第24話 my intuition let me be myself

文字数 27,558文字

 気持ちのよい風を感じて八喜子(やきこ)は目を開けた。窓が開いており、通り抜ける風が頰をなでていく。
霞末(かすえ)の森の逢魔(おうま)の屋敷。八喜子(やきこ)は彼の部屋の大きなベッドの中に1人で眠っていた。
数日、悩まされた熱も体のだるさもなく久しぶりの快調さに八喜子(やきこ)は大きくのびをしてベッドから出た。なんだか世界がシャープに見える。
身支度をして屋敷の主、逢魔(おうま)を探すと彼は書斎にいた。
彼は机から立ち上がり八喜子(やきこ)を軽々と抱き上げる。

「大丈夫?」
「はい。ありがとうございました」

よかった、と笑う彼の笑顔はいつものように優しい。優しいが八喜子(やきこ)は何度もまばたきを繰り返して逢魔(おうま)の瞳をじっと見る。

「どうしたの?」
逢魔(おうま)さん、何か隠してますか?」
「今さら? 何か見えるの?」
「……見えないんです。何も」

ゆっくりと八喜子(やきこ)の心に重い不安がのしかかってくる。笑っていても何の気持ちもこもっていない。以前は、それがわかったが今の彼女にはわからない。また同じように笑みをむけられているのだとしたら、と怖かった。


 昼が過ぎた。
逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
いつものように並んで座りながら八喜子(やきこ)は気づけば不安で何度も逢魔(おうま)の顔色をうかがってしまう。彼はいつもの柔和な笑みを浮かべているが、そこには何の色も見えない。それが余計に怖くてたまらなかった。わからない、と。
連絡を受けた兄がやってきても不安は増すばかりだった。兄の周りにも何の色も見えない。怒っているのか、治ったことを喜んでいてくれるのか、心配してくれていたのか、何もわからない。
怖い。怖い。怖い。

顔をこわばらせている八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は心配そうにきく。

八喜子(やきこ)? どうした? 何があった? 逢魔(おうま)に何かされたのか?」

逢魔(おうま)はくすくすと笑う。

「今さら、そんな物言いは失礼じゃない?」
「じゃあ、なんで、こんなに怖がっているんだよ」
「怖いって、俺が?」

2人にじっと見つめられ八喜子(やきこ)は何も言えなかった。

何を言えばいいんだろう。どう思われているんだろう。どうしたらいいんだろう。どうやって何を話していたのかわからない。

押し黙ってしまった八喜子(やきこ)を見て雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)は顔を見合わせた。



 八喜子(やきこ)の説明が終わった頃に仙南(せんなん)の用意したお茶はすっかり冷めていた。

「つまり見えなくなったんだね」

逢魔(おうま)に言われ八喜子(やきこ)は、はい、とうなずいた。

「普通にすればいいのに」
「だって……何を考えているのか、どう思われているのか、わからなくて」
「どうって、俺は君が大好きだよ」

逢魔(おうま)は無邪気に笑う。
八喜子(やきこ)はしばらく逢魔(おうま)の顔を見つめていたが、急に顔を赤くすると両手で頰をおおった。
胸がどきどきとして瞳が潤んでしまう。彼以外、目に入らない。
うっとりとした彼女の様子に逢魔(おうま)は眉をひそめた。

八喜子(やきこ)が変だ。なんか、お前に夢中だ」
「俺に夢中なのはいつものことだけど変だね」

八喜子(やきこ)は2人の声など耳に入らない様子で逢魔(おうま)を見つめ続けている。

「これは平平(ひらだいら)さんと同じ感じだな」
「ああ、そうだね。いつものことさ」

逢魔(おうま)が優しく八喜子(やきこ)の頭をなでると彼女はびくりと身を震わせ太ももをすり合わせる。

「……俺の妹に何してんだよ」
「何もしてない。いつものことだよ」
「何がいつものことなんだよ……どうするんだよ、これ」

雪輝(ゆきてる)は頭をかかえた。

逢魔(おうま)、お前は嬉しくないのか? 喜ぶかと思った」
「今の八喜子(やきこ)は自分を見失ってるからね。そんな状態じゃ嬉しくないよ」



『でも仕方ないよね! かわいいから仕方ない! 誘惑されたら仕方ない!』



「仕方なくねぇよ!」

怒鳴る雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)は笑い声をあげた。
八喜子(やきこ)はまだうっとりと彼を見つめている。


 金扇(かねおうぎ)家。家に着いた八喜子(やきこ)は我に返った。
逢魔(おうま)が帰ったからだ。同時に自分から彼を求めて長いキスをしたことを思い出し頭が真っ白になった。
雪輝(ゆきてる)は背を向けて知らない振りをしてくれていたが兄には何を考えていたかわかるはずだ。
恥ずかしすぎて消えてしまいたかった。
少し気持ちが落ち着くと彼は、と八喜子(やきこ)は思った。
逢魔(おうま)はどう思ったのだろう。前に自分ではなくなった時に彼は嫌悪していた。嫌われただろうか。がっかりされただろうか。


ー 自分を見失っているから嬉しくない ー


恥ずかしさで赤くなった顔は血の気が引いていき早鐘のような鼓動はずしりと重く苦しくなる。
どうしよう。どうしたら、いいのだろう。何を言えばいいのだろう。わからない。

落ちこむ妹の心をききながら雪輝(ゆきてる)は迷っていた。
すごく喜んでいたから気をつけろ、あいつ絶対に仕方ないとか言い訳するぞ、と忠告すべきか、忠告をしたら心をきいていることを恥ずかしがるから黙っているべきか。
とりあえず彼は夕飯は今日は自分がつくる、と言った。病み上がりの妹を休ませたかったが彼女にそれは伝わらなかった。


 金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)はぐったりとリビング兼台所のいすに座っていた。
彼女が『さとり』としての力を失った状態は続いていた。逢魔(おうま)の瞳を見てしまうと変になってしまうことも。
『さとり』の力を失う前も眼鏡をかけていれば見えなかった。だから同じはずなのに友人たちとの会話も兄との会話も何を話したらいいのかわからず黙るしかなかった。
どうして、と八喜子(やきこ)はまた疑問に思う。逢魔(おうま)はとても魅力的だ。いつまでも見ていたいと思う。彼にすべてを捧げたいと思う。
だからこそ、そんな彼が自分をかわいい、好きだと思っているのが信じられなかった。今の彼には何も見えない。
どうして笑えるのだろう、なぜ笑っているのだろう。怖かった。
不意に彼女の視界に長い影が落ちる。

八喜子(やきこ)!」

嬉しそうに自分を抱きしめ頰をよせる逢魔(おうま)から八喜子(やきこ)は目をそむけた。彼の顔を見たら、また変になってしまうからだ。

「大丈夫?」
逢魔(おうま)さんこそ、どうしたんですか?」
雪輝(ゆきてる)君は今日、バイトでしょう? 俺と2人きりになってくれないし心配になったら駄目?」
「嬉しいです。嬉しいですけど……」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の隣に座る。下を向いたままの彼女に彼の声がふってきた。

「具合悪い?」

悪い、とこたえたら、きっと心配してくれる。いい、とこたえたら、顔を見なくてはいけない。
八喜子(やきこ)は黙るしかなかった。

八喜子(やきこ)。どうしたの? 俺が怖い?」

怖い、とこたえたらー。

「…………い」
「なぁに?」

八喜子(やきこ) は顔をあげた。涙で歪む視界は彼の顔をぼやけさせる。

「怖いです。逢魔(おうま)さんの考えていることが、わからなくて。嫌われてたら……怖いです」

逢魔(おうま)は驚いて目を見開いたが、すぐに満面の笑みで彼女の涙をべろりと舐めた。彼女からは、はっきりとは見えなかったが、うっとりとした顔で愛おしげに八喜子(やきこ)のまぶたに口づけをする。

「そんなに俺のことを思ってくれるなんて嬉しいよ! とてもかわいい!」

逢魔(おうま)は力強く八喜子(やきこ)を抱きしめた。

「俺のこと、それだけ好きってことだよね! かわいいよ、八喜子(やきこ)!」

八喜子(やきこ)は無邪気に笑う彼を見ながら、ぽかんとしていた。しばらくして笑ってしまう。
なんてバカだったのだろう、と思う。
こんなに素直で素敵な人の気持ちを疑ってしまった。
いつだって彼女には見えていたのに。
あたたかい白い光が。



