第18話 Guilt gift of flame
文字数 27,402文字
夜。自室に入り寝ようとした雪輝 はいつのまにか目の前に現れた逢魔 に顔をしかめた。
彼は雪輝 と向かい合うように床にあぐらをかいている。
「何だ?」
「雪輝 君……君から八喜子 ちゃんに言ってくれない?」
逢魔 は頭を抱えて深々とため息をついた。
「何を?」
「無防備に抱きついてくることだよ! 限界がきそうだ」
「お前、やる気だっただろう。意味がわからない」
そうなんだけどね、と嘆く逢魔 を見て雪輝 は思わず吹き出した。逢魔 は笑う雪輝 をうらみがましく見る。
「君だってわかるだろう? わかるはずだ!」
「ああ、俺の妹はとてもかわいいからな」
「俺、あんなにべたべたしてたっけ……」
逢魔 は額に手をあて眉間にしわをよせる。
「してたんじゃないか。八喜子 は前にうっとおしいって言ってたな」
「今も言ってる?」
「いや。最近はきかない」
逢魔 はほっとしたように息を吐くと額の手をおろし雪輝 を見上げる。
「君から言ってくれない? あんまりくっつくもんじゃないって」
「お前、ちょっと前は余裕だったじゃないか」
「呼吸も意識すると息苦しくなるだろう?同じことだよ」
「劣情を意識するとってことか?」
「いいや、愛だよ」
逢魔 は両手を広げてこたえてみせる。
「そうか、そうか。よかったな。一応言っておく。わかっていると思うが」
「「きかない」」
雪輝 と逢魔 の声がそろう。
雪輝 は笑い逢魔 は深々とため息をついた。
翌日。
2人にとっては年末の差し迫る冬休みの平日。
朝食を食べながら雪輝 は八喜子 へ淡々と言いきかせていた。
八喜子 はむき出しのレンズに青い細いフレームのついた眼鏡ごしに兄を見ながら首をかしげる。
「逢魔 さんは私を嫌いなの?」
「違う。好きだからくっついてほしくないんだ」
「どうして?」
「劣情に負けるから」
「レツジョーって何? いつもみたいになめたいってこと?」
「そんなところだ」
「雪輝 もそうなの?」
唐突にきかれ雪輝 は咳きこんだ。
「大丈夫?」
「とにかく! 彼氏でもあんまりくっつくな。逢魔 もそう言ってるんだろう?」
「言うけど喜んでる」
「それは仕方ない。言ってることと違うのを、あいつはどう言ってるんだ?」
「嬉しいけどやめてほしいって」
「じゃあ、やめてやれ。嫌いとかそういうことじゃなくて」
「じゃなくて?」
雪輝 はまっすぐ見てくる八喜子 から目をそらした。
「……男にはそういうことがあるんだ。逢魔 が好きならそういうものだってわかってやろう」
八喜子 はしばらく考えこんだあと、うん、と頷いた。
某所特別捜査第一課。通称特課 、会議室。
矢継早 と鷹司 は黙って向かい合いながら座っている。
矢継早 は黒いスーツ姿で鷹司 はスーツ姿だ。
どちらも無言で睨み合うような沈黙に耐えかねて円戸 が口を開いた。
「タカ兄も矢継早 も仲良くしようよ。人数少ないんだからさ」
円戸 はねえねえと子供のように2人に言う。
「小此木 一派は全滅しましたからね」
矢継早 は氷のように冷たい声を発した。
「そうか」
鷹司 はいつもの調子で言う。
「そうか、だけですか?
そうって何がそうですか?
いっつも『そう』じゃないですか!
あいつらはバケモノなんですよ!
気に入らなくなったら殺すんです。
赤子の手をひねるようになんて言いますけど、それよりももっと簡単に!
それなのに何もしないでほうっておくんですか? それじゃ見殺しにするのと一緒じゃないですか!」
矢継早に言う矢継早 に対して鷹司 は冷静さをくずさない。
「少し違うな。気に入ってるから殺すんだ」
「はぁ!? そうですか、すみません!
あいつらのことなんてわかりませんからね! わたしは人間ですから!
どうせまた霞末 のゴリラにたぶらかされているんでしょう! なんでかゴリラはよくもてますからね! あんなゴリラのどこがいいんですかね!」
「金持ち、色男、力持ち。おまけに賢い。完璧だな。しかも惚れてくれてるとなれば、そりゃ惚れるだろう」
「惚れてるってなんですか?食欲じゃないですか」
「矢継早《やつぎばや」
「なんですか?」
「寂しいな。子供の巣立ちだ」
「ふざけないでください!」
矢継早 はどんと拳でテーブルを叩いた。
鷹司 は少しも動揺せずに淡々と返す。
「実際問題、霞末 の色つきは俺たちで太刀打ちできる相手じゃない。それなら、せめて八喜子 が幸せならいいことじゃないか」
「幸せって何ですか? 飼われていることがですか?」
声を大きくする矢継早 に鷹司 は静かにこたえる。
「あいつらは親なしだ。強力な庇護はあって困るもんじゃない」
「飼われていろってことですか?」
矢継早 は軽蔑するかのように目を細めた。
鷹司 は変わらぬ調子で続ける。
「対価はちゃんと与えているさ。霞末 の色つきがずいぶんとおとなしいだろう? 昔ならとっくに俺の首は飛んでいる」
「ただの気まぐれじゃないですか」
矢継早 は吐き捨てる。
「そうだ。気まぐれだ。長く続くように祈ろう。だからー」
鷹司 は目つきを険しくする。
「余計なことをふきこむな」
矢継早 は眉をよせると立ち上がり会議室を出て行った。
大きな音を立ててしまったドアに円戸 は耳をふさいだ。
「矢継早 、何カリカリしてんだろ。生理?」
「そう簡単に割り切れないだけだ。まだ若いからな」
6年目か、と鷹司 は心の中で思った。
霞末 の森の前に建つ逢魔 の屋敷に八喜子 は掃除のバイトに来ていた。
いつも通りに掃除を終え玄関に続く扉を開けると逢魔 が音もなく彼女の後ろに立っている。
彼の長い影が八喜子 の視界に落ちていた。彼女は自然と笑顔になり振り返ると逢魔 を見上げた。
「おはようございます。どこに行ってたんですか」
「おはよう。もうこんにちは、の時間だね。いつもの散歩だよ」
八喜子 の目には柔和な笑みを浮かべている逢魔 の周りに白い光が見える。
彼女は自分の髪をなでる大きな手に嬉しそうに両手をそえた。
「会えてよかったです」
「もう帰るんだよね」
「はい。矢継早 さんとご飯を食べにに行くんです」
「ああ、そう」
またね、と言う逢魔 に八喜子 ははい、とほほえんだ。
八喜子 が仙南 の運転する車で家まで送り届けてもらうと矢継早 の車がとまっていた。
仙南 に礼を言って八喜子 が車からおりると運転席の矢継早 は笑って彼女に自分の車へと乗るように促した。いつもの通り黒いスーツ姿で。
食後のコーヒーを飲む矢継早 を見て八喜子 は意外そうに目を見開いた。
2人はパスタがおいしいと評判の店で食事を終えたデザートにとりかかるところだ。
「矢継早 さんもコーヒーを飲むんですね。先生みたいです」
「ケーキにはコーヒーでしょう?」
「紅茶もおいしいです。ケーキはもっとおいしいです」
「やっきーは食いしん坊ですね。霞末 の色つきには食べさせてもらっているんですか?」
「逢魔 さんです。逢魔 が時の逢魔」
「やっきー、その字、書けますか?」
八喜子 は照れて笑いながら首を横に振った。矢継早 もけらけらと笑う。
「色つきは怖くないですか?」
「優しいです。矢継早 さん、逢魔 さんっておかしいんですよ。嬉しいって思ってるのに抱きついたらダメだって言うんです」
「へえ。色つきが、ですか?」
「はい。矢継早 さん、レツジョーってどういうことですか? 朱珠 ちゃんや、るる子ちゃんもよくわからないみたいだし」
矢継早 は眉をよせる。
「劣情って誰が言ったんですか?」
「逢魔 さんです。センジョーとかも」
八喜子 はカップを持ち上げ紅茶に口をつける。
「セックスしたいってことですよ」
矢継早 から、それまでの世間話と変わらぬ調子で言われ八喜子 は咳きこんだ。
顔を赤くして彼女を見るが矢継早 はため息でもつきそうな声音で続ける。
「男は動物ですからね。色つきはより獣みたいなものですから。襲われそうになったことないんですか」
「……ないです」
八喜子 は両手を頰にあて赤い顔で小さくこたえる。矢継早 は一瞬視線をめぐらせる。
「かわいそうですね」
矢継早 は八喜子 の目を見て哀れむように続けた。八喜子 は言葉の意味がわからず何度も瞬きを繰り返す。
「やっきーは色つきが浮気してもいいんですか? ほかの女とセックスしていいですか」
「嫌です」
八喜子 は小声だったがすぐにこたえた。
「ですよね。色つきに我慢させているんだったらかわいそうです。ひどく残酷なことです。あなたは子供でも相手は大人なんですから」
「そうなんですか?」
「はい。もらったものだけで幸せを感じる女と男じゃ違うんですよ。片方だけつらい思いをさせるのってどうなんですかね?」
八喜子 の目には矢継早 の周りに赤黒い光が炎のようにゆらめいているのが見える。
彼女はいつものように見えるそれを変だとは思わなかった。
「そうなんですね。雪輝 も教えてくれないし」
「そうですね。セックスしてあげるんですか?」
八喜子 は顔を赤くして首を勢いよく横に振った。まだ無理です、と小声でつけたしながら。
「じゃあ、どうして付き合うんですか? 相手は大人なんだから、お守りをさせて利用しているだけなら、かわいそうじゃないですか」
矢継早 に言われ八喜子 はこたえられなかった。
暗い顔の彼女に矢継早 はけらけらと笑う。
「ケーキ、食べましょう」
八喜子 ははい、と小さくこたえた。
夕方。アルバイトを終え帰宅した雪輝 はリビング兼台所の椅子にぼんやりと座っている八喜子 を見て顔をしかめた。
「どうした?逢魔 とまた喧嘩でもしたのか?」
八喜子 は無言で首を横に振る。
「雪輝 ……あのね」
「何だ?」
八喜子 は顔を赤くして開きかけた口を閉じた。
「なんでもない。ご飯つくるね!」
「今日は俺の番だろう?」
「いいの! つくりたい気分なの!」
「ありがとう。肉がいい」
「わかった」
リクエストが通り雪輝 はおお、と声をあげ、同時に混乱していることをしめす妹からの音に耳をすませる。
しかし料理に集中しだした八喜子 の心はわからなかった。
翌日。逢魔 の屋敷に宿題を教わりに来た八喜子 は一段落したところで隣に座る彼をじっと見上げた。
いつものように大広間のソファに並んで座りテーブルには教科書とノートが広げられている。
「逢魔 さん」
「なぁに?」
「あの……」
顔を赤くしてうつむく八喜子 に優しい声がふってくる。
「何か見えた?」
「今日は見えないです。あの……」
うつむいたままの八喜子 ははっとして眼鏡をとるとじっと逢魔 を見つめた。
「どうしたの?」
「……見えないです。今日は」
逢魔 の周りに白い光しか見えない。
「……嘘?」
八喜子 に言われ逢魔 は眉をよせる。
「何も言ってないでしょう?」
「違います。逢魔 さんじゃなくて……」
矢継早 さんに嘘をつかれた。
どうして?
