第42話 A tender afection

文字数 36,242文字

 12月30日。
都内にある陰陽庁(おんみょうちょう)は年末だというのに騒がしかった。会議室では、ずっと意見の交換が行われている。
食堂で矢継早(やつぎばや)と向かいあって座りながら鷹司(たかつかさ)は、いすによりかかり、いびきをかいていた。征士郎(せいしろう)鷹司(たかつかさ)の横で参考書を広げている。矢継早(やつぎばや)はスマホから顔をあげた。

「映画のPRだと思う派と神様は本当にいる派で二分されてますね。比率は映画派が3分の2です」

あくまでネット上ですが、と付け加えて彼女はけらけらと笑う。

「さすが自撮りをチェキスタにあげる自意識過剰なゴリラですね。最後にカメラにアピールして消えやがりました」

チェキスタとはSNSの一種だ。
テレビの映像を画像にしたものが、あちこちに出回っている。

八喜子(やきこ)さんは、お名前を出されて大丈夫なのでしょうか?」
「それなんですけど、きこえたのは、やっきーを知ってる人たちだけみたいです。音声がなかったってことになってます。でも」

口の動きから「ア? イ? ヲ? アイシテルヨ?」というのが通説みたいです、と矢継早(やつぎばや)はぼやいた。

「兄ゴリラの会見での暴挙も、弟ゴリラと体格と顔が違うから別人だって解析してる人もいて、意見交換が簡単な分、情報の制限が追いつかないですね」

ため息をつく矢継早(やつぎばや)征士郎(せいしろう)は疑問を口にする。

「どうして『怪異』たちは、あんな宴を開いたのでしょうか?」

この現代で、と首をかしげる彼に矢継早(やつぎばや)は、またため息で返す。あいつらの考えなんて、わかりません、と。


 陰陽庁(おんみょうちょう)長官室。
資料の収められた棚の前にある簡易的な応接用のソファに、すみれと清二郎(せいじろう)は並んで座っていた。
ふたりとも特課(とっか)の制服である黒いスーツ姿だ。

「……どうなるんでしょうか」

すみれが、ぽつりと呟く。

「おおっぴらに化け物どもは存在を誇示しやがった。何を考えているんだろうな」

清二郎(せいじろう)は耳のピアスにふれながら吐き捨てた。
すみれは頰にふれながら言う。

「今まで直接、『怪異』と関わった方々以外は、段々と信仰を忘れてきてしまいました。ですから、秘密にしてきたわけではありませんが、秘密のようなものでしたね」

彼女は、信じてもらえませんから、と笑う。清二郎(せいじろう)も唇を歪める。

「隠れる気がなくなったって、ことか」
「隠れてたわけではありませんけどね」
「各地の神社、寺、あいつらの根城への参拝客があとを絶たないらしいな」
「年末ですからね。お守りを買うと『なりそこない』にならないそうです」

清二郎(せいじろう)は鼻を鳴らした。

「会見の記者は戻らなかったな」
「DNAは同じでしたね」

すみれは悲しみをたたえた目を伏せた。

「……セージ」
「何だ?」
「どうして……叔父様と共謀して()(かた)を襲わせたんですか?」

すみれは目を伏せたまま続ける。

千乃(ちの)さんのことが原因ですか?」

ぎゅっと唇を噛んで、すみれが見た兄の顔はとても静かなものだった。

()(かた)は救ってくださいませんでしたが、仕方がなかったのです」
「仕方がない……か? 金扇(かねおうぎ)八喜子(やきこ)が、千乃(ちの)と同じように『怪異』に取り憑かれたが」

清二郎(せいじろう)は怒りをにじませた静かな声で続ける。

「女としては助けられなかった。それなのに、あの女は助かって、のうのうと生きている。霞末(かすえ)の色つきが生かしているからだ。あんな奴はっ!」

清二郎(せいじろう)は叫び、すみれをにらみつける。

「『神』なんかじゃないっ! それを崇める親父も兄貴も! お前もイかれてるっ! 屍の上に築いた薄汚い呪われた地位だ!」

すみれは悲しげに兄を見つめた。

「それです。千乃(ちの)さんが女性として、おつらい目にあってから、セージは『神』という言葉を使いませんでした。でも」

すみれは一度、目を伏せると兄を真っ直ぐ見つめる。

「夏の会議で言いました。『自分たちを神か何かと思い上がったのか?』と。あれはすべて()(かた)への呪いの言葉だったのですね?」

すみれは凛とした姿勢で兄に言う。

「わたくしたち千平(せんだいら)が『神』とお呼びするのは霞末(かすえ)のご兄弟だけです。子供の頃に厳しく躾けられました」

清二郎(せいじろう)は、すみれを睨みつけたままこたえない。

鷹司(たかつかさ)さんがおっしゃってました。春に八喜子(やきこ)さんたちとセージに会った時に『霞末(かすえ)の色つき』と呼び捨てにした、と。お父様や、上のお兄様、わたくしの前では、そんなことはありません」

これも躾けられました、と、すみれは、にこりと笑う。

「セージでも呼び捨てにするなんて、鷹司(たかつかさ)さんだけの前でも今までありませんでした。千乃(ちの)さんのことがあるまでは。あれから、ずっと()(かた)、としかセージは呼びませんね」

すみれは鈴を転がすような声で笑う。

清一郎(せいいちろう)お兄様はもちろん、お父様もお気づきですよ。今日みたいに会議に出ないセージが、あんなに話すんですもの。でも、言わないのは証拠がないからです」

すみれは静かな口調で続ける。

「あなたと叔父様に扇動されて、謀反を起こした皆様は霞末(かすえ)の色なし様に粛清されました。彼らを手駒にして、ほかの方々も扇動したのでしたら、誰も証言できませんものね」

清二郎(せいじろう)を見る、すみれの目が冷ややかになる。

「屍の上に築いた薄汚い呪われた地位の居心地はいかがですか? あなたは千平(せんだいら)も失格です」

清二郎(せいじろう)の手がすみれの胸ぐらをつかみソファに押し倒す。
すみれはひるまず清二郎(せいじろう)をまっすぐ見る。

「わたくしは千平(せんだいら)ですから、生贄になるためにも処女でいろ、と言われてます。でも、そんなの時代遅れだと思いませんか?」

もう違います、とすみれは妖艶に笑った。

「わたくしも千平(せんだいら)失格です。同じですよ、清二郎(せいじろう)。わたくしたちは双子ですから」

すみれに頰をなでられ清二郎(せいじろう)は彼女から手を離すと乱暴に部屋を出て行った。ドアが閉まると、すみれは震える手で鍵をかけ携帯で電話をかける。相手が出ると、すみれは泣き出した。鷹司(たかつかさ)さん、と。


 長官室に矢継早(やつぎばや)と来た鷹司(たかつかさ)は彼女が一緒に来てくれたことに心の底から安堵した。
ドアが開くなり乱れた服で泣きすがってきた、すみれとふたりきりでは誤解を受けたからだ。
矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)にしがみついて泣くすみれを冷めた目で見ていた。

「席外しましょうか?」
「やめてくれ!」

きいたことがないくらい悲痛に叫ぶ鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)は吹き出した。鷹司(たかつかさ)は彼女に向かって手を突き出す。

矢継早(やつぎばや)。ハンカチ」
「お嬢様なら、自分で持ってませんかね? わたしの安物ですし」


 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
朝食を終えた逢魔(おうま)八喜子(やきこ)は並んでソファに座っていた。

「友だちに会いに行くの?」
「はい。るる子ちゃんが、逢魔(おうま)さんをテレビで見て、説明してほしいって」
「あの子? 独特の感性をもってるよね。来てもらおうか?」
「ミヤさんのおうちでって約束しましたから。逢魔(おうま)さんのこと、ぜんぶ話していいんですか?」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の髪をなでながら笑う。

「俺はかまわないよ。信じるかは別だけどね」
「……お兄さんは、どうしてあんなことしたんでしょうか」
陰陽庁(おんみょうちょう)に誤魔化されたくなかったんだろうね。言えばいいのに」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の頭をなでる。記者のことが悲しい? とききながら。

「……わかんないです。あの人、お母さんが事故で死んじゃった時に」

八喜子(やきこ)は涙を指の背でぬぐう。

「どんな気分ですかって、しつこくきいてきて。ほかの人にも。雪輝(ゆきてる)が怒ったら、それも喜んで」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)を抱きよせ、自分の胸で泣かせた。
 金扇(かねおうぎ)兄妹は一昨年の3月に交通事故に巻きこまれ亡くなっている。交差点で暴走してきた車が信号待ちの列に突っこんだのだ。
登校時間と重なっており、彼女の母は小学生をかばって命を落としている。
兄妹以外に対しても悪質な取材が問題視されもした。また別の話題を見つけると取材陣はすぐにそちらに消えている。

 兄は覚えていた、と逢魔(おうま)は思う。
彼と彼女の出会いは自分の敷地に侵入し暴力行為を働いた「さとり」の八喜子(やきこ)逢魔(おうま)が興味をもったからだ。その夜は兄が来ており、おぼこい変な少女が来た、と話し、翌日に仙南(せんなん)が調べあげた八喜子(やきこ)の素性の資料を兄と見た。その中にあの記者が不躾な質問で彼女を泣かせているものがあったのだ。
当時の自分は何も思わず今の今まで忘れていたが、聡明な兄は思うところがあって覚えていたのだろう、と考え、彼はうなるようなため息を吐いた。
やはり、兄にはかなわない。
そう思ったからだ。

 彼のため息をきいて顔をあげた八喜子(やきこ)に頬ずりしながら逢魔(おうま)は笑う。

「君は本当に優しいなぁ」

彼女に悟られないよう深い心の奥で彼は考えている。
神罰だ、ざまあみろ、と。
『なりそこない』になったということは、彼の精神は満たされていたのだ。
そのために踏みにじった他者の精神はどれほどかはわからなかったが、少なくとも彼の愛しい人は傷つけられていた。