『かわいいかわいいかわいい! 基本的に俺にあたりがきついから、こういうところも、かわいい! 加虐心を煽るのもかわいい! かわいい! かわいい!』



本当に素直だな、と八喜子(やきこ)は思った。カギャクシーとはなんだろう、とも。

「……あれ? 見えないです」
「見えないんだよね?」
逢魔(おうま)さんが、すごく素敵に見えないです。いつもみたいに見えます」
「戻った?」
「はい!」


『早かったなぁ、誘惑にのっておけばよかった! 残念だ……』


「あの、逢魔(おうま)さんは嫌じゃないんですか? 心を勝手に見られるの」
「見られて困ることも、もうないからね。俺が人間じゃないのは、とっくに知ってるでしょう?」
「はい。私、前は逢魔(おうま)さんのことがよく見えなかったです。やっぱり段々、見る力が強くなってるんでしょうか?」
「……ああ、そうかもしれないね」
「どうしたんですか? 何が恥ずかしいんですか?」
「あのね、あの時は……俺もよくわかってなかったから……隠してた。君を好きだと思ってたよ、ずっと」
「え?」
「好きだったんだ、ずっと」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせ大声を出した。

「え!」
「君は俺に気に入られてた自覚がないの? 言葉尻をとらえるのは、あまり好きじゃないけれど、さっきの『すごく素敵じゃなくて、いつもみたいに見える』って何? いつもの俺は素敵でカッコよく見えないの?」
「はい」

間をおかずに返した八喜子(やきこ)逢魔(おうま)はききかえす。

「どれが『はい』?」
「全部です」
「全部……ああ、そう」

逢魔(おうま)は苦笑する。落胆もしている彼の様子を気づかうよりも八喜子(やきこ)には驚きの方が大きかった。
そういえば、と思い出す。今ぐらいの季節よりは、もう少し暑くなった頃。
鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)逢魔(おうま)の「お気に入り」だと言っていた。まだ彼と出会って3ヶ月くらいだっただろうか。
屋敷の掃除のバイトを始めた頃のような、わざと汚すような意地悪もなく勉強を教わるようになった頃だ。
彼を優しい、と思うことが多かった。
一緒に森の散歩もしていたし朱珠(しゅしゅ)からもよく「付き合ってるの?」ときかれていた。
八喜子(やきこ)は顔を赤くして逢魔(おうま)を見上げる。

「……全然わからなかったです。気まぐれで嘘つきで、いつも自分の話ばっかりで、すけべな人だと思ってました」
「ああ、そう。最後の何? 何もしてないよ?」
「なめてたじゃないですか! キスもしたがってたし」
「あれは君から誘惑してきたでしょう? 君は俺を誰とでもする奴だと思ってたの?」
「はい」

またも間をおかずにこたえられ逢魔(おうま)は、えぇ、とがっくり肩を落とした。彼は物憂げに息を吐く。

「……『さとり』なのに、この鈍さはどうなんだろう」
「だって見えなかったです!」
「だってじゃないよ! 俺があんなに好意をしめしてたのに、まったく気づかないにもほどがあるよ!」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせる。

「好意って、なめることですか?」
「違うよ! ……いや、違わないかな」
「どっちですか?」
「それは今はおいておこう」

逢魔(おうま)は咳払いをする。

「俺が可愛げがなくて生意気な人間に、あんなに親切丁寧に勉強を教えたりするわけないだろう。たとえ、どんなにおいしくても」
「そんなの知らないです。かわいくなくて生意気ですみません」

八喜子(やきこ)はむっとした。

「そういうところだよね。可愛げがなくて生意気なところって。ほうきの柄で思いっきり、ぶん殴ってくるし」
「あれは逢魔(おうま)さんが掃除中に鬼のお面で驚かすからじゃないですか!」
「だからって足下を狙ってから頭に思い切り振り下ろすのは、やり過ぎだよ!」
「だって凶器を持っている相手は視界がせまくなっているから足を狙うのが基本です!」
「だってじゃないよ! 俺じゃなかったら死んでるからね?」

そういえば、と八喜子(やきこ)は思った。あれから、逢魔(おうま)に驚かされることはなくなった、と。
玄関の向こう側から笑い声がする。
2人が目を向けると笑いながら雪輝(ゆきてる)が帰ってきた。

「ただいま。八喜子(やきこ)、見えるようになってよかったな」
「おかえり。うん!」

にこにこと雪輝(ゆきてる)に笑う彼女をみて逢魔(おうま)は面白くなかった。

「……俺の扱いが粗末だ」

テーブルに頬杖をついて言う彼に雪輝(ゆきてる)は敬礼のように挨拶をする。

「よう、末っ子。甘やかされて育ったな」
「ああ、そう」

逢魔(おうま)の後ろを通り雪輝(ゆきてる)は洗面所へと向かう。

「粗末ですか?」

八喜子(やきこ)にきかれた逢魔(おうま)は目を輝かせた。

「君からキスして。昨日みたいに」
「え!?」
「やっぱり粗末にする?」

顔を赤くして逢魔(おうま)を見つめていた八喜子(やきこ)は、ぼろぼろと涙をこぼす。逢魔(おうま)は慌てて彼女の涙をぬぐい子供にするように頭をなでた。

「ごめん。泣かないで」
「……す」
「なぁに?」
「できないです、ごめんなさい……ごめんなさい」
「いいよ。泣かないで。俺が悪かった」

声をあげて泣き続ける八喜子(やきこ)逢魔(おうま)はなぐさめつづけたが落ち着いた彼女が告げた言葉は彼が望んだものではなかった。一緒にいられない、は。



 霞末(かすえ)の森。
昼を過ぎた頃。森の泉の前で座りこんでいる弟の隣に(あがま)は座った。彼はいつものように黒づくめだが暑さを感じさせる日差しがないかのように汗ひとつかいていない。
(あがま)逢魔(おうま)に話しかけた。

「674回目か?」
「保留にしてる。ねえ、兄さん。いっつも最初は俺に夢中なのに、夢中のままか、夢中のままでも、ほかの人には傲慢になったり、俺を憎みだしたりするの何でだろうね」

逢魔(おうま)と同じく泉を見ながら(あがま)はこたえる。

「人間は弱いからだ。弱いから変わる」
「1年2ヶ月11日」
八喜子(やきこ)も変わったか」
「変わらなかったよ。変わらないまま生意気で可愛げがない」

逢魔(おうま)は力なく笑う。

「俺に甘えてばっかりで何もできないから別れたいって……やっぱりかわいい、すごくかわいい!」

逢魔(おうま)はうっとりとした顔つきで泉を見ながら続けた。

「ほかの男の手に渡るなんて許せない。閉じこめて俺の好きにしたい」
「やっと人間の真似をやめるのか」
「ああ、そうだね。俺には向いてなかった。うまくいかないし抗いがたい」

笑う彼の瞳は陽の光の下でも金色に輝いていた。



 ここはどこだろう、と八喜子(やきこ)は思った。ぼんやりとした頭で厚みのない世界を見る。
大きなベッド。彼の部屋だ、と思った。ベッドに寝ている彼女の視界に髪の長い女性が現れる。顔は見えているのに見えなかった。大きなお腹をさすりながら女性が笑うのがわかった。
怖いものをちゃんと見れば大丈夫、と。



 派手なくしゃみをして八喜子(やきこ)は我に返った。部屋の中は暗い。
同じく彼の部屋だ。
八喜子(やきこ)は勢いよく起き上がった。隣ではいつものように逢魔(おうま)が寝ている。
ベッドから出ようとした彼女を逢魔(おうま)が抱きよせた。裸の彼女をまさぐりキスの雨をふらす。口を吸われ声が出せない。開かれた足の間に彼が押し入ってくる。抵抗らしい抵抗はなく彼女の体は彼を受け入れた。覚えのない感覚に頭がしびれる。ふさがれていた口を離されたが出るのは恥ずかしい変な声だった。彼の荒い息と、ときおりもらす声にお腹が熱くなる。逃げようと身をよじったが抑えこまれた。

「やめて!」

自分の大声で彼女が目を覚ますと朝だった。

「夢?……」

 八喜子(やきこ)は顔を赤くして両手で頰をおおった。同時に自分が逢魔(おうま)の部屋で寝ていることに気づき変な悲鳴をあげる。服はパジャマだ。隣には彼が寝ている。
逢魔(おうま)は目を開きかけたが、また眠りについた。八喜子(やきこ)は慌ててベッドからおりテーブルの上の目覚まし時計を見る。高校には間に合わない時間だ。ぐったりとしながら、いすに体をあずける。
また閉じこめられたのだろうか。
先ほどの夢が体に残した感覚が気持ち悪い。
本当に夢だったのか、と不安になる。
ぼんやりとして、はっきりとしなかった、あれは本当に夢だったのだろうか、と。
夢に出てきた女性。大きいお腹で優しく話しかけてくれた、どこかで見たことのあるあの人はー。