暗い顔をして黙りこむ八喜子 の髪を逢魔 が優しくなでる。
どうしたの、と声をかけながら。
八喜子 はなんでもないです、とこたえたが彼の目に嘘なのは明らかだった。
「君にそういう顔をさせているのは俺?」
「違います」
「ああ、そう。それならいいよ」
逢魔 は困ったように見上げてくる八喜子 の頰を優しくなでて微笑んだ。
「前に君が言ったでしょう? 泣いていても側にいてほしいって。君の全部を見ているよ」
眼鏡のない八喜子 の目には彼の周りに白い光が見えている。
八喜子 は頰にふれている逢魔 の手に自分の手をかさねて笑った。
本当に自分は幸せな目をもっている、と思いながら。
夕方。アルバイトを終えた雪輝 と八喜子 に呼び出された鷹司 はR市内の某ファミレスで2人とドリンクバーを飲んでいた。
彼の前にはコーヒーがあり2人の前には紅茶がある。
「相談ってなんだ?」
鷹司 にきかれ、うつむく八喜子 の代わりに雪輝 がこたえた。
「矢継早 さんのことです」
「だろうな。今度はどんなちょっかいを出してきた?」
「心配してくれているのはわかります。でも大丈夫だってわかってほしいだけです。俺も八喜子 も矢継早 さんを嫌いになりたくありません」
「無理だな。大丈夫じゃない。そう思えるのはお前たちが『さとり』だからだ」
鷹司 はコーヒーを飲んでから続ける。
「逢魔 が安全だなんて本心から思えない。どうしてそう思えるんだ?」
「八喜子 のことを本当に大事に思っているからです。八喜子 には逢魔 は俺と同じくらい大事に思っているのが見えています」
「そりゃよかったな。逢魔 にあちこちの化け物退治をしてくれるように頼んでくれ」
「そこまではしないと思います。八喜子 だってそうしてほしいとは思ってないです」
「……あの」
鷹司 と雪輝 は八喜子 を見る。
「2年前、逢魔 さんが怒った時に……」
八喜子 は言葉につまって鷹司 をじっと見る。不安で瞳が揺れていた。
「もう3年近いな。特課 の馬鹿が怒らせたんだ。そう気にしなくていい」
「怒らせたって何をしたんですか?」
「化け物会議の時にいきなり殴りかかったんだ。逢魔 は一番人間らしいからどうにかなると思ったんだろう。1番やばい、いや、2番目にやばい奴とも思わずに」
「1番は逢魔 の兄ですか?」
「ああ、そうだ」
「それで逢魔 はどうしたんですか?」
「前に写真で見ただろう? ミンチだ」
黙りこむ2人に鷹司 はひらひらと手を振る。
「人の言葉を話すゴリラだと思っとけ。仕方ない。怒らせた奴が悪い。殺す気でハンマーみたいな呪具を使ってたからな。正直に言うが」
鷹司 は静かに首を横に振る。
「どっちが化け物に見えたかというと特課 の奴の方だ。血走った目で叫びながらヨダレも垂らしてハンマーを振り回して、もちろん当たらないし簡単にいなされてたが……」
鷹司 は言葉をきって口に握った右手を軽くあてる。
「違うな。逢魔 の方じゃない。あんな大きい奴を狙うわけがない。あいつが最初に狙ったのは色なしの方だ」
「余計に大丈夫じゃないですか。兄の方は無敵だと思います」
「だからこそ、あんなに怒ったんだろう。いっつも笑ってるあれが無表情でミンチにするもんだから特課 の人間が何人もいなくなって大変だった」
鷹司 はいや、今も大変だな、と言いコーヒーを飲み干す。
2人に何か食べるか、と聞いたが八喜子 と雪輝 はそろって首を横に振った。
夜の金扇 家の明かりが消える。
自室で布団に入った雪輝 は引き戸の外から八喜子 の声がきこえ、また明かりをつけた。
声をかけると眼鏡を外したパジャマ姿の八喜子 が入ってくる。
「どうした?」
兄の前に向かい合って正座しながら浮かない顔の八喜子 はうつむいたままこたえた。
「雪輝 ……私って子供だった」
「一つしか違わない俺も子供だ」
八喜子 はむっとして顔をあげる。
「そうじゃなくて! ……逢魔 さんのこと好きだけど考えなきゃいけないこと、いっぱいあったのを今日まで気がつかなかったし」
「子供じゃなくてー」
「どうせバカだもん! バカだから……」
「人殺しでも好きでいいのかってことか?」
「……うん。本当に優しいんだよ」
「それはわかる。だいぶ変わったな」
雪輝 は写真立ての中の母親を見る。
「俺もわからない。八喜子 、母さんならどう言うと思う?」
「お金持ちなら気にしない」
「きっとそうだな。あとは」
雪輝 は八喜子 を見る。
「約束してもらおう。もう誰も殺さないでくれって」
八喜子 はうん、と頷いた。ありがとう、おやすみなさい、と笑って部屋を出る。
兄の言うことは間違いがない、そう思った。
翌日は大晦日まであと1日。冬の寒いが、よく晴れた日。
八喜子 は宿題と追々試の勉強をしに逢魔 の屋敷へ来ていた。
休憩の時に八喜子 が逢魔 に雪輝 と考えた約束を伝えると彼は人差し指をこめかみあてながら彼女を見返す。
「誰もっていうのは人間? 怪異はいいの? よくないと鷹司 がまた眠れないよ」
「お兄さんみたいな人はダメです」
「兄さんみたいな人は兄さんしかいないよ」
逢魔 は笑い声をあげる。
「お兄さんと仲がいいんですね」
「家族だからね。最近すごく機嫌が悪いけれど」
「私のせいですか? 喧嘩したんですか?」
「いや。いつも一方的に怒るだけだよ」
「明日からは来ない方がいいんですよね?」
「いいよ。俺の家なんだから。兄さんが何か言った?」
「いいえ。私のこと嫌いだと思います」
「兄さんが好きなのは俺だけだから気にしないで」
確かにそうだ、と八喜子 は思った。
あれは昔のことだ。今となっては昔のことだ。昔、昔、その昔。
俺と兄弟は流れ者。見世物をしては日銭を稼ぎ、稼いだ日銭はすぐ消える。
食い物に酒、そして女。
背の低い兄弟は愛想もなく俺の横でぶすくれて、よく似た顔で笑顔ひとつつくらない。
山の暮らしがよかったと、ことあるごとに愚痴をこぼし。
まあ、そういうな兄弟、と背中を叩けば睨まれて、愛想も何もありはしない。
賢い兄弟、知りたくはないか。
あれは空で雲があり銭に食い物、算術、着物。そして人間。
知りたくないとぶすくれて兄弟はまたそっぽを向く。
俺と同じ髪の色。瞳の色まで瓜二つ。
違うのは背の高さ。
だが、間違いなく俺の兄弟。
俺とお前は兄弟だ。
たったひとりの家族なのだ。
俺はお前が愛おしい。
しまった。しまった。ばれてしまった。
いや、違う。恐れられてしまった。
仕方がない。人間は臆病だ。
いつもの通りにやり過ごそう。
死んだふり。どうせすぐに治るのだ。
瞬き一つ、その間。
面倒だ、と怒るな兄弟、仕方がない。
人間は臆病なのだ。
弱い生き物は臆病なのだ。
打ち捨てられ投げ捨てられた。
夜まで待った兄弟と。
体をくっつけ歩き出す。腹が減った。
何を食べよう。夜の闇を歩き出す。
見つかった。
おおよそ暮らしは豊かではない、人間の女。
食ってしまおうと細い首に手をかけた。
女は声も出さずに俺を見る。
女は目がおかしい。月に雲がかかった一時の暗闇の中にきらきらと光をはなっている。
女の首から手を離し、その目は何だと問うてみる。女は愚かだ。愚かだった。
目のことは何もわかっていなかった。
きらきら光る不思議な目。
楽しかった。
俺と背の低い兄弟。それに女。町から村へ、村から町へ。流れに流れに流れては見世物をして日銭稼ぎ。
食い物、酒に着物を女に。
女を買うのはやめておこう。
きらきら光る目がくもる。
俺は女の瞳が好きなのだ。
見つかった。
ばれた。しまった。ばれてしまった。
怖がる女を守れもしない。愚かものだ。
女が怖がる。守れなかった。愚かものだ。
人間は臆病だ。臆病だから恐れるのだ。
恐れるから人間の真似をした。
恐れると思ったから人間の振りをした。
俺は愚かだ。愚かものだ。
女は俺を恐れなかった。恐れてなどいなかった。
なぜ真似をした。愚かもの。
泣くな、弟。気持ちが悪い。
人間の真似など気持ち悪い。
頰をぬらす涙が気持ち悪い。
大晦日。天気は晴れ。
R市内はよく晴れていた。
冷えこみを日に日に更新し今日は一段と寒いとされている。
ドーナツショップの中は年末特有の静かで、どこか待ち遠しいような空気に満たされている。
店内の一角に八喜子 と友人の朱珠 は向かい合って座りながら紅茶を飲んでいた。
八喜子 は茶色のニットに黒のスカートを身につけておりスカートからのびる足は厚手の黒いタイツをはいている。
ニットの上からでも胸のあたりに豊かなふくらみが見てとれる。
隠すように羽織ったスカートと同じ色の上着はあまり効果はなかった。
紅茶の熱でくもるためいつもの眼鏡はない。
長い睫毛がぱっちりとした目をぐるりと飾り、人目をひく整った顔立ちを縁取る黒い髪は肩のあたりで髪先がゆれている。
小柄な八喜子 に対して朱珠 は、高校中のほかの女子より誰よりも背が高い。あけすけな物言いと振る舞いを表すかのようにウェーブのかかった茶色の髪をまとめて結い、飾りをつけている。
派手な印象を与える化粧と顔立ちの朱珠 は赤いセーターにジーンズを身につけており彼女のすらりとした肢体を強調していた。
裏表のない性格の朱珠 は八喜子 のよき友人で事情を知っている。
八喜子 が「さとり」であり人の心が見えること、怪異とよばれる存在がおり鷹司 たちが怪異を対処する機関にいること、そして逢魔 が人ではないということ。
もっとも彼女の祖母が神、と古くから伝えきいているのが逢魔 である、ぐらいだが。
「オーマのとこ、お兄さんが来てんの?」
朱珠 がドーナッツを頬張りながらきく。
「うん。お仕事がないから来るんだって」
「彼女と過ごすの知ってるのに?」
「宿題と1月の追々試の勉強を教えてもらうだけだから、いつも通りだよ」
「なら何で今日は行かないの?」
