き声をあげながら宙に身を踊らせる。棣雅(たいが)の鋭い爪が「怪異」と呼ばれる異形のものたちを切り裂いていく。
大蛇の姿となった仙南(せんなん)も人より大きい蛙のような異形とにらみ合っていた。多々良木(たたりぎ)が眠る木から枝がのび、もずのハヤニエのように突き刺していく。葩黒(はくろ)はゆらゆらと老人のような動きで異形のものに近づき、彼らの首をとらえると、自分の首の動きと同じく直角にひねった。
逢魔(おうま)は周りの喧騒などないかのように呟く。

「1/10 秒」

彼の視界の端にうつる木の上でギアだけがきいていた。

「何の数字だい?」
「人間に見える視覚の限界だよ。そこまでの早さでしか見えないから動けない。どんなものか、考えたことない?」

逢魔(おうま)は自分の両手を開き、そこに目線を落とす。顔には何の表情もない。

「鼓動や呼吸、血のめぐりに怪我、病気。どんな感じがして、どんな風に見えるんだろう。最初は冷たい、と言われたからつくった」

逢魔(おうま)はじっと自分の手のひらを見ている。

「それが変わった。彼女の目には、どう見えているのだろう。いつもきらきらと輝く瞳には、どう見えているのだろう」

逢魔(おうま)は手を握りしめた。

「そう思ったんだ。強く、心の奥底で。同じものを見て、同じ時を過ごしたい。俺の決して叶わぬ、叶えられない望みだ」

表情のなかった彼の瞳に悲しみが現れる。

「だから、せめて、と偽りの体をつくったんだね。弱い人間の体。やっと、わかったよ。……けれども、それは滑稽なことだった」

ゆっくりと逢魔(おうま)の口元が笑いだす。瞳は金色に輝きだした。

「弱い俺に価値はないのか。愛しい人まで俺より兄のところがいいらしい」

ぐっと気温が下がる。ギアの体が震え、吐く息が白くなった。
逢魔(おうま)はゆっくりと立ち上がる。彼を襲いにきた「怪異」たちは、足下の草と同じくぶるぶると震えだし(こうべ)をたれるように枯れていった。

「思いあがるな。立場をわきまえ慈悲をこえ」

ギアが笑い、賞賛の拍手のように手を叩く。仙南(せんなん)は鎌首をもたげ、棣雅(たいが)は伏せた。多々良木(たたりぎ)は、すべての枝をさげた。葩黒(はくろ)も地にひざをつく。彼らだけを残し異形のものたちはすべて灰のように崩れ去る。
暗闇の中に逢魔(おうま)の瞳は金色に輝き、口元にいつもの笑みはなかった。



 (あがま)のマンション。リビング兼ダイニング。
八喜子(やきこ)は神妙な顔つきで開いた教科書を見ていた。昨夜、雪輝(ゆきてる)が持ってきたものだ。彼の予定では始発、最悪、直接登校をみこしていた。

雪輝(ゆきてる)……」
「いやだ。教えない。俺の勉強が進まない」
「だって、わかんないんだもん!」
「俺は来年、受験だ。貴重な時間をとらないでくれ」

八喜子(やきこ)は、ぷうと頰をふくらませた。ふと、視界にうかない顔の樹楼尓(じゅろうじ)が入り彼に声をかける。

樹楼尓(じゅろうじ)さん! 教えてください!」

ダイニングテーブルを占拠しソファに座る家主の(あがま)に敬意をはらわない、たくましい金扇(かねおうぎ)兄妹に胃が痛くなっていた樹楼尓(じゅろうじ)は突然のことに目を見開いた。

「何をですか?」
「数学です。予習しないと野呂(のろ)先生にあてられてもわかりません」
「僕には無理です。わからない人間の気持ちがわかりません」

いつも逢魔(おうま)八喜子(やきこ)に教えている様子を思いうかべ樹楼尓(じゅろうじ)は断った。
八喜子(やきこ)は困ったように教科書をもち、閃くと(あがま)に向かって言う。

(あがま)さん、わかりますか?」

樹楼尓(じゅろうじ)はめまいがした。彼がとめるのに耳を貸さずに八喜子(やきこ)は続ける。

逢魔(おうま)さんのお兄さんなら頭がいいですよね? 教えてください」
八喜子(やきこ)奥様!」

樹楼尓(じゅろうじ)が大声を出すと、ようやく八喜子(やきこ)は彼を見た。

「失礼すぎます! おやめください」
(あがま)さんも数学がわからないんですか?」
「違います!」

(あがま)に名前を呼ばれ樹楼尓(じゅろうじ)は、姿勢を正して主人に目を向けた。

「うるさい」
「申し訳ありません。黙らせます」

樹楼尓(じゅろうじ)は深々と頭をさげた。眼鏡のない八喜子(やきこ)の目には彼の犬のようなしっぽと耳も元気がないのが見えている。

八喜子(やきこ)
「はい」

(あがま)に名前を呼ばれ八喜子(やきこ)は彼に目を向けた。(あがま)は本から目をあげずに言う。

「教えをこうなら、こちらへ来い」
「ありがとうございます!」

八喜子(やきこ)は、にこにこしながら(あがま)の隣に座った。
樹楼尓(じゅろうじ)は困惑している。



 2時間後。八喜子(やきこ)(あがま)の寝室のベッドに風呂上がりのぽかぽかした体をごろりと横たえた。
目をこらすと隣に透けている逢魔(おうま)の姿が見える。過去に彼がここで眠った時の姿だ。その横顔を見ながら、きれいだな、と八喜子(やきこ)は思った。自分よりもきめが細かく、陶器のような肌はふれるとはりがあり、なめらかですべすべしているので心地よい。長いまつ毛に艶のある髪、整った顔立ちは美しく、思わず見入ってしまう。と、同時に笑顔がみたい、と思う。
名前を呼び、笑ってくれる彼を思いうかべると胸がどきどきとした。顔が赤く、あたたかい気持ちになる。
八喜子(やきこ)は明かりを消しに立ち上がった。スイッチを押すと部屋が暗くなる。すうっと気温が下がった。
スイッチに置いたままの彼女の手を後ろから誰かがおさえた。彼女の好きなきれいな手だ。けれど今日はひんやりと冷たい。
八喜子(やきこ)が振り向くと逢魔(おうま)が立っていた。いつものように顔に柔和な笑みはなく金色に輝く静かな瞳で彼女を見下ろしている。

逢魔(おうま)さん!」

八喜子(やきこ)逢魔(おうま)に抱きついた。逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の頰に両手をそえる。
やはり彼の体も手も冷たいままだ。八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせると、にっこりと笑った。

「冷たくて気持ちいいです。寒かったんですか?」

八喜子(やきこ)は彼の胸に頰をぺたりと、くっつける。

「あたためてあげます!」

しばらくそうしていると彼女の耳に、いつもの力強い鼓動がきこえてきた。

八喜子(やきこ)
「はい!」

名前を呼ばれ八喜子(やきこ)は笑顔で逢魔(おうま)を見上げた。途端、軽々と持ち上げられベッドに押し倒される。逢魔(おうま)の手は彼女のパジャマを脱がせていく。

「きゃっ!?」
「あたためてくれるんでしょう?」
「ダメです! お兄さんのベッドです」
「俺しか使わないよ」

八喜子(やきこ)の目には、ほほえむ逢魔(おうま)の周りに、いつもの白い光が見えている。
ノックの音と、自分を呼ぶ兄の声に逢魔(おうま)は露骨に顔をしかめた。



 (あがま)のマンション。
リビング兼ダイニングのソファに足を組んで座りながら逢魔(おうま)は向かいの(あがま)に、むっとした顔で見ている。逢魔(おうま)の隣には八喜子(やきこ)が座っていた。

「片づけてきたのか?」
「そもそも、俺が襲われたのは誰かさんのせいなんだけど?」
「お前が愚かなことをしているせいだ」
「ほっといてよ。いっつも、うるさい!」
「来たのは『野良』だけか?」
「ああ、そうだよ」

淡々と表情なくきく(あがま)逢魔(おうま)は苛立ちを隠さずこたえている。

「ほかの奴らとは取り引きしたらしいな」
「ああ、そうだよ。俺にも利益のある取り引きだ。応じた彼らは今さら財産を失う危険をおかすほど馬鹿じゃなかったね」
「金ですむとは時代は変わったな」

(あがま)が愉快そうに声をあげて笑うと逢魔(おうま)は、驚きのあまり、ぽかんとした。

「気味が悪い。何で、そんなに機嫌がいいの?」

言いながら逢魔(おうま)は、ちらりと八喜子(やきこ)に目を向けた。
彼の意図が見えた八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせ、やがて怒りで顔を赤くする。

「またですか! (あがま)さんとは何にもありません!」
「いや、だって君は無防備というか」

八喜子(やきこ)につめよられ逢魔(おうま)はやや身を引いた。(あがま)が淡々と言う。

「白痴に近い無知だな」
「それは言い過ぎ……とも言い切れない」

八喜子(やきこ)は、どうせバカです、と舌を出して、ぷいと横を向いた。
(あがま)が表情のない声を発する。

「あの理解度で、よく受かったな」
「……何で知ってるの?」

首をかしげる逢魔(おうま)の袖をひき八喜子(やきこ)が言った。数学を教えてもらった、と。

「やっぱり、お兄さんと逢魔(おうま)さんの教え方って似てるんですね!」

無駄話がない分、早く終わった、と八喜子(やきこ)は続けた。

「は? どういうこと?」
逢魔(おうま)さんは話が脱線して長い時があるじゃないですか。それです」
「そっちじゃなくて、兄さんが君に数学を教えたの?」
「だって、雪輝(ゆきてる)がいやだって言ったんです。自分の勉強が進まないって」
「ああ、うん。雪輝(ゆきてる)君のその気持ちはわかるよ。……八喜子(やきこ)、君はそろそろ寝る時間だね」