「お母さん……」

瞳の端ににじんだ涙がこぼれ落ちる。
ゆっくりと目を開けた逢魔(おうま)は静かに泣いている八喜子(やきこ)を見て慌ててとびおきた。
すぐに彼女の涙を優しくぬぐう。

「どうしたの? まだ熱がある?」

八喜子(やきこ)は声をあげて泣き出した。お母さん、と。
逢魔(おうま)は大丈夫、と繰り返しながら優しく彼女を抱きしめたが八喜子(やきこ)は泣きつづけた。



 ひとまず八喜子(やきこ)が泣き止むと逢魔(おうま)は並んでベッドに座りながら携帯を見せる。

「今日は火曜日。嘘じゃないでしょう? 君が熱を出したのは昨日、月曜日の朝。そして今日は火曜日。もうすぐお昼だね。朝もまだ熱があったから、ずっと寝てたよ」

まだ不安げに自分を見る八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は無邪気に笑う。

「一週間先の夢を見るなんて面白いね。どんな夢だったの?」

八喜子(やきこ)はまだ疑いの眼差しで逢魔(おうま)を見上げている。

「うん、わかった。ゆっくり話そうか。……さっきみたいに『お母さん』って泣かれるのは本当にきつい。小さい子に悪いことしてるみたいで、きつい。いや、君も俺からすれば充分に小さいんだけどね。年齢でいえば16歳でしょ? 充分すぎるくらい年下ではあるけれど俺より年上なのは兄さんくらいだよ。あとね……」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)との隙間と彼女を何度も見比べる。

「離れるのやめてほしいな。どんな夢を見たの?」
「……1年と2ヶ月と11日ですか?」
「何が?」
「私と逢魔(おうま)さんが会ってから今日って何日ですか?」
「1年と2カ月と3日だよ。俺は君が14歳の時に初めて会った。次にあった時は15歳だったね。ところで八喜子(やきこ)

逢魔(おうま)はいつものように柔和な笑みを浮かべたまま、すらすらとこたえ、ふと真面目な顔をする。

「俺と君はクリスマスを一緒に過ごすくらいには付き合い出しているんだけれども、今年のバレンタインに何もなかったのは何で?」
「今って何月ですか?」
「5月」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせる。

「3カ月も前のことを今きくんですか?」
「きくまで3カ月9日かかったと考えてほしい」

そういえば、と八喜子(やきこ)は思った。その頃の逢魔(おうま)はなんだか元気がなかった気がする。

「バレンタインのチョコって呪いみたいじゃないですか? もらって嬉しいんですか?」
「俺はほしかったよ。何で?」
「だって雪輝(ゆきてる)が髪の毛とか血とか気持ち悪いものが入ったチョコを毎年もらってて全部捨ててました」
「君の基準はいつも雪輝(ゆきてる)君だね。俺は君のものなら何でもおいしいよ」
「それは気持ち悪いです」

逢魔(おうま)の腹の虫がなき2人は遅い朝食をとることにした。


 大広間で食後のお茶を飲みながら2人は話をしていた。話、というよりは逢魔(おうま)が質問をしながら八喜子(やきこ)の話を整理している、といったほうがいい。

「また俺が君を泣かせて閉じこめる夢を見てたってこと?」
「そうなると思います……」
「夢は深層心理の現れというけれど、つまり君は俺の愛を疑ってるってことだね」
「ごめんなさい。だって……」
「なぁに?」

八喜子(やきこ)はびっくりして逢魔(おうま)を見上げた。彼の周りには白い光が見えている。逢魔(おうま)は穏やかに笑いながら彼女のこたえを待ってくれていた。
八喜子(やきこ)は目をぱちぱちさせながら話し出す。

「……だって、逢魔(おうま)さんが、その……したいって思ってて、色々ずるくさわってきたりするけど、嫌だから嫌って言うしかないです」

逢魔(おうま)は笑みを浮かべたまま平然とこたえる。

「嫌だったら嫌だって言えばいいよ。君の気持ちが知りたいから俺もきいてるんだし」
「いいんですか?」
「いいよ。きかなきゃ、わからないから、きいてるんだ」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の頭を優しくなでる。

「俺は君みたいに見えないからね」
「でも、私、いっつも嫌だって言ってます」
「今日は嫌でも明日はいいかもしれないだろう? だから俺もきくんだし、君も君の気持ちをこたえればいいだけさ……もしかして」

逢魔(おうま)は指先で八喜子(やきこ)の髪をすく。

「君が見たのは一週間先の未来だったかもしれない。未来を見たと言っていた『さとり』がいたよ。つまり」

彼は八喜子(やきこ)に頬ずりをする。

「俺とセックスする日がくるってことだね! いつどこで? 朝? 昼? 夜? 君は何歳くらいだった? 季節は?」
「わかんないです!」

八喜子(やきこ)は真っ赤な顔で叫ぶようにこたえた。なおも逢魔(おうま)の質問は続く。

「気持ちよかった? 痛かった?」
「……わかんないです」
「痛かった? 痛かったなら君に痛い思いはしてほしくない。どうだった?」

八喜子(やきこ)は顔を赤くしてうつむいたまま、こたえられなかった。
逢魔(おうま)は彼女の耳元でささやく。

「いい匂いがする……かわいいよ、八喜子(やきこ)

八喜子(やきこ)は赤い顏のまま両手で逢魔(おうま)を押しやった。

「わかりません!」
「痛かったの?」
「わかんないです……したことないからわかりません!」
「じゃあ、してみようよ」
「嫌です!」
「ああ、そう」

逢魔(おうま)はくすくすと笑う。

「楽しみにしてるよ。いつか君がいいと言ってくれる日を」

無邪気に笑う彼の周りには白い光が見えている。
八喜子(やきこ)はぷい、とそっぽを向いた。知りません、と。
背を向けた彼女の顔は赤い。



怖い夢だった。
怖いと思うのは逢魔(おうま)さんに嫌われてしまうことだ。
夢の中で逢魔(おうま)さんが言っていた。
それだけ好きなんだ。逢魔(おうま)さんのことが。
……「ちゃんと見れば大丈夫」。



八喜子(やきこ)はぐっと両手を握りしめ、くるりと逢魔(おうま)に向き直り彼にぎゅっと抱きついた。
逢魔(おうま)は驚きの声をあげたが嬉しそうに笑い彼女の髪をなでる。

「……変な夢で怖かったです」
「ああ、そう。夢は終わったよ」
「はい……」
「もう少し寝ようか? ……汗もかいたし、お風呂も一緒に入ろうよ!」
「嫌です!」

逢魔(おうま)は、ああ、そう、と笑い声をあげた。


 放課後。雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)の屋敷を訪れた。
八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は大広間のソファでよりそって眠っている。八喜子(やきこ)には仙南(せんなん)が用意した毛布がかけられていた。

八喜子(やきこ)、また風邪を引くぞ!」

雪輝(ゆきてる)の大声に八喜子(やきこ)は目を開けた。

「おかえり、雪輝(ゆきてる)

彼女は逢魔(おうま)を起こさないように小声で言う。立ち上がりかけた八喜子(やきこ)逢魔(おうま)の手がつかんだ。逢魔(おうま)八喜子(やきこ)ににっこりと笑う。

「しばらく泊まっていけばいい。あの家じゃ、また風邪をひくよ」

すかさず雪輝(ゆきてる)が口をはさむ。

「お前のとこで風邪ひいたんだろ。ここに入り浸るのを日常にしたくない」

雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)から八喜子(やきこ)へと目線をうつした。

「帰ろう、八喜子(やきこ)。ノートをうつさなきゃいけないし」
「じゃあ、尚のこと俺といればいいじゃないか。教えてあげるよ」
逢魔(おうま)八喜子(やきこ)は俺の家族だ。俺もひとりは寂しい」
「君も彼女にきてもらえば?」
「俺はまだ高校生だ。お前と一緒にしないでくれ」
「いることは否定しないんだね」