「お兄さんにはあんまり会いたくない」
八喜子 は物憂げにため息をついた。
「逢魔 さんは気にしなくていいって言うけど」
八喜子 はカップの中の紅茶へと目線を落とした。茶色い水面に天井の照明がうつり輝きをはなっている。
「頭なでてもらったりするの恥ずかしい! だって無表情で何にも言わないけれど見てるんだもん!」
「はいはい、バカップル」
朱珠 は紅茶をぐいと飲みほしトレイにのったポットから2杯目をついだ。
「何で逢魔 さんは平気なんだろう」
「さあ? 神さまでかしづかれていると人がいるのがあたりまえとか?」
「誰もいないよ。すごくおうちは広いのに仙南 さんだけだし」
いつも整ったスーツ姿で時には空気のように姿勢正しく控えている仙南 のことを思い出し八喜子 は顔を赤くした。
彼女が彼の存在に気づかぬうちに逢魔 に抱きついていたら後ろから声をかけられたことがある。
彼の心は静かで何も見えない。
それは雪輝 のように何事にも動じないせいなのか隠しているだけなのか八喜子 にはよくわからない。
凝視すればわかるかもしれないが心を覗き
見るような真似はしたくなかった。
そういえば、と八喜子 はざっと店内へ視線を巡らせる。
目の前で直接話している朱珠 の周りには楽しさを表す黄色が見えるが、ほかの人たちには何の色も見えない。
八喜子 が見ようと思っていないからだ。
これのやり方、心をそらせ、と教えてくれたのは鷹司 だ。
逢魔 のことがよく見えるのは八喜子 が見たいと思っているからである。
それに気づいたのは兄の雪輝 に言われた最近のことであった。
朱珠 はドーナツの最後のひとかけらを投げこむように口の中へ入れもぐもぐと口を動かしながら話を続ける。
「それじゃ年越しは雪輝 と家で過ごすの?」
「うん。逢魔 さんは雪輝 もおいでって言ってたんだけど」
「お泊りだったわけ? そのままー」
「しない!」
顔を赤くして少し大きな声を出す八喜子 を見て朱珠 はげらげらと笑い声をあげた。
「やっぱり神さまだから新年を祝う感じ?」
朱珠 に言われ八喜子 は首を横に振った。
あわよくば、と思っているという言葉をのみこんで。
R市のはずれにある霞末 の森。高い塀に囲われた森の前に建つ逢魔 の屋敷。
とくに新年を迎える準備もなくいつも通りの時間が流れていた。
違うとすればいつもはいない兄の禍 が訪れ弟の逢魔 と向かい合い彼が一方的に談笑している。
「だからね、兄さん。八喜子 ちゃんをいじめないでくれる?」
禍 は弟の逢魔 と違い平均的な背の高さと体つきに黒い髪と瞳をもち服装も派手でゆったりとした装いの逢魔 違い、いつも黒ずくめの格好をしている。
禍 は表情のない目で弟を見返す。禍 から返事はなく逢魔 はやや大げさにため息をついた。
「兄さんは八喜子 ちゃんが嫌いなの?」
「どうでもいい。まだ胎 に入れていないのか?」
変わらぬ調子の禍 に問われ逢魔 は少し頰を染め目線を落とした。
「そうだけど……そういえば! あれからずっとはぐらかされてるけど何もしてないよね?」
「何の話だ?」
「何の話って俺の彼女と何でホテルに行くの? 何もしてないよね?」
「眼鏡を買った。それから昼食を食わせた」
「それだけなら何で2人っきりになる必要があるの?」
逢魔 は少し苛立ちをふくんだ目を禍 に向けたが彼は少しも表情を出さずに返す。
「詳しくききたいか?」
「ききたいからきいてるんだよ!」
「過 、あの女……まだ子供だな。あれで何人目だ?」
「674人目だよ。知ってるでしょう? それがどうかしたの?」
禍 は目だけを細める。
「いちいち数えているのか?」
「俺、数えるの好きだから」
「674回、捨てられる気か?」
「別れるって言ってくれない? 仕方ないだろう。どうしたってー」
逢魔 は目を伏せ憂いをおびた瞳で表情のない禍 の目を見返す。
「先に死んでしまうんだ」
禍 は何の感情も見せずに変わらぬ調子で言う。
「早く胎 に入れろ。入れなかったせいで死ぬこともある」
「そのための眼鏡じゃないの?」
「よく気づいたな」
禍 のほめるような声音に逢魔 は嬉しそうに笑ったが、すぐに笑顔をひっこめて詰めよるように身をのりだす。
「それで! どうして2人きりになる必要があるの?」
「調べた」
「何を? どこを? どうやって?」
「少し黙れ」
「そもそも! 眼鏡のことだって俺に言ってくれればいいじゃないか。
何でわざわざ2人で出かける必要があるの? 八喜子ちゃんは俺のものだよ? 確かにすごくおいしいけれど、もしかして兄さんも食べたいの?」
「黙っていろ。向こうは私たちのことが見えているが、あいにくとこちらからはわからない」
「そうだね。見られて困ることも、もうないんだけど……いや、あるな。俺の寝室、全部取り替えなきゃだ。年始だといつからになるんだろうね」
逢魔 に目を向けられ傍に控えていた仙南 は調べておきます、と返した。
彼はこれといって特徴のない平均的な顔立ちをしており、いつもきっちりとしたスーツ姿で姿勢正しく逢魔 の後ろに立っている。
「八喜子 ちゃんって昔のことも見えるだろう? ほかはリフォームしてあったりするんだけど……」
ふと思いあたった逢魔 は仙南 に今、座っているソファも取り替えるようにつげた。なるべく早急に、と。
「まだ一年も使っていないはずだが」
「兄さんのせいだよ。見られたら困ることがあるだろう?」
「何のことだ?」
「忘れたの? 今から4ヶ月前、8月に男同士で、しかも兄弟で! 気持ち悪いだろう!」
「いらん知恵だ」
「いるよ! とても重要だよ!」
「そこまでへりくだって情けなくならないのか?」
「へりくだるとかじゃなくてさあ、嫌われたくないって思うのは変じゃないでしょ? 俺は八喜子 ちゃんが好きなんだから」
「それこそいらん知恵だ」
「兄さんにはー」
逢魔 はわからない、と続けようとしたが言わなかった。
わからないはずがない。彼の兄は彼よりも賢い。兄の言うことはいつも正しいのを知っていたからだ。
「ねえ、兄さん、俺は今、とても満たされているよ。たとえ八喜子 ちゃんが死ぬまでの一時 だとしても」
逢魔 は無邪気に笑う。
「だから喜んでほしい。心配してくれてありがとう」
禍 は何の感情も込めずいつもの言葉をいつもの調子で返した。
「愚かもの」
そうだね、と逢魔 は快活に声をあげて笑う。
それからも一方的に逢魔 が話続け彼が兄から真意をきくのを忘れていたのを思い出したのは就寝前だった。
夜がきた。近隣住民の苦情でなくなることもなく除夜の鐘がR市内に響き渡る。
家のリビングでくつろぎながら雪輝 と八喜子 は遠くかからきこえるそれに耳を傾けていた。
テーブルの上には母の写真が入った写真立てが2人と向かい合うように置いてある。
八喜子 は眼鏡を外しテーブルの上に置くと母の写真を見た。
「静かだな」
雪輝 の言葉に八喜子 は頷いた。
「お母さんがいたら、何て言ったかな」
「お金持ちの家なんだから、ぜひ行きましょう! だろうな」
八喜子 はくすくすと笑い声をあげた。
「喜んでるよ。金のことだけじゃなくて……八喜子 」
雪輝 は八喜子の目を見る。
「八喜子 の目には逢魔の全部が見える。見えるのは幸せか?」
八喜子 の目には彼の周りに白い光が見える。
「うん!」
とびっきりの笑顔で頷く妹を見て雪輝 もほほえんだ。
写真立ての中の母、志喜子 も穏やかな笑みを浮かべている。
不意に大きな音を立てて玄関のドアが叩かれた。八喜子 はびくりと体を震わせ雪輝 を不安げに見る。
雪輝 は大丈夫だ、と言うと、なおも激しく叩かれるドアの方へと向かった。何を言っているかわからない男の悲鳴のような声も混じっている。
「雪輝 !」
ドアを凝視した八喜子 が大声を出したので雪輝 は足を止めて振り返った。
「円戸 さんと……先生?」
ドアは激しく叩かれ続けている。
雪輝 がドアの外に向かって声をかけると鷹司 の開けるな、という怒号が返ってきた。
ドアが叩かれなくなったかと思うと八喜子 の目にはドアのすぐ横のシンクの上の窓に円戸 の顔が見えた。
曇りガラスのはまった窓の外に円戸 と彼をとめようとしては振り払われる鷹司 の姿が見えている。
円戸 の拳が窓を叩き割り割れたガラスを物ともせず窓枠に足をかけ家の中に入ってきた。
彼の頰は深く立てた爪ではぎとられ肉がこそげ落ち血にまみれている。
円戸 は八喜子 をかばうように立ちはだかった雪輝 の肩をつかんで叫んだ。
「何も感じない! 俺は何だ? 俺はどう見える? 教えてくれ!教えてくれ!」
雪輝 が口を開くよりも先に円戸 は彼を横に投げとばす。
雪輝 は床に叩きつけられた。すぐに起き上がったが円戸 は動けないでいる八喜子 の肩をつかみ顔をのぞきこんでいる。
雪輝 はドアの鍵をあけ鷹司 を呼び、すぐに円戸 に後ろから羽交い締めにしたがびくともしなかった。
「俺は何だ? どう見える?」
円戸 のいつもと違い見開かれた瞳が八喜子 の目に怯えを見てとると彼は手を離し頭を抱えてうずくまる。
円戸 は言葉にならない叫び声をあげながら鷹司 になでられた背中の手を振り払い彼に体ごとぶつかってシンクに叩きつけた。
鷹司 が苦痛の声をあげすぐには立ち上がれないことを確認すると雪輝 と逃げようとする八喜子 の腰をつかんで引き倒し上に乗るとスカートをまくりあげる。
円戸 は殴りかかろうとした雪輝 の頭をつかんで床に叩きつけ彼が動けなくなると八喜子 の服に手をかけ引き裂いた。
悲鳴をあげて抵抗する八喜子 に円戸 は懇願する。
「頼む! 頼む! もうわからないんだ!」
泣きそうな目で繰り返す円戸 に八喜子 は首を横に振った。