逢魔(おうま)は彼女の髪をなで優しく頰にキスをした。おやすみ、とほほえまれ、八喜子(やきこ)は顔を赤くして、おやすみなさい、と逃げるように部屋にもどった。

「兄さん」

怒り、とも悲しみともつかない顔で逢魔(おうま)(あがま)を見すえる。(あがま)は目を細めた。

八喜子(やきこ)は、お前が悲しむようなことをした理由を教えろ、と押しかけてきた。お前のことばかりだな」

口元をゆるませた(あがま)逢魔(おうま)は、ぽかん、とした。

「数学の話をしているのに、お前なら、ああする、こうする、教え方が似てると、(あやま)のことばかりだ」

ほとんどきいていないから、わかるはずがない、と(あがま)は小さく笑いながら言う。

「学がない、と言わないのか?」
「400年くらい前のことを今さら言われるとは思わなかったよ。それ、俺が、かやに言ってたことだよね?」

そうだな、と(あがま)は頷く。
逢魔(おうま)は険しい顔つきになり疑問を口にした。彼の瞳は金色に輝いている。

八喜子(やきこ)は『かや』なの?」
(あやま)

(あがま)は目を伏せる。

「かやは死んだ。死んだ人間は生き返らない。よく知っているだろう」

お前は、と(あがま)は黒い静かな瞳を逢魔(おうま)に向ける。

「私の愛を疑うのか? よく言ったはずだが。(あやま)はかわいい愚かな弟だ」

疑われるようなことしてるじゃないか、と逢魔(おうま)は、すねたように横を向く。

八喜子(やきこ)に疑うな、と言うなら、お前も八喜子(やきこ)を疑うな」

逢魔(おうま)は、横を向いたまま、はいはい、と気のない返事を返す。
(あがま)樹楼尓(じゅろうじ)を呼ぶ。カウンターキッチンの奥で樹楼尓(じゅろうじ)は痛む胃をおさえていたが、ほっと息を吐き出し返事をした。


 翌日は火曜日。
秋、というよりは冬のような気候だった。
まだ朝の早い時間。
(あがま)のマンションでダイニングテーブルに座りながら、雪輝(ゆきてる)は向かいの逢魔(おうま)に念を押す。

「本当にR市にもどって大丈夫なのか?」
「ああ。ぜんぶ片づいたよ」
「今日は火曜だぞ? お前が兄貴に言いふらされたのが日曜だろう? 早くないか?」
「この情報化社会で対応が遅いと生き残れないよ」

逢魔(おうま)はくすくすと笑って言う。彼は寝室のドアへと目を向ける。

八喜子(やきこ)が起きたら帰ろう」
「本当に大丈夫なんだな? この間みたいに、また来ないのか?」

ソファで本を読んでいた(あがま)が立ち上がり雪輝(ゆきてる)につかみかかる。白い光がはじけ、(あがま)の手は雪輝(ゆきてる)にふれることはできなかった。(あがま)はいつもの通り黒ずくめの格好で顔には何の表情も見られない。

「これで納得したか? 弟以外はお前たちに危害を加えられない」

雪輝(ゆきてる)は頷き、逢魔(おうま)は不満をもらす。

「まるで俺が八喜子(やきこ)たちに危害を加える気があるみたいじゃないか」
「昨晩、何をしようとした?」

(あがま)は目だけを細めて逢魔(おうま)の明るい色の瞳を見据える。逢魔(おうま)はぐるりと視線をめぐらせ、何も、とこたえた。雪輝(ゆきてる)がいすを倒して立ち上がり逢魔(おうま)につかみかかった。

「お前! ふざけんなよ! 俺の妹を大事にしないなら返せ!」

逢魔(おうま)は、いとも簡単に雪輝(ゆきてる)の手首をつかんで自分から引き離す。(あがま)は表情のないまま雪輝(ゆきてる)にきく。

「『さとり』、何がきこえた?」
「言えるか! お前は本当に何も変わらないんだな!」

雪輝(ゆきてる)は手首をつかまれたまま暴れ、逢魔(おうま)をにらみつける。

「化け物のままだ!」

逢魔(おうま)の瞳が金色に輝き、不快な音が雪輝(ゆきてる)の耳にとどいた。


 大きな音を耳にして八喜子(やきこ)は目を覚ました。何が起きているのか不安で鼓動が早くなる。彼女は恐る恐るリビングへのドアを開けた。
(あがま)逢魔(おうま)が対峙しており、(あがま)逢魔(おうま)の両手首をつかみ、その横で雪輝(ゆきてる)が床にへたりこんでいる。
八喜子(やきこ)はドアにしがみつくようにしたまま動けなかった。彼女の目には見えている。(あがま)の周りに見えるのは白い光。逢魔(おうま)の周りには暗闇より黒い黒。

「……何がわかる」

逢魔(おうま)の目は金色に輝いている。彼の顔はいつものように笑っていなかった。(あがま)に抑えられた彼の手は震え、かなり力が入っているのがわかる。

「『さとり』だからって、何がわかる? 君たちには……わからない。君たちには、絶対にわからない。……人間なんか」



       『悲しい』『俺には』
 『寒い』『言ってはいけない』
   『苦しい』『もう……』『化け物だ』
 『寂しい』『怖い』『できない』


逢魔(おうま)の目から金色の輝きが消える。彼の手からも力が抜けた。目を伏せて逢魔(おうま)は静かに続けた。

「人間なんか好きにならなければよかった。俺の静かな生活を返してくれ。君たちは、いつだって無責任にいなくなるのだから。だからー」
「落ちつけ。言うな」

(あがま)の静かな声に逢魔(おうま)は首を横に振り、力なく言った。

「だから、もういらない」

逢魔(おうま)は目を伏せたまま繰り返した。



『できない』『俺には』『化け物だ』
   『泣かせて』『俺は』『苦しめて』



「もう、いらない。いらないんだ」

八喜子(やきこ)の視界がぐらぐらとした。

「……逢魔(おうま)さん」
「違うよ。俺の名前はー」


  『できない』『俺には』『化け物だ』
『もう駄目だ』『俺は』『もう無理だ』
 『俺には』『俺には』『化け物の俺には』


逢魔(おうま)は彼女を見もせずに口を動かす。

(あやま)だ。逢魔(おうま)じゃない」



      『愛せない』



彼の周りには暗闇が見えている。
冷たい、と八喜子(やきこ)は思った。今の逢魔(おうま)には何のあたたかさもない。彼女には、それがわかった。

「……わかりました。雪輝(ゆきてる)、帰ろう」

八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)の手をひっぱった。

「いいのか?」
「うん。……(あやま)さん」

八喜子(やきこ)が声をかけたが(あやま)は目を伏せたままだ。
どちらを言うべきか八喜子(やきこ)は迷わなかった。

「ありがとう」

返事を待たずに八喜子(やきこ)(あがま)に礼を言い、雪輝(ゆきてる)と外に出た。
ドアが閉まると涙があふれだす。
帰宅するまで奇異の目を向けられても八喜子(やきこ)は泣き続けた。


 ドアが閉まった音がすると(あやま)は力なく、いすに座った。
(あがま)は腕を組み、彼を見下ろす。

「いらないのか?」

(あやま)は、うなだれたまま頷く。彼はそのまま泣きそうな声を発した。

「兄さん……」
「何だ?」
「仲良くしようよ。俺が間違ってたのはわかったから。ふたりだけの家族じゃないか」

(あがま)は軽く(あやま)の頭を叩きながら言った。

「たったひとりの弟だ。見捨てはしない。安心しろ」



 夜になると寒さが一段と厳しくなる。
八喜子(やきこ)は布団に横になり期待していたが彼は来そうにないことがわかると、また泣いた。
雪輝(ゆきてる)に何度も謝られたが悪いのは自分だと思う。
逢魔(おうま)は「無責任に」先に死ぬ自分を愛している、と何度も言い「見せてくれた」。
それなのに人間ではないことに起因する彼の不安や恐怖、苦しみを「さとり」のくせにわからなかった。
ただ一緒にいる心地よさにだけ甘えて、優しさによりかかり、より一層苦しめた。
自分がいなくなったあとにも変わらずに、ずっといる家族との喧嘩の原因も、そのせいだ。
彼は「いらない」と言った。
逢魔(おうま)」ではなく「(あやま)」であることを選んだのだ。
昨夜の彼の手は冷たかった。
先に八喜子(やきこ)が死ぬという不安と恐怖、悲しみと本能的な欲望から自分を犯そうとしていたのはわかった。
いつもも心の奥底にうかばないでもなかったが、いつも彼自身の自分を思う気持ちでおさえこんでくれていた。
だから、昨日も大丈夫だと思った。
上気していた頰に冷たさが心地よかったのは事実だ。冷たくとも、どこかには自分への思いがあった。
けれど、「いらない」と言った彼にはもうなかった。
もう少し。もう少しだけでも自分が大人だったら。
逢魔(おうま)の悲しみや苦しみによりそえれば、と悲しくて、悔しくて、腹立たしくて、たまらなかった。


 翌朝。
金扇(かねおうぎ)家を訪ねてきた鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)の顔を見て驚きの声をあげた。まぶたがはれている。
雪輝(ゆきてる)が説明すると、ふたりは嬉しそうに言った。

「つまり、フラれたってことか」
「解放、おめでとうございます」

雪輝(ゆきてる)は暗い顔をする。

「祝えないです」
「なんでですか? いらない、なんて、どれだけ上から目線で物扱いしてるんですか? 言ったら駄目です。もう終わりでしょう。それに」

八喜子(やきこ)はうつむいたまま話をきいている。矢継早(やつぎばや)はけらけらと笑った。

「昨夜は豪遊してたらしいですよ。きれいなお姉さんたちのいるお店で。切り替え早いですね」
矢継早(やつぎばや)。黙っとけ」

鷹司(たかつかさ)に言われ矢継早(やつぎばや)は、はいはい、と返事をした。鷹司(たかつかさ)は頭の後ろで腕を組む

「どうするか、だな。せっかくの臨時休校だ。R市にはしばらくいない方がいい。旅行でも行くか?」

矢継早(やつぎばや)がばんざいをする。

「いいですね。温泉でも行きますか? 鷹司(たかつかさ)さんのおごりで」
「経費で落とすに決まってるだろう?」
「……鷹司(たかつかさ)先生」
「なんだ?」

八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)に手をつきだした。

「領収書、ちゃんともらってくださいね。いつもみたいに、なかったら駄目です」
「細いこと言うな」
「細かくないです」


 お昼というには遅すぎて夕方というには早い時間。矢継早(やつぎばや)の運転する車で八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)鷹司(たかつかさ)は出かけた。目的地は関東近郊の温泉地だ。
高速道路を走る車の中では沈黙が続いていた。助手席の鷹司(たかつかさ)は寝ており後部座席の雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)はお互いに窓の外を見ている。
車がサービスエリアに入る。トイレにおりた矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)は無言で一緒に歩いていた。用を足し手を洗っていると鏡を見ながら八喜子(やきこ)が口を開く。彼女のまぶたはまだ腫れていて眼鏡は忘れてきたのでない。