八喜子(やきこ)は目を輝かせ誰? と雪輝(ゆきてる)にきく。兄の心はいつものように静かで彼女の目には見えない。

「いるわけじゃない。いたとしても毎日、家に来てもらうのはしない。ただでさえ俺たちは親なしだし、相手が素行不良だと思われるようなことはしない」

八喜子(やきこ)が首をかしげたので逢魔(おうま)が説明をする。
説明を聞き終えた彼女は不安げに彼を見上げる。

「じゃあ、逢魔(おうま)さんも私と一緒にいたらソコオフリョーだと思われるんですか?」
「どちらかと言わなくとも君の方だろうね。俺はもともとの生活と変わりがないし。君を寵愛している、ぐらいには思われるだろうけれど。うん、寵愛っていうのはねー」

また説明を聞き終えた八喜子(やきこ)は暗い顔をする。逢魔(おうま)は優しく八喜子(やきこ)の頭をなでた。

「俺の悪評にはならないさ。心配しなくていい」
八喜子(やきこ)の悪評になるから控えろ。むしろ泊まらせるのをやめろ」
「信仰心も薄れたね。昔は羨ましく思われたのに。人間って勝手だよ」
「自分勝手に生きまくってるお前が言うなよ」

雪輝(ゆきてる)の耳に妹の不安が大きくなるのがきこえた。

「どうした? 逢魔(おうま)と付き合ってくのが不安なのか?」
雪輝(ゆきてる)君がそういう言い方をしてるってことは、また俺の愛を疑うの?」
「だって……」
「「だって?」」

逢魔(おうま)雪輝(ゆきてる)、2人の声がそろった。
びっくりした八喜子(やきこ)は迷うような、不安そうな表情で、ゆっくりと続きを口にする。

「だって……私でいいんですか?」
「「何が?」」

また2人の声がそろった。

「何がって、逢魔(おうま)さんはいいんですか?」
「「だから何が?」」

さらに2人の声がそろった。

「よくわかんないですけど、逢魔(おうま)さんは、ほかの人にすごく素敵な人に見えてて、平平(ひらだいら)さんとか、すみれちゃんとか。お金もいっぱいもってるし、シーツとかもすごく高いし、色んなこと知ってるし……私でいいんですか?」
「は?」

ひと息で言うと八喜子(やきこ)は不安そうに、ぽかんとしている逢魔(おうま)を見上げた。
逢魔(おうま)よりも早く雪輝(ゆきてる)が口を開いた。

「逆にどんなに金持ちでも舐めるのが一番好きで傲慢で尊大で簡単に暴力をふるうし自分勝手で嘘つきで適当で話は長いし、隙があれば言いくるめてエロいことしようと考えている逢魔(おうま)でいいのか?」

お茶を、と用意している仙南(せんなん)の肩が小刻みに震えていた。
逢魔(おうま)はくすくすと笑いながら八喜子(やきこ)の頭を優しくなでる。

「誰よりもカッコいい、が抜けてると思うよ。八喜子(やきこ)。君は自分をどう思ってるの?」
「どうって、背が小さいし、子供です。何もできないし。逢魔(おうま)さんや、朱珠(しゅしゅ)ちゃんとか、お母さんはかわいいって言ってくれますけど、ずっとお化けだって言われたし、今も『胸が大きいだけのくせに』ってクラスの子たちが思っているから大きい方だとは思うんですけど」

逢魔(おうま)は優雅な仕草でこめかみに指をあてる。

「たとえばだけれど、君は自分の顔を誰に似ていると思う? 母親以外の人間で言えば誰?」

八喜子(やきこ)はうーん、としばらく考えこんだが、ぱっと目を輝かせるとぽん、と両手を合わせてこたえた。

「カナカさんです! 私も同じ『さとり』だから、そっくりになるんですね」
「「は!?」」

同時に驚きの声をあげた雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)は顔を見合わせた。2人からすると顔立ちはもちろんのことブルドックのように頰のたるんだ中年の女性であるカナカと八喜子(やきこ)は似ても似つかない。

八喜子(やきこ)は心の底からそうだと思ってる」
「視神経の検査をした方がいい。いや、異常がないとしたら……」

逢魔(おうま)はうなって額に手をあてる。

「心理的な問題だね。美醜の価値観というか……八喜子(やきこ)。君は雪輝(ゆきてる)君と自分を似ていると思わないの?」
「はい。全然、似てません」

逢魔(おうま)にきかれ八喜子(やきこ)は迷わずこたえた。彼は質問を続ける。

「それなら母親と自分を似ていると思う?」
「いいえ。全然、似てません」

すぐにこたえた八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)がすぐに否定する。

「いや、そっくりだろ! 俺とも似てる。兄妹だから」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちさせて兄の顔をじっと見たが首をかしげる。似てないと思う、と。
雪輝(ゆきてる)はあきれた顔で逢魔(おうま)へと目を向けた。

「『さとり』って目に異常が出るのか?」
「見えすぎるから価値観が歪ませられたのかもしれないね。嫉妬からの評価を正当なものだと思ってしまえば充分に考えられる。八喜子(やきこ)

逢魔(おうま)は柔和な笑みを浮かべる。

「君に俺はどう見える?」
「……夢の中で、すごく素敵に見えました。雪輝(ゆきてる)の方がカッコいいと思うことが多いですけれど、みんなが、そう言うから、そうなんだと思います」

雪輝(ゆきてる)の声がとんでくる。

「先生と逢魔(おうま)はどっちがカッコいい?」
「……同じかなぁ」
「は? 鷹司(たかつかさ)と?」

不満げな逢魔(おうま)を見て雪輝(ゆきてる)は笑う。

「先生だってイケメンになるんだからいいじゃないか」
「まったく納得いかないね。俺が同じだと言われて納得できるのは兄さんだけだ」

雪輝(ゆきてる)は腕組みをする。

八喜子(やきこ)が似ている顔として納得できるとしたら誰だ?」
「系統としては千平(せんだいら)すみれ、かな?」

逢魔(おうま)の言葉に八喜子(やきこ)は驚きの声をあげる。

「え!? だって、すみれちゃんのおうちに行ったら、おうちの人たちに『ケガレた血』って言われたんでしょう? 汚いってことじゃないの?」
「それはいつ? 何月何日の何時頃? 全員死んでもらおうか」

笑う逢魔(おうま)の目はうっすらと金色の光を放っていた。
雪輝(ゆきてる)が彼をなだめる。

「お前と付き合い出す前の話だ。八喜子(やきこ)逢魔(おうま)も、お前をかわいくて美人だと思ってる。だから、この話はそれでいいんじゃないか。というか」

雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)に指を突きつけながら八喜子(やきこ)にきく。

「さっそく物騒なことを、すぐ実行する、こいつで本当にいいのか? この間だって征士郎(せいしろう)が見殺しにされるところだっただろう」
「もともと特課(とっか)の死亡率は高いんだから俺のせいにしないでほしい」

優雅に手を振る逢魔(おうま)雪輝(ゆきてる)は言い返す。

「先生の腕だって折っただろう?」
「あれは鷹司(たかつかさ)が先に俺に手を出したんだよ」
「俺も八喜子(やきこ)も慣れで麻痺してるけれど本来なら、お前はすごく危ない奴なんだよな?」
「人間からしたら、そうだろうね」

雪輝(ゆきてる)はもう一度、八喜子(やきこ)にきいた。

「本当に逢魔(おうま)でいいのか?」
「うん」

返事はすぐに返ってきた。

「何で?」
「何でって……」

八喜子(やきこ)は顔を赤くして、教えない、と言った。雪輝(ゆきてる)は、そうか、とだけ返す。彼の耳にはわかったからだ。
一緒にいると楽しい。優しい。嬉しい。大好き。大好き!
妹から快い音がきこえている。
かつて妹の「大好き」は自分だったのに、と寂しく思いながら嬉しくもあった。少なくとも「前髪オバケ」と言われ閉じこもりがちだった八喜子(やきこ)は色んなことを見たからだ。

逢魔(おうま)は無邪気に笑いながら八喜子(やきこ)の頰に両手をそえる。

「嬉しいよ。俺は君がいい。君だからいいんだ。言ったことはなかったけれど」

八喜子(やきこ)の目は彼の周りに白い光を見せている。

「君の琥珀を日に透かしたような瞳」

彼は指先を彼女の頰にすべらせながら続ける。

「真珠色の肌。とてもきれいだ。健康的でとてもおいしい。俺の抗いがたい食欲をわかってくれたのも嬉しい。あのね」

逢魔(おうま)は少し照れたように笑った。

「君の笑う顔が好きだよ。とてもかわいい。俺は君が大好きだ。ただ」

逢魔(おうま)は真面目な顔をする。

「辛いものが好きなのはわかったけれど辛すぎるものは一緒に食べられないかなぁ……痛くない?」
「おいしいです!」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)の言葉に頷いている。
それを見て逢魔(おうま)は、さとりなのに、とぼやいた。