音を立てて蛍光灯が消える。一瞬の暗闇が開けると家の中の気温がぐっと下がっていた。円戸 の後ろに禍 が立っている。
禍 は円戸 の首を後ろからつかむと軽々と持ち上げシンクの上の窓めがけて投げつける。
円戸 は窓枠に叩きつけられシンクの上に落ちた。
禍 はいつもの通り黒い上着を八喜子 へかけると浅く呼吸を繰り返して動けない円戸 へと近よっていく。
円戸 の前に立つ形になった鷹司 が両手の平を禍 に向けた。
「待て。助かった。それは礼を言う。俺が殺す。やめてくれ」
禍 は鷹司 が見えてないかのように歩みを止めない。
鷹司 は後ろの円戸 を振り向き怒鳴りつけた。
「逃げろ!」
円戸 は這うように窓の外へ落ちると立ち上がろうと地面についた手足にぐっと力をこめようとした。
窓からの明かりが円戸 の上に落ちる影をつくる。
円戸 が目の前に見える派手な印象を与える服を足先から上へとたどっていくと霞末 の色つきと呼ばれる美しい男、逢魔 が立っていた。
逢魔 は円戸 に目もくれず少し背をかがめてガラスの割れた窓から中の様子を見てとると、すぐに開けはなたれたままのドアから家の中に入る。
円戸 はごろりと地面に寝転がると笑い出した。あははは、といつまでも笑い続ける彼の声が夜の闇に吸いこまれていく。
八喜子 は禍 からの上着で胸を隠しながら床に倒れたままの雪輝 の背に手をあてて名前を呼んでいた。
雪輝 がうなって目を開け体を起こすと同時に逢魔が家の中に入ってくる。
入れ替わるように鷹司 が外へ飛び出していった。
「雪輝 、大丈夫?」
「痛ぇ……」
頭をおさえながら雪輝 は心配そうに自分を見る八喜子 に頷いてみせる。
逢魔 は膝をついて八喜子 の髪をなでた。外からは円戸 の笑い声がきこえ続けている。
「ごめんね。怖かっただろう」
八喜子 は優しく自分を見る逢魔 の瞳を見て、ぽろぽろと涙をこぼした。抱きよせられるままに彼にしがみつく。大丈夫だよ、と優しく囁かれながら八喜子 は泣き続けた。
「あれはどうする?」
禍 の抑揚のない声がよく響く。
「殺すんですか?」
雪輝 の問いには誰も何もこたえなかった。雪輝 は床に座りこんだままシンクの上の窓から外を見ている禍 を見上げる。
「助けてくれてありがとうございます。でも誰も呼んでないと思います。どうして来れたんですか?」
禍 はこたえずに逢魔 に歩みよると頭をつかんで床に叩きつけた。一緒にひっくり返る形になった八喜子 が叫ぶ。
逢魔 は顔をしかめながら腕組みをして自分を見下ろす禍 を見上げた。
「痛いんだけど?」
逢魔 は片手をついて抱えた八喜子 ごと体を起こす。
禍 は目だけを細めて、いつものように表情のないまま返した。
「人間の真似は愚かなことだ」
「ああ、そう。あとにしてよ」
逢魔 は八喜子 の髪をなで彼女の頰をつたう涙をべろりとなめると瞳に愛おしげに口づけをした。
彼の周りに見える白い光と同じものが八喜子 の目には見えている。
怒っている禍 の周りにも。
2人はそれぞれ相手は違っていても同じことを思っていた。
『かわいい』『愛おしい』
もしかして、と八喜子 は気づいた。
自分が霞末 の森に見た白い光。母が亡くなり寂しくてたまらない時に見えたあの光。あれは逢魔 ではなく禍 だったのではないか、と。
そう思うほど禍 からの光はあたたかかった。これはたったひとりの家族へ向けられているものだ。だから母を思い出すほどあたたかく優しいものだと思ったのだろう。だからー。
八喜子 は逢魔を見上げた。涙はもう出ていない。
大丈夫だよ、と優しく笑う彼の周りには白い光が見えている。
だから逢魔さんは知っているんだ。
優しさとー。
『かわいい』『愛おしい』
雪輝 は耳をふさいで顔をしかめていた。外から不快な音と目の前からきこえる快い音が不協和音を奏で彼を苦しめている。
金扇 家の外では寝転がった円戸 は笑い続けている。
鷹司 は険しい顔つきで円戸 を見下ろして立っていた。
雪輝 をともなって禍 と逢魔 が外へ出てくる。
「大丈夫か? 本当にすまない。どう詫びたらいいのかわからん」
ため息とともに静かに言う鷹司 に雪輝 は何も言えなかった。鷹司 は禍 の表情のない顔を見る。
「俺が殺す。それでどうにかおさめてくれ」
「私のものではない」
鷹司 が目線を逢魔 にうつすと彼の瞳は金色に輝いており怒りが見てとれた。
鷹司 は静かに続ける。
「俺が殺す。八喜子 だって、お前に人殺しをしてほしいとは思ってない」
「それは君に言われなくても知ってる」
「もうすぐ迎えが来る」
「ああ、そう。殺すのは駄目だ」
「は?」
鷹司 は予想外の答えに眉をよせた。
「約束だからね。八喜子 ちゃんは君にだって人殺しになってほしくないだろう。ずいぶん慕っているんだから」
鷹司 はまじか、と小さく呟き感心したように息を吐く。
雪輝 もほっと胸をなでおろした。
「雪輝 は頭を打ったよな? 病院で検査しよう。八喜子 はどうする?」
「一緒に行きます」
鷹司 にきかれ雪輝 は深々とため息をついた。
「俺と一緒にいるって言えばですけど」
雪輝 には言わないだろう、という確信があった。
彼の耳にはわかってしまう。
家族の自分よりも必要とされている存在が目の前にいた。
霞末 の森の前に建つ逢魔 の屋敷についた八喜子 は落ち着かなかった。
いつもは掃除をするだけの客間の一つを与えられたからだ。
荒らされた自分の家は鷹司 から連絡を受けた特課 の方で直してくれるそうだが今夜中には無理である。貴重品としばらく逢魔 の屋敷に泊まる用意をして来ることになったのだ。
客間といえど自分の家より広いのではないかと思いながら八喜子 は逢魔 と部屋にあるソファに隣り合って座っていた。
雪輝 は病院で検査をするため昼過ぎまで来られないかもしれない。
そう鷹司 から説明を受けていた。
「寝ないの?」
逢魔 にきかれ八喜子 は同じことをききかえした。
「逢魔 さんこそ寝ないんですか?」
「君が寝られるなら寝るけれど大丈夫?」
「……怖かったです」
「一緒にいるよ。大丈夫」
逢魔 はほほえむと八喜子 の髪をなでた。
しばらくそうしていた逢魔 から口を開く。
「一緒に寝ようか?」
八喜子 は顔を赤くして目を伏せた。伏せた目は自然とベッドの方を向いてしまう。八喜子 は小さく悲鳴をあげて頰を両手でおおう。
「……ベッド使いたくないです。見えました」
逢魔 は小さくここでもだったか、ともらす。
「部屋を変えようか。どこかは大丈夫だと思う」
「覚えてないくらいしてるんですか?」
逢魔 は長生きしてるからね、と笑顔をくずさずに返した。
眠りについていた禍 は不躾に開けられたドアの音で目を覚ました。
ドアに目を向けると弟の逢魔 が遠慮なく入ってきて禍 の座る向かいの椅子に座る。
「何だ?」
「兄さん、別の部屋にうつってよ」
意味がわからず無言で見返す禍 に逢魔 は屈託のない笑みを浮かべたまま続ける。
「すっかり忘れてたんだけど八喜子 ちゃんが昔のことが見えちゃうから変わってほしいんだ。兄さん、どうせ椅子で寝てるでしょう?」
「ほかの部屋にしろ」
「全部いろいろな場所であるんだ」
「知らん」
「そう言わずに。かわいい弟でしょう?」
「お前は可愛い。八喜子 は知らん」
「じゃあ何で助けたの?」
「騒がしかったからだ」
「ああ、そう。ゆっくり寝かせてあげたいじゃない。兄さんは俺の部屋を使えばいいよ」
「知らん。奥の部屋は? 使用人用の部屋があっただろう」
逢魔 は首を横に振った。
心あたりがある、と。
禍 は目を閉じたが逢魔はしつこく肩をつかんで揺らす。兄さん、兄さん、と、繰り返しながら。
禍 は目を開け勢いよく掌を逢魔 の額に打ちつけた。
「痛いよ」
「うるさい」
八喜子 は大広間のソファでうとうととしながら背もたれによりかかっていた。人の姿が視界に入ると息をのんで身を引く。
禍 が音もなくすぐ横に立っていた。八喜子 は体を起こして姿勢をただす。
「お兄さん、さっきは助けてくれてありがとうございます」
禍 は表情のないまま口を開く。
「目をよこせ」
「嫌です」
「過去も未来も見えなくする。さとりは生きづらい。弟もうるさい」
「未来ってどういうことですか?」
「知らないならそのままでいい」
「かやさんからきいたんですか?」
禍 はこたえない。
彼の周りに見える色が深い青色へ変わるのが八喜子 の目には見えた。
『未来が見えても何の役にも立たない
見えたなら、見えていたなら
どうしてついてきた』
「ごめんなさい」
八喜子 は何の感情もしめさない禍 の黒い瞳を見返した。
「目はあげません。だってかやさんと同じ幸せが見えるんですから」
顔は自然と笑顔になる。
逢魔 さんと同じで優しい人なのかもしれない
禍 は表情のないまま鼻を鳴らす。
「知った口をきくな。お前は愚かものだ」
「どうせバカです!」
八喜子 はむっとして頰をふくらませた。
全然っ!優しくないっ!
大広間の扉が開き逢魔 が入ってくる。
「八喜子 ちゃん、兄さんが部屋を代わってくれるって。椅子しか使わないから大丈夫だよ」
「いいんですか?」
「いいから、いいから。行こう。兄さん、おやすみ」
やや強引に八喜子 は逢魔 に連れ出された。
禍 が滞在する部屋はほかの部屋より調度品が凝っている。
八喜子 はより落ち着かなさの増した部屋のベッドに横になった。
疲れもありすぐに眠りにつきそうになる。逢魔 はいつもの通り優しく笑いながらベッドの横に置いた椅子に座り彼女の髪をなでていた。
それを嬉しく思う反面シャワーをあびパジャマ姿でいるのが気恥ずかしい気持ちもある。
八喜子 の目には逢魔 の周りに変わらず白い光が見えていた。同時に濃い色のピンク色もちかちか見えている。
『……記憶を食べてしまえばっ!