 八十上(やそがみ)邸。
ミヤに招かれた八喜子(やきこ)朱珠(しゅしゅ)と、るる子は居間に通された。
彼女たちは待ち合わせを最寄駅にしてカナカの運転する車でミヤの家に来たのだ。車内は沈黙しかなかった。眼鏡を外してきた八喜子(やきこ)には見えたからだ。るる子に怒りと悲しみが。朱珠(しゅしゅ)も、るる子の顔から何かを察し黙っていた。
カナカが紅茶とクッキーを用意する。
ミヤは清楚なワンピース姿でるる子の向かいに、るる子の隣には朱珠(しゅしゅ)、ミヤの隣に八喜子(やきこ)が座っている。

「るる子ちゃんが、詳しく話を知りたい、ということだけど」

沈黙が続いていたのをミヤが破る。

「はい。ミヤさんがこうやって集めたってことは、ミヤさんも知ってたんですか?」
「うん。僕が八喜子(やきこ)ちゃんと知り合ったのは彼のおかげ、というべきかな。るる子ちゃん」

ミヤは穏やか口調で続ける。

「僕は男だ。体がね」
「マジで?!」

朱珠(しゅしゅ)が大声をあげる。
対して、るる子は驚きもしない。

「知ってました。のど仏があるから男の人だって」
「……のど仏って何?」
「わかんない」

ひそひそと話す朱珠(しゅしゅ)八喜子(やきこ)にミヤは笑うと自分ののどにふれながら説明する。説明をきき終えたふたりは感心した。

八喜子(やきこ)ちゃんの彼にもあるから、よく見てみるといいよ。男にはみんなあるから。僕はね」

ミヤは喉を潤すために紅茶を一口飲む。

八十上(やそがみ)宮都(みやと)として生まれたんだけど、父が厳しくてね。父の言う通りにできなかった。いつからか、いつだろうな」

ミヤはカップの中のルビー色の水面を見つめる。

「自分は宮都(みやと)じゃなくて『ミヤ』だと思ったんだ。宮都(みやと)だった自分はいなくなって、ミヤの自分が残った」

ミヤはくすりと笑って顔をあげる。

「変だよね。体は宮都(みやと)なのに心はミヤなんだ」
「いや! 全然! あたしより女の人だし!」

朱珠(しゅしゅ)の大声にミヤは声をあげて笑った。朱珠(しゅしゅ)とは違い上品さを損なわない笑い方だ。

「ありがとう。朱珠(しゅしゅ)ちゃんも八喜子(やきこ)ちゃんも僕を僕、ミヤとして見てくれる。僕も、ミヤはいるんだから、しょうがないと思うよ」

カナカもね、とつけ加えミヤは微笑んだ。

八喜子(やきこ)ちゃんの彼は『神さま』だ。昔から、ずっといる。にわかには信じ難いだろうけれど、るる子ちゃんも見ただろう?」

るる子ははい、と頷いた。

「ずっと私だけ知らなかったんですね。すごくお金持ちな人だと思ってました」
「お金もすごいよ。財産を築いてきているし」
「結構、神さまも俗っぽいんですね」
「それぐらい八喜子(やきこ)ちゃんが近くにいられる存在なんだろうね」

近く、と口の中で呟き、るる子は下を向いた。

「秘密にされてたなんて、私、そんなに仲良くなかったんだね」

るる子の言葉は、ぐさり、と八喜子(やきこ)の胸に突き刺さった。
彼女が何も言えずにいると朱珠(しゅしゅ)がクッキーを頬張りながら言う。

「へ? なんか、勝手にすねられても困るっていうか」
朱珠(しゅしゅ)ちゃん?!」

びっくりしている八喜子(やきこ)に構わず朱珠(しゅしゅ)は次のクッキーを食べながら言う。

「だって、るる子ちゃん、前にあたしが神さまいるっつったら、めっちゃ冷めた目してたじゃん!」
「いつの話?」
「いつかはわかんないけど便所の神さま」

朱珠(しゅしゅ)はぼりぼりとクッキーを食べ続けながら言う。
ミヤの後ろに控えているメイドのカナカは鼻まで長さのある前髪の下の顔をしかめていた。

「神さま信じてないんでしょ? じゃあ、八喜子(やきこ)ちゃんの彼氏が神さまっつっても信じないじゃん!」

言って、朱珠(しゅしゅ)は旦那か、と言いなおす。

「でも、これでわかったっしょ! 神さまはいるんだよ。クラスのバカはあれは映画で八喜子(やきこ)ちゃんの旦那がハリウッドの人とか言ってるけど!」
「誰?」

るる子にきかれ朱珠(しゅしゅ)は携帯の画面を見せる。

「むっつーみ! あいつマジうざい!」
八喜子(やきこ)ちゃんの連絡先知らないから、あなたにきいてきたんだね」
「そ。るる子ちゃんも、これでわかったんだから、いいじゃん!」

朱珠(しゅしゅ)に、にんまりと笑われ、るる子はしばらく黙っていたが頷いた。

「そうだね。私は信じなかったし信仰宗教の人だと思ったと思う」

言って、るる子は、いただきます、と紅茶とクッキーを口にした。
どんどん空になっていく皿を見てミヤはケーキを出すようカナカに言いつけた。
八喜子(やきこ)は、ほっとして言う。

「るる子ちゃん。黙ってて、ごめんね」
「ううん。時期を待たれてただけだから。バットの機動隊の人は鷹司(たかつかさ)先生?」
「うん」
「そっちも教えてくれる?」
「うん!」

八喜子(やきこ)の話をミヤが補い、るる子は説明をきいた。るる子は疑問を口にする。

「テレビで見た、あの妖怪、これからも増えるのかな?」
「わかんない。逢魔(おうま)さんにもわからないみたい」


 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
多々良木(たたりぎ)がソファにねそべり、お菓子を食べながらテレビを見ていた。多々良木(たたりぎ)は和服姿の少女で目からは無数の棘が生えている。逢魔(おうま)の屋敷の小さな部屋でやっかいになっている「怪異」だ。
樹楼尓(じゅろうじ)が頭を叩き、片づけろ、と仁王立ちしながら見下ろす。多々良木(たたりぎ)は黒い口の奥から、ぎい、と音を出す。床にはお菓子の食べカスやゴミが散らばっていた。

「昨日の夜、八喜子(やきこ)と過ごしてくれたんだから、いいじゃないか」

向かいに座る逢魔(おうま)は、くすくすと笑う。

「よくありません! 居候の立場をわきまえるべきです!」

すらりと背の高い少年の姿の樹楼尓(じゅろうじ)は普段から鋭い目つきをさらに険しくした。
多々良木(たたりぎ)は次のお菓子を口に放りこみながらテレビを見る。

「こうして比べると、八喜子(やきこ)は食べ方にも品があるなぁ」

食事の仕方も美しい、と逢魔(おうま)は、にこにことしながら言う。
樹楼尓(じゅろうじ)は腕組みをしてあごに片手をあてると、視線をぐるりと巡らせる。

「経済的に困窮されていたにしては、きちんと躾を受けてますね」
「おじいちゃんが厳しかったらしいよ。詐欺師だから足下をみられないように、きちんとした振る舞いを躾けたんだろうね」

テレビが騒がしくなり皆の視線を集める。ここ連日の『怪異』が起こした騒ぎ、『神さま』は本当にいるのか、という特番が流れていた。

「兄さんは何を考えているんだろうね」

独り言のように逢魔(おうま)は続ける。

「今、信仰を集めても人間は、すぐ忘れる。せいぜい10年。今の騒ぎを実際に見た大人たちが覚えているかも怪しい。また別の感心ごとがあれば、どんなに衝撃的でも、すぐに忘れてしまう」

画面に逢魔(おうま)の写真が大きく映り「愛の神さま?!」と紹介されている。キャスターが興奮気味に言う。

[ ネット上では奥様がいるとの情報もあり、なんと! おっぱいが好きらしいです! ]

多々良木(たたりぎ)樹楼尓(じゅろうじ)、奥に控えていた仙南(せんなん)が同時に吹き出した。

「たしかに信仰はなくなりましたね」

笑いをこらえた震え声で樹楼尓(じゅろうじ)は言った。逢魔(おうま)の携帯が鳴る。
見ると、桐里(とうり)たちからのグループSHINEだ。


桐里(とうり) : 昨日は奥方に愛を注げたか? おっぱい神

りゅん : おっぱい神www

しぐの : あれだけ酔っては愛をそそげまい。酒を注ぎすぎたな、すまなかった。おっぱい神

729 : でも嫌がりながらも、つがれたら飲む、その黄金の精神、好きよ。おっぱい神

炎牙(えんが) : 振られてない? そそげなかったから。おっぱい神

O.K. : ぶち殺すぞ

さっきゅん : まあ、まあ。わしも、おっぱい好き〜。柔らかいから気持ちいいし(star

五十野(いがの) : うまいし

りゅん : おっぱい神ふえてるww

桐里(とうり) : うまいか? 柔らかいか?

729 : それはトーリが貧相だから

炎牙(えんが) : しっ!

桐里(とうり) : はあ?