 夜。夕飯時。金扇(かねおうぎ)家。
風邪を引いた時は体のあたたまるもの、と赤い鍋を見た逢魔(おうま)は早々に退散し八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)だけが夕飯を食べていた。

「おいしいのに」
「このうまさが、わからないとは不幸な奴だな」

久しぶりの兄との食卓に八喜子(やきこ)の胸は少し痛んだ。

「ごめんね。寂しかった?」
「あたりまえだ。あいつと……」

雪輝(ゆきてる)は続きを言わずに八喜子(やきこ)をじっと見つめる。八喜子(やきこ)は眼鏡をかけていない瞳で兄を見返した。
照れて頰をそめながら嬉しそうに笑って、うん、と返事をする。
雪輝(ゆきてる)は、そうか、と口元をゆるめ、食べよう、と言った。

「あとで、つくっておいてくれないか? 母さんがつくってた煮物とかの作り方。ノートとかに。俺が知らないのもあるし。知ってるのも全部」
「うん」
「俺の家になってるけど2人の家だから」
「うん」
「俺はいつまでも、お兄ちゃんだからな」
「うん」
八喜子(やきこ)は思いこみが激しいから、ちゃんと言えよ。あとになって言わないで、すぐに。逢魔(おうま)はきいてくれるだろう?」
「うん! とっても優しい。あのね、私が逢魔(おうま)さんを好きになったのは雪輝(ゆきてる)に似てるからだと思う。でもね、今は」

八喜子(やきこ)はにっこりと笑う。

逢魔(おうま)さんだから好き。大好き」
「……そうか」

雪輝(ゆきてる)も同じように笑った。兄妹の2人の笑顔はどこか似ている。ふと八喜子(やきこ)がつぶやく。

「ちょっとずつ辛くしていったら食べられるように、ならないかなぁ」
「味覚の好みは尊重しよう。そこはダメだ。俺も魚ばっかりにされたら怒る」



 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間には来客が来ていた。
そして(あがま)逢魔(おうま)の取っ組み合いの結果、再び破壊されている。
肩までの髪に和服の少女の姿、目の暗闇から無数の棘を生やした多々良木(たたりぎ)は2人の争いが終わったのを見計らい、ぎい、と鳴いた。
彼女が楽しみにしていたお菓子が床に散乱している。

「悪かったね。仙南(せんなん)、代わりのものを」

主人に言われ仙南(せんなん)は返事をすると出て行く。
黒づくめの(あがま)は腕組みをしながら弟の逢魔(おうま)に表情のない目を向ける。

「人間と婚姻するのか?」
「今までだってしたことがあっただろう? みんな別れたけれど」
「さとりの娘は愚かだ」
「ビジネスパートナーを探しているわけじゃないよ。1年2ヶ月ともうすぐ4日!」
「何だ、それは」

(あがま)は上機嫌な逢魔(おうま)を目だけ細めて見る。

「こんなに長い間、傲慢にならなかった。原因は自己評価の低さなんだけれど。かわいいよねえ」
「自己評価?」
「カナカって『さとり』を覚えてる? 彼女と自分の顔を同じだと思ってるし自分は何もできないと思っている」

(あがま)は眉をひそめた。

「俺を怖がりもせず勉強を教えさせたりしてるのに特別扱いされてると思ってない。ねえ、兄さん」

逢魔(おうま)はがっくりと肩をおとした。

「俺、何が足りないのかなぁ。不安にさせて、また泣かせた。……『かや』は」

逢魔(おうま)は顔をあげず(あがま)の顔を見ないで続ける。

「いつも楽しんでたし喜んでたよ。泣いたのなんて見たことなかった」

ぐっと室温が下がる。照明がまたたいた。ああ、やっぱり怒った、と逢魔(おうま)は思う。兄の顔を見るか迷っていると(あがま)から声が発せられた。

「何度も泣かせたから泣くことをやめただけだ。八喜子(やきこ)が泣くのは何故か私にはわからない。八喜子(やきこ)と、よく話せ」

驚いた逢魔(おうま)が顔を上げたが(あがま)の姿はない。
扉が開き仙南(せんなん)が持ってきた新しいお菓子を目にした多々良木(たたりぎ)は嬉しそうに鳴いた。



 翌日。生徒たちはすっかり夏服となった私立R高校。夏らしい暑さがやってきている。
昼休み、お弁当を食べ終え廊下で話していた八喜子(やきこ)は学年主任の野呂(のろ)からプリントを渡された。色白で男としてはかなり細身の野呂(のろ)は、よく読んでおくように、と言い残し去って行く。
八喜子(やきこ)はプリントを見て眼鏡の奥の目をぱちぱちとさせた。横から覗きこんだ、るる子が首をかしげる。

「特別補習授業のお知らせ……あなたも、もらった?」

るる子にきかれ朱珠(しゅしゅ)は顎に指をあててこたえる。

「あ、なんか昨日もらったかも。カバンの中。まだ親に見せてない。なんて書いてんの?」

朱珠(しゅしゅ)も上からプリントをのぞきこんだ。

「えー? なんか、合宿みたいな感じなの? これ、夏休みじゃん。やだやだ。パス」
「赤点と追試の常習者に今回特別にやるみたいだね。パスできるものなの?」
「だって、ここに親の同意って書いてあるじゃん。パパとばあちゃんに、やだって言えばいいもん」
「親……」

八喜子(やきこ)はしばらく考えこんだ。


 私立R高校美術準備室。
鷹司(たかつかさ)と向かい合って座りながら八喜子(やきこ)は先ほどもらったプリントを見せていた。

逢魔(おうま)より俺に先に見せたのは、お前にしてはいい判断だ。教頭の首がとぶ。しかし、こんなのがあるんだな」
「先生は知らないんですか?」
「昨日、職員会議があったような気がするが寝てたから覚えてないな」

鷹司(たかつかさ)は大きくあくびをする。

「また夜にお仕事なんですか?」
「そんなとこだ。俺にまかせとけ。お前の場合、こんなのに行くより逢魔(おうま)に教えてもらわないと無理だしな」

八喜子(やきこ)のほっとして嬉しそうに笑う顔を見て鷹司(たかつかさ)も小さく笑った。

「俺もお前に先に言っておくことがある」
「はい、何ですか?」
征士郎(せいしろう)が転校してくる」
「え!?」

驚いて目を見開く八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)は言った。家出だ、と。



クラスメイトたちとの野球を終え廊下を歩く雪輝(ゆきてる)に走ってきた八喜子(やきこ)がとびついた。

「どうした?」
雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)君が家出したんだって!」

どうしたん? ときく(りょう)に、ちょっとな、とこたえ雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)と美術準備室へ向かった。



 昼休みが終わり次の選択式の授業が始まる。ほとんどの生徒は自習できる書道を選ぶため美術を選んだのは八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)だけだ。2人は鷹司(たかつかさ)と向かい合って座っている。

「どういうことですか?」

雪輝(ゆきてる)から口を開いた。テーブルの上には紙コップに入ったコーヒーが3つのっている。

征士郎(せいしろう)が家出して俺の家に居候している」
「なんでですか?」
「表向きはこの間の大ポカのせいで俺のところで修行してこいって話だが兄の清二郎(せいじろう)と喧嘩したらしい」
「言いなりじゃないんですか?」
「詳しくは知らん。掃除もしてくれるし俺としても助かる。なんせ今……」

鷹司(たかつかさ)は大きくあくびをした。

「先生は特課(とっか)の方が忙しいんですか?」
「ああ。怪異どもは何で夏が近づくと元気になるんだろうな?」

雪輝(ゆきてる)が耳をすませている様子を見て鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らす。

「お前に隠しても無駄か。スランプという奴だな。燃やせなくなった」
「え!?」

八喜子(やきこ)の大声に雪輝(ゆきてる)は耳をおさえた。
ごめん、と謝り八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)へ目線をもどし、きいた。

「どうしてですか?」
「さあな。ガス欠かもしれん。もともと燃やせる方が異常なんだ」
「ごめんなさい! 私のせいかもしれないです……」

うろたえる八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)は眉をひそめた。



 テーブルの上のコーヒーがすっかりぬるくなった頃、八喜子(やきこ)の説明は終わった。

「つまり、お前は人の心に勝手に入りこむスケベ女ってことか」
「違います!」
「先生の記憶を逢魔(おうま)が食べたから燃やせなくなったんですか?」

そう訊く雪輝(ゆきてる)鷹司(たかつかさ)は首を横に振る。

「いや、覚えている。あいつが食ったのは悪夢だけだ。対価として俺の発火能力を奪ったんだろう」
「ごめんなさい……逢魔(おうま)さんに返してもらいます」
「いや、いい。また、お前に何か要求するだろう?」
「でも……」
「大丈夫だ。武器ならある」