いや、でもそれは駄目だ。
覚えてなければなかったことになるけれど。なるけれど!』
「ダメです」
「……まだ何も言ってないでしょう」
逢魔 は顔を赤くして八喜子 の髪から手を放し自分の顔にあて目を伏せる。
恥ずかしがっているその様子が八喜子 にはなんだか可愛らしくも思えた。
「逢魔 さん、いつか教えてくださいね。本当の名前」
「俺は君の逢魔 だよ。君が見ているのが俺だ」
「あんまり自分の名前好きじゃないんですか?」
「知れば知るほどね。眠れそう? 君が眠ってもここにいるから」
「ありがとうございます」
八喜子 は体を起こすと逢魔 に抱きついた。胸に耳をつけると鼓動がきこえる。
『かわいいかわいいたまらない
嬉しいかわいい愛おしいたまらない
我慢できない愛おしいかわいい
抱きたい愛おしいかわいい』
「嬉しい、嬉しいよ。でもちょっと離れて! ……無理になりそう」
「こうしてるの好きです。ダメですか?」
「駄目だよ、俺は君を傷つけたくない」
「円戸 さんは怖くて嫌だったけれど逢魔 さんなら怖くないし嫌じゃないです」
「その気がないのに! そういうことを言ったら駄目! 早く寝よう!」
八喜子 ははぁい、と返事をしてベッドに横になった。
おやすみなさい、と言い目を閉じるとすぐに眠りに落ちる。優しく頰にふれる指先を感じながら。
県でも有数の医療技術をもっているとされるR総合病院。院内も施設も新しい。
窓の外が明るくなってきたのを廊下の待合スペースで椅子に座って待ちながら雪輝 は見ていた。
隣には鷹司 が座っている。無人の廊下に雪輝 の小さな声が響く。
「先生、円戸 さんは?」
「拘束した」
鷹司 がは短くこたえ黙りこむ。
「会いたいです。八喜子 と一緒に。会いに行けますか?」
「駄目だ。円戸 は狂った。狂った人間の心を見たら「さとり」も狂う」
鷹司 の険しい顔つきを見て雪輝 はうーんと腕組みをしてしばらく考えこんでいたがきっぱりと言い放った。
「大丈夫です」
「根拠は何だ?」
「狂うんだったら俺と八喜子 はとっくに狂ってます。怪異、霞末 兄弟とか、が円戸 さんと同じになるんでしょう? 同じ音がきこえます」
鷹司 の目から険しさは消えない。じっと雪輝 の目を見ている。
「でも俺たちは見えるんです、俺はきこえるんですけれど、なんていうか……基本的には怖い人でも優しいところもあるじゃないですか。そんな感じである一面だけが全部じゃないんです。先生、八喜子 が高校に出たピアノの幽霊を消した時のこと覚えてますか?」
鷹司 は黙って頷く。
「あんな感じで、円戸 さんが俺たちのところに来たのも、大丈夫だよって言って欲しかったんです。言ってあげれればよかったんですけど」
怖かったです、と雪輝 はため息とともに吐き出した。すみません、とも。
「お前たちは何も悪くない。怖い思いをさせて本当にすまなかった」
鷹司 は自分の両手へ目を落とし何度も開いては閉じる。
「俺がためらったせいだ。もっと早く燃やしてやればよかった」
鷹司 は下を向いたまま会わせることはできない、と静かに言った。
雪輝 はしばらく黙っていたが明るく言う。
「じゃ、征士郎 に頼みます。すみれさんの方がいいですか」
「おい。わかってるのか? 大丈夫だという保証はどこにも誰にもないんだぞ」
咎めるような鷹司 に雪輝 は当然のようにこたえた。
大丈夫です、と。
「悟ってますから。俺たち『さとり』なんで」
鷹司 はクール王子はクールだな、とぼやいた。
特課 の会議室で報告を受けた千平 すみれは形の良い眉をよせた。本当ですか、とききかえす。
立ったままの鷹司 はそうだ、とこたえた。
「円戸 さんと会いたい、と言ってるんですか? 八喜子 さんもご一緒に……」
すみれは優雅なしぐさで前髪にふれると物憂げにため息をもらす。
「彼 の方 がお許しになるわけありません。こちらから危険な、それもご迷惑をおかけしたというのに、会わせることはできません」
すみれは頰に片手をあてて物憂げにため息をつく。
「会わせてくれないなら逢魔 に頼むそうだ。俺はよく知らないが怪異どもからの要望をきくと貸しになるんだろう? そうなった方がいいのか?」
「小此木さんが多々良木 を切り倒してしまったので、わたくしたちがお詫びをしなくてはいけないことばかりです。彼 の方 がお怒りになられてますし」
「じゃあ逢魔 から要望をきいて帳消しにしてもらったらどうだ? その方がこっちも助かるんだろう」
すみれはほほえむ。悪い方ですね、とそえて。
逢魔 の屋敷の大広間。
時刻は昼をというよりは夕方に近くなってきた頃。
八喜子 と逢魔 に禍 、それに雪輝 を加えた4人は遅い食事を終えお茶を飲んでいた。
「駄目」
雪輝 から円戸 と会う、という話をきいた逢魔 はすかさず言う。
「絶対に駄目。彼は君たちにひどいことしかしていないだろう?」
「ひどいというか、あまり親しくもない」
「じゃあ、ほっとけばいい。君たちが『さとり』だから、とすがってくる相手を助けていたらきりがない」
「俺だって善意からじゃない。夢見が悪いだけだ」
「気が狂うのはそいつの勝手だろう。君たちには何の責任も義務もないさ」
逢魔 は話を終わらせようとするかのようにひらひらと手を振ってみせる。
彼の隣に座る上機嫌な八喜子 はにこにこと笑っている。
八喜子 の反対側、雪輝 の斜向かいに座る禍 は終始無言だ。
「八喜子 はどう思う?」
「え?雪輝 がそう思うんだったらいいと思う」
「それはちょっと考えることを放棄しすぎてない? じゃあ、雪輝 君がそうした方がいいって言うなら君は何でもするの?」
しばらく逢魔 を見上げていた八喜子 は少し彼から身を引いた。
彼女が顔を赤くして小声でしません、と言うと逢魔 も気まずそうにああ、そう、と返す。彼の顔もほんのりと赤い。
「お前、何を考えたんだよ」
「昨日から刺激的だからね。扇情的とも言うね」
あきれたように言う雪輝 に逢魔 はくすくすと笑った。
禍 は眉をよせ雪輝 へ目を向ける。
「口の利き方に気をつけろ。どちらも育ちが悪い」
逢魔 は禍 の言葉に笑い声をあげる。
「別にいいよ。いまさら敬語を使われる方が気味が悪い」
禍 は目だけを細めたがそれ以上は何も言わなかった。
特課 の収容施設。
まっすぐのびた廊下の両側にある白い壁には均等に小さな格子と食事用の窓がついたドアが均一に並んでいる。
格子の下には番号が書いたプレートがはってあった。
その廊下を黒いスーツに肩まではとどかない長さの髪を揺らしながら矢継早 が足音を響かせながら歩いていた。
手にはスーツと同じくビジネスバッグをもっている。
矢継早 は鍵を取り出しプレートに23と書かれたドアの前で立ち止まった。ドアノブの上にある鍵穴に鍵をいれて回すとドアをあける。
中に足を踏み入れると拘束着を着せられた円戸 がパイプベッドの上にも縛りつけられていた。
矢継早 は口からよだれをたらし焦点の合わない目で天井を見つめている彼をしばらくみつめていたがバッグから黒い縄を取り出すと無言のまま彼の首にかける。
縄をもつ手に力をこめた矢継早 は一度、力を緩めると憐れむような目を円戸 へ向けたが、やがてぎりぎりと彼の首を締めあげ始めた。
手の平に縄の跡が残るほどの強い力で締めあげ続けても円戸 は何の反応もしめさない。
不意に部屋の中に携帯の音が鳴り響いた。
矢継早 は縄から手を離し携帯を取り出す。画面を見た彼女はふふっと小さく笑った。なんですか、それと言いながら。
仙南 が運転する逢魔 の車で特課 の収容施設についた八喜子 と雪輝 は入り口で鷹司 と合流した。
高いコンクリート塀にかこまれた四角く白い壁の建物には鉄製の扉がついており扉の横に手のひらほどの暗証番号を入力する機械がついている。
鷹司 がキーを押すと扉のロックが解除された音がした。
彼はそのまま扉を押しあけ開いたままにすると八喜子 と雪輝 、逢魔 を中へと招き入れる。
扉のすぐ横には警備員室があり顔の位置ほどの高さに小さな窓とセットになった小さなカウンターがあった。その横には出入りのための鉄製の扉がある。
中にいた警備員は逢魔 の姿を目にとめると感嘆の息をもらしぼんやりと彼を見つめ続けた。
「23番だ。鍵をくれ」
鷹司 がやや大声で言うと警備員は鍵とバインダーに挟んだリスト、ボールぺンを渡してくる。
リストに書こうとした鷹司 の手がとまり、彼は鍵をつかむと奥へとまっすぐのびる廊下を走り出した。
警備員が慌てて横の扉を開き鷹司 の後を追いかけて走り出す。
八喜子 と雪輝 も顔を見合わせて走り出そうとしたが逢魔 が2人をとどめ、ここで待つように、と言った。死体のにおいがする、と言って。
翌日。冬のよく晴れた空に煙突から煙がたちのぼっていく。
円戸 の葬儀は静かなものだった。葬儀らしさはなく火葬場で彼が骨になるのを黙って待つ。それだけだ。
あてがわれた待合室には鷹司 と水咲 に雪輝 、八喜子 の4人しかいなかった。鷹司 と水咲 は喪服を身につけ雪輝 と八喜子 は制服だ。
八喜子 の入れたお茶はすっかり冷めていた。
誰も口を開かない。
水咲 は折り紙をしていた。眼鏡をかけ鷹司 と同じくらいの歳の彼はひとつひとつの工程をきっちりと折り完成するたびに内ポケットにしまっていく。
八喜子 と雪輝 は母の葬儀を思い出していた。
あの時は2人きりでこうして待っていた
どうして死んでしまったのか、と
2人そろって泣いた
病気だと言われたがよく覚えていない
ただもう会えないことが悲しくてたまらなかった
もっと話をしたかった
もっとききたいことがたくさんあった
もっと教えてほしいことがあった
たくさん、たくさんあったのに
あの日突然、いなくなってしまった
八喜子 は大人は泣かないのだろうか、と思った。
彼女の目には鷹司 も水咲 も悲しんでいるのが見えたが2人とも涙を浮かべることはしていない。
ただ静かに悲しみに耐えている。
八喜子 は円戸 のことを思い出した。
彼女は彼を明るい下品な人だと思っていたたけれど嫌いとも好きとも思う前にいなくなってしまった。
苦しんでいたのはわかった。
自分が怪異と呼び憎んでいる存在と何が違うのかわからなくなってしまった、と。
憎くてたまらず自分が見えなくなってしまった。
だから八喜子 に見てほしい、とやってきたのだ。
ー誰か、あたしを見てー
八喜子 は自分を傷つけて泣いている少女の姿を思い出した。
ー俺は何だ? どう見える?ー
円戸 の周りには暗闇よりも黒い色が見えていた。
自分を見て、と切望していた2人の姿を思い出すと重りのようにのしかかり八喜子 の胸は苦しくなる。
ー君だけが俺を見てくれるー
ー君が見ているのが俺だー
優しく笑う逢魔 の顔を思い出すと八喜子 の胸は嬉しさで高鳴った。と、同時に彼が自分の名前を教えてくれないことにちくりと痛んだ。
自分の名前が好きではない、と言っていたことも思い出す。
ー過 。あやまち。責める。咎める。間違っていたことー
八喜子 は見えた彼の名前を呼ぶことはやめようと思った。
いつか彼から教えてもらえる、その日まで。
大きな火葬場は新しく広かった。
トイレに行くため待合室を出た八喜子 はなんとなくすぐ戻る気にはなれず廊下を歩いた。