脂肪のかたまりでうまいのか、という論争が始まり、逢魔(おうま)はテレビに目を戻した。こちらでも大きさや尻の方が、という論争が始まっている。逢魔(おうま)は苦々しい表情でぼやいた。平和だね、と。


 陰陽庁(おんみょうちょう)を後にした鷹司(たかつかさ)は駅に向かって歩き出した。くるりと後ろを振り返り、すみれを見て、ため息をつく。

「ついてきていいのか?」
「まだ会議は終わってませんから」

スーツ姿の鷹司(たかつかさ)と違い、すみれは顔立ちの華やかさを隠すように深く帽子をかぶり、先ほどまでの黒スーツと違い茶色のトップスに黒のロングスカートを身につけている。

「終わった時にいなくていいのか?」
「お父様と、上のお兄様が決めることですから」
「夏の件で『神』を退治しようとする派閥じゃなくて信仰する派閥が勝ったままだな。おめでとう」

鷹司(たかつかさ)が歩き出し、すみれは、その横に並んだ。

鷹司(たかつかさ)さんは、どちらですか?」
「ああ? お前はどっち何だ?」
「わたくし、どうしたらいいのか、わからなくなってきました」

すみれは、ぼんやりと前を見つめながら言う。

「そうか。俺はいつだって」

駅に着き改札を通りながら鷹司(たかつかさ)は静かに言った。

「人間にとって害のある存在をぶっ殺す。神だろうが何だろうが好き勝手にされてたまるか」

改札を抜けてホームに着くと、後ろをついてきた、すみれにくるりと振り返る。

「だから『狂犬鷹司(たかつかさ)』だろう? 辛気くさい顔をするな。行き先はもっと気が滅入るところだ」


 C市T寺墓地。
母と祖父の眠る墓に手を合わせて目を閉じていた八喜子(やきこ)は、後ろから声をかけられて振り向いた。鷹司(たかつかさ)とすみれがいる。
時刻は夕暮れ、黄昏時。八喜子(やきこ)が好きになったオレンジ色の空は暗くなりつつある。

「こんにちは、勘和(かんわ)さん、すみれちゃん」

すみれは目を見開き鷹司(たかつかさ)を見たが彼女の望んだこたえはなく、彼は質問を続ける。

「年末に墓参りか?」
「はい。ミヤさんのおうちに行ったから、帰りによったんです」
「そうか。八喜子(やきこ)

鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)の額をはたいた。

「ひとりでふらふら出歩くなっ! 旦那はどうした?」
「いたっ……逢魔(おうま)さんには内緒です」
「こんな寂れた場所に若い女がひとりで来るんじゃない」
「サビレタって何ですか?」

錆びてないです、と言う八喜子(やきこ)に、すみれは笑って教える。
ひと気がないことです、と。
八喜子(やきこ)は腑におちず、暴力教師、とぽつりと言ってから、くしゅんとくしゃみをした。暗くなる空が冷気も運んできたようだ。彼女はぷうと頬をふくらませる。

「お寺に人がたくさんいるのは、お葬式とかです。いない方がいいじゃないですか」
「あほ。お前の旦那が、そのでかい胸を好きなように、どこの誰が見てるかわからん。前に襲われたことがあっただろう?」
「なんで勘和(かんわ)さんが知ってるんですか?」

赤くした頰に手をあてながらきく八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)は苦笑する。

「テレビやネットで面白おかしく取り上げられてるぞ。巨乳好きの愛の神様だってな」
「まったく無礼なことだよね」

突如、背後に現れた逢魔(おうま)鷹司(たかつかさ)は反射的に拳を叩きこんだ。逢魔(おうま)は、ひょいとそれをかわす。

「振り向きざまに殴りかかるなんて、どんな躾をうけたの?」

くすくすと笑う逢魔(おうま)に、すみれは慌てて鷹司(たかつかさ)に詫びるように言ったが、彼は従わず、隣ですみれが深々と頭を下げた。
鷹司(たかつかさ)は眉間にしわをよせる。

「何で出たんだ? 八喜子(やきこ)を追いかけて来たのか?」
「探しはしてたさ。帰りが遅いし、勝手に遠くに行ってるからね」

目が笑っていない逢魔(おうま)に見下ろされ八喜子(やきこ)は、ごめんなさい、と目を伏せた。

「お母さんのお墓に来るなら、言えばいいのに」
「だって……急に来たくなっただけです! 寒いから帰りましょう!」

鷹司(たかつかさ)とすみれに、さようなら、と頭を下げ、八喜子(やきこ)逢魔(おうま)の背を押しながら立ち去った。
ふたりの背を見送りながら、すみれと鷹司(たかつかさ)は視線を交わし合う。

「……どうして、こちらにいらっしゃることができたんでしょうか?」
「名前だ。八喜子(やきこ)が名前を呼んだ」
「名前、ですか? でも、おー」
「言うな。理由はわからんが、それがあいつの名前になった」
「まあ」

すみれは、もう見えなくなりそうなふたりの後ろ姿をじっと見た。

「普通、ですね。もっと近より難くて、魅入ってしまうほど美しい方でしたが」

八喜子(やきこ)に何かを言われた逢魔(おうま)は嬉しそうに微笑んでいる。

「自分らしくいられる相手が八喜子(やきこ)さんなんですね」

羨ましそうに、憂いを帯びた声音のすみれに鷹司(たかつかさ)が言う。

「違うな。いつでもあいつは我がままだ。不平も不満もなければ従属も妄信もなく八喜子(やきこ)が受け入れてくれるだけだ」

鷹司(たかつかさ)は豪快に笑う。

「お前と違って、胸がでかいから器もでかいんだろう」

すみれは、むっとして唇をかんだ。

「ほれ、帰るぞ。貧相な体つきでも、お前は若い女だからな。ひとりで帰すわけにはいかない」
「……お心づかいに感謝いたします」

歩き出した鷹司(たかつかさ)の背中に舌を出して、すみれも歩き出す。背を向けたまま鷹司(たかつかさ)が言う。

「美人だからな。すみれは」

何度も目をしばたかせながら、彼の後を追い、墓地を抜けたところで、すみれは鷹司(たかつかさ)の背に抱きついた。

「本当に鷹司(たかつかさ)さんは、そういうところが嫌いです」
「……やっぱり違うな」
「何がですか?」
八喜子(やきこ)矢継早(やつぎばや)は柔らかいが、お前は固い」

お嬢様だからお堅いのか、と笑う鷹司(たかつかさ)の背に、すみれは強く爪を立てた。


 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
堕落しきった多々良木(たたりぎ)が食べ散らかしたお菓子を見て樹楼尓(じゅろうじ)は目を吊り上げたが彼女はソファに寝そべっていた。
白い毛皮の大猫の姿の棣雅(たいが)は部屋の隅で専用の板を使い、爪とぎに勤しんでいた。
深夜に近い頃、逢魔(おうま)八喜子(やきこ)仙南(せんなん)の運転する車で帰宅すると多々良木(たたりぎ)は体を起こす。
途端、ぐっと気温が下がる。八喜子(やきこ)の全身が総毛立った。
逢魔(おうま)と同じ色の髪と瞳をした(あがま)が悠々とソファに座っている。服は、いつものように黒づくめだ。
多々良木(たたりぎ)は弾かれたように飛び上がって部屋の隅、棣雅(たいが)の隣に逃げた。逢魔(おうま)八喜子(やきこ)を腕でかばいながら兄へ話しかける。

「呼んでないけど?」

(あがま)は優雅な手つきで細い青のフレームがついた眼鏡を逢魔(おうま)に見せる。

「これは八喜子(やきこ)の物だ。私には八喜子(やきこ)が、どこにいるか、お前よりもわかる」

呪いのアイテムだっ! と棣雅(たいが)が叫び、頭を守るように抱える。
海に捨てればよかったね、と険しい顔をする逢魔(おうま)の後ろで八喜子(やきこ)は心底、嫌そうな顔をして言った。

「気持ち悪い……」

逢魔(おうま)が吹き出し、樹楼尓(じゅろうじ)の胃がきりきりと痛んだ。(あがま)はおぞましさに耳をふさがせる笑い声をあげる。

「恩知らずだな」

言われて、八喜子(やきこ)は顔をしかめる。

「記者の人のことなら、お礼は言いません!」

それ以外のことは、ちゃんと言ってます! と舌を出す。仙南(せんなん)の背中を嫌な汗が伝った。
(あがま)はまた笑う。八喜子(やきこ)の視界はぐらぐらとした。彼の笑い声はきいているだけで全身に鳥肌が立つ。彼の周りは黒い。段々と世界が厚みを失っていく。八喜子(やきこ)が最後に覚えていたのは、強く逢魔(おうま)の腕をつかんだことだった。

 八喜子(やきこ)につかまれた腕に体重をかけられ、逢魔(おうま)は彼女に目線をうつした。彼女が伏せていた顔をあげると逢魔(おうま)の顔がひきつる。
いつもは愛らしさであふれていると彼が思う彼女の顔つきが違っていた。一言で言えば「邪悪」。「さとり」の八喜子(やきこ)に母の志喜子(しきこ)が取り憑いていたのだ。

「……また?」

心底、嫌そうに逢魔(おうま)がもらすと八喜子(やきこ)は、ぎろりと彼をにらみつける。
八喜子(やきこ)の様子に(あがま)は興味深げだ。志喜子(しきこ)である八喜子(やきこ)(あがま)に指を突きつける。

逢魔(おうま)の兄?」

(あがま)が笑みを浮かべたまま頷くと八喜子(やきこ)は腰に手をあてて彼を見る。

「ラブリー天使(エンジェル)八喜子(やきこ)は、あんたの所業に心を痛めてるけど!」

八喜子(やきこ)はにんまりと笑う。

「よくやった! お礼を言っとくわ」

(あがま)は愉快そうに笑った。
本当に邪悪だな、と逢魔(おうま)は思い、お礼を言ってません、と仙南(せんなん)樹楼尓(じゅろうじ)は思っていた。

「あんのクソ記者、マスメディアだか何だか知らないけど! あたしが助けた子供たちまで泣かせやがって! 天罰必罰ザマアミロ!」

ふふん、と鼻をならす八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は、ため息をついた。彼にとって、かわいらしくてたまらない愛しい存在が急に邪悪な存在になったのだ。見るに耐えず、早く戻って欲しかった。
ふと、彼は思う。自分もざまあみろ、と思ったことを。
人間が自分たちを恐れるのは、こういうことか、と逢魔(おうま)は妙に納得した。

「まったくねえ、美人なヒーローに助けられたって、感謝を捧げてもらって、あとは笑って生きてもらえりゃよかったのに。余計なことしくさって!」

八喜子(やきこ)は拳を突き上げて怒りを露わにする。

「で・も! あー! すっきりした! やっぱり悪いことしてたら報いを受けるのよねえ。神さまっているんだわ」

そのまま八喜子(やきこ)は勢いよく万歳する。

「と、いうわけだから。八喜子(やきこ)には絶対に言ってもらえないだろうから、あたしからお礼を言っておくわ」

また指を突きつける八喜子(やきこ)仙南(せんなん)樹楼尓(じゅろうじ)は思っていた。言っていません、と。棣雅(たいが)多々良木(たたりぎ)は怯えて小さくなったまま部屋の隅で震えていた。
(あがま)は柔和な笑みを浮かべ、八喜子(やきこ)を見ている。