鷹司(たかつかさ)は机に立てかけてある金属バットを指差す。
ドアがノックされた。鷹司(たかつかさ)が立ち上がる。ドアの外には野呂(のろ)がいた。



 放課後。霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
並んで座りながら八喜子(やきこ)は浮かない顔で話を終えた。

「先生が怒られてました……私が追試ばっかりなのに授業をしてないからって」
「美術の授業は追試に関係ないよね?」
「あっ! そうか……。あと授業をしないなら自習させろって。雪輝(ゆきてる)は進学するんだからって」

逢魔(おうま)は、ああ、そう、と柔和な笑みを浮かべている。

「そうやって怒られたところで鷹司(たかつかさ)が気にするとは思えないけどね」
逢魔(おうま)さん!」

八喜子(やきこ)は彼の腕に手を添えて逢魔(おうま)を見上げる。

「特別補習授業に出なさいって……。何日も会えなくなるの嫌です。友達は誰もいないし野呂(のろ)先生の授業は全然わからないし、いっつもあてられても答えられないけど考えなさいって……朱珠(しゅしゅ)ちゃんはわかりません、って言って、すぐ座れるのに(むつみ)ちゃんか、るる子ちゃんが助けてくれるまで、ずっとだし……」

逢魔(おうま)は眉をよせた。

「それっていっつも? 雪輝(ゆきてる)君から詳しくきいてもいい?」

八喜子(やきこ)は、はい、と返した。



 同時刻。ドーナツショップに朱珠(しゅしゅ)と、るる子は来ていた。
朱珠(しゅしゅ)も今日の帰りに野呂(のろ)に呼び止められ特別補習授業に出るよう言われている。

野呂(のろ)、クソうざいんだけど!」
八喜子(やきこ)ちゃんを目の敵にしてるよね」
「授業でもうざすぎない?」
「そうだね。あれはわざとだね」

るる子はトレイの上のドーナツを2つに割る。

(むつみ)が嫌味ったらしく授業がすすみませーん、って言うか、るる子センセーか雪輝(ゆきてる)が代わりに言っちゃうまでやめないのありえないよね!」
「去年はこんなことなかったのに4月の終わりくらいからだったかな。連休明けくらいから露骨になってきてる」
「ばあちゃんに言っちゃおうかな。知り合い多いし」

朱珠(しゅしゅ)はドーナツにぱくりとかぶりついた。

「私も親に言おうかな。授業が進まないのは事実だし、こたえられないのわかってて、いっつもやるのは見てて気分が悪い」
「あー、本当! うっざい! 鷹司(たかつかさ)先生にも言っちゃおうかな」

しばらく2人は野呂への不満で盛り上がっていた。


 同時刻。私立R高校。職員室。隅にある仕切られた応接スペースに野呂(のろ)と向かい合って座りながら鷹司(たかつかさ)は気のない返事を返した。

「授業もですが進路相談にのるのが悪いことだというなら謝ります」

野呂(のろ)がじろりと彼を見る。

「それはあなたの仕事ではありませんよね?」
「私は親代わりで金扇(かねおうぎ)兄妹から信頼されてますから。未成年のうちに親なしになったという境遇も同じだしアドバイスできることはたくさんあります。それよりも」

鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らす。

「ほかの生徒が不愉快に思う授業の進行の方が問題あるんじゃありませんか」
「不勉強な生徒に自覚してもらうためです」
「授業が進まなくて不満に思っている生徒がたくさんいますよ」
金扇(かねおうぎ)は素行も悪いです。高校は勉強をするところです」

にらみつけてくる野呂(のろ)鷹司(たかつかさ)は、はあ、と返す。

金扇(かねおうぎ)は特別補習授業にでるべきです」
「自分で家庭教師をつけて勉強してるんですから、いいんじゃないですか。つけてても、つけてるからこそ、あの程度の成績ですんでるんです」
「あの成績では彼氏に教えてもらっているという話もあやしいものですよ」

野呂(のろ)は。ふん、と小馬鹿にするように言った。鷹司(たかつかさ)はわずかに眉をよせる。

「それは誰から?」
「廊下で九重(ここのえ)と話していますから嫌でも耳に入りますよ」
「ああ、たしかに。あの子の声は大きいですね。で、野呂(のろ)先生。そんなに金扇(かねおうぎ)を特別補習授業に出したくても無理ですよ」
「兄の雪輝(ゆきてる)へは私から話をします」

鷹司(たかつかさ)は手をひらひらふる。

「そうじゃなくて。八喜子(やきこ)と懇意にしているのは高貴なお方なので絶対に無理です。たとえ命をかけても全然、意味がありません」
「そんな話、きいたことがありません」
「じゅあ、これからきくでしょうね」

鷹司(たかつかさ)はあくびを噛み殺しながら、失礼します、と立ち上がった。


 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
雪輝(ゆきてる)との電話を終えた逢魔(おうま)八喜子(やきこ)を、よしよし、と抱きしめた。

「もっと早く言ってくれればよかったのに。かわいそうに。つらかっただろう?」
「でも、私がわからないせいだから……」
「それにしたって効率が悪すぎる。見せしめ以外にまったく意味がない。馬鹿な人間だ」
「数学の先生だから頭はいいと思います」
「いいや、とんでもない馬鹿さ」

逢魔(おうま)の周りに赤い色がちらちらと見え八喜子(やきこ)はあわてた。

「あの、野呂(のろ)先生に怒るのやめてくださいね。私が悪いんですから」
「……」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)に頬ずりをする。かわいい、と。赤い光が白い光に変わる。八喜子(やきこ)は顔を赤くし彼を見上げた。

「本当に怒らないでくださいね。きいてもらっただけで嬉しいです」
「でも特別補習授業には出たくないんでしょう?」
「はい……雪輝(ゆきてる)が自分が同意しなかったら大丈夫って言ってくれたから大丈夫だと思うんですけど、先生がそれで、また怒られたら……」

不安そうな八喜子(やきこ)を見て逢魔(おうま)は笑い声をあげる。

鷹司(たかつかさ)が怒られて反省する相手なんていないよ。兄さんを相手にしても怖がらないのに」
「でも、やっぱり怒られて、いい気持ちにはならないと思います。特別補習授業に出た方がいいんでしょうか?」
「君の学力じゃ、そっちの方がはるかに無意味だ。時間の浪費」

逢魔(おうま)は真面目な顔できっぱりと言いきった。すぐに笑顔になり、会えないのは俺も寂しい、と八喜子(やきこ)を胸に抱きしめ頭をなでる。彼は彼女から見えないようにして考えをめぐらせていた。どうしてやろうか、と。


 翌日。私立R高校。2-1。八喜子(やきこ)たちのクラスには朝から転校生が来ていた。もっとも雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)には見知った顔である千平(せんだいら)征士郎(せいしろう)だが。
休み時間になると彼が雪輝(ゆきてる)(りょう)を中心としてクラスの男子たちと話している姿に八喜子(やきこ)は、ほっとした。ひとつ心配事が片づくと次の授業が野呂の数学なことに憂鬱になる。チャイムが鳴った。八喜子(やきこ)の胸は不安でどきどきとする。



 授業が始まり、またいつものように八喜子(やきこ)はあてられた。るる子ですら、かなり手こずる問題である。
昨日、逢魔(おうま)と予習はしたが教科書にはない問題だった。
返答につまる彼女を(むつみ)が小馬鹿にしたように見る。朱珠(しゅしゅ)は怒りを露わにしていた。るる子と雪輝(ゆきてる)は急いでノートにシャーペンを走らせている。
八喜子(やきこ)野呂(のろ)に急かされたが気まずい沈黙が続いていた。野呂(のろ)は冷ややかに言う。

「遊ぶのも結構ですが、もっとやるべきことがありますよね」

彼女をよく思わない女子たちが別のことをやってんじゃないの、と、くすくす笑う。怒りが頂点に達した朱珠(しゅしゅ)が立ち上がりかけた時に静かだが、よく通る声がした。すらすらと淀みなく数式をのべていく、その声は征士郎(せいしろう)のものだ。