砂利とオブジェの飾ってある中庭や絵が遺族の心をなぐさめるためだろうか、あちらこちらに用意されている。
美術館のように絵が並んでいる廊下に黒いスーツ姿の女性、矢継早 の姿を見つけ八喜子 は足をとめた。
足音に気がついたのか矢継早 は絵から八喜子 へ目をうつし、こんにちは、と挨拶をする。
八喜子 も小さい声であいさつを返し、おそるおそる彼女の隣に並んだ。
しばらく無言で2人は絵を見ていた。
八喜子 にはよくわからなかったが女性がリンゴを手にもち、こちらを見てほほえんでいる。
「このモデル、心中したんです」
驚いた八喜子 が矢継早 を見上げるが彼女は絵を見たまま続ける。
「不倫の果ての心中でした。夫の方は評判のいい人で子供もいて幸せだったのに。残された家族はわんわん泣いてました。残される家族のことなんて、ちっとも考えないで愛に生きたんですって」
矢継早 はふふっと小さく笑った。
「なんですか、それって感じですよ。遺族は『お前たちはいらない』って自分勝手に死なれて惨めで苦しいですよね」
矢継早 は八喜子 を見下ろす。
「化け物と付き合うのは勝手ですけれど自分勝手に死んだら駄目ですよ。雪輝 君は大事な家族じゃないんですか? 自分勝手な死は遺族を傷つけるんです」
八喜子 は何も言えず目を伏せた。
「心あたりありますか? 恋に恋してるだけでいつか気づきますよ。時間の無駄だって。あなたがいくら大事に思っても向こうから、そう思われることはないんです。あなたが好きなのは人間じゃない。利用するぐらいに思っておけばいいんです」
しばらく沈黙が続いた。
八喜子 は何度も床と矢継早 を見比べたが、やがて口を開いた。
「矢継早 さん」
矢継早 は八喜子 の目を見たが何度もそれてはまた戻る彼女の視線がさだまるまでじっと待っていた。
「あの……前に逢魔 さんに食べられそうになった時、それでもいいって思っちゃったです」
矢継早 は、やっぱり、と吐き捨てる。
「1人になっちゃう雪輝 のこと考えてなくて、それは私が悪かったです」
八喜子 はごくりとつばを飲みこんだ。喉が緊張でひりひりする。
「でも逢魔 さんは大事に思ってくれないなんてことないです。ちょっとしつこくて、うっとおしい時もあるけれど。だからー」
八喜子 は一度、口を閉じて視線を巡らせてから、また口を開いた。
「だから……だから、矢継早 さんの弟さんの時とは違うんです」
矢継早 はぎろりと目を見開き八喜子 の肩をつかんで顔を近づけると彼女の目を覗きこみ低く呪詛のような声で続ける。
「あいつらは化け物なんですよ」
矢継早 の指が八喜子 の肩にくいこんだ。痛さに顔をしかめることもできず八喜子 はただ矢継早 の目を見返すしかなかった。
彼女の周りには赤黒い色が炎のようにゆらめいている。
自分を案じてくれていた彼女はもういない。
ただ自分の憎しみをぶつけてきているだけなのが八喜子 にはわかってしまっていた。
怒声がとんでくる。2人が声の方を見ると鷹司 が走ってくるのが見えた。
矢継早 は八喜子 から手を離すと鷹司 に向かって歩き出す。
彼女は鷹司 が声をかけるよりも先にすれ違いざまに「命令されましたから」とだけ言い歩調を変えずに立ち去った。
八喜子 は彼女の背に見える炎のような赤黒い色を悲しいと思った。
火葬場の職員が呼びにくると八喜子 と雪輝 は鷹司 はそのまま待合室で待つように言い水咲 と出て行った。
「骨を拾うほど親しくはないからな」
雪輝 がぽつりともらすと八喜子 は頷いた。
「矢継早 さんがまた何か言ってきたのか?」
「あのね、雪輝 。私、逢魔 さんに食べられそうだったんだ」
ぎょっとして自分を見る雪輝 に八喜子 は続けた。
「好きでずっと一緒にいたいから食べたいって。すごく大事に思ってくれてて嬉しくて……それでもいいかなって思っちゃった」
口を開きかける雪輝 に黙っているように両手の平をみせ八喜子 は続ける。
「雪輝 のこと考えてなかった。ごめんね」
「……バカ」
「うん、バカだと思う。だけどね、雪輝 。もしまた逢魔 さんに食べられることがあったら私は怖くなんかないし、すごく嬉しい」
「いや! 食べられるなよ! 嫌だって言えよ」
「あのね、わかってなかったんだけど」
慌てる兄の様子がおかしくて八喜子 はくすくす笑った。
「想像じゃなかったんだ。あれが未来を見るってことなんだ」
「……意味がわからない」
「見えたらわかるよ」
それはそれは幸せそうに笑う八喜子 の様子に雪輝 はただひたすらに混乱していた。
数日後。霞末 の森の逢魔 の屋敷。
逢魔 の屋敷の台所は広い。中央に位置する広い調理台をぐるりと囲んで壁際にシンクやコンロがある。
台所でエプロンと三角巾を身につけた八喜子 と仙南 はにらみあっていた。
騒ぎをききつけた逢魔 が扉を開けて入ってくる。
「喧嘩してる声がきこえてるけど、どうしたの?」
スーツの上に白いエプロンと三角巾をつけた仙南 がいいえ、こちらの問題です、とこたえる。
逢魔 は小花柄の三角巾とエプロンを身につけた八喜子 へと目を向けた。
「どうしたの?」
「仙南 さんが開けて1ヶ月たったから捨てるって言うんです!」
八喜子 は調理台の上の調味料を指差した。ラベルの上にしっかりと開封日といつまでかが書いてある。
瓶の中身はまだ5センチほど残っていた。
仙南 は無表情だが声に不満をにじませて言う。
「風味が失われます。適切な保存方法であったとしても1ヶ月で捨てるべきです」
「そんなことより自分の胃袋を信じるんです! もったいない」
「いいえ、科学的な根拠があります」
言い争いを続ける2人に逢魔 は困ったように笑いながら一言だけ言った。
ああ、そう、と。
まだまだ彼は昼食にありつけそうにない。
彼は
「何だ?」
「
「何を?」
「無防備に抱きついてくることだよ! 限界がきそうだ」
「お前、やる気だっただろう。意味がわからない」
そうなんだけどね、と嘆く
「君だってわかるだろう? わかるはずだ!」
「ああ、俺の妹はとてもかわいいからな」
「俺、あんなにべたべたしてたっけ……」
「してたんじゃないか。
「今も言ってる?」
「いや。最近はきかない」
「君から言ってくれない? あんまりくっつくもんじゃないって」
「お前、ちょっと前は余裕だったじゃないか」
「呼吸も意識すると息苦しくなるだろう?同じことだよ」
「劣情を意識するとってことか?」
「いいや、愛だよ」
「そうか、そうか。よかったな。一応言っておく。わかっていると思うが」
「「きかない」」
翌日。
2人にとっては年末の差し迫る冬休みの平日。
朝食を食べながら
「
「違う。好きだからくっついてほしくないんだ」
「どうして?」
「劣情に負けるから」
「レツジョーって何? いつもみたいになめたいってこと?」
「そんなところだ」
「
唐突にきかれ
「大丈夫?」
「とにかく! 彼氏でもあんまりくっつくな。
「言うけど喜んでる」
「それは仕方ない。言ってることと違うのを、あいつはどう言ってるんだ?」
「嬉しいけどやめてほしいって」
「じゃあ、やめてやれ。嫌いとかそういうことじゃなくて」
「じゃなくて?」
「……男にはそういうことがあるんだ。
某所特別捜査第一課。通称
どちらも無言で睨み合うような沈黙に耐えかねて
「タカ兄も
「
「そうか」
「そうか、だけですか?
そうって何がそうですか?
いっつも『そう』じゃないですか!
あいつらはバケモノなんですよ!
気に入らなくなったら殺すんです。
赤子の手をひねるようになんて言いますけど、それよりももっと簡単に!
それなのに何もしないでほうっておくんですか? それじゃ見殺しにするのと一緒じゃないですか!」
矢継早に言う
「少し違うな。気に入ってるから殺すんだ」
「はぁ!? そうですか、すみません!
あいつらのことなんてわかりませんからね! わたしは人間ですから!
どうせまた
「金持ち、色男、力持ち。おまけに賢い。完璧だな。しかも惚れてくれてるとなれば、そりゃ惚れるだろう」
「惚れてるってなんですか?食欲じゃないですか」
「矢継早《やつぎばや」
「なんですか?」
「寂しいな。子供の巣立ちだ」
「ふざけないでください!」
「実際問題、
「幸せって何ですか? 飼われていることがですか?」
声を大きくする
「あいつらは親なしだ。強力な庇護はあって困るもんじゃない」
「飼われていろってことですか?」
「対価はちゃんと与えているさ。
「ただの気まぐれじゃないですか」
「そうだ。気まぐれだ。長く続くように祈ろう。だからー」
「余計なことをふきこむな」
大きな音を立ててしまったドアに
「
「そう簡単に割り切れないだけだ。まだ若いからな」
6年目か、と
いつも通りに掃除を終え玄関に続く扉を開けると
彼の長い影が
「おはようございます。どこに行ってたんですか」
「おはよう。もうこんにちは、の時間だね。いつもの散歩だよ」
彼女は自分の髪をなでる大きな手に嬉しそうに両手をそえた。
「会えてよかったです」
「もう帰るんだよね」
「はい。
「ああ、そう」
またね、と言う
食後のコーヒーを飲む
2人はパスタがおいしいと評判の店で食事を終えたデザートにとりかかるところだ。
「
「ケーキにはコーヒーでしょう?」
「紅茶もおいしいです。ケーキはもっとおいしいです」
「やっきーは食いしん坊ですね。
「
「やっきー、その字、書けますか?」
「色つきは怖くないですか?」
「優しいです。
「へえ。色つきが、ですか?」
「はい。
「劣情って誰が言ったんですか?」
「
「セックスしたいってことですよ」
顔を赤くして彼女を見るが
「男は動物ですからね。色つきはより獣みたいなものですから。襲われそうになったことないんですか」
「……ないです」
「かわいそうですね」
「やっきーは色つきが浮気してもいいんですか? ほかの女とセックスしていいですか」
「嫌です」
「ですよね。色つきに我慢させているんだったらかわいそうです。ひどく残酷なことです。あなたは子供でも相手は大人なんですから」
「そうなんですか?」
「はい。もらったものだけで幸せを感じる女と男じゃ違うんですよ。片方だけつらい思いをさせるのってどうなんですかね?」
彼女はいつものように見えるそれを変だとは思わなかった。
「そうなんですね。
「そうですね。セックスしてあげるんですか?」
「じゃあ、どうして付き合うんですか? 相手は大人なんだから、お守りをさせて利用しているだけなら、かわいそうじゃないですか」
暗い顔の彼女に
「ケーキ、食べましょう」
夕方。アルバイトを終え帰宅した
「どうした?
「
「何だ?」
「なんでもない。ご飯つくるね!」
「今日は俺の番だろう?」
「いいの! つくりたい気分なの!」
「ありがとう。肉がいい」
「わかった」
リクエストが通り
しかし料理に集中しだした
翌日。
いつものように大広間のソファに並んで座りテーブルには教科書とノートが広げられている。
「
「なぁに?」
「あの……」
顔を赤くしてうつむく
「何か見えた?」
「今日は見えないです。あの……」
うつむいたままの
「どうしたの?」
「……見えないです。今日は」
「……嘘?」
「何も言ってないでしょう?」
「違います。
どうして?