「それと! 残念で〜した! あんたが『なりそこない』を増やしたいんだったら無理! 今の人間は満たされてて満たされてないから〜」

『怪異』になる強い思いなんかも、まず持ってない、と胸を張る八喜子(やきこ)(あがま)は、くすりと笑う。

特課(とっか)の人間たちがいる」

八喜子(やきこ)は目を吊り上げた。

「何が目的?」

くすくすと笑い続け、(あがま)の姿は周りに溶けるようにして消えた。
八喜子(やきこ)は鼻を鳴らして逢魔(おうま)を見上げる。

「邪悪兄弟の弟。あんたの兄は何を考えてるの?」
「わかったら苦労しないよ」

八喜子(やきこ)はそろえた指をあごにあてながら言う。

特課(とっか)が『なりそこない』や『怪異』にされたら『怪異』に対処できる人間が、うんと減るわね』
「うんとどころか鷹司(たかつかさ)一強だからね。不可能になるんじゃない?」

俺には変わりはないけれど、と逢魔(おうま)は部屋の隅の棣雅(たいが)多々良木(たたりぎ)を見やる。

鷹司(たかつかさ)って、あの火の奴か? あいつがいなくなれば、好き放題できるな!」

棣雅(たいが)は9本の尾を嬉しそうにパタパタと動かす。
逢魔(おうま)志喜子(しきこ)八喜子(やきこ)へと目を戻した。

「こうなるだろうね。抑止力がなくなるんだから」
「おバカっ!」

八喜子(やきこ)のパンチがみぞおちに入り逢魔(おうま)は、うめいてしゃがみこんだ。仙南(せんなん)樹楼尓(じゅろうじ)が驚きながらも彼に駆け寄り、多々良木(たたりぎ)は目を丸くした。笑い転げている棣雅(たいが)を見て逢魔(おうま)樹楼尓(じゅろうじ)の肩を叩く。

「躾が足りない。後でよろしく」
「かしこまりました」

志喜子(しきこ)八喜子(やきこ)は呆れたように言い放つ。

八喜子(やきこ)の大好きな勘和(かんわ)さんが『怪異』や『なりそこない』になったら、このラブリー天使(エンジェル)八喜子(やきこ)が、どれだけ傷つくと思ってるのよ」

逢魔(おうま)は眉をよせた。

勘和(かんわ)さんって何? 鷹司(たかつかさ)の名前だよね?」
「名前で呼ぶそうよきいてないの?」

先生も家族がいないじゃない、と志喜子(しきこ)八喜子(やきこ)は、からからと笑う。

「あー! 疲れた……」

言うなり彼女の体はふらりと倒れる。
逢魔(おうま)が抱きとめると八喜子(やきこ)は、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。


 A市。(あがま)の屋敷は山が切り拓かれた新興住宅地の奥にあった。塀の中は広い庭が広がり、奥に洋館が建っている。屋敷の裏手は林があった。
月明かりの中、(あがま)はその林の奥におり、草の上にあぐらをかいている。彼の髪と瞳は月に照らされると金色の輝きを放つ。
(あがま)は目の前の無骨な岩を憂いを帯びた瞳で見つめていた。
遥か昔、彼の愛しい人間は死んだ。墓を、と弟が泣くのでつくったものだ。
墓というのもおかしい、と(あがま)は思う。
岩の下には何もない。埋めたのは着物だけで、それすら今は朽ちている。それほど昔のことだった。
ここには誰もおらず、何もない。
土はすべてをのみこむ。
自分に似ている、と彼は思った。奪い、朽ちさせ枯らせてしまう。弟はあたえ、実らせ潤わせる。
ぐっと気温が下がる。(あがま)が振り返ると逢魔(おうま)が立っていた。

「隣に座ってもいい?」

(あがま)が目で頷くと逢魔(おうま)は彼の隣に同じようにあぐらをかいた。

「今年は墓参りしてなかったね」
「ここには何もない。あるのは感傷だけだ」
「兄さん。八喜子(やきこ)は『かや』なの?」

逢魔(おうま)は沈痛な面もちで(あがま)を見つめる。

「前にも言ったはずだ。かやは死んだ。あれは八喜子(やきこ)だ」
「今も『違う』って言わないんだね。兄さんも『かや』が欲しいの? もし、そうなら……」

逢魔(おうま)は自分に似た柔和な笑みを浮かべている(あがま)に懐かしさを感じていた。あの頃は自分の方が笑っていなかった、と思う。あの頃とー。

「3人で暮らさない?」

逢魔(おうま)の言葉に(あがま)は眉をよせた。逢魔(おうま)は幼い頃と変わらないあどけない笑みを兄に向けて続ける。

「長くて80年。たったそれだけだ」

(あがま)は笑った。静かな林に彼の笑い声が響く。

「私に『女』としてあたえるのか?」
「いや、それは、八喜子(やきこ)が嫌だって言うだろうし」

逢魔(おうま)の目が泳ぎ、(あがま)はほほえむ。

「そうだろう」
「追々、説得する。80年あれば、1回くらいは。1回ほだされれば、あの子は流されるから」

(あがま)は吹き出した。

「お前はそれを許すのか?」
「俺だって兄さんに独占されるのは嫌だよ! だから、3人だったら、それはそれでいいかなぁ……」
「私より、お前の方がよほど消されるな」
「仕方ないでしょう! 兄さんは八喜子(やきこ)を殺すつもりなんだから」

怒る逢魔(おうま)(あがま)はからかうような語調で言う。

八喜子(やきこ)をいらないと捨て、今度は私を捨てたな」
「兄さんだって、いつも乱暴じゃないか」

どれだけ殴られたと思ってるの、と逢魔(おうま)は口をとがらせる。
(あがま)はくすくすと笑って言う。

八喜子(やきこ)はお前の家にいたな。閉じこめるのか?」
「それはできない。だからー」
「共有しろ、か?」
「共生かな。物じゃない」

柔和な笑みを浮かべたまま(あがま)は弟の名を呼ぶ。

八喜子(やきこ)が『怪異』 を消した。気づいたか?」

逢魔(おうま)は目を伏せて頷く。

「そこまで愚かではなかったか」
「あれは俺が前の日に八喜子(やきこ)に、俺をたくさんあたえたからだよ。いつもできるわけじゃないし、これからはあたえない」

だから、もうできない、と逢魔(おうま)(あがま)にすがるような目を向ける。
(あがま)は笑みを崩さず言う。

「言ったはずだ。八喜子(やきこ)は『怪異』を消した。殺す」

逢魔(おうま)は悲しげに(あがま)を見返す。

「誰も、八喜子(やきこ)自身ですら気づいていない。それでも駄目?」
「ほかのものに邪魔をされては不愉快だ。私が隠した」
「兄さんには八喜子(やきこ)に危害を加えることはできないはずだ。彼女は俺の物だ」

(あがま)は無邪気に笑った。

「考えよう。時間はたっぷりとある」

少なくとも80年、と笑う(あがま)逢魔(おうま)は繰り返した。
一緒に暮らそう、と。
(あがま)は優雅な仕草であごに手をあて弟を見上げる。

「長くて80年、待たせずにすむなら考えてやる。もしくは」

彼の顔には柔和な笑みがあった。

「お前の家に閉じこめて人間と関わらせるな。それができるなら殺しはしない」
八喜子(やきこ)から家族と友人を取り上げろって言うの?」

できない、と逢魔(おうま)は首を横に振る。

「実際問題、兄さん。八喜子(やきこ)が納得してくれたとして、八喜子(やきこ)のお母さんに今日、会ったでしょう? あの人がおとなしくしてると思えない」

俺も兄さんもボコボコにされる気がする、と逢魔(おうま)は物憂げに視線を宙にさまよわせた。
(あがま)は声をあげて笑う。

「あれに生きている間に会わずにすんでよかったな」
「やっぱり兄さんでも苦手?」
「あれも『さとり』の一種だ。だから、私たちにも危害を加えられるのだろう」

(あがま)は墓とした岩に目を向ける。逢魔(おうま)は兄の横顔を見ながらきいた。

「だから、八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)君は『さとり』になれたのかな」
「さあな。もう起こり得ない奇跡だろう。私たちの次の『霊芽(れいが)』も未だに生まれない」

かやの墓である岩が震え、崩れ出し、ざらりと灰のように地面に散らばった。(あがま)は立ち上がる。

「決断しろ。待ってやる」

逢魔(おうま)は兄を見上げ、いつまで、と問う。

「松が明けるまでだ」
「随分、待ってくれるんだね」
「仕事が始まるからな」
「もしかして年末で暇だから、こんなことしてるの?!」

呆れる逢魔(おうま)(あがま)は平然とこたえる。

「私はいつも忙しいからな」

無邪気に笑う彼の笑い声が暗闇に響き渡った。


 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。逢魔(おうま)の部屋のベッドでは八喜子(やきこ)が眠っていた。彼女は夢を見ている。
白いあたたかい、ふわふわしたところで顔のはっきりと見えない古風な女性と話をしていた。

「だから、霞末(かすえ)は『禍末』。(あがま)の下の兄弟、あるいは(あがま)の付属品、といった意味だ」

女性から漢字を宙に書いてもらいながら話をきいた八喜子(やきこ)は感嘆の声をあげた。

「そうなんですね! どうして逢魔(おうま)さんたちの名字になってるんですか?」
「どうしてって、(あやま)は自分の名前が嫌いじゃし、あやつらは名前を呼ばれたら反応するから呼び名が必要じゃろ? それが名字になっただけじゃな」

へー、と八喜子(やきこ)は感心した。女性は悲しそうな呆れたような声音で言う。

(あやま)はいつまでも(あがま)あっての存在ということだ。(あがま)と、その弟。いつまでも、いつだって、そうなのだ」
「そんなことないです! 仙南(せんなん)さんや樹楼尓(じゅろうじ)さん、雪輝(ゆきてる)にだって、逢魔(おうま)さんは逢魔(おうま)さんです!」

言って、八喜子(やきこ)は顔を赤くして上目使いに女性を見る。

「私には特別な人です。家族より大切な大好きな人です」
「お前にはそうでも、(あやま)にはどうなのやら。いや、あの変態の弟だから、(あやま)も変態というべきか……」

女性は苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「お兄さんは舐めないからですか?」
「いや、舐める。弟が覚えたのはあいつのせいじゃし、(あやま)はお前も兄も好きすぎて、どちら、とは選べないから、両方を求めている」
「仲直りできないんですか? お兄さんだって、私じゃなくて逢魔(おうま)さんが1番大切です」

言って、八喜子(やきこ)は言い直した。

「私の中の『かや』さん。でも、それも、もう死んだ人で何もできないって納得してるから、やっぱり1番は逢魔(おうま)さんです。子供の頃と同じように笑っててほしいって」