「合っていますか?」

板書もせずに、ぽかんとしていた野呂(のろ)が、こたえずにいると征士郎(せいしろう)は立ち上がりホワイトボードに書きこんでいく。ペンを置いた征士郎(せいしろう)野呂(のろ)に礼儀正しく、もう一度きいた。

「先生、合っていますか?」

野呂(のろ)は、小さい声でうなずくと授業を進めた。


 休み時間。八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)がそろって征士郎(せいしろう)に礼を言うと彼は照れたように笑う。さすがO高、と(りょう)に肩を叩かれたが謙遜し、一通りの賞賛がおわると征士郎(せいしろう)八喜子(やきこ)を真っ直ぐ見る。

「あの、僕では、頼りないですが、()(かた)には全然およびませんが」
「ううん、ありがとう!」

にこにこ笑う八喜子(やきこ)征士郎(せいしろう)は少し頰をそめながら続ける。

「守ります。八喜子(やきこ)さんのことを」
「え?」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせた。(りょう)雪輝(ゆきてる)は視線を交わし、すぐに(りょう)が黄色い声をあげる。

「きゃー! 素敵! 俺も守ってー!」
「俺も! 俺も!」

2人はふざけて征士郎(せいしろう)の肩を抱き笑う。それを見ていたクラスメイトたちからも笑い声があがった。



 昼休み。美術準備室。
鷹司(たかつかさ)は珍しい組み合わせの生徒たちの訪問を受け入れた。
(りょう)雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)である。
話をきいた鷹司(たかつかさ)は笑った。(りょう)は砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲んで息を吐く。

「せいちゃんったら、もう! カッコいい!」
征士郎(せいしろう)、気持ちはありがたいが、もうちょっと場所を考えてくれ……(りょう)、ありがとう」
「いいってことよ!」

(りょう)雪輝(ゆきてる)の肩を強く叩いた。征士郎(せいしろう)は深々と頭を下げる。

「すみません」
「いや、気持ちは嬉しいんだ。本当に。さっきも助けてもらったし。ありがとう。ただ八喜子(やきこ)はあんまりクラスの女子によく思われてないから……ごめん」

鷹司(たかつかさ)はごくりとコーヒーを飲む。

「それよりも野呂(のろ)が露骨だな。さすがに大上るる子が担任に抗議しにきてた。今やるレベルじゃないってな」
「先生も職員室にいることあるんですね」

驚きをふくんだ雪輝(ゆきてる)の言い方に鷹司(たかつかさ)は平然とこたえる。

「教師だからな。それよりも理事長が出かけた方が問題だ」
「何でですか?」
「理事長が呼び出されて出かけなきゃいけない相手に会いに行ってるってことだ」

誰? という(りょう)の質問にこたえたのは征士郎(せいしろう)だった。()(かた)、と。



 校舎の端の非常階段に八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)とるる子はいた。こっそり4階から外に出たのだ。

「……どうしよう」

八喜子(やきこ)は明日の数学が憂鬱だった。朱珠(しゅしゅ)がぷんぷんと怒る。

「頭が悪いの八喜子(やきこ)ちゃんだけじゃなくない? ありえない!」
「あなたも充分悪いものね」
(むつみ)だって悪いし! あいつも赤点じゃん!」

八喜子(やきこ)は悲しそうに下を向く。

「私、バカだけど何で先生にあんなに嫌われるんだろう」
「あれは異常だよ。今、授業でやる問題じゃないから。さっきママにも言ったから」
「あたしもばあちゃんに言っとく!」

朱珠(しゅしゅ)も携帯を取り出した。

「あれ? 八喜子(やきこ)ちゃん! これ!」

朱珠(しゅしゅ)が見せた画面には目線が隠してあるが逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の写真がうつっている。

「知ってる人が見ればわかるね。好意的な紹介の仕方じゃないし。いつ撮られたかわかる?」
「動物園に行った時だから春休み中だったと思う」
「この投稿、月曜じゃん。何で今頃?」

3人は顔を見合わせたが、こたえはわからなかった。



 放課後。一度、帰宅してから買い物に出かけた八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)の祖母あけみに声をかけられた。彼女が珍しく九重(ここのえ)魚店の店頭に立っていたからだ。

「こんにちは、朱珠(しゅしゅ)ちゃんのおばあちゃん」
「こんにちは。朱珠(しゅしゅ)からきいたよ。意地悪な先生がいるんだって?」

近くで立ち話に興じていた老人たちもよってくる。中には雪輝(ゆきてる)と親しい源次郎の姿もあった。

「意地悪な数学教師なんだろう?」
「駅の方のマンションに住んでるんだよな」
「スーパーにいっつも夜に買い物に来るんだって。半額弁当」
「大学はいいとこに、いってんだぞ」

八喜子(やきこ)はすごいな、と思った。


 夜。金扇(かねおうぎ)家。
夕飯を食べ終えた八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)は台所兼リビングでくつろいでいた。
お茶を飲んだ雪輝(ゆきてる)が静かにきく。

「だから、何で、お前が泊まるんだ?」
「だって今日は用があって会うのが遅くなったからね」

八喜子(やきこ)は浮かない顔で隣の逢魔(おうま)を見上げる。

「あの、逢魔(おうま)さん。遅くなっちゃうけど明日の予習も教えてくれませんか?」
「必要ないよ。さすがに今日のことはやり過ぎだ」
「でも、明日も数学はあるし……」
「……おい、何で今日のことを知ってるんだ?」

雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)は柔和な笑みを浮かべたまま、さあね、とこたえた。



 翌日。夏らしい爽やかな朝だったが八喜子(やきこ)は憂鬱だった。
数学の時間が近づいてくると、不安で胸がどきどきとしてくる。
チャイムが鳴った。がらりとドアが開き野呂(のろ)が入ってくる。げっそりとしていて一目でわかるほど疲れが顔に出ている彼は力ない声で授業を始めた。誰かがあてられることもなく淡々と授業は終わった。



 昼休み。噂はあっという間に校内に広まった。野呂(のろ)が退職する、と。朱珠(しゅしゅ)からきいた八喜子(やきこ)は慌てて彼を探しにいった。



 R高校屋上。出入口の近くにできた日陰に座りこみながら野呂(のろ)は考えていた。
大学に入るまでは自分を優秀だと思っていた。好きな数学も才能がある、と。ところが大学に入ると自分は現実を見えていなかったと思い知らされた。自分ほどの才能の持ち主は掃いて捨てるほどいた。自分がうなるほどの才能を持ち合わせている者も、さらにたくさんいた。彼らでさえ、天才にはなれない。平凡だったのだ。
それを昨日、思い知らされた、いや、思い起こされた。理事長と面会した金扇(かねおうぎ)兄妹と懇意にしているという男は霞末(かすえ)、と名のった。野呂(のろ)霞末(かすえ)を改めて美しい、と思った。容姿はもちろんのこと所作も理事長と自分の目を引きつけてやまない。
さらに彼は才にも恵まれていた。数学が得意だときいている、と野呂(のろ)が彼からきかれたことは自信に満ち溢れていた現役時代ですら、こたえられないことばかり。いや、自信ではない。無知さと悪あがきする気力だ。
霞末(かすえ)という男は狼狽する野呂(のろ)を、同じことを八喜子(やきこ)にやっているのに自分はできないのか、と笑った。嫌味ではなく腹の底から愉快そうに。
理事長はひたすら頭を下げ、野呂(のろ)も、それにならうしかない。
彼の中で退職は、その時に決まった。

追試で受かる生徒はずっと追試ねらいでテストを受ける。もう何年も、そんな状況は続いていた。「やる気なし高校」と揶揄されるのは学校側だけではない。特に指導をする風潮もなく、それをあたりまえにしてきた野呂(のろ)に1年かかったが追試で受かるようになった金扇(かねおうぎ)八喜子(やきこ)は生徒として、かわいい存在だった。
登校当初の垢ぬけなさも彼からすれば学生らしい。容姿を鼻にかけないのもよかった。
昨年の夏休み後に派手ではないが外見に気を使いだしたのも年頃らしく、かわいらしく思った。それが生徒間の噂に疎い彼が男の存在のせいだと知ったのは今年の春だ。
姪にねだられ、たまたま行った動物園で見かけた彼女は男といた。昨日、会った霞末(かすえ)だ。
途端、八喜子(やきこ)は憎たらしい生徒になった。本来なら追試を受けなくてもいいのではないか。遊んでいるから追試なのだ、と。
何度か撮った彼女の笑顔には必ず男もうつってしまう。早々と帰ったことに姪は不満をもらし兄から散々に怒られたが、それすら気にならなかった。
どす黒いものが一気に噴き出した。
彼女が懐いているのは追試をつくる自分ではなく生徒に何もしていない鷹司(たかつかさ)だ。
たまたま見かけた彼女は鷹司(たかつかさ)の家に入っていった。
親なしだから年上の男に取り入るのがうまいのだ。遊んでいるから勉強しないのだ。憎たらしい。
学年主任などと、お飾りの役を押しつけられた自分は忙しい。
冷たい半額弁当を食べるしかないのに自分は男の飯をつくる。憎たらしい。
廊下で話す会話が気になる。知ってしまう。男の家に泊まっている。憎たらしい。