暗い顔をして黙りこむ
どうしたの、と声をかけながら。
「君にそういう顔をさせているのは俺?」
「違います」
「ああ、そう。それならいいよ」
「前に君が言ったでしょう? 泣いていても側にいてほしいって。君の全部を見ているよ」
眼鏡のない
本当に自分は幸せな目をもっている、と思いながら。
夕方。アルバイトを終えた
彼の前にはコーヒーがあり2人の前には紅茶がある。
「相談ってなんだ?」
「
「だろうな。今度はどんなちょっかいを出してきた?」
「心配してくれているのはわかります。でも大丈夫だってわかってほしいだけです。俺も
「無理だな。大丈夫じゃない。そう思えるのはお前たちが『さとり』だからだ」
「
「
「そりゃよかったな。
「そこまではしないと思います。
「……あの」
「2年前、
「もう3年近いな。
「怒らせたって何をしたんですか?」
「化け物会議の時にいきなり殴りかかったんだ。
「1番は
「ああ、そうだ」
「それで
「前に写真で見ただろう? ミンチだ」
黙りこむ2人に
「人の言葉を話すゴリラだと思っとけ。仕方ない。怒らせた奴が悪い。殺す気でハンマーみたいな呪具を使ってたからな。正直に言うが」
「どっちが化け物に見えたかというと
「違うな。
「余計に大丈夫じゃないですか。兄の方は無敵だと思います」
「だからこそ、あんなに怒ったんだろう。いっつも笑ってるあれが無表情でミンチにするもんだから
2人に何か食べるか、と聞いたが
夜の
自室で布団に入った
声をかけると眼鏡を外したパジャマ姿の
「どうした?」
兄の前に向かい合って正座しながら浮かない顔の
「
「一つしか違わない俺も子供だ」
「そうじゃなくて! ……
「子供じゃなくてー」
「どうせバカだもん! バカだから……」
「人殺しでも好きでいいのかってことか?」
「……うん。本当に優しいんだよ」
「それはわかる。だいぶ変わったな」
「俺もわからない。
「お金持ちなら気にしない」
「きっとそうだな。あとは」
「約束してもらおう。もう誰も殺さないでくれって」
兄の言うことは間違いがない、そう思った。
翌日は大晦日まであと1日。冬の寒いが、よく晴れた日。
休憩の時に
「誰もっていうのは人間? 怪異はいいの? よくないと
「お兄さんみたいな人はダメです」
「兄さんみたいな人は兄さんしかいないよ」
「お兄さんと仲がいいんですね」
「家族だからね。最近すごく機嫌が悪いけれど」
「私のせいですか? 喧嘩したんですか?」
「いや。いつも一方的に怒るだけだよ」
「明日からは来ない方がいいんですよね?」
「いいよ。俺の家なんだから。兄さんが何か言った?」
「いいえ。私のこと嫌いだと思います」
「兄さんが好きなのは俺だけだから気にしないで」
確かにそうだ、と
あれは昔のことだ。今となっては昔のことだ。昔、昔、その昔。
俺と兄弟は流れ者。見世物をしては日銭を稼ぎ、稼いだ日銭はすぐ消える。
食い物に酒、そして女。
背の低い兄弟は愛想もなく俺の横でぶすくれて、よく似た顔で笑顔ひとつつくらない。
山の暮らしがよかったと、ことあるごとに愚痴をこぼし。
まあ、そういうな兄弟、と背中を叩けば睨まれて、愛想も何もありはしない。
賢い兄弟、知りたくはないか。
あれは空で雲があり銭に食い物、算術、着物。そして人間。
知りたくないとぶすくれて兄弟はまたそっぽを向く。
俺と同じ髪の色。瞳の色まで瓜二つ。
違うのは背の高さ。
だが、間違いなく俺の兄弟。
俺とお前は兄弟だ。
たったひとりの家族なのだ。
俺はお前が愛おしい。
しまった。しまった。ばれてしまった。
いや、違う。恐れられてしまった。
仕方がない。人間は臆病だ。
いつもの通りにやり過ごそう。
死んだふり。どうせすぐに治るのだ。
瞬き一つ、その間。
面倒だ、と怒るな兄弟、仕方がない。
人間は臆病なのだ。
弱い生き物は臆病なのだ。
打ち捨てられ投げ捨てられた。
夜まで待った兄弟と。
体をくっつけ歩き出す。腹が減った。
何を食べよう。夜の闇を歩き出す。
見つかった。
おおよそ暮らしは豊かではない、人間の女。
食ってしまおうと細い首に手をかけた。
女は声も出さずに俺を見る。
女は目がおかしい。月に雲がかかった一時の暗闇の中にきらきらと光をはなっている。
女の首から手を離し、その目は何だと問うてみる。女は愚かだ。愚かだった。
目のことは何もわかっていなかった。
きらきら光る不思議な目。
楽しかった。
俺と背の低い兄弟。それに女。町から村へ、村から町へ。流れに流れに流れては見世物をして日銭稼ぎ。
食い物、酒に着物を女に。
女を買うのはやめておこう。
きらきら光る目がくもる。
俺は女の瞳が好きなのだ。
見つかった。
ばれた。しまった。ばれてしまった。
怖がる女を守れもしない。愚かものだ。
女が怖がる。守れなかった。愚かものだ。
人間は臆病だ。臆病だから恐れるのだ。
恐れるから人間の真似をした。
恐れると思ったから人間の振りをした。
俺は愚かだ。愚かものだ。
女は俺を恐れなかった。恐れてなどいなかった。
なぜ真似をした。愚かもの。
泣くな、弟。気持ちが悪い。
人間の真似など気持ち悪い。
頰をぬらす涙が気持ち悪い。
大晦日。天気は晴れ。
R市内はよく晴れていた。
冷えこみを日に日に更新し今日は一段と寒いとされている。
ドーナツショップの中は年末特有の静かで、どこか待ち遠しいような空気に満たされている。
店内の一角に
ニットの上からでも胸のあたりに豊かなふくらみが見てとれる。
隠すように羽織ったスカートと同じ色の上着はあまり効果はなかった。
紅茶の熱でくもるためいつもの眼鏡はない。
長い睫毛がぱっちりとした目をぐるりと飾り、人目をひく整った顔立ちを縁取る黒い髪は肩のあたりで髪先がゆれている。
小柄な
派手な印象を与える化粧と顔立ちの
裏表のない性格の
もっとも彼女の祖母が神、と古くから伝えきいているのが
「オーマのとこ、お兄さんが来てんの?」
「うん。お仕事がないから来るんだって」
「彼女と過ごすの知ってるのに?」
「宿題と1月の追々試の勉強を教えてもらうだけだから、いつも通りだよ」
「なら何で今日は行かないの?」
「お兄さんにはあんまり会いたくない」
「
「頭なでてもらったりするの恥ずかしい! だって無表情で何にも言わないけれど見てるんだもん!」
「はいはい、バカップル」
「何で
「さあ? 神さまでかしづかれていると人がいるのがあたりまえとか?」
「誰もいないよ。すごくおうちは広いのに
いつも整ったスーツ姿で時には空気のように姿勢正しく控えている
彼女が彼の存在に気づかぬうちに
彼の心は静かで何も見えない。
それは
凝視すればわかるかもしれないが心を覗き
見るような真似はしたくなかった。
そういえば、と
目の前で直接話している
これのやり方、心をそらせ、と教えてくれたのは
それに気づいたのは兄の
「それじゃ年越しは
「うん。
「お泊りだったわけ? そのままー」
「しない!」
顔を赤くして少し大きな声を出す
「やっぱり神さまだから新年を祝う感じ?」
あわよくば、と思っているという言葉をのみこんで。
R市のはずれにある
とくに新年を迎える準備もなくいつも通りの時間が流れていた。
違うとすればいつもはいない兄の
「だからね、兄さん。
「兄さんは
「どうでもいい。まだ
変わらぬ調子の
「そうだけど……そういえば! あれからずっとはぐらかされてるけど何もしてないよね?」
「何の話だ?」
「何の話って俺の彼女と何でホテルに行くの? 何もしてないよね?」
「眼鏡を買った。それから昼食を食わせた」
「それだけなら何で2人っきりになる必要があるの?」
「詳しくききたいか?」
「ききたいからきいてるんだよ!」
「
「674人目だよ。知ってるでしょう? それがどうかしたの?」
「いちいち数えているのか?」
「俺、数えるの好きだから」
「674回、捨てられる気か?」
「別れるって言ってくれない? 仕方ないだろう。どうしたってー」
「先に死んでしまうんだ」
「早く
「そのための眼鏡じゃないの?」
「よく気づいたな」
「それで! どうして2人きりになる必要があるの?」
「調べた」
「何を? どこを? どうやって?」
「少し黙れ」
「そもそも! 眼鏡のことだって俺に言ってくれればいいじゃないか。
何でわざわざ2人で出かける必要があるの? 八喜子ちゃんは俺のものだよ? 確かにすごくおいしいけれど、もしかして兄さんも食べたいの?」
「黙っていろ。向こうは私たちのことが見えているが、あいにくとこちらからはわからない」
「そうだね。見られて困ることも、もうないんだけど……いや、あるな。俺の寝室、全部取り替えなきゃだ。年始だといつからになるんだろうね」
彼はこれといって特徴のない平均的な顔立ちをしており、いつもきっちりとしたスーツ姿で姿勢正しく
「
ふと思いあたった
「まだ一年も使っていないはずだが」
「兄さんのせいだよ。見られたら困ることがあるだろう?」
「何のことだ?」
「忘れたの? 今から4ヶ月前、8月に男同士で、しかも兄弟で! 気持ち悪いだろう!」
「いらん知恵だ」
「いるよ! とても重要だよ!」
「そこまでへりくだって情けなくならないのか?」
「へりくだるとかじゃなくてさあ、嫌われたくないって思うのは変じゃないでしょ? 俺は
「それこそいらん知恵だ」
「兄さんにはー」
わからないはずがない。彼の兄は彼よりも賢い。兄の言うことはいつも正しいのを知っていたからだ。
「ねえ、兄さん、俺は今、とても満たされているよ。たとえ
「だから喜んでほしい。心配してくれてありがとう」
「愚かもの」
そうだね、と
それからも一方的に
夜がきた。近隣住民の苦情でなくなることもなく除夜の鐘がR市内に響き渡る。
家のリビングでくつろぎながら
テーブルの上には母の写真が入った写真立てが2人と向かい合うように置いてある。
「静かだな」
「お母さんがいたら、何て言ったかな」
「お金持ちの家なんだから、ぜひ行きましょう! だろうな」
「喜んでるよ。金のことだけじゃなくて……
「
「うん!」
とびっきりの笑顔で頷く妹を見て
写真立ての中の母、
不意に大きな音を立てて玄関のドアが叩かれた。
「
ドアを凝視した
「
ドアは激しく叩かれ続けている。
ドアが叩かれなくなったかと思うと
曇りガラスのはまった窓の外に
彼の頰は深く立てた爪ではぎとられ肉がこそげ落ち血にまみれている。
「何も感じない! 俺は何だ? 俺はどう見える? 教えてくれ!教えてくれ!」
「俺は何だ? どう見える?」
悲鳴をあげて抵抗する
「頼む! 頼む! もうわからないんだ!」
泣きそうな目で繰り返す
音を立てて蛍光灯が消える。一瞬の暗闇が開けると家の中の気温がぐっと下がっていた。
「待て。助かった。それは礼を言う。俺が殺す。やめてくれ」
「逃げろ!」
窓からの明かりが
入れ替わるように
「
「痛ぇ……」
頭をおさえながら
「ごめんね。怖かっただろう」
「あれはどうする?」
「殺すんですか?」
「助けてくれてありがとうございます。でも誰も呼んでないと思います。どうして来れたんですか?」
「痛いんだけど?」
「人間の真似は愚かなことだ」
「ああ、そう。あとにしてよ」
彼の周りに見える白い光と同じものが
怒っている
2人はそれぞれ相手は違っていても同じことを思っていた。
『かわいい』『愛おしい』
もしかして、と
自分が
そう思うほど
大丈夫だよ、と優しく笑う彼の周りには白い光が見えている。
だから逢魔さんは知っているんだ。
優しさとー。
『かわいい』『愛おしい』
「大丈夫か? 本当にすまない。どう詫びたらいいのかわからん」
ため息とともに静かに言う
「俺が殺す。それでどうにかおさめてくれ」
「私のものではない」
「俺が殺す。
「それは君に言われなくても知ってる」
「もうすぐ迎えが来る」
「ああ、そう。殺すのは駄目だ」
「は?」
「約束だからね。
「
「一緒に行きます」
「俺と一緒にいるって言えばですけど」
彼の耳にはわかってしまう。
家族の自分よりも必要とされている存在が目の前にいた。
いつもは掃除をするだけの客間の一つを与えられたからだ。
荒らされた自分の家は
客間といえど自分の家より広いのではないかと思いながら
そう
「寝ないの?」
「
「君が寝られるなら寝るけれど大丈夫?」
「……怖かったです」
「一緒にいるよ。大丈夫」
しばらくそうしていた
「一緒に寝ようか?」
「……ベッド使いたくないです。見えました」
「部屋を変えようか。どこかは大丈夫だと思う」
「覚えてないくらいしてるんですか?」
眠りについていた
ドアに目を向けると弟の
「何だ?」
「兄さん、別の部屋にうつってよ」
意味がわからず無言で見返す
「すっかり忘れてたんだけど
「ほかの部屋にしろ」
「全部いろいろな場所であるんだ」
「知らん」
「そう言わずに。かわいい弟でしょう?」
「お前は可愛い。
「じゃあ何で助けたの?」
「騒がしかったからだ」
「ああ、そう。ゆっくり寝かせてあげたいじゃない。兄さんは俺の部屋を使えばいいよ」
「知らん。奥の部屋は? 使用人用の部屋があっただろう」
心あたりがある、と。
「痛いよ」
「うるさい」
「お兄さん、さっきは助けてくれてありがとうございます」
「目をよこせ」
「嫌です」
「過去も未来も見えなくする。さとりは生きづらい。弟もうるさい」
「未来ってどういうことですか?」
「知らないならそのままでいい」
「かやさんからきいたんですか?」
彼の周りに見える色が深い青色へ変わるのが
『未来が見えても何の役にも立たない
見えたなら、見えていたなら
どうしてついてきた』
「ごめんなさい」
「目はあげません。だってかやさんと同じ幸せが見えるんですから」
顔は自然と笑顔になる。
「知った口をきくな。お前は愚かものだ」
「どうせバカです!」
全然っ!優しくないっ!