八喜子(やきこ)は顔を曇らせる。

「だから、私とのことはよく思ってないんでしょうか。いつかは、どうしても悲しませてしまうから」

女性はかぶりを振る。

「あれも悲しい奴よのぅ。(あやま)は甘やかされまくったから、根本的に自分が大好きな奴じゃが、(あがま)はその逆。だから大好きな弟に依存気味じゃ」
「やっぱり、私のことはよく思ってないですよね……」
「大好きな弟が大好きな相手じゃから、それなりに気に入っている。ましてや、かつてはわしじゃし」
「ワシって鳥なんですか?」

女性は、からからと笑った。

「自由に生きてはおった。コレクション目的で連れ歩かれ、逃げるか、寝首をかいてやろうかと思ったが、わからんもんじゃな」

さとりでも、と笑う女性の頬は、ほんのりと赤い。

「おぬし、食われることは怖くないのか?」
「はい。だって」

八喜子(やきこ)は嬉しそうに赤い頬に両手をあてる。

「見えますから!」

女性はまた、からからと笑った。わしと同じじゃ、と。


 八喜子(やきこ)は、はっとした。何度もまばたきを繰り返し、暗逢魔(おうま)の部屋にいることがわかる。夢を見てたが何だっただろうか、とぼんやりした頭でベッドをおりて浴室へと向かう。
シャワーを浴び、鏡を見ると胸やお尻、服というよりは下着で隠れるあちこちにキスマークがついている。
白いはりのある肌が赤黒く変色している様は痛々しくもあった。それほど、たくさんついていた。
それを見ていると八喜子(やきこ)の胸はどきどきとし、お腹の奥がじわりと熱くなる。すごくいやらしいことをされて、しているのを突きつけられている気がするからだ。
逢魔(おうま)が言ったように自分はえっちなのだろうか、いやいや違う、と自問しているとドアが開いた。飛び上がって驚くと逢魔(おうま)がおり、抱きつかれる。当然、彼は裸だ。

「ぎゃあっ!」
「一緒に入ろう」

やや荒くした息をかけられながらキスをされ体にふれられる。彼の周りに見える強い白い光にふちどられた濃いピンク色に頭がくらくらした。制止の言葉を口にしながら身をよじると鏡の中の自分が目に入る。逢魔(おうま)と同じくらい赤い顔で、うっとりと甘い熱に蕩かされていた。それが目に入ると恥ずかしさで頭が真っ白になる。逢魔(おうま)にあたえられる刺激が全身をしびれさせた。何度も唇を重ね、彼は潤んだ瞳の彼女を見つめて囁く。彼女が首を横に振るとキスをして、そのたびに囁いた。

「ダメです……逢魔(おうま)さん」

彼の肩にふれながら熱のこもった息を吐き、八喜子(やきこ)逢魔(おうま)を押すようにして身を離した。彼はくすくすと笑って言う。

「いい匂いがするのに?」
「してないです!」

八喜子(やきこ)はシャワーを手に取り強い水流で逢魔(おうま)の顔にかけ外へと逃げ出す。背中で押さえているドア越しに逢魔(おうま)の声がする。

「君はとても魅力的だよ」
「そうやって言って、えっちなことしたいのわかりますから! しないです!」

浴室からは無邪気な笑い声がきこえてきた。


 逢魔(おうま)の部屋。明かりを消しベッドに入った八喜子(やきこ)は目を閉じたが寝つけずにいた。寝てしまえば逢魔(おうま)は眠りを邪魔してこない。何度か彼に邪魔されたことがあったが彼女が不機嫌さのあまり、思い切り殴ったり噛みついたり蹴飛ばしたので懲りたようだ。
早く寝なくては、またちょっかいを出してくる、と八喜子(やきこ)は目を閉じていたが扉の開く音がした。寝たふりを決めこんだ彼女の髪をなで、逢魔(おうま)が、ごろりと横になる。天井を見つめたまま思案にくれている彼の様子に八喜子(やきこ)は目を開けた。そういえば、と彼女は思う。

「おかえりなさい!」

八喜子(やきこ)は、にこにこしながら逢魔(おうま)にとびついた。

「ただいま!」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)を抱きしめ頬ずりをする。

「どうしたんですか?」

八喜子(やきこ)の目には逢魔(おうま)の周りに白い光にふちどられた様々な色が見えている。

「年末だから色々とね」
「……逢魔(おうま)さん、お兄さんのことなんですけど」
「君は心配しなくていい。何とかするよ」

ほほえむ逢魔(おうま)八喜子(やきこ)の胸は痛んだ。

「お兄さんが、あんなことするのも、逢魔(おうま)さんと喧嘩しているのも、私が逢魔(おうま)さんと一緒にいるせいですよね……」

逢魔(おうま)は柔和な笑みを浮かべながら、八喜子(やきこ)の頬に指の背でふれる。

八喜子(やきこ)は嘘は嫌いだよね。イエスかノーで言えば、そうだ」

開きかけた八喜子(やきこ)の唇に逢魔(おうま)は人差し指をあてる。

「でも、それは俺が解決することだ。君は何も考えなくていい。ねえ、八喜子(やきこ)

逢魔(おうま)は無邪気に笑う。

「笑ってよ。君の時間は限られているんだ。俺はね、君の笑顔が好きなんだ」

八喜子(やきこ)は数度、目を瞬かせ、ぽろりと涙をこぼした。逢魔(おうま)は、それをべろりと舐め、彼女の頬を両手で包み、額に口づけをする。彼の周りには白い光が見えている。八喜子(やきこ)は腹にぐっと力を入れて涙をこらえた。

「ごめんなさい……逢魔(おうま)さん」
「なぁに?」
「私は、どうしても先に……死んじゃうから」

泣くのをこらえている八喜子(やきこ)の声音に逢魔(おうま)は静かに頷いた。

「だから……ずっと、一緒にいてくれるのは、お兄さんです。お兄さんと仲直りしてほしいです。だから、私は……」

八喜子(やきこ)逢魔(おうま)にしがみつき涙を浮かべた瞳で彼を見る。

「何でもします。もし、お兄さんが逢魔(おうま)さんと別れてほしいなら、そうします」

途端、逢魔(おうま)の周りの白い光は濃いピンク色になり、その中に見えた妄想に八喜子(やきこ)の涙はすーっと引いていった。八喜子(やきこ)の顔はみるみるうちに真っ赤になり逢魔(おうま)に詰めよる。

「〜〜〜っ!? な、何を考えているんですか!」
「ちょっと待って。説明するから。君が何でもするって言うし、さっきからずっといい匂いで誘惑するから」
「私のせいじゃないですっ! 逢魔(おうま)さんが私より、お兄さんが好きなら、別れたらいいじゃないですか!」

うわーん、と声をあげて泣き出す八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は抱きよせ頭をなでる。

「落ちついてよ。俺は男同士も、兄さんとも嫌だよ。ふたりで君を愛したいだけなんだ」
「……最低っ!!! 私は嫌です!」

腕の中で顔を真っ赤にして怒り、ぽかぽかと、拳を叩きつけてくる八喜子(やきこ)を見て逢魔(おうま)は彼女を愛おしく感じた。

「……かわいい」


『かわいいかわいいかわいい食べたいかわいいかわいいかわいいたまらないかわいいかわいいかわいい! 加虐心を煽るっ! かわいいかわいいかわいいかわいい!』


「無駄な抵抗がかわいいよ! 八喜子(やきこ)!」

満面の笑みで言う彼の周りは強い白い光にあふれていた。
無言でくりだした八喜子(やきこ)の頭突きがきれいに決まり、逢魔(おうま)の視界がぐらぐらとする。
顎をおさえる彼に八喜子(やきこ)の冷たい声があびせられた。

逢魔(おうま)さんこそ、落ちついてください」

言われて、逢魔(おうま)は笑いだした。愉快そうに笑い続ける彼に八喜子(やきこ)は口を尖らせて言う。

「何がおかしいんですか?」
「ああ、ごめん。君は本当に変わってる! 俺が怖くないの?」

八喜子(やきこ)は、ぷいと横を向く。

「気持ち悪いです。でも、好きだから、しょうがないし、怖くないです。……私には見えますから」

恥ずかしそうに頬を赤く染めている八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は大喜びで頬ずりをする。俺も好き、大好き、と繰り返す彼から顔をそむけながら彼女は思った。
たしかに逢魔(おうま)は変態だ。
そんな彼を受け入れてしまう自分も同じだな、と。


「……お兄さんとは嫌です」

八喜子(やきこ)は、ぷいと横を向いた。逢魔(おうま)は困ったように彼女の横顔を見つめる。彼は彼女に二択を出した。(あがま)に殺されずに関係を修復するためには「兄と自分に愛されて暮らす」か「家族にも会えず、ここで暮らす」か、だ。

「じゃあ、君をここに閉じこめるしか兄さんと仲直りする方法がないよ。それは嫌でしょう?」
「何でお兄さんは、そんなに私にいなくなってほしいんですか?」

逢魔(おうま)さんと別れてもダメなんですか? と八喜子(やきこ)が続けると逢魔(おうま)は泣きそうな顔をする。

「それは俺が嫌だ。たった60年なのに……」


『それなら』『悲しい』『今すぐ』『ほしい』『でも』『寂しい』『食べて』『嫌だ』『どっちも』


八喜子(やきこ)の目には逢魔(おうま)の周りに白い光にふちどられた青が見えている。

「私だって嫌です。でも、お兄さんが……。逢魔(おうま)さん。私が死んだあとも、ずっと喧嘩するんですか?」

言われて、逢魔(おうま)は眉間にしわをよせる。わからない、と。

「あの人のやってることは滅茶苦茶だ。いくら映像で見せても、今の人間は信じない。何がしたいのかわからないから君がいなくなった後も、どうなるかわからない」

八喜子(やきこ)は悲しそうに逢魔(おうま)を見つめる。

「寂しいですよね? お兄さんと喧嘩してると」
「君がいるよ」
「でも、お兄さんがいないです。……逢魔(おうま)さん」

八喜子(やきこ)逢魔(おうま)の胸に顔をうずめた。

「マツガアケルマデって、いつですか?」
「1月6日で、いいと思うよ」
「考えさせてください」
「いいの?!」
「そっちじゃないです!」

怒る八喜子(やきこ)の髪を逢魔(おうま)は優しくなでた。

「ごめんね……寝ようか」

彼の顔には笑顔がつくられていたが八喜子(やきこ)の好きなものではない。
悲しい、と八喜子(やきこ)の胸は痛く締めつけられた。


 12月31日。早朝。金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)より早く自宅に帰ってきていた。昨夜、遅く鷹司(たかつかさ)のところにいる兄に連絡を入れたのだ。
帰りを待つ間に掃除をして、台所兼リビングのテーブルにつく。座っていても落ちつかず、冷蔵庫の上の母の写真を手にとり、じっと母の笑顔を見ていた。
鍵が開き雪輝(ゆきてる)が帰ってくる。おかえり、とつくった笑顔は兄の顔を曇らせるのに充分だ。
雪輝(ゆきてる)は手招きをして八喜子(やきこ)と向かいあって座る。