「あの、ありがとうございました」
「いえいえ。一体なんのことかわかりませんが、どういたしまして」

八喜子(やきこ)が鏡ごしに見ると、矢継早(やつぎばや)はいつもの黒いスーツ姿でけらけらと笑う。

斗瀬(とせ)先輩のことです。特課(とっか)のお仕事が危ないことだってわかってくれましたから」
「心霊スポットめぐりならいい、と思って懲りてはなかったですけどね。鷹司(たかつかさ)さんに散々ゲンコツ落とされたのと生徒指導の先生にみっちり怒られたから、もうしてないといいですね」
「げんこつ……」

痛そうだな、と八喜子(やきこ)は思った。

矢継早(やつぎばや)さんはスーツのままなんですね」
「動きやすいのと『奥様』の護衛扱いですからね。途中で変わるかもしれませんが。まだ連絡きませんね。霞末(かすえ)のゴリラは言ってないんですか。未練たらたらじゃないですか」

矢継早(やつぎばや)は携帯をみながら矢継ぎ早に言った。


 陰陽庁(おんみょうちょう)
都内のビル街の一角にある陰陽庁(おんみょうちょう)は正門があり施錠されている。通勤時間は開放し警備部員が立っている。正門を抜け入口を入るとすぐ横には警備室があり複数の警備部員が室内外で目を光らせていた。首から身分証を携帯していなければ入ることはできない。
部署替えにより出入口の警備室に配属された雲母坂(きららざか)は今日は警備室の外に立ち時間帯としては開かない自動ドアを見つめていた。不意に自動ドアが開き、入ってきた男を見て彼は顔をひきつらせる。見上げるほど背が高く整った顔立ちに浮世離れした、ゆったりとしたデザインの服。明るい髪と瞳をもつ「霞末(かすえ)の色つき」と呼ばれる人ならざるものは柔和な笑みをうかべて言った。長官をよべ、と。


 長官である千平(せんだいら)清太(せいた)はノックをして応接室に入るなり深々と頭をさげた。彼の息子である清一郎(せいいちろう)とほかの部下たちも、それにならう。
清太(せいた)だけが(あやま)の向かいに座り、ほかの部下たちは訪問者の使用人と同じく立っている。
この場にいる人間は皆、一様に黒いスーツ姿だ。
(あやま)清太(せいた)に笑いかける。

「俺を役立たずの神に成り下がったと判断しなかったのは賢明なことだね。まったく役には立たなかったけれど、護衛をつけようという誠意はくんであげるよ」

(あやま)は恐縮の言葉をのべる清太(せいた)に、ひらひらと手を振ってみせる。

「だから、見逃してあげる。君の兄弟と息子が謀反を企てていたんだろう?」

ぴりり、と張りつめた空気の中に(あやま)のくすくすと陽気に笑う声が響く。

「あれだけのことに千平(せんだいら)が、まったく関わっていないなんて、おかしいからね。警備部長は実務と雑務をこなさせられる人形で発言力があるのは君の兄弟。ほかにも若い機動隊員たちを甘言で騙したのは同じく若い世代の人間だ」

かわいそうに、と(あやま)は楽しそうな声を発する。

「ほとんどの隊員が自ら命を断つなんて。若いんだから、そんなに思いつめなくてもいいのにね」
「申し訳ありませんでした」

清太(せいた)は深々と頭をさげる。

「やっぱり正妻の子はかわいいの? 俺にはわからないな」

化け物だから、とぼやくように言い、(あやま)は立ち上がった。

「用は済んだ。見送りはいらない」

ドアが閉まるまで清太(せいた)は頭を下げ続けていた。
沈黙を破ったのは清太(せいた)だ。
どうしてばれた、という彼に清一郎(せいいちろう)がこたえる。

「金をばらまきました。自分を襲わない代償として取り引きしたようです。同じく金を貯めこんでいる『怪異』たちと」
「それで情報も買ったようだな。あれが弱っているというのは虚偽の報告だったのか」

清太(せいた)はため息混じりに言う。

「そういった件に関しては鷹司(たかつかさ)は信用できます。おそらく霞末(かすえ)の色つきが騙したのでしょう」
「私の対応を見るためか……本当に賢い『神』だ」

清太(せいた)は今のことは他言無用、と一族のものたちでもある部下たちに言い放った。


 仙南(せんなん)の運転で都内を走る車の中で(あやま)は物憂げに外を見ていた。
もうひとつ、告げておかなければいけないことがあったが言えなかったからだ。
出かける前に兄から口うるさく「言え」と、言われていたが、いざ、その時がくると、どうしても言えなかった。
兄から仙南(せんなん)に告げられないように最深の注意をはらったのも、なんだか情けなく滑稽だ。
横の空いた空間に自然と手でふれてしまう。だが、誰もいない。
もうすぐ1年。隣にいてくれるのが、あたりまえになるには充分だった。
ああ、でも。と(あやま)は思う。
やはり自分は「化け物」であり「人間」のように八喜子(やきこ)を愛せはしない。
「さとり」の雪輝(ゆきてる)が言ったのだ。踏みとどまれたが自分は、やはり「化け物」。
決して同じにはなれない。同じものは見れない。

「よろしかったのですか?」

車が信号で止まると仙南(せんなん)が言う。

「何が?」
八喜子(やきこ)さんが『奥様』ではなくったのでしょう。樹楼尓(じゅろうじ)さんから、ききました」
「ああ、そう。本当に君たちは優秀だ」
「ありがとうございます。それで、伝えなくても、よろしいのですか?」

逢魔(おうま)はしばらく沈黙ののち、口を開いた。

「……今までも急にほっぽりださなかったんだし、準備が整ってからでいいんじゃないか。うん、いいと思う」
「かしこまりました。早急に手続きをすませます」

仙南(せんなん)に、すぐさま(あやま)は言った。

「いや、ゆっくりでいいよ、ゆっくりで。時間はどうせ、たくさんあるんだし」
(あやま)様」
「何?」
八喜子(やきこ)奥様と、きちんとお話になってください。双方、納得せずに別れられますと大変、面倒なことになります。それとも、また」

記憶を消されるのですか、と仙南(せんなん)は続ける。

八喜子(やきこ)奥様は『さとり』です。記憶を消されても『見る』でしょう」
「納得ならしてるよ。だって何にも言ってこなかったからね。『わかりました』って、それだけで……」

顔を見れなかったな、と(あやま)は思った。仙南(せんなん)は感情をにじませない声で続ける。

(あやま)様は『いらない』と、おっしゃったんですよね。よく殴られませんでしたね」
「それは俺も思った」

信号が変わり車が走り出した。(あやま)はひとり言のように言う。

「それと、なんて言ってたんだっけ……ああ、そうだ」

ありがとうだった、と。言って、(あやま)は、うめき声のような、ため息をついた。

「なんで、あの子はこうもかわいいんだろう。それが余計に、抗いがたい」

(あやま)は、また窓の外に目を向けて考えた。泣かせてしまっただろうし、今も泣いているだろうか、と。



 B市。関東近郊の温泉旅館。
老舗でありシーズン中の宿はにぎわっていた。周りの山は紅葉している。
八喜子(やきこ)たちがついたのは夕飯の時間だ。卓の上に並んだ料理を見て八喜子(やきこ)は歓声をあげた。

「すごい! はじめて見ます! 先生、ありがとうございます!」

それをきいて矢継早(やつぎばや)が、けらけらと笑う。

「領収書をもらって帰らない前提で、お礼を言ってますよね、それ」
「ねえねえ、雪輝(ゆきてる)! 火がついてる! これ紙なのに、なんで燃えないの?」

八喜子(やきこ)は隣の雪輝(ゆきてる)の袖を引いた。

「……元気だな」
「え? だって昨日、いっぱい泣いたし」

目をぱちぱちさせて言う八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は、ぽかんとした。

「いいのか、それで」
「だって逢魔(おうま)さんが、もう、どこにもいないんだもん。……本当に、どこにも」

八喜子(やきこ)は、まだ腫れぼったい目をふせる。

「だから、いくら嫌だって言っても、きいてくれないよ。もう、逢魔(おうま)さんじゃないから」

八喜子(やきこ)は、ぱっと笑う。

「早く食べよう! 冷めちゃうよ」
「そうしましょう。では」

矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)でグラスを用意する。

「「かんぱーい!」」

かちり、とグラスが鳴った。



 食事を終え、しばしくつろいだ後、八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)と温泉に向かった。

「天然の温泉かけ流しなんですね! ……かけ流しって何ですか?」

脱衣所で服を脱ぎながら矢継早(やつぎばや)にきくと矢継早(やつぎばや)は矢継ぎ早に説明をした。

「要は、たくさんお湯がわくから、無駄使いできるってことですね」
「無駄使い……」
「暗い顔しないで、さあさあ、入りましょう!」

彼女に背中をおされ八喜子(やきこ)は、がらり、と引き戸を開けた。
洗い場の奥に様々な種類の浴槽が並び奥には露天風呂に続くガラス戸がある。

「すごい! 温泉って初めて来ました!」
「よかったですね」



 露天風呂に入り星空をながめ八喜子(やきこ)は、目を輝かせた。
向かいは山で暗くなければ紅葉が一望できる。今は暗闇におおわれていた。
露天風呂は岩づくりで竹の柵の向こうには男湯がある。ゆっくり入っていたため、ほかに人の姿はない。

「すごい。星って、こんなにきれいに見えるんですね」
「R市も見える方ですが、さすが山の近くです」

矢継早(やつぎばや)も、にこにことしながら星空を見上げた。

「しかし、やっきー。うかびますね」
「え?」

八喜子(やきこ)は顔を赤らめて胸を腕でおさえた。

「女同士、気にしない。気にしない。ちょっとさわってみてもいいですか?」
矢継早(やつぎばや)さんだって、あるじゃないですか! 朱珠(しゅしゅ)ちゃんみたいに谷間をつくらなくてもあります!」
「人並みにはありますけど、これはすごいですね。普通、胸が大きいとにゅー」
「言わなくていいです!」



 きゃあきゃあ騒いでいる2人の声を隣の男湯で柵越しにききながら鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)に言った。

「女はたくましいな」
「……そうですね。先生。俺、逢魔(おうま)に謝りたいです」
「謝るってのは自己満足だぞ」
「……そうですね。よかったんですかね」
「お前らの母親が言ってた。『呪われたお姫様を助けるのは王子様だ』ってな。できないなら失格だそうだ」