大広間の扉が開き
「
「いいんですか?」
「いいから、いいから。行こう。兄さん、おやすみ」
やや強引に
疲れもありすぐに眠りにつきそうになる。
それを嬉しく思う反面シャワーをあびパジャマ姿でいるのが気恥ずかしい気持ちもある。
『……記憶を食べてしまえばっ!
いや、でもそれは駄目だ。
覚えてなければなかったことになるけれど。なるけれど!』
「ダメです」
「……まだ何も言ってないでしょう」
恥ずかしがっているその様子が
「
「俺は君の
「あんまり自分の名前好きじゃないんですか?」
「知れば知るほどね。眠れそう? 君が眠ってもここにいるから」
「ありがとうございます」
『かわいいかわいいたまらない
嬉しいかわいい愛おしいたまらない
我慢できない愛おしいかわいい
抱きたい愛おしいかわいい』
「嬉しい、嬉しいよ。でもちょっと離れて! ……無理になりそう」
「こうしてるの好きです。ダメですか?」
「駄目だよ、俺は君を傷つけたくない」
「
「その気がないのに! そういうことを言ったら駄目! 早く寝よう!」
おやすみなさい、と言い目を閉じるとすぐに眠りに落ちる。優しく頰にふれる指先を感じながら。
県でも有数の医療技術をもっているとされるR総合病院。院内も施設も新しい。
窓の外が明るくなってきたのを廊下の待合スペースで椅子に座って待ちながら
隣には
「先生、
「拘束した」
「会いたいです。
「駄目だ。
「大丈夫です」
「根拠は何だ?」
「狂うんだったら俺と
「でも俺たちは見えるんです、俺はきこえるんですけれど、なんていうか……基本的には怖い人でも優しいところもあるじゃないですか。そんな感じである一面だけが全部じゃないんです。先生、
「あんな感じで、
怖かったです、と
「お前たちは何も悪くない。怖い思いをさせて本当にすまなかった」
「俺がためらったせいだ。もっと早く燃やしてやればよかった」
「じゃ、
「おい。わかってるのか? 大丈夫だという保証はどこにも誰にもないんだぞ」
咎めるような
大丈夫です、と。
「悟ってますから。俺たち『さとり』なんで」
立ったままの
「
すみれは優雅なしぐさで前髪にふれると物憂げにため息をもらす。
「
すみれは頰に片手をあてて物憂げにため息をつく。
「会わせてくれないなら
「小此木さんが
「じゃあ
すみれはほほえむ。悪い方ですね、とそえて。
時刻は昼をというよりは夕方に近くなってきた頃。
「駄目」
「絶対に駄目。彼は君たちにひどいことしかしていないだろう?」
「ひどいというか、あまり親しくもない」
「じゃあ、ほっとけばいい。君たちが『さとり』だから、とすがってくる相手を助けていたらきりがない」
「俺だって善意からじゃない。夢見が悪いだけだ」
「気が狂うのはそいつの勝手だろう。君たちには何の責任も義務もないさ」
彼の隣に座る上機嫌な
「
「え?
「それはちょっと考えることを放棄しすぎてない? じゃあ、
しばらく
彼女が顔を赤くして小声でしません、と言うと
「お前、何を考えたんだよ」
「昨日から刺激的だからね。扇情的とも言うね」
あきれたように言う
「口の利き方に気をつけろ。どちらも育ちが悪い」
「別にいいよ。いまさら敬語を使われる方が気味が悪い」
まっすぐのびた廊下の両側にある白い壁には均等に小さな格子と食事用の窓がついたドアが均一に並んでいる。
格子の下には番号が書いたプレートがはってあった。
その廊下を黒いスーツに肩まではとどかない長さの髪を揺らしながら
手にはスーツと同じくビジネスバッグをもっている。
中に足を踏み入れると拘束着を着せられた
縄をもつ手に力をこめた
手の平に縄の跡が残るほどの強い力で締めあげ続けても
不意に部屋の中に携帯の音が鳴り響いた。
高いコンクリート塀にかこまれた四角く白い壁の建物には鉄製の扉がついており扉の横に手のひらほどの暗証番号を入力する機械がついている。
彼はそのまま扉を押しあけ開いたままにすると
扉のすぐ横には警備員室があり顔の位置ほどの高さに小さな窓とセットになった小さなカウンターがあった。その横には出入りのための鉄製の扉がある。
中にいた警備員は
「23番だ。鍵をくれ」
リストに書こうとした
警備員が慌てて横の扉を開き
翌日。冬のよく晴れた空に煙突から煙がたちのぼっていく。
あてがわれた待合室には
誰も口を開かない。
あの時は2人きりでこうして待っていた
どうして死んでしまったのか、と
2人そろって泣いた
病気だと言われたがよく覚えていない
ただもう会えないことが悲しくてたまらなかった
もっと話をしたかった
もっとききたいことがたくさんあった
もっと教えてほしいことがあった
たくさん、たくさんあったのに
あの日突然、いなくなってしまった
彼女の目には
ただ静かに悲しみに耐えている。
彼女は彼を明るい下品な人だと思っていたたけれど嫌いとも好きとも思う前にいなくなってしまった。
苦しんでいたのはわかった。
自分が怪異と呼び憎んでいる存在と何が違うのかわからなくなってしまった、と。
憎くてたまらず自分が見えなくなってしまった。
だから
ー誰か、あたしを見てー
ー俺は何だ? どう見える?ー
自分を見て、と切望していた2人の姿を思い出すと重りのようにのしかかり
ー君だけが俺を見てくれるー
ー君が見ているのが俺だー
優しく笑う
自分の名前が好きではない、と言っていたことも思い出す。
ー
いつか彼から教えてもらえる、その日まで。
大きな火葬場は新しく広かった。
トイレに行くため待合室を出た
砂利とオブジェの飾ってある中庭や絵が遺族の心をなぐさめるためだろうか、あちらこちらに用意されている。
美術館のように絵が並んでいる廊下に黒いスーツ姿の女性、
足音に気がついたのか
しばらく無言で2人は絵を見ていた。
「このモデル、心中したんです」
驚いた
「不倫の果ての心中でした。夫の方は評判のいい人で子供もいて幸せだったのに。残された家族はわんわん泣いてました。残される家族のことなんて、ちっとも考えないで愛に生きたんですって」
「なんですか、それって感じですよ。遺族は『お前たちはいらない』って自分勝手に死なれて惨めで苦しいですよね」
「化け物と付き合うのは勝手ですけれど自分勝手に死んだら駄目ですよ。
「心あたりありますか? 恋に恋してるだけでいつか気づきますよ。時間の無駄だって。あなたがいくら大事に思っても向こうから、そう思われることはないんです。あなたが好きなのは人間じゃない。利用するぐらいに思っておけばいいんです」
しばらく沈黙が続いた。
「
「あの……前に
「1人になっちゃう
「でも
「だから……だから、
「あいつらは化け物なんですよ」
彼女の周りには赤黒い色が炎のようにゆらめいている。
自分を案じてくれていた彼女はもういない。
ただ自分の憎しみをぶつけてきているだけなのが
怒声がとんでくる。2人が声の方を見ると
彼女は
火葬場の職員が呼びにくると
「骨を拾うほど親しくはないからな」
「
「あのね、
ぎょっとして自分を見る
「好きでずっと一緒にいたいから食べたいって。すごく大事に思ってくれてて嬉しくて……それでもいいかなって思っちゃった」
口を開きかける
「
「……バカ」
「うん、バカだと思う。だけどね、
「いや! 食べられるなよ! 嫌だって言えよ」
「あのね、わかってなかったんだけど」
慌てる兄の様子がおかしくて
「想像じゃなかったんだ。あれが未来を見るってことなんだ」
「……意味がわからない」
「見えたらわかるよ」
それはそれは幸せそうに笑う
数日後。
台所でエプロンと三角巾を身につけた
騒ぎをききつけた
「喧嘩してる声がきこえてるけど、どうしたの?」
スーツの上に白いエプロンと三角巾をつけた
「どうしたの?」
「
瓶の中身はまだ5センチほど残っていた。
「風味が失われます。適切な保存方法であったとしても1ヶ月で捨てるべきです」
「そんなことより自分の胃袋を信じるんです! もったいない」
「いいえ、科学的な根拠があります」
言い争いを続ける2人に
ああ、そう、と。
まだまだ彼は昼食にありつけそうにない。
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