「どうした?」
「あのね……あのね……」

言って、八喜子(やきこ)はぽろぽろと涙をこぼした。雪輝(ゆきてる)は声をあげて泣き出した八喜子(やきこ)に歩みより優しく背をなでる。雪輝(ゆきてる)の耳には様々な音がとどいている。


『苦しい』『怖い』『苦しい』
『死にたくない』『一緒に』『怖い』
『苦しい』『笑って』『怖い』


「……八喜子(やきこ)

雪輝(ゆきてる)の穏やかな、どこかおどけた声音に八喜子(やきこ)は顔をあげた。

「逃げようか」
「え?」
「逃げよう。俺も八喜子(やきこ)も『さとり』だ。あいつらが来てもわかる。逃げちゃおう」
「でも……」
「じいちゃんみたいにさ、あちこちふらふらして暮らそう。それができる」

俺たちは『さとり』だ、と雪輝(ゆきてる)は笑った。八喜子(やきこ)の目は兄の周りに白い光を見せている。

雪輝(ゆきてる)は大学は? 学校だって、まだ……」
「もう、いいよ。親なしで貧乏な俺たちには充分だった。楽しかったよな」
「でも……」
「どうしようもないんだ。あいつらは『神さま』だから。八喜子(やきこ)

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)の肩を叩く。

「死ぬ時はお兄ちゃんが一緒に死んでやるから。大丈夫だ」

逢魔(おうま)と離れるのはつらいだろうけど、と雪輝(ゆきてる)は顔を曇らせる。

「失恋ってわけでもないし……なんだろうな。一緒にいたら駄目なんだよ。あいつは、やっぱり」

雪輝(ゆきてる)の声が静かに響く。

「『神さま』だから」


 3時間後。霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
スーツ姿の仙南(せんなん)はいつもの通り、姿勢正しく主人にきいた。

逢魔(おうま)様。昼食はいかがなさいますか」

逢魔(おうま)は先刻からテラスに続く窓に立ったまま、外を眺めていた。彼は冬晴れの青空を見上げながら呟く。

八喜子(やきこ)は……」
「まだお戻りではありませんね。お迎えに伺いますか」

逢魔(おうま)が手をついた窓にびしりとヒビが入る。

「彼女まで俺を捨てるのか」

仙南(せんなん)は片眉をあげ口を開いた。

「心あたりはおありですか?」
「…………ない」
「おありですね。今度は何をしたんですか?」
「……選んでもらっただけだよ」


 霞末(かすえ)の森。泉の広場。
木の上で昼寝をしていた白猫姿の棣雅(たいが)は屋敷からきこえてきた怒号に驚き、全身の毛を逆立てた。
怒鳴り声はまだ続いている。何事かと棣雅(たいが)は屋敷に向かって走り出した。


逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
逢魔(おうま)は耳をふさぎながら仙南(せんなん)に言う。

「わかった、わかった。俺が悪かったよ」
「わかっておられないのが、わかります!」

青筋を立てて、がなりたてる仙南(せんなん)逢魔(おうま)はうんざりした顔をする。

「きこえるよ。怒鳴る必要がない」

ばんばん、と窓が叩かれ、ふたりが目を向けると棣雅(たいが)がニヤニヤしながら覗きこんでいる。仙南(せんなん)が大きく息を吐き、窓を開けると棣雅(たいが)はするりと入りこんだ。

「どうしたってんだよ。蛇野郎が怒鳴るなんてよ」

仙南(せんなん)は咳払いをして、いつもの調子で言う。

八喜子(やきこ)奥様が、ご実家に帰られました。逢魔(おうま)様が兄君(あにぎみ)と、おふたりで奥様をご寵愛する、とお伝えになられたからです」
「へ?!」

棣雅(たいが)は、ぽかんと口を開けたあと、げらげら笑い出した。

「あの嬢ちゃん、よっぽど具合がいいのかよ!ぎゃははは!」

ひとしきり笑ったあと棣雅(たいが)は、はっとしてあたりを見回す。

「……犬っころはどこ行ったんでえ?」


 A市。(あがま)の屋敷。
開いていた窓から書棚のあるリビングに忍びこんだ樹楼尓(じゅろうじ)は、くんくんと匂いをたどりサイドボードの引き出しの中をあらためた。彼は少年の姿でいつものスーツではなく動きやすい格好をしている。引き出しの(あがま)が買い与えた八喜子(やきこ)の眼鏡が入っていた。それを見つけ、ほっとすると彼は眼鏡をポケットに入れ、再び窓へ向かう。

樹楼尓(じゅろうじ)
「!? はいっ! (あがま)様!」

不意に背後からかけられた声に彼が振り向くと明るい色の髪と瞳をした(あがま)がソファに座っている。格好こそいつもの黒づくめだが(あがま)の顔には柔和な笑みが浮かんでいた。

「私を裏切るか?」
「いえ! 今の飼い主は不服ながら逢魔(おうま)ですから」

樹楼尓(じゅろうじ)は姿勢を正して立ちながらも、いつもは鋭い目つきが頼りなげになっていた。
(あがま)はくすくすと笑う。

「盗んでどうする?」
逢魔(おうま)が食べるそうです。捨てても(あがま)様に手に入れられては意味がない、と」
「そうか。お前は私を裏切ったな」

樹楼尓(じゅろうじ)は目を伏せると跪いた。(あがま)が組んだ足先を見ながら彼は言う。

「僕は群れの中にいたいのです。初夏の頃から、ほんの半年ほどでしたが、八喜子(やきこ)奥様もいる群れは心地いいものでした」

樹楼尓(じゅろうじ)は顔をあげ、いつもの顔つきで(あがま)を見上げた。

「恩知らずの犬にはなれません」

(あがま)は口元をゆるめた。彼の瞳が金色に輝くと樹楼尓(じゅろうじ)の肌が乾いていく。
やはり、と樹楼尓(じゅろうじ)は思い、静かにそれを受け入れた。力が抜けていき自然と頭をたれてしまう。
(あがま)は独り言のように呟く。

「人間はすぐ死ぬ。だからこそ短期間で、こうも惑わされるのだろうか」


 ー 見 た く な い ー


瞬きよりも短い間の後、樹楼尓(じゅろうじ)が食われたことはなくなった。当の本人は何が起きたかわからず、視線をさまよわせていたが、(あがま)は悠々と天井に目を向け、自分に注意を払っていないとわかると、樹楼尓(じゅろうじ)は素早く窓から逃げ出した。
ひとりになった(あがま)の瞳は天井ではないどこかへと向けられている。彼はそのまま口を開いた。

「見ていたか。八喜子(やきこ)


 都内に向かう電車の中で八喜子(やきこ)は目をつぶった。彼女は体型も性別もわからないような地味な色の古い服を着こみ、帽子を目深にかぶっている。雪輝(ゆきてる)も同様の姿だ。
妹の怖がる様子に雪輝(ゆきてる)は黙って手を握った。小さく大丈夫だ、と言われ、八喜子(やきこ)は頷いた。都心へ向かう車内は年末のため空いている。とは言っても、いつもの混雑に比べて、なので席はすべてうまっていた。窓の外にはビルが密集している。
目的の駅に着くと改札を抜け、ふたりは繁華街へと向かった。通りを一本、奥へと進むと表の店の裏口になっている。看板も人もいない、寂しく暗い道をさらに進むとビルがなくなっていく。波トタンの壁が目立ちだし、アパートが増えてくると、ふたりが目指したところに着いた。
そこかしこで談笑しているのは着古した服を身につけたものが多く、無遠慮に、見慣れないふたりに警戒の目を向けてくる。おい! と強めの怒声のような声に八喜子(やきこ)はびくり、としたが、雪輝(ゆきてる)は声を発した男性に頭を下げて言う。

金扇(かねおうぎ)大慈(たいじ)の孫です」


波トタンの壁に古くて黄色い畳。玄関の横には、すぐシンクがある。6畳一間に押入れがひとつ。雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)にあたえられた部屋はここだった。
ここは通称「トタン街」。様々な理由で人ならざるものと関わり、世に受け入れられない人々が暮らしている。雪輝(ゆきてる)は祖父と何度か来たことがあり、街の中心人物たちと顔見知りだった。
部屋に入るなり八喜子(やきこ)は、ごろりと畳に寝転がった。

「疲れたか?」
「……うん。雪輝(ゆきてる)、ごめんね」

雪輝(ゆきてる)は、ぽんぽんと八喜子(やきこ)の頭をなで自分も寝転がった。

「寝ようか」
「……うん」

押入れの中には布団があった。それを敷いて、おやすみ、と目を閉じる。
八喜子(やきこ)は服の上から胸にかけた指輪にふれる。なんとなく、あたたかい気がした。

彼女は思う。
(あがま)は怖い。とても怖かった。
以前、彼女の目を取りに来た時のようだった。
逢魔(おうま)も敵わないのだ。
だから、せめて、自分が殺されないために、あんなことを言った。
ひどいことを言っている、というのも、わかってくれている。
わかっているから「ごめんね」。
逃げたらいけない、と思うし、逃げたい、とも思う。
どうしていいかわからずに、雪輝(ゆきてる)の言うままに流されたが、よかったのだろうか。
八喜子(やきこ)はぎゅっと指輪を握りしめた。