失格だったんだろう、と鷹司(たかつかさ)は夜空を見上げた。雪輝(ゆきてる)も、それにならいながら言う。

「……いっつも、そうやって、あいつにばっかり助けさせてたのも悪かったんじゃないかって思います。人間じゃないのはわかってたのに、人間らしくしろ、って。あいつらって」

人間をおもちゃみたいにするんですね、と雪輝(ゆきてる)は神妙な顔つきで言う。鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らす。

「おもちゃなら、いい方だ」
「みたいですね。それでもまだ、あいつは『神さま』だから、もっとましだった。八喜子(やきこ)は」

雪輝(ゆきてる)は、ざばりと両手をお湯から出し顔をおおった。

「なんで平気なんだ!」

隣からはあいかわらず楽しそうな声がきこえている。鷹司(たかつかさ)は笑った。

「女はたくましいな。雪輝(ゆきてる)
「はい」

雪輝(ゆきてる)は手の間から返す。

「風呂に入る前までに八喜子(やきこ)が『奥様』じゃなくなったって連絡が来てない」
「そうなんですか」
「遅すぎる。つまり、逢魔(おうま)の奴に、まだ未練があって八喜子(やきこ)にはないとすると」

雪輝(ゆきてる)は手をおろし鷹司(たかつかさ)の真剣な目を見た。

「面倒なことになるぞ。逢魔(おうま)は話が通じないし引かないだろう」
「……食われるんですか?」
「さあな。どうなるか、本当にわからん」

鷹司(たかつかさ)は最低ラインは子供を産まされるんじゃないか、と続け雪輝(ゆきてる)の顔から血の気が引いていった。

「やっぱり、俺、謝ってきます! 八喜子(やきこ)にも考え直してもらう!」
「本人たちの問題だから、どうにかできると思わない方がいい」

あきらめろ、と言われ雪輝(ゆきてる)の視界はぐらぐらとした。



 同時刻。(あがま)のマンション。
食事を終えた(あがま)(あやま)はソファに座っていた。

「今日は出かけないのか?」
「ああ、うん。昨日は碕等(さきら)の招待でしょ? 俺への接待というか、彼はまめだね」
「だからこそ、付き合いが長いのかもしれないな。(あやま)

(あがま)の声音も表情もいつものものだったが、(あやま)は姿勢を正した。

「さとりの娘のことを、なぜ言ってこなかった」
「あー、それは……兄さん。『さとり』って俺たちと子供をつくれるんだ。だから……」
「そうだな。だから?」
「だから、ほら。食べたくなっちゃうんだって。食べられたらかわいそうだし、望まない妊娠もかわいそうだし、だって元……」

(あやま)は目を伏せた。

「元妻、だから。俺は『神さま』なんだから、関わったあと幸せにしてあげなきゃ。だから、守ってあげないと。今までだって、そうだったでしょう? だから、まだ……兄さん」

(あやま)はくすくすと笑う。

「兄さんが流したデマのせいで、俺を狙ってる奴がいるかもしれないでしょう? 落ちつくまでの間だよ。準備もあるし。このまま放り出したら、あの子は留年だからね」
「まだ会うのか?」
「会ってどうするの? 会ってー」

(あやま)は目を伏せた。

「化け物だと言われたら、殺してしまうかもしれない。彼女には見えるんだ。……死んだらさ」

(あやま)は、ほほえんだ。

「食べにいくよ。約束したから。それだけは、まだ残ってる。兄さん」

(あやま)の顔から笑みが消える。

「俺は馬鹿だ。兄さんの言う通り、最初から人間の真似など、しなければよかった。所詮、偽りだ。人間にはなれやしない」

よくわかったよ、と(あやま)は自分の足にひじをつき、頭をかかえた。
(あがま)は変わらず表情のない瞳と声を(あやま)にむける。
頑張ったな、と。



 八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)が旅館の部屋に戻ると布団が敷いてあった。鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)は隣の部屋だ。浴衣姿の八喜子(やきこ)は行儀悪く布団にとびこみ足をばたばたさせる。

「ふかふかで気持ちいい!」
「やっきー、パンツ見えますよ。わりと派手なの、はいてますね」

顔を赤くし八喜子(やきこ)は慌てて裾を直し正座した。

「……派手ですか?」
「レース部分が多くて、けっこう刺激的なデザインですね。自分で選んだんですか?」

赤い顔のまま口ごもる八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)は、けらけらと笑った。

「元彼が、そういう趣味だったんですね。あるあるです。なんですかね、あのギャップがいいとかで下着を派手にさせる趣味は」
矢継早(やつぎばや)さんも、あったんですか?」
「さあ、どうでしょうね。疲れたでしょう。寝ましょうか」

はい、と八喜子(やきこ)は明かりを消しに立ち上がった。
明かりを消し布団に横になるとカーテン代わりの障子ごしに月明かりがぼんやりと部屋を照らす。
光の単位はルクス。八喜子(やきこ)は、月明かりほどの明るさがよく眠れる、と逢魔(おうま)が長々と話していたことを思い出した。
まとまらない、様々な思考が彼女の頭にうかんでくる。

矢継早(やつぎばや)が優しい、と思う。それは逢魔(おうま)と別れたからだ。また、姉のように仲良くできるだろうか。

鷹司(たかつかさ)の機嫌もいい。逢魔(おうま)と自分が離れたことに安堵している。できることなら人間と、と、ずっと思ってくれていたからだ。

雪輝(ゆきてる)だけが悩んでいる。怒りにまかせて逢魔(おうま)を傷つけたことを後悔しているが、許しがたいことだと葛藤している。
雪輝(ゆきてる)が、怒ったのは逢魔(おうま)八喜子(やきこ)を傷つけても自分の欲望を押しつけようとしたからだ。彼には「きこえる」。

逢魔(おうま)の生まれもった性質上、仕方のない欲望であり、思うだけなら、よくある。八喜子(やきこ)には見えていた。一昨日ほど強く思っていたことはない。

それでも、と八喜子(やきこ)は思う。一昨日も落ちついたら、いつものように迫ってはきたが、八喜子(やきこ)がまだ受け入れられない、と伝えれば、かなり不満をもらしたり、どうにか言いくるめようと色々と言葉をつくすが、しない。
八喜子(やきこ)には「見えている」。

だから、と彼女は思う。
逢魔(おうま)が深く絶望していたように、もう駄目だ、とも、もう無理だ、とも、思えなかった。
信頼と敬愛する兄の(あがま)に死を望まれているのかと、深く悲しんでいたせいもある。
深い暗闇の思考に沈んだ彼は「(あやま)」でいることを選んだ。
(あやま)」が1番に考えるのは兄のこと。女性と親しくなるのも長くて2年。

壁がある、と八喜子(やきこ)は思った。
あの場で泣いて嫌だと伝えれば、なぐさめはしてくれたのだ。
けれど、それだけ。変わらない。変えられない。
八喜子(やきこ)には「見えた」。

また涙がひとすじ、落ちた。
手のひらでぬぐうと八喜子(やきこ)は深く呼吸を繰り返した。
泣くのは昨日で終わり。
いつものように、なぐさめてくれる人はいない。自分で泣きやまなくてはいけないのだ。



 まぶたの裏に朝日を感じ、(あやま)は目を覚ました。見慣れぬ都内の兄の家、その天井を見上げながら携帯に手を伸ばす。いつもより、はるかに早い時間だ。
どこかで期待していた通知はない。
未練がましい自分を滑稽に思いながら、その程度だったのか、と悲しくなる。その程度にしかなれなかった、とも。


ずっと。ずっと兄のようになりたかった。
兄のように、誰かを愛したかった。
兄のように、誰かから愛されたかった。
生まれた時から俺にはいない。
父であり母のような花果邏(かから)ですら愛してはくれなかった。
知らない。できない。
兄のようにはできない。
どれほど悲しくとも涙すら流せない化け物だ。



 携帯が鳴り八喜子(やきこ)は目を覚ました。見ると仙南(せんなん)からで未払いのバイト代を渡したいので、いつがいいか、という連絡だ。
寝ぼけた頭で今、旅行中であると伝え八喜子(やきこ)は、まだ早い時間に安心し二度寝をすることにした。
矢継早(やつぎばや)はまだ寝ている。八喜子(やきこ)は携帯の電源を落とした。



 (あがま)のマンション。
(あがま)の寝室。
ノックの音がして返事を待たずにドアが開く。きっちりとスーツを着た仙南(せんなん)が入ってくると(あやま)は体を起こした。彼の顔には珍しく焦りの表情がでている。

「どうしたの?」
八喜子(やきこ)奥様が、今、どちらにいるかわかりますか?」
「帰ったんだから家じゃない? 探せばわかるけど、なんで?」

仙南(せんなん)は携帯の画面を(あやま)に見せた。
「旅に出ます。帰ることができたら、連絡します。さようなら」という文面が目に入る。

「まさかとは思いますが、悲観されて早まったことをされているのでは、と!」

声を大きくする仙南(せんなん)(あやま)は笑いながら、ひらひらと手を振る。

「そんなお金を使わないと思うよ。待って。今、どこにいるか探して……」

(あやま)の顔から笑みが消える。

「自殺の名所の近くだ。なんで、そんなところに……」

すぐさま仙南(せんなん)八喜子(やきこ)に電話をかけたが彼の耳には無機質な音声がとどいた。おかけになった番号は電源が入っていないか電波が届かないところにあります、と。

「電源を切られたか電波が届かないところにいます!」
「山の中の崖だけど、まさか……」
「早く行ってください!」
「いや、でも……」
「私の給与の計算を自分でやって確かめる、あの八喜子(やきこ)奥様が未払いのバイト代に、こんな返事を返すのはおかしいです!」

ぎょろりと目をむいて言う仙南(せんなん)に気圧され、(あやま)は頷くと周りに溶けるようにして消えた。

旅館の一室。すっと気温が下がり(あやま)が現れた。彼の足下の布団の中で八喜子(やきこ)は気持ちよさそうに寝ている。八喜子(やきこ)の姿を見て(あやま)は安堵した。
ひざをつき顔にかかった髪をはらう。
いつもように、綺麗な顔だ、と思う。
空を切って黒い縄が彼に振り下ろされる。(あやま)八喜子(やきこ)から目を離さずに、それを受け止めた。ぐるりと手首を回し手の平に巻きつける。柔和な笑みをうかべ(あやま)矢継早(やつぎばや)を見た。