 ドアが開き野呂(のろ)は我に返った。屋上へのドアはこちら側から鍵をかけた。鍵は自分が今もっているほかはダイヤル錠のついたキーボックスの中だ。番号は各学年主任と事務長しか知らない。
そのはずの鍵を八喜子(やきこ)が手に持ち眼鏡ごしに野呂(のろ)を見ていた。ダイヤル錠を閉め忘れたか、と野呂(のろ)は思う。

「あの、先生! 辞めちゃうってきいたんですけど本当ですか」

野呂(のろ)は立ち上がりもせず、はい、とこたえた。

「それって私のせいですか? 私があんまりバカだから先生が嫌になっちゃったんですか?」

野呂(のろ)八喜子(やきこ)の言葉の意味がわからず、はい? と訊き返した。

雪輝(ゆきてる)だって私に教えるの嫌だって言います! るる子ちゃんだって私がわからなすぎて何から教えていいかわからないって。だから先生の教え方が下手とかじゃなくて私の頭が悪いだけだから違うんです!」

ようやく野呂(のろ)は合点がいった。

「違いますよ、金扇(かねおうぎ)さん。自信がなくなったんです」
「だから違うんです! 先生の授業がわからないのは先生のせいじゃなくて私の頭が悪いせいなんです! 先生になるのってすごく大変だし頭がよくないとダメですよね? 辞めたらもったいないです!」

八喜子(やきこ)は、ごめんなさい、と頭を下げる。
野呂(のろ)は放心気味にそれを見ていた。しばらく呆けていたが口を開く。

「……わざわざ捜しに来てくれたんですか?」
「だって辞めちゃうってきいたんです。先生のせいじゃないんです! 逢魔(おうま)さん……えーと、勉強を教えてくれる、すごく頭のいい人もあきれるくらい私の頭が悪いから、先生のせいじゃないから辞めないでください!」
霞末(かすえ)さんのこと? そうなら頭がいいのは、とてもよくわかります」
「はい!」

嬉しそうに笑う八喜子(やきこ)を見て野呂(のろ)は、ああ、と思った。
撮りたい笑顔で笑う時に霞末(かすえ)がうつるのはあたりまえだ。彼に笑っているのだから、と。

「あなたには厳しい指導をしましたよ。それでも私に辞めてほしくないんですか?」
「だって私の頭が悪いからで先生のせいじゃないです!」

野呂(のろ)は、くくっと、小さな笑い声を上げる。金扇(かねおうぎ)八喜子(やきこ)は確かに頭が悪い、と思った。

「あの、授業で教科書にあることは頑張りますから! ……予習できないことはわからないですけど」
「……金扇(かねおうぎ)さん」

野呂(のろ)は立ち上がる。

「頑張ってくれてるんですよね。これからは教科書通りの問題をあてますよ」
「……はい!よかったです」

八喜子(やきこ)の笑顔を見て、やはり違う、と野呂(のろ)は思った。携帯を取り出し時間を見ると、もうすぐチャイムが鳴りそうだ。画面が目に入った八喜子(やきこ)が驚く。野呂(のろ)はしまった、と思った。

「お母さん? 何で先生がお母さんの写真をもってるんですか?」
「……そうなんですか。ネットで見つけた写真なんですが、きれいな方だから気に入って使ってるんです」

八喜子(やきこ)は目をぱちぱちとさせる。さすがに苦しい言い訳だ、と野呂(のろ)は思った。霞末(かすえ)がうつっているところをカットした八喜子(やきこ)の写真だからだ。
八喜子(やきこ)は、にこにこと笑う。

「そうなんですね! きれいって言ってもらえて嬉しいです!」
「……金扇(かねおうぎ)さんは霞末(かすえ)さんや鷹司(たかつかさ)先生と特別に親しい関係なのでは? それでも私にきれいと言われて嬉しいんですか?」
「はい。ほめられて嬉しいです」

八喜子(やきこ)は笑顔のまま頷く。

「……授業が始まりますよ。鍵は私が返します」
「ありがとうございます!」

八喜子(やきこ)は駆け出していく。
素直な子だ、と野呂(のろ)は思った。だからこそ悪い大人につけこまれているのでは、と思う。
自分の無力さは昨日、実感した。
せめて、いつでも助けの手を差し伸べられるように見守ろう。彼はそう決意した。



 屋上へ続く階段の下で雪輝(ゆきてる)は困惑していた。思わず、意味がわからない、と口をついて出る。
戻ってきた八喜子(やきこ)は嬉しそうに笑っているが雪輝(ゆきてる)は、野呂(のろ)にうすら寒いものを感じていた。
一緒に待っていた征士郎(せいしろう)に、どうしたんですか、ときかれる。雪輝(ゆきてる)はしばらく耳をすませていたが、やがて言った。彼に頼みごとがある、と。



 夜。仕事を終え職員用玄関を出た野呂(のろ)はしばらく歩いたところで見知った声に呼びとめられた。ちょうど街灯の切れ目、人気のない暗がりだ。振り向くより早く、背中に手をねじられ携帯を取り上げられる。人よりは大きい、がっしりとした体つきの男、鷹司(たかつかさ)野呂(のろ)を離した。
彼は野呂(のろ)の携帯の画面を見て鼻を鳴らす。

「これは問題だな。生徒の隠し撮りか」

野呂(のろ)は黙るしかなかった。暑さのせいではない汗が背中をつたう。
鷹司(たかつかさ)は、ぽい、と、地面に携帯を落とすと足で踏みつけた。
念入りに踏むたびに野呂(のろ)は慌て抗議の声をあげたが鷹司(たかつかさ)に、にらまれると黙るしかない。

「恨むなよ。俺はお前を助けてるんだ」

鷹司(たかつかさ)はくるりと踵を返し立ち去る。残された野呂(のろ)は、どこか、ほっとした気持ちで壊れた携帯を見ていた。



 翌日の放課後。霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。アルバイトの掃除を終えた八喜子(やきこ)逢魔(おうま)と並んで座りながら、にこにこと笑っていた。

「今日はあてられても、ちゃんとこたえられました! ありがとうございます!」
「まだ八喜子(やきこ)にあてるの?」
「出席番号であててました」

ああ、そう。よかったね、と逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の頭をなでた。

「辞めるっていうなら、放っておけばいいのに。君は本当にかわいい」
「だって私のせいで先生としての自信をなくしちゃったんですから」
「前から知ってるけど八喜子(やきこ)は見えることに頼り過ぎてコミュニケーションが独特だよね。だからこそ俺を好いてくれるんだろうけど」

八喜子(やきこ)は拗ねたように逢魔(おうま)を見上げる。

逢魔(おうま)さんは今までだって、たくさんの女の人に好きになられてたじゃないですか」
「みんな理由は違ったさ。その中で君は特別な理由で俺を好きになってくれてるよ。もちろん俺もね」

嬉しそうにほほ笑む八喜子(やきこ)逢魔(おうま)はいつもの柔和な笑みを浮かべて続ける。

「ねえ、八喜子(やきこ)。コミュニケーションの取り方も勉強してみない?」
「勉強したら、どうなるんですか?」
「少なくとも俺と君の行き違いは減ると思うよ。どうする? してみたい?」
「はい! してみたいです」
「わかった」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の顎に手をそえ唇を重ねた。驚いている彼女にかまわず舌を絡めたが、顔を歪め、すぐに離れる。

「辛い! ……何を食べたの?」
朱珠(しゅしゅ)ちゃんとホットチリチリレッドポテトを食べたんですけど、それより! 急に何するんですか!」
「だって、コミュニケーションの勉強をしたいって言っただろう?」
「言いましたけど……どうしてですか?」

顔を赤くする八喜子(やきこ)逢魔(おうま)はくすくすと笑う。

「セックスもコミュニケーションだよ。じゃあ、勉強しようか」
「しません!」
「歯を磨いてからの方がいいな」
「だから! しません!」

頰をふくらませて怒る八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は、ああ、そう、と無邪気に笑った。
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