 ー 『神さま』だから ー

 一緒にいてはいけない、と雪輝(ゆきてる)は言った。
 そうかもしれない、と思ってしまった。
 だけどー。

 ー 彼女まで俺を捨てるのか ー

 傷つけたいわけじゃない。
 悲しませたいわけじゃない。
 笑っていてほしい。


 1月3日。矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)はトタン街へと向かっていた。鷹司(たかつかさ)はスーツ姿で矢継早(やつぎばや)は黒いスーツ姿だ。ふたりがトタン街の通りへ足を踏み入れるとすぐに取り囲まれた。
矢継早(やつぎばや)と目線を交わし合った鷹司(たかつかさ)はいつもの調子で口を開いた。

志楽(しぐら)はどこだ?」


 八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)のいるアパート。寸胴鍋に豚汁を作り終えた八喜子(やきこ)は部屋で話しながら待っていた雪輝(ゆきてる)志楽(しぐら)に声をかける。
志楽(しぐら)は彼女たちの母、志喜子(しきこ)の兄弟で、ふたりの伯父にあたる。彼はずっと、この「トタン街」で暮らしており、八喜子(やきこ)が会ったのは赤ん坊の時、以来だ。『さとり』として生まれたなら金が稼げる、と失言し、文字通り志喜子(しきこ)に半殺しにされ、「次に会ったら殺す」と言われていたからだ。

 志楽(しぐら)はカジュアルな服を身につけており、雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)は、あいかわらず祖父の服や志楽(しぐら)からもらった古びた服で顔や姿がわかりにくいようにしている。ここでは子供はそれでいい、と志楽(しぐら)は母のように快活な笑い声をあげた。
志楽(しぐら)は彼女たちの母と同じように人目を惹く顔立ちをしている。年齢よりもかなり若く見えた。

 志楽(しぐら)がシンクの上の窓から外に叫ぶと、がやがやとドアの外に男たちがやってくる。彼はドアを開け寸胴鍋を彼らに渡した。ドアを閉め部屋に向き直ると畳の上に小さなテーブルを出した雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)が昼飯の用意をしている。

「しぃは料理なんかできなかったのに」

あぐらをかきながら志楽(しぐら)はテーブルの上を見て感心する。八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)の隣に座りながら言う。

「お父さんといる時に覚えたって言ってました」
「そうか。胃袋をつかむのって大事だよ。ここでは身の安全につながるし」

志楽(しぐら)は、ぱちんと手を合わせる。

「食べよう! いただきます!」

彼に続き雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)もいただきます、と食べ始めた。

「もう3日か。たった3日か。雪輝(ゆきてる)は、ぐれてた時に何回か会ったけど」
「ぐれてないです」
「おっちゃんが死んで野球やめて、ぐれてたじゃん」

志楽(しぐら)はじっと八喜子(やきこ)を見つめる。

「しぃ、そっくりだな」

しみじみと、どこか悲しげに言う志楽(しぐら)八喜子(やきこ)は喜んでいいのか複雑だった。志楽(しぐら)は続ける。

「気がついたら男ができてるとか。子供までできてたら完璧だった」

雪輝(ゆきてる)は吹き出し、八喜子(やきこ)は顔を真っ赤にした。豚汁をすすり、七味を足した志楽(しぐら)は言う。

「それで、彼氏? 旦那?」
「旦那ですね」

と、雪輝(ゆきてる)。それに志楽(しぐら)は頷く。

「旦那から逃げてて大丈夫かな。今のとこ、来てないけど」
「旦那の方じゃなくて、旦那の兄貴です。八喜子(やきこ)と俺は旦那にどこにいるかわかるんで」

志楽(しぐら)は、ふうん、と淡白な返事を返した。

「3Pしろとか、ずいぶんマニアックな旦那だね。『神さま』のくせに妙に俗っぽい」
「ほかの『神さま』を知ってるんですか?」
「うん、まあ。仕事上、ちょっとはね。ほかの『神さま』は」

志楽(しぐら)がおかわり、と椀を差し出し八喜子(やきこ)は立った。志楽(しぐら)が野菜炒めを口に運びながら言う。

「もっと動物。単純」
「旦那も動物で単純ですけど。発想がぶっ飛んでるというか……」
「それでもまだ人間寄りだよ。賢いからかな。しぃが生きてたらさ」

八喜子(やきこ)が運んできた椀を礼を言って受け取った。

「絶対に許さなかった。その程度には、あいつらは化け物だ。よくわかっただろう?」

不意に雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)が同時にドアに目を向けた。
途端、ドアが蹴りつけられ怒号がする。

「食事中!」

志楽(しぐら)が怒鳴り返し、シンクの上の窓を開けた。どーも、と中を覗きこむ矢継早(やつぎばや)が見える。鷹司(たかつかさ)が襟元をつかもかうと手をのばしてきたので志楽(しぐら)は窓から離れた。

「団欒の邪魔だよ」
「血縁でもいさせていい場所じゃない」

にらみ合うふたりを見て雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)は顔を見合わせた。


 小さなテーブルの上には湯のみが5つ。中の淹れたてのお茶が湯気をあげている。ひととおり話をきいた鷹司(たかつかさ)は眉間には深い皺が刻まれ、矢継早(やつぎばや)も嫌悪の表情を浮かべていた。彼女がつぶやく。

「監禁か3Pの2択ってなんですか……」
「ここに逃げて正解じゃない? 陰陽庁(おんみょうちょう)で保護してくれないし、できない」

志楽(しぐら)がお茶をすすりながら言った。彼は愉快そうに鷹司(たかつかさ)を見る。

「君にばらしたの誰?」
「たまたま、ここの奴と仕事先で会っただけだ。お前が子供をふたり囲ってるというから来た」
「ふうん。旦那は何で来ないの?」

あの、と八喜子(やきこ)が言い、皆が注目した。

「お兄さんが持ってた私の眼鏡を食べたから会いに来たら、お兄さんに私がどこにいるかわかっちゃうって……。だからトタン街には来れないそうです」

志楽(しぐら)はこつん、と八喜子(やきこ)の頭にげんこつを落とした。

「早く言いなさい。いつ連絡を取ったの?」
「ここに着いた日です。雪輝(ゆきてる)と、ふたりでしばらく考えたいから待ってくださいって、お願いしたんです」

怒ってたし心配で、と八喜子(やきこ)はうつむく。

「スマホ? GPSは大丈夫?」
雪輝(ゆきてる)が家を出る前に切ってくれました」
「えらい、えらい」

志楽(しぐら)雪輝(ゆきてる)の頭をぐしぐしとなで鷹司(たかつかさ)たちに目を向ける。

「君らが口を割らなければ逃げてる『神さま』に居場所は、ばれない」
「言うわけないだろ」

オッケー、と志楽(しぐら)は頷き八喜子(やきこ)に目を向ける。

「君らが疲れてたし、仕事もあったから、ゆっくり話してられなかったけど、八喜子(やきこ)はどうしたいの?」
「どうって……」
「兄貴の具合も試してみたいの?」

言われて、八喜子(やきこ)は真っ赤な顔で、ぶんぶんと首を横に振った。

「じゃあ雪輝(ゆきてる)と、もう会えなくていい?」

言われて八喜子(やきこ)の顔がこわばった。志楽(しぐら)は繰り返す。

「どうしたいの?」


 どうって……。私は……。
 言ってはいけない。言ってはいけない。 言ってはー。


ぽろりと涙をこぼした八喜子(やきこ)の背を矢継早(やつぎばや)が優しくさする。雪輝(ゆきてる)も目を伏せ唇をかんだ。彼の耳にはきこえている。「苦しい」とー。

「あのさ」

志楽(しぐら)は穏やかな調子で続ける。

「何の因果か俺も、しぃも化け物をぶん殴る仕事をしてる。しぃは反対しただろうけど、君らもしてたかもしれない。だからさ」

八喜子(やきこ)は涙に濡れた目で志楽(しぐら)を見つめる。

「言ってごらん。『助けて』って。『神さま』をぶん殴ろう」

八喜子(やきこ)の目には志楽(しぐら)の周りに白い光が見える。泣きながら八喜子(やきこ)は言った。
ごめんなさい、助けて、と。

「オッケー。君らも参加する?」

志楽(しぐら)に言われ鷹司(たかつかさ)は即座に返した。あたりまえだ、と。
志楽(しぐら)は指で、とんとんとテーブルを叩く。

「まずは状況の整理だね。八喜子(やきこ)の旦那の兄が八喜子(やきこ)を殺したがっている。旦那は八喜子(やきこ)を殺したくない。だから兄を懐柔しようとしてる」

言って志楽(しぐら)はため息を吐く。

「兄から八喜子(やきこ)を守る気概はないのか?」

雪輝(ゆきてる)が首をかしげながら言う。

「あったんですけど。旦那と気まずくなってた時に兄貴が八喜子(やきこ)を狙ってたとわかったら引いて。それで、元サヤになってから兄貴が八喜子(やきこ)を……」

泣きやんだ八喜子(やきこ)が口を開く。

「私が仲直りしてほしいって、お願いしたからなんです……」
「どんな懐柔案なんですかね。やっきーも受け入れてないで怒っていいんですよ? あなたの尊厳無視じゃないですか!」

矢継早(やつぎばや)が怒りをにじませて言う。ふうん、と志楽(しぐら)も首をかしげる。

「旦那は八喜子(やきこ)を、かなり尊重してるから監禁じゃなくて3Pの方をしてほしいんだね」
「してないです。してないです。全然っ! してないです!」

すぐさま矢継早(やつぎばや)がまくしたてた。

「いやあ、してるよ。ああいうのはすぐ、思うままに行動する。相手の立場を考慮するなんて充分すぎるくらいの尊重だ」
「思考能力のない子供に負い目を感じさせて追いつめるなんて洗脳の手口じゃないですか!」

憤慨する矢継早(やつぎばや)志楽(しぐら)は淡々と言う。

「化け物だからね。化け物から愛されるって、こういうことだよ。これでもまだ人間寄りだ。旦那は」

愉快そうに笑いながら彼は続けた。

八喜子(やきこ)を人間から隔絶しない程度には支配しないんだから、すごいことだよ」

愛されてるね、とほほえむ志楽(しぐら)矢継早(やつぎばや)鷹司(たかつかさ)が否定した。

「ないです、ないです! 全然っ! ないです!」
「一体どこがだ? 意味がわからん」
「人間じゃないからね。兄との懐柔を希望しなければ、いいんじゃない? 守ってくれるんでしょう?」