「これだけで君を殺すには充分な理由だよ」

矢継早(やつぎばや)はつかまれた縄をはずそうとしたが、びくともしなかった。彼女は(あやま)をにらみつける。

「夜這い、朝這いですかね? 朝這いしようっていう不埒者に、どんな理由があるんですか?」
「不敬、だね」
「化石くらいの年齢のくせに世間知らずのおバカな女子高生に淫行はたらく奴の何を敬うんですか? 別れたんでしょう? 物みたいに『いらない』って。やっと普通の生活できるんですから、邪魔しないでください。化け物のあなたには、わからないでしょうが、離れるのも愛なんですよ」

八喜子(やきこ)が目を開けそうになり(あやま)は姿を消した。
矢継早(やつぎばや)は、ふう、と息を吐き八喜子(やきこ)を見下ろし、にっと笑う。

「おはようございます」
「おはようございます」

八喜子(やきこ)も笑顔を返した。



 (あがま)のマンション。(あがま)の寝室。室温がすっと下がる。
姿を現した(あやま)仙南(せんなん)がつめよる。

「どうでしたか!」

(あやま)は、がっくりと肩を落としてベッドに腰かけた。

「……なんか、普通に旅行してた」
「そうですか。よかったですね」
「うん、まあ、そうなんだけど。そうなんだけど……もっと早く別れたら、よかったのかな」
「今まで通りのペースです」

仙南(せんなん)は、いつもの調子でこたえた。

「そうじゃなくて、八喜子(やきこ)が平気なら……平気な程度の存在にしかなれなかったなら、もっと早くてよかったってことだよ」
「そちらも今まで通りです。皆さま、お怒りになる理由は経済的なものでした」

仙南(せんなん)は、いつもように朗々とこたえる。
本当に彼らは傷心の自分を気づかわないな、と(あやま)は思った。


 朝は旅館のレストランで朝食となる。バイキング形式だ。
並んで食べている八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)を見て鷹司(たかつかさ)が言った。

「修学旅行か」

ふたりはジャージ姿で鷹司(たかつかさ)はスーツ、矢継早(やつぎばや)は黒いスーツ姿だ。

「だって、山登りするんですよね?」

と、八喜子(やきこ)

「観光地だからハイキングより楽だぞ?」
「先生、来たことあるんですか?」

雪輝(ゆきてる)にきかれ鷹司(たかつかさ)は頷く。
自殺の名所があるからな、と。

「大丈夫なんですか。俺たちが行って。何かを見たらー」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)は同時に振り返りバイキングのテーブルの下を見て固まった。
ぱたり、と腕だけが落ちている。ひじから先はなくピアノでも弾くような、なめらかな指使いで這うように進んできた。ぱちり、と音と火花がとび腕が燃え上がる。悲鳴があがりスタッフが慌てて、とんできた。

「誰と一緒にいると思ってる?」

食後のコーヒーをすすりながら鷹司(たかつかさ)が言った。

「……先生」
「おう」
「ホテルの人、ものすごく慌ててますけど」

炎は周りを燃やすことなく、すでに消え灰のようなものだけが残ったが、それもすぐに散った。

「怪奇現象って、そういうもんだろう?」

厄介そうな客に「安全管理が!」など言われているスタッフに雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)は心の中で詫びた。



 鷹司(たかつかさ)がハイキングコースより楽、と言った山は観光客でにぎわっていた。たしかに道は整い楽だ。延々と続く石の階段さえなければ。
それに挫折し車で行ける範囲の自然公園で満足する人々の方が多い。

「とうちゃーく!」

山の頂上につくと八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)はハイタッチをした。石段を見下ろすと、朝のランニングがわりに駆け上ってきた、ふたりとは違い、鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)がまだ下の方にいる。
八喜子(やきこ)は手を振ると雪輝(ゆきてる)と、あたりを見回した。
石段の上は拓けた広場になっており、いくつかベンチがあった。地元の人であろう犬の散歩に訪れた老人がベンチに腰かけている。
広場はぐるりと山に囲まれ山肌は赤や黄色で彩られていた。

「すごい! きれいだね! 雪輝(ゆきてる)!」

八喜子(やきこ)はポニーテールの先を指でいじりながら言う。

「ああ。髪、のびたな」
「うん。やっぱり走る時に邪魔だから切っちゃおうかな」

八喜子(やきこ)に言われ、雪輝(ゆきてる)は、しばらく言葉を失った。

「いいのか? いいのか!? 逢魔(おうま)が長い方がいいって言ったんだろう?」

雪輝(ゆきてる)に急に声を大きくされ八喜子(やきこ)は、きょとんとした。

「え? だって、もう会わないし」
「もらってないバイト代は!?」
「バイト代をもらうのって仙南(せんなん)さんからだし」
「俺が謝ってくるから、ちょっと考え直してくれ。八喜子(やきこ)

雪輝(ゆきてる)は不安そうに耳をすませた。

「まだ逢魔(おうま)のこと好きなんだよな?」
「え? (あやま)さんは好きじゃない。ねえ、雪輝(ゆきてる)

八喜子(やきこ)は、ぷうっと頰をふくらませる。

「『静かな生活を返せ』とか『いらない』とか、すごいひどいこと言われたんだよ」

不意に犬が大きく吠え、ふたりはびっくりしたが、顔を見合わせて笑った。
犬は遠吠えをする。



 石段の下から少し歩くと駐車場がある。
そこで犬の遠吠えを耳にし、すらりと背の高い少年、樹楼尓(じゅろうじ)は、いつもは鋭い目もとを不安げにする。彼はいつもと違って見かけの年相応の格好をしていた。
樹楼尓(じゅろうじ)は隣の主人である(あがま)に言う。

(あやま)のことは、どうでもいいそうです」

主人である(あがま)はいつも通り黒づくめの格好で、表情なく、そうだろうな、と返した。

「あれだけの暴言を吐いたのだから無理もない」
「どうしたらいいんでしょうか。(あやま)は来ないし」
樹楼尓(じゅろうじ)仙南(せんなん)も、ずいぶんと八喜子(やきこ)を気に入っているな」

どこか愉快そうな(あがま)樹楼尓(じゅろうじ)は恥ずかしそうにこたえた。

八喜子(やきこ)奥様は使用人の僕たちに偉そうにしてきませんから。実友(みとも)は今までの奥様の中で1番気に入っていると思います」
「そうか。できることはない。行くぞ」

(あがま)樹楼尓(じゅろうじ)の肩にふれると、2人の姿は周りに溶けるようにして消えた。



 山の上での展望を楽しみ、石段をふたたび駆け下りた八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は駐車場についた。
ふたりは鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)を残し自然公園の方を走ってくることにする。
大きな池の周りをぐるりと囲む遊歩道を走っていると前方に大学生らしい一団が見えた。カメラなどの機材をもち、わいわいと楽しそうに話している。
その中に見知った顔を見つけ、ふたりは足をとめた。

「すみれちゃん?」

名前を呼ばれ千平(せんだいら)すみれは、整ったいつもの笑みを八喜子(やきこ)に向けた。

「まあ。金扇(かねおうぎ)さん。こんにちは」

ふたりは、こんにちは、と頭をさげた。洋服のすみれは珍しい。

「こちらへは、ご旅行ですか?」
「はい! 先生と矢継早(やつぎばや)さんと来ました」
「あら、()(かた)は、ご一緒ではないんですか」
「はい。別れました」
「え!?」

あっさりとこたえた八喜子(やきこ)とは対照的に、すみれは目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。



 八喜子(やきこ)たちは、すみれと市内の日本料亭の一室で昼食を一緒にとることにした。
すみれは八喜子(やきこ)と向かい合って座り八喜子(やきこ)の隣には雪輝(ゆきてる)。すみれの隣に鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)が座っていた。
見たこともない料理に八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は驚き、喜んだ。「いらない、と元の生活に戻りたい、と言われた」と、話をきいた、すみれは、ため息のようにもらす。

「……まあ、そんなことが」
「はい。すみれちゃんは、お友達と一緒じゃなくていいんですか?」
「映像研究会の方に見学に、と誘われただけですから。途中で抜けてもかまいません」
「エーゾー……なんですか?」
「大学のサークルですね。趣味で映画を撮る人たちです」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせる。

「すみれちゃんって大学生なんですか?」
「はい。八喜子(やきこ)さんより3つ上ですから」

言って、すみれは早生まれですから4つのようなものですね、とほほえんだ。
八喜子(やきこ)は思ったより年上だった、と思い、雪輝(ゆきてる)は思ったより若かった、と思った。
すみれは物憂げに言う。

()(かた)が、そんなことをおっしゃるなんて、思いもしませんでした」

鷹司(たかつかさ)が鼻を鳴らした。

「飽きたんだろう。いつものことじゃないか。陰陽庁(おんみょうちょう)にまだ連絡はきてないんだな?」
「はい。まだです」
「じゃあ他言無用だな。あっちから言わないのを、つっついてみろ。逆ギレされるぞ」
「そうおっしゃるということは、ただの喧嘩と考えてよろしいんですね」

今まではありませんでしたが、とすみれは続けた。

「よくお話になってくださいね。一時の感情に流されてもいいことはありませんから」

すみれにほほえまれたが八喜子(やきこ)は何も言わなかった。



 食事を終え旅館に戻ると鷹司(たかつかさ)は部屋で横になり雪輝(ゆきてる)はまた温泉に行った。
よるところがある、と矢継早(やつぎばや)と出かけた八喜子(やきこ)が帰ってくると雪輝(ゆきてる)は驚きの声をあげた。長かった髪が肩よりは短いくらいに切られている。

「……行動早いな。いいのか?」
「いいもん! 矢継早(やつぎばや)さん! お風呂行こう!」

雪輝(ゆきてる)は複雑な気持ちでふたりの背中を見送った。



 霞末(かすえ)の森。
空がオレンジ色になり始めた頃。
森の中で棣雅(たいが)の大声が響き渡っていた。老人の姿の彼は口もとの白いひげを震わせて、目の前の仙南(せんなん)に向かって吠えるように言う。

「話が違うじゃねえか! 俺のすいーとぽてとは!?」

側で話をきいていた和服の少女、多々良木(たたりぎ)は目から生えた無数の棘をざわざわと、うごめかせながら、ぎいと鳴く。

「私は食べたからいい、じゃねえよ! おめぇの木で爪とぎしてやろうか!?」

ほうほう、と顔が白い体毛でおおわれ年輪のように黒い模様がある葩黒(はくろ)が鳴く。
仙南(せんなん)は、いつものスーツ姿で、わかりかねます、とこたえた。

「復縁は無理じゃねえの? だってよぉ、霞末(かすえ)から言ったんだろう? いらねぇって。元の生活してぇっつったのに復縁しろって言ったら、ふざけんなって殺されんだろ」

仙南(せんなん)は、我がままな方ですから、と、ため息のように言った。

「留守の間、よろしくお願いいたします。侵入してきたものは殺してかまいません」
「それは人間もか?」
「はい」

仙南(せんなん)は頭をさげると屋敷へと向かって歩き出した。


 深夜、と言ってもいい頃。
風呂上がりの雪輝(ゆきてる)はなんとなく部屋にもどる気になれず、くつろぎ用のスペースで時間をつぶしていた。
ロビーの奥にあり座り心地のいい1人がけのいすが、いくつもそなえつけられ棚には雑誌や漫画がたくさん置いてある。
頭に入らないがメジャー選手が表紙の雑誌をぱらぱらとめくっていると宿泊客がやってきて正面のドアが開く音がきこえた。
彼が目を向けると見覚えのある誰もが見上げるほど背の高い男がスーツ姿の平均的な男にひっぱられるようにして入ってくるところだ。背の高い男は珍しく一般的な格好をしておりサングラスをかけマスクをしている。
雪輝(ゆきてる)は立ち上がるとスライディングするかのようにして背の高い男の方へ土下座した。

「ごめん! 本当に悪かった!」
「……雪輝(ゆきてる)君、人違いだから大丈夫」
「いや、お前、逢魔(おうま)だろ? 俺の耳をごまかせると思うなよ」

仙南(せんなん)は目立ちますから、と雪輝(ゆきてる)に手をかし立ち上がらせた。



 (あやま)仙南(せんなん)の泊まる部屋は別館で本館の八喜子(やきこ)たちから離れたところにあった。
別館はあとで新しく建てられたため室内も広かった。
そこにお邪魔し仙南(せんなん)のいれたお茶を飲みながら雪輝(ゆきてる)は口を開く。向かいに座る(あやま)は服のせいもあり、変な感じがした。

八喜子(やきこ)と仲直りしにきたんじゃないのか?」
「……傷心旅行。よってたかって、みんなが行って来いって言うし」
「みんなって誰だよ」
実友(みとも)樹楼尓(じゅろうじ)が1番うるさい。あと多々良木(たたりぎ)葩黒(はくろ)棣雅(たいが)

そうなんですか、と雪輝(ゆきてる)にきかれ仙南(せんなん)は、はい、とこたえた。

「あとで樹楼尓(じゅろうじ)も来るって言ってる」
「そうか。みんなに心配されてよかったな。お前の兄貴は?」
「何も言わない」
「でも樹楼尓(じゅろうじ)をかしてくれるんだろう? 心配してるんじゃないか?」
「わからない」
「そうか。逢魔(おうま)。風呂、行こうぜ」

仙南(せんなん)さんもどうですか、と雪輝(ゆきてる)が声をかけると彼は私は水風呂だけですから、と返した。



 男湯は空いていた。
年配の客はおらず、いるのは若者が数人だけだ。それでも(あやま)の姿を目にすると、みな彼を凝視した。
中には温泉のせいだけではない理由で顔を赤らめ見入っているものもいる。

「お前、目立つんだな」
「ああ、そうだね」

ふたりが露天風呂にいくと誰もいなかった。
雪輝(ゆきてる)は湯船に浸かると大きく息を吐く。

「本当にごめん!」
「仕方ないさ。君にはわかるんだから」

(あやま)は星空を見上げる。

「俺が化け物だって」

悲しそうな彼の様子に雪輝(ゆきてる)の胸は痛んだ。

「お前なりに頑張ってくれてるんだよな。ごめん。ていうか」

雪輝(ゆきてる)は頭をかかえた。

八喜子(やきこ)、髪を切っちゃったんだけど……ごめん」
「仕方ないさ。俺から突き放した。もう終わったんだよ」

静かだな、と雪輝(ゆきてる)は思った。空には星がまたたいている。


 今日は金曜日。週末の朝は寒かった。
約束した朝のランニングに雪輝(ゆきてる)が寝坊したため八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)と散歩をすることにした。
旅館の庭は広く池に鯉がいる。庭の池、というと八喜子(やきこ)にあまりいい思い出はなかったが、初めて間近で見る錦鯉は面白かった。


 楽しそうに笑う彼女の様子を見つからないように窓から覗き見ながら(あやま)の表情は憂いをおびていた。
不意に後ろから声をかけられ驚きの声をあげると雪輝(ゆきてる)がいる。仙南(せんなん)が入れたのだ。
雪輝(ゆきてる)はどこか嬉しそうに、にやにやと笑いながら、あいさつをする。

「おはよう」
「おはよう、雪輝(ゆきてる)君」
「お前、今日はどうするんだ?」
「どうって、どうにも。予定はないよ」
「そうか。八喜子(やきこ)に会うのか?」

いいや、と(あやま)は首を横に振る。

「メシどうするんだよ。朝はみんなバイキングだぞ?」
「こういうところって、そうだよね。君たちがいなくなってから行くさ。それくらいはわかるから。間に合わなかったら、どこかへ行くし」

(あやま)は時間はあるんだから、とまた窓へと目を向けた。
八喜子(やきこ)がこちらを見上げそうになり、身を引く。

「もしかしたら、なんだけど」
「なんだ?」
八喜子(やきこ)、見えてないんじゃないの?」
「お前を?」
「俺だけじゃなくて、ぜんぶ」
「あとできいてみる。ところで、お前の言ってた1ヶ月に一回は、って話。あれは本当か?」
「いいや」
「だよな」

雪輝(ゆきてる)の携帯が鳴り彼は、じゃあ、と部屋を出た。



 朝食をすませた八喜子(やきこ)たちは部屋にもどった。

「今日はどうしましょうか」
「まずは」

鷹司(たかつかさ)は教科書を卓の上に並べた。

「今日は勉強からだ。八喜子(やきこ)は家庭教師がいなくなるんだから、覚悟しとけよ」



 時刻は昼を過ぎた頃。

「もう無理です……」

八喜子(やきこ)は座布団につっぷした。

「本当にすさまじくバカだな、お前は」

もう先生にはきかない、と八喜子(やきこ)は固く心に誓った。
雪輝(ゆきてる)は気持ちのこもらない、がんばれ、という言葉をかけ、それを見て矢継早(やつぎばや)は、けらけらと笑っている。

「ご飯に行きましょうか。今日は何にしますか?」



 矢継早(やつぎばや)の車が止まり皆が降りると目的の店の前に人だかりができていた。彼らは店内をのぞきこみ悲鳴や歓声をあげている。

「芸能人でも来てるんですかね?」

矢継早(やつぎばや)にきかれ八喜子(やきこ)は首をかしげた。

「どうなんでしょう。わかんないです」

ベルが鳴り店の扉が開く。人だかりから、ひときわ大きく、わっと歓声があがった。皆が見上げるほど背の高いサングラスとマスクをした男が出てきたところだ。いつもとは違い普通の格好をしている。
矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)は露骨に顔をしかめ、雪輝(ゆきてる)はちらりと八喜子(やきこ)の様子をうかがう。男、(あやま)はぎくり、と身を強張らせた。
八喜子(やきこ)(あやま)を一瞥しただけで、すぐに矢継早(やつぎばや)に話しかける。

「やっぱり芸能人の人なんですか?」

矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)は一瞬だけ目線をかわした。

「さあ、どうでしょう。あの人が帰ったら静かに、ご飯が食べられますから、ちょっと向こうで待ちましょうか。あのお店、かわいいのがたくさん置いてますね」

矢継早(やつぎばや)に言われ八喜子(やきこ)は、くるりと男に背を向け歩き出した。
それを見送りながら、雪輝(ゆきてる)は小声で鷹司(たかつかさ)に話しかける。

「先生、八喜子(やきこ)は見えてないです」
「みたいだな」

矢継早(やつぎばや)八喜子(やきこ)が、かわいらしい小物を並べた店の中に入ると喧騒が大きくなる。
鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)が振り向くと(あやま)が苦しそうに胸をおさえて、ひざをついていた。すぐさま走りよる鷹司(たかつかさ)の横を背の高い少年、樹楼尓(じゅろうじ)が追い抜く。彼はいつもと違い外見にあった格好をしていた。
鷹司(たかつかさ)はいつものスーツ姿の冷静な使用人の仙南(せんなん)にきく。

「どうした?」
「わかりません」

(あやま)は苦しげな荒い息にまぎれて声を発する。

「…………」
「なんだ?」

鷹司(たかつかさ)はききとろうと彼のマスクに耳を近づけた。

「…………」

鷹司(たかつかさ)の顔つきが険しくなる。

逢魔(おうま)!」

よく通る雪輝(ゆきてる)の声に皆が彼を見た。(あやま)雪輝(ゆきてる)に震える手をのばす。その手をつかみ雪輝(ゆきてる)は彼の背をさする。

「大丈夫か? どうしたんだ?」
「……君だ。来てくれ」

消え入りそうな声で(あやま)に言われ雪輝(ゆきてる)は頷いた。



 雑貨屋の店内で八喜子(やきこ)は心配そうに窓の外に目を向けていた。

「大丈夫でしょうか? なんだか騒ぎになってますけど」
「こういう時、やじ馬は邪魔にしかなりませんから。静かになるまで、ここで、おとなしく待ってましょう」
「はい……」
「ところで、これ。お友だちのお土産にいいんじゃありませんか?」

ご当地キャラのかわいいような不気味なようなキーホルダーを矢継早(やつぎばや)は指さした。しばらく店内を見て回り彼女たちが買い物を終えて外に出ると人だかりはなくなっている。
鷹司(たかつかさ)たちの姿もなく矢継早(やつぎばや)が携帯を見ると「メシをおごられてくる」と連絡が入っていた。

雪輝(ゆきてる)と先生は、どこに行ったんですか?」
鷹司(たかつかさ)さんの知り合いがいたみたいです。女子会といきましょうか」

矢継早(やつぎばや)は、けらけらと笑うと扉を開けた。ちりんちりん、とベルが鳴る。



 温泉旅館。(あやま)仙南(せんなん)の泊まる部屋。
鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)に加え樹楼尓(じゅろうじ)もおり、やや手狭だ。
雪輝(ゆきてる)はぐったりと横になった(あやま)の顔を心配そうに覗きこむ。

「どうしたんだ? 食あたりでもないだろうし、持病とかか?」

(あやま)は力なく首を横に振る。
彼の横であぐらをかいている鷹司(たかつかさ)がきく。

「おい。さっきのは、どういう意味だ? 逢魔(おうま)。お前、言っただろう」

樹楼尓(じゅろうじ)が鋭い目つきをより鋭くして鷹司(たかつかさ)を見るが彼はひるまず続けた。

「『消される』ってな。どういう意味だ」

(あやま)は大きく息を吐き、目を閉じながら言う。

「そのままの意味だよ。消されるところだった」
「誰に?」

雪輝(ゆきてる)が、まさか、と小さくもらす。それに頷きながら(あやま)は言った。

八喜子(やきこ)だよ。あの子は俺が『見えなかった』。見なかったのかはわからないけれど、どうやら」

深い、ため息のような安堵の息のような、どちらともとれるように(あやま)は大きく息を吐いた。

八喜子(やきこ)は『さとり』。彼女が『見ない』と死ぬらしい」

(あやま)は声をあげて笑った。

「やっと死ねる方法が見つかった。彼女は兄さんですら殺せるんだ」

(あやま)は、おかしそうに笑い続けている。それを黙らせるかのように鷹司(たかつかさ)が声を荒げた。

「その前に、お前たちがあの子を殺す。違わないな? 好き勝手に生きている、お前ら霞末(かすえ)兄弟の唯一の脅威だろう」

逢魔(おうま)は柔和な笑みをうかべながら体を起こした。

「少なくとも俺は、もういい。1500年は長過ぎた。雪輝(ゆきてる)君、ありがとう。君のおかげで消えずにすんだ。それと」

呆然としていた雪輝(ゆきてる)(あやま)の声で我に返り話し続ける彼を見つめる。

八喜子(やきこ)に悪かったって言っておいてくれない? 彼女と一緒にいるのは、とても楽しかったよ。とてもね。化け物の俺には過ぎたことだっただけさ」
「……ふざけんな、バーカ」

自分で言えよ、と雪輝(ゆきてる)は下を向いた。
鷹司(たかつかさ)が険しい顔つきのまま言う。

「お前たちを消すってのは雪輝(ゆきてる)もできるのか?」
「無理だろうね。八喜子(やきこ)は思いこみが激しいし、俺たちを消せるほど、強く『見ない』ことができるのは俺を『食べた』せいもある。皮肉だね」

しばらく沈黙が続き、声を発したのは(あやま)だった。

樹楼尓(じゅろうじ)

金色に輝く瞳を向けられ樹楼尓(じゅろうじ)は全身の毛を逆立てた。彼の体が震え力が抜けていく。ぐっと室温が下がる。樹楼尓(じゅろうじ)の肌が、かさかさと乾きひび割れていった。

「悪いね。君は兄さんに言うだろう?」
「おやめください!」

仙南(せんなん)(あやま)の肩をつかんだ。その隙に樹楼尓(じゅろうじ)は窓を割って外に飛び出す。地に降りたった彼の姿は人ほどの大きさの茶色い毛皮の獣だった。
(あやま)は肩におかれた仙南(せんなん)の手を軽く叩き、立ちあがる。
彼は窓に歩みよると優雅な仕草で飛び降りた。

「おい!」

雪輝(ゆきてる)が窓から身をのり出して下を見た時には、すでにどちらの姿もなかった。
ばたん、とドアの閉まる音に雪輝(ゆきてる)が振り返ると仙南(せんなん)の姿もない。
鷹司(たかつかさ)がぼやいた。

「化け物大戦がはじまるな」
「……こんなの間違ってます」

雪輝(ゆきてる)の耳にはとどいていた。(あやま)が小さくもらした「守ってあげなきゃ」という言葉が。


 深夜、と言ってもいい頃。
山に近い町は寒い。冬が近づいているのを感じさせる。
街灯の照らす住宅街の静かな公園。
少年の姿の樹楼尓(じゅろうじ)は、よろめきながら茂みに身を隠した。
逃げ回る途中に盗んだ服はサイズが合わず、少し小さい。
樹楼尓(じゅろうじ)は、どうすべきか、と乾いて、ひび割れた頰にふれながら思案する。
軽い足音に目を向けると首輪をつけた犬が軽やかに走ってきていた。口にはソーセージを咥えている。犬は樹楼尓(じゅろうじ)の足元にソーセージをおいた。

「やあ、こんばんは。僕に?」

樹楼尓(じゅろうじ)は犬の頭をなでた。

「でも、君が食べなよ。あいにくと僕は、もうおしまいらしい」

犬はじっと樹楼尓(じゅろうじ)を見上げている。

「難しいかな? もう帰るんだ。ありがとう」

犬はひと声、吠えるとソーセージを咥えて走り出した。
それを見送り樹楼尓(じゅろうじ)は、大きくて息をつく。吐いた息を白いな、と思う。空には星が見えていた。
昔より見えなくなったな、と思う。
振り返れば、短いような長いような、よくわからなかったが、楽しい日々だった。山の中で孤独に死ぬよりは、よほどいい、と思う。
次に見つかったら、もう逃げられないという確信があった。もう、くたくただ。
やはり、いくら適当で、いい加減に思えても(あがま)の弟なのだな、と樹楼尓(じゅろうじ)は思う。
名を呼ばれ、振り向いた樹楼尓(じゅろうじ)は驚きで目を見開いた。
思った以上に疲れていたらしい。
走ってきたのか荒くした息を整えながら八喜子(やきこ)が立っていた。

樹楼尓(じゅろうじ)さん。どうしたんですか?」

八喜子(やきこ)の目は痛ましそうに彼の乾いた頰を見ている。

「色々と決まりがあるのです。おひとりですか?」
「はい。雪輝(ゆきてる)樹楼尓(じゅろうじ)さんたちを探してるのがわかったから」

こっそり部屋を抜け出した、と八喜子(やきこ)は、いたずらっぽく笑う。

「無用心ですね」
「でも、変な音には近づかないようにして来たから」
「音、ですか?」
「はい。きこえるんです。雪輝(ゆきてる)とおんなじ。ほっぺたはケガしたんですか?」
「そんなところです」

樹楼尓(じゅろうじ)の鼻は「見つかった」ことを感じとった。

八喜子(やきこ)奥様。おもどりください。見つかったのですから、僕ももどります」
「……違います」

樹楼尓(じゅろうじ)は言葉の意味がわからず八喜子(やきこ)をじっと見る。彼の目線を受けて八喜子(やきこ)は下を向きながら小さく笑った。

「もう『奥様』じゃないです」

八喜子(やきこ)は地面を見ながら、きらきらしている、と思った。誰かが瓶でも割ったのだろう。ガラスの破片が散らばり、街灯の光を反射していた。

「そう、でしたね。失礼を」
「いいえ。悪いのは私だったから。いっつも、もらってばかりで何もできなかったですから」

八喜子(やきこ)は、しゃがみ、大きめのガラス片を拾い上げる。
袖をまくると、ぎゅっと唇をかみ目をつぶって手の甲の下から(ひじ)に向かって切り裂いた。皮膚が汚く裂け鮮血がしたたり落ちる。
樹楼尓(じゅろうじ)は息をのんだ。

「何をなさるんですか」

八喜子(やきこ)は痛さに顔をゆがめながら腕を差し出した。

「私は『さとり』だから、樹楼尓(じゅろうじ)さんが少しはよくなりますか?」
「できません。傷を洗いましょう。そんなもので切るなんて、雑菌だらけですよ」

八喜子(やきこ)は、ぎゅっと両手を握りしめた。

「どうせ流しちゃうなら、もったいないです」
「僕も雑菌だらけです。川に入ったり、色々しましたから。そんな傷跡が残るような真似をするなんて」
「……もういいんです」

八喜子(やきこ)は目の端に涙をにじませた。痛さのせいではない。

「もう、いないから」

八喜子(やきこ)は続く言葉は言わなかった。
きれいだ、と、ほめてほしい人はもういない。

「……いたい」

八喜子(やきこ)は傷口をおさえるようにして、しゃがみこんだ。思っていた以上に痛く、血も多く出て目眩がした。
視界に影が落ち暗くなる。地面に落ちた彼女の影が、さらに大きな影にのみこまれた。
振り向く間もなく冷たい大きな手にケガした腕をつかまた。つかんでいる手と反対の手が傷口をなでていく。それに合わせて彼女の傷はきれいに消えた。
つかんでいた手が離れそうになり思わず握りしめた。よく知っている、きれいな手だ。今はとても冷たい。
振り向けば、と思ったが八喜子(やきこ)は動けなかった。
言わなくては、とも思ったが「彼」の手を見つめたまま何も言えなかった。
かわりに涙が落ちた。ぽたぽたと雨のように彼の腕にこぼれていく。
後ろにいる「彼」は何も言わず、八喜子(やきこ)に手を握らせたままでいる。

「……ごめんなさい」

八喜子(やきこ)が、やっと口にできた言葉はそれだった。
何度も小さく、泣きながら繰り返す。

「……私は」

彼女が好きな、いつもの鼓動も何もきこえない、と八喜子(やきこ)は思った。

逢魔(おうま)さんと一緒でも、(あやま)さんと一緒でも」

冷たい、と八喜子(やきこ)は思った。

「幸せでした」

八喜子(やきこ)の手を握り返そうとした「彼」の手は優しく引き離され周りに溶けるようにして消えていく。
彼女が振り返った時には、あたりには誰もいなかった。
八喜子(やきこ)は、こぼれてくる涙を手のひらで、ごしごしとぬぐったが、それでも涙はとめどなく流れてくる。八喜子(やきこ)はぺちりと自分の頰を両手で叩くと歩き出した。


 山すその自然公園まで逃げた樹楼尓(じゅろうじ)は力つき座りこんだ。
一昨日、(あがま)と来た駐車場だ。観念して目を閉じた彼の周囲で、ぐっと気温が下がる。樹楼尓(じゅろうじ)は目を輝かせた。彼の主人である(あがま)が立っている。彼は暗闇の中でも一層、暗い闇の中に立っているようだ。

(あがま)様!」

しっぽがあれば降りそうな勢いで樹楼尓(じゅろうじ)は主人の前にひざをついた。

「どうした?」

樹楼尓(じゅろうじ)がこたえようと口を開きかけたが(あがま)の背後に(あやま)が現れる。彼は両手を組んで兄の(あがま)の頭に力一杯振り落とした。不意打ちだったせいもあり、したたかにくらった(あがま)はバランスを崩す。そのまま頭をつかまれ地面に叩きつけられた。轟音を立ててアスファルトが割れる。周囲の木々が枯れていき、地には霜がおりる。寒さで樹楼尓(じゅろうじ)の体が震えた。(あやま)は舌打ちをする。(あがま)が笑いながら多少は力をこめて立ち上がりはじめたからだ。

「どうした、弟。仲良くするのではなかったか?」
「事情が変わった。もうちょっと仲良くしたかったんだけどね」
樹楼尓(じゅろうじ)。何があった?」

(あやま)樹楼尓(じゅろうじ)を狙って手を離すのを待っていたかのように(あがま)は弟の腹を思い切り殴りつけた。(あやま)はふっとび叩きつけられた地面を割る。
(あがま)樹楼尓(じゅろうじ)の頭にふれ周りに溶けるようにして消えた。



 (あがま)のマンション。
樹楼尓(じゅろうじ)をつれリビングに現れた(あがま)は無造作に靴を脱ぎ捨て片づけを言いつけた。
樹楼尓(じゅろうじ)は返事をし命令に従う。彼が終えると(あがま)は自分の指を引きちぎり樹楼尓(じゅろうじ)にあたえた。すぐに新しい指が生えてくる。
樹楼尓(じゅろうじ)は感謝の言葉をのべ呑みこんだ。途端、彼の乾いていた頰が癒え、疲労もなくなる。
(あがま)はソファに座り腕と足を組んで樹楼尓(じゅろうじ)を見る。

「何があった?」
「……(あやま)様が、いつまでも八喜子(やきこ)奥様に謝りに行かないので苦言を申し上げたら怒られました」

(あがま)の静かな瞳に、じっと見つめられ、樹楼尓(じゅろうじ)は段々とうつむいていった。それを見て(あがま)は小さく笑う。

「嘘は下手だな。八喜子(やきこ)を食べようとでもしたのか?」
「滅相もありません!」
「そうだろうな。(あやま)が私に敵意を向けるとは、何があった? 」

樹楼尓(じゅろうじ)(あがま)の顔を困ったように見たまま、こたえない。
必要ないか、と呟くと、(あがま)は質問を続けた。

(あやま)八喜子(やきこ)のために私を殺そうとしているか?」
「はい」
「私が八喜子(やきこ)の命を奪おうとするのに充分な理由があるか?」
「はい」
「それだけわかれば充分だ」

嬉しそうに笑う(あがま)樹楼尓(じゅろうじ)は困惑したまま見つめていた。


 鷹司(たかつかさ)に見つかった八喜子(やきこ)は彼と旅館にもどった。
泣きやんでから、げんこつを落とされ、また涙ぐんだ。
けしかけた矢継早(やつぎばや)からも反省するように言われ、はい、と下を向く。
雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)が帰ってきたことに喜んだが暗い顔をしていた。
不意に「きこえた」彼は鷹司(たかつかさ)と慌ただしく部屋を出て行く。
矢継早(やつぎばや)に言われ八喜子(やきこ)は風呂に入り眠ることにした。泣きすぎて、また目が痛かった。


 (あやま)仙南(せんなん)の泊まる部屋の前についた鷹司(たかつかさ)雪輝(ゆきてる)は無遠慮にチャイムを鳴らした。
不機嫌そうな(あやま)が出てくる。彼はふたりを中に入れると汚れた服のまま、ごろりと畳の上に横になった。雪輝(ゆきてる)は顔をしかめる。割れた窓には新しいガラスがはまっていた。

「おい。着替えるとかしろよ」
「疲れた。あとできれいにすればいいんでしょ?」
「自分でやらないくせに。仙南(せんなん)さんは?」
「そのうち、もどってくるよ」
「怒ってやめてたりしないよな?」
「それならそれで、誰か探すさ。雪輝(ゆきてる)君」

(あやま)は背を向けたまま言う。

樹楼尓(じゅろうじ)が兄さんのところまで逃げた。ごめん」
「……なあ、話し合いとか無理なのか? まずは八喜子(やきこ)と、仲直りすれば、お前が消えるなんてことないんだろう?」
「あのね」

(あやま)は背を向けたままでいた。

「俺は人間のように八喜子(やきこ)を愛せない。人間は、やっぱり人間同士の方がいいんだよ」
「……あのさ」

雪輝(ゆきてる)は自然と正座をした。

「楽しかったってのは嘘じゃないんだよな?」
「ああ、そうだよ」
「お前には嫌なことも多かったかもしれないけど、なかった方がよかったってのは思わないでくれよ」

思わせたんだったらごめん、と雪輝(ゆきてる)は頭をさげた。背を向けたままの(あやま)から、からかうような調子で声が返ってくる。

「それは兄さんと仲違いすることもふくめて?」
「本当にごめん」
「仕方ないさ。俺たちは化け物なんだから。樹楼尓(じゅろうじ)から兄さんにばれたのは困ったね」

雪輝(ゆきてる)の手のひらが汗ばむ。

「話し合いでなんとかならないのか? 八喜子(やきこ)が、お前の兄貴を消すのは無理だと思うぞ。そこまで強い関心がない」
「俺には関心があるってこと?」
「そりゃな。憎たらしいことに。八喜子(やきこ)だって傷ついてるんだ。無理してるから、こんなことになってるんだよ」

逢魔(おうま)は小さく笑う。どこか自嘲気味だ。

「ああ、そう。……やっぱり駄目だね。ちょっと、いや、かなり嬉しいよ」
「変じゃない。普通のことだ」
「そうなのかな。陰陽庁(おんみょうちょう)には、どうするの?」

鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らす。

「ああ? 『さとり』は珍しすぎるし、お前の言うことはあてにならんし、俺は書類が大嫌いだ」
「ああ、そう。あとは兄さんだけだね。俺がどうにかできない相手って兄さんしかいないから」

(あやま)はまたごめん、と繰り返し、ささやくように言った。
守るから、と。


 翌日は土曜日。
寒い、と目を覚ました八喜子(やきこ)は思った。
すでに身支度を終えた矢継早(やつぎばや)が卓で書類を書いている。
矢継早(やつぎばや)は目が合うと八喜子(やきこ)に、ほほえんだ。

「おはようございます」
「おはようございます」

 八喜子(やきこ)は起き上がり、顔を洗いに行く。冷たい水に、震えながら洗い終わった顔をタオルでふく。
鏡を見ると自分の顔は、ぼやけてにじみ、肌の色しかわからなかった。
水曜日からだな、と八喜子(やきこ)は思った。声と髪型で雪輝(ゆきてる)鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)はわかったが、ほかの人たちはわからなかった。
色も見えなくなっている。耳にきこえる声の調子で、笑っていたりするのはわかった。
八喜子(やきこ)は、じっと鏡を見つめ、昨晩、「彼」に会ったことを思い出す。声がききたかった、と思い、すぐに、やはり自分はバカだな、と思い、きかなくてよかった、と思い直した。
「彼」は(あやま)だ。(あやま)でいることを選んだのだ。
「彼」は逢魔(おうま)の時のように自分を思ってはくれない。


怖かった。

逢魔(おうま)さん、と名前をよんだ時に返ってきた言葉は、「違う」。

怖くて見れなかった。

もう会えないし、会いたくないだろう。そう思ったから、最後に言う言葉は、「ありがとう」にした。けれど、どんな顔をされるのか見れなかった。

見たくなかった。

「彼」は暗闇よりも深い黒につつまれていた。

笑っていなかった。

笑っていてくれるなら、一緒にいられなくてもいい。
けれど。


 も う 見 た く な い



八喜子(やきこ)の目の奥が、ぎりぎりと痛む。鏡を見れない彼女には見えなかったが涙のように血が流れだし、八喜子(やきこ)は痛みから悲鳴をあげた。


 B市内の総合病院。
隣接した大きな薬局には、ずらりと、いすが並び、受付の上にディスプレイがある。
雪輝(ゆきてる)がぼんやり、それを眺めていると隣に、かなりの長身の男が座った。ラフな服を着た男はサングラスにマスクをしている。彼の使用人である仙南(せんなん)はスーツ姿で離れたところに立っていた。

八喜子(やきこ)は?」

マスクごしのややくぐもった(あやま)の声に雪輝(ゆきてる)は彼を見上げる。

「検査入院。異常はない」
「でも、出血と痛みがあったんでしょう?」

ああ、とこたえた雪輝(ゆきてる)の言葉に(あやま)は、こめかみに指をあてる。

「もしかしたら、なんだけど。八喜子(やきこ)が自分の目を傷つけるようなことをした?」
「……思いこみが激しいから、お前にフラれたと思って、見たくないと思ってた」
「フったのは事実だけどね。それだ」

雪輝(ゆきてる)は眉間にしわをよせサングラスの向こうの(あやま)の瞳を見る。

八喜子(やきこ)の目は俺のものだ。潰すようなことをしたら罰を受ける」
「思うだけで?」
「彼女は俺の一部を食べている。強い思いを実現するエネルギーをもっているんだ。『怪異』にだって、なりかけただろう?」
「お前の唾液(だえき)はインフルエンザより厄介だな」

八喜子(やきこ)が「さとり」のせいもある、と返す(あやま)の目は憂いを帯びていた。

「君たち人間が言う『神さまに愛される』って、こういうことなんだ」

(あやま)は手を組み、目を伏せた。雪輝(ゆきてる)は彼を励ますかのように明るく言う。

逢魔(おうま)は『神さま』だからな。守ってくれてるし」
「そんなにいいものじゃないよ。俺は……」

(あやま)の組んだ手の指先が白くなっていく。

八喜子(やきこ)を呪ってしまった。彼女に課したのは呪いだよ」

雪輝(ゆきてる)が何を言うべきか迷っている間に(あやま)は立ち去った。追いかけることもできず、雪輝(ゆきてる)は行儀悪く背もたれに体を押しつける。自分が言ってしまった「化け物のまま」という言葉は、いくら詫びたところで、取り返しがつかない。
その事実がずしりと重くのしかかった。

ゆるされない罪はいつまでも枷となる。彼はよく知っていた。
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