言われて八喜子(やきこ)は、でも、と顔を曇らせる。

「私は先に死んじゃうから、お兄さんとは仲良くしてほしいです」
「死んだあとのことまで心配しない。人間は必ず死ぬ」

うーん、と志楽(しぐら)は腕組みをする。

「守りきれる自信がないから懐柔したいとしたら厄介だ。霞末(かすえ)の兄は桁違いで、いつかそう遠くないうちに殺される」

雪輝(ゆきてる)が言う。

「自信があるかは別ですけど気概はあります」
「オッケー。八喜子(やきこ)、仲直りはあきらめよう。兄弟にパートナーができたら仲違いするのは往々にしてあることだ」

俺もそうだ、という志楽(しぐら)八喜子(やきこ)はじっと見つめた。

「どうして伯父さんは会ったこともないのに優しいんですか?」
「会ってなくても君らの写真を送ってきてたからね。ギャンブル好きのおっちゃんと暮らしながら子供を育てるなんて無謀だし。しぃに仕送りしてたんだよ」
「……あっ!」

八喜子(やきこ)は大声をあげた。

「お母さんが隠してた通帳! あれ伯父さんのお金!」

八喜子(やきこ)が口にした金額に志楽(しぐら)は頷く。

「使われなかったんだ。よかったね」

笑って彼はぼやく。

「君らが俺のとこにいてくれるなら、もっとどかんと稼げるんだよなぁ」

雪輝(ゆきてる)は生前、母に伯父は本当にどうしようもなくなった時以外は決して近づくな、と言われていたのがよくわかった。
志楽(しぐら)がテーブルを叩く指先のテンポが早くなる。

「何だろうね。友好的だったのに八喜子(やきこ)を急に殺したがるなんて。嫉妬?」
「「してません」」

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)の声がそろい、志楽(しぐら)はますます首をひねった。

「『さとり』の君らが、そう言うなら間違いなさそうだ。理由は何だろう」

雪輝(ゆきてる)がちらりと鷹司(たかつかさ)を見たのを志楽(しぐら)は気づき、大げさに言った。腹が減ったから食べに行こう、と。


 商業施設の入ったビルのトイレで着替えた八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は男女に別れて食事に行くことにした。個室の居酒屋に入るなり雪輝(ゆきてる)志楽(しぐら)の携帯にSHINEを送る。それを見た志楽(しぐら)は目を見開いた。「さとりの八喜子(やきこ)が強く見なければ旦那も兄も死ぬ」。

「……本当に? なるほどね」

ひととおり料理が運ばれてくると鷹司(たかつかさ)が口を開いた。

「思いこみが激しいから八喜子(やきこ)だけの奇跡だろう。旦那との性行為で、そのためのエネルギーももらえてる」

志楽(しぐら)は素っ頓狂な声をあげた。

「ヴァージンじゃない!? ヴァージンロードを歩くという俺の夢は……」

しぃにもできなかったのに、とぶつぶつ不満をもらし、志楽(しぐら)は、どんとテーブルを拳で叩いた。

「邪神だ。ぶん殴ろう」
「敬虔なクリスチャンじゃなきゃヴァージン関係ないですよ」

それに歩くとしたら俺です、という雪輝(ゆきてる)志楽(しぐら)はしばらく、にらみ合った。
彼らを放っておき鷹司(たかつかさ)は料理に箸をつけている。料理が冷めそうになる頃、鷹司(たかつかさ)は口を開いた。

「あれだけ執着してた旦那がこうも長い間、八喜子(やきこ)に会いに来ないってのも、すごいな」


 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。逢魔(おうま)の部屋。
ベッドにひっくり返ったままタブレットをいじっている逢魔(おうま)の掛け布団を樹楼尓(じゅろうじ)がはぎとった。

「寒いよ!」
「いつまで、こんなメリハリのない生活を続けるおつもりですか?」
「いいじゃないか。正月の間はどこも休みだし、それに」
「それに?」

片眉をあげてききかえす樹楼尓(じゅろうじ)逢魔(おうま)はベッドに倒れこみながら言う。

八喜子(やきこ)の匂いがする! 寂しい!」
「たしかにしますが変態ですか!」

せめて着替えてください、と逢魔(おうま)からパジャマを脱がし、樹楼尓(じゅろうじ)は部屋を出て行った。
彼がいなくなると逢魔(おうま)はまたベッドにゴロゴロしだす。目を閉じるとノックとともに仙南(せんなん)の声がする。雑草がのびますから森を散歩してください、と。

「俺は除草剤じゃないよ!」

扉に叫び、逢魔(おうま)はまた目を閉じた。腹のあたりがちくちくと痛む。もう少しだ、と彼は思う。
兄から奪い返した八喜子(やきこ)の眼鏡を彼は呑みこんだ。(あがま)の力がこめられた眼鏡は容易に吸収できなかったが、それももうすぐ終わる。吸収してしまえば眼鏡は「壊れた」ことになり八喜子(やきこ)のものではなくなる。
しばらくは腹痛に悩まされるが、これで八喜子(やきこ)と会えるのだ。そう思うと痛いはずの腹も苦痛ではなかった。ただ、と彼は思う。腹が痛くてセックスできそうにないのが何とも惜しかった。せっかく八喜子(やきこ)の体の事情の方が終わるのに、と。


 矢継早(やつぎばや)と辛さが評判のパスタを食べながら八喜子(やきこ)は呟いた。最低、と。

「お口にあいませんでしたか?」
「おいしいです! ごめんなさい! 逢魔(おうま)さんが、どうしてるのかと思って……」

見えたら……と八喜子(やきこ)は言葉を濁した。

「やっきー、自分を大事にしてくださいね。自分を大事にしてくれない相手は、よく考えてください」
「大事には……逢魔(おうま)さんは、大事にしてはくれてるんです」


 ー 化け物に愛されるって、こういうことだよ ー


志楽(しぐら)の言葉を思い出し、八喜子(やきこ)の胸はずん、と重くなった。あらためて、何度目かに思い知る。ただ「好き」で一緒にいたいと思う自分は子供なのだ、と。考えて覚悟しなければいけないことも、たくさんある。また考えてなかった、と悲しくなった。


セックスもそうだなぁ……。
逢魔(おうま)さんがしたいのも、したがるのも見えるけど。
見えるけど……嫌じゃないけど、嬉しいけど、気持ちいいけど、気持ちいいから、私がしたいって思うのが、すごく恥ずかしい。したいというのがばれたら、すごくすごく恥ずかしいし、思ったらいけない気がする。
……逢魔(おうま)さんはコミュニケーションって言ってたけど、よくわかんない。行き違いは減るって言ってたけど、結局、今も私がお兄さんを好きになるって考えてる……。
信じてもらえないって悲しい。


 八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)に送られトタン街へと戻った。志楽(しぐら)は仕事、と不在だ。
布団を並べて敷き、明かりを消す。八喜子(やきこ)は隣の雪輝(ゆきてる)の顔を、じっと見つめた。

「何だ?」
「ごめんね」
「いいよ」

すぐに雪輝(ゆきてる)の優しい声が返ってくる。八喜子(やきこ)は嬉しかった。

「ごめんね。私、逢魔(おうま)さんのこと好き。大好きだし、もし別れるって言っても逢魔(おうま)さんが怒ると思う」
「やばいことになるだろうな」
「うん。私も嫌だけど、もしお兄さんが、私が逢魔(おうま)さんと別れたら、仲直りしてくれるなら、そうしたい」

雪輝(ゆきてる)は眉間にしわをよせる。

「あいつが許さないだろう?」
「……ねえ、雪輝(ゆきてる)。好きな女の人に自分の子供を産んでもらえたら嬉しい?」
「は?! ……俺も子供だから、無謀だろ」
雪輝(ゆきてる)が大人でお金の心配もしなくてよかったらの話」
「……安全で何も心配しなくていいなら」

家族は嬉しい、と雪輝(ゆきてる)は複雑そうな顔で言う。

「私が逢魔(おうま)さんと離れても、逢魔(おうま)さんの子供を産んだら、信じてくれるかな」
「簡単なことじゃないし、ますますあいつが許すわけがない」
「……ねえ、雪輝(ゆきてる)。私ね、嬉しかったよ。逃げようって言ってくれて。だって、私が……」


 ー 助けてやりたいが助けられない ー
 ー 霞末(かすえ)兄弟は並外れてる ー


「好きだって言ったら、ダメだって、みんな、逢魔(おうま)さんだって言ってたのに。何も考えてなくて。それで困ったから『助けて』って、言っちゃいけないと思ってたのに」

八喜子(やきこ)は泣きそうになり何度もまばたきを繰り返した。

「伯父さんも先生も助けてくれようとしてくれて、みんな優しくて、でも」

暗い部屋の中に八喜子(やきこ)の涙声が響いた。

「みんな死んじゃう。だから、教えて。雪輝(ゆきてる)は知ってるんでしょう? お兄さんが、どうして私を殺したいのか」

きこえる、と八喜子(やきこ)は思った。彼女の目には雪輝(ゆきてる)の周りに白い光が見えている。兄と鷹司(たかつかさ)逢魔(おうま)が何かを隠しているのが、ずっと彼女の耳にはきこえているのだ。
不意にトタン街の外に

雪輝(ゆきてる)八喜子(やきこ)は同時にドアに目を向ける。街の外に仙南(せんなん)の姿がふたりには見えた。


 居酒屋は年始の騒がしさにあふれていた。個室には仙南(せんなん)八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)が来ている。上座に雪輝(ゆきてる)、次に八喜子(やきこ)が座っていた。テーブルの上にはソフトドリンクが3つと仙南(せんなん)が頼んだ料理がのっている。

「このようなところで、申し訳ありません」

仙南(せんなん)は深々と頭をさげた。雪輝(ゆきてる)が言う。

「いや、そんなことないです。今日はどうしたんですか? こんなに遅い時間に」

常識的な仙南(せんなん)にしては珍しい、とふたりは不思議だった。

「どこからお話すればいいのでしょうか……」


逢魔(おうま)様がようやくベッドから離れられたので、八喜子(やきこ)奥様の匂いがしていたシーツを洗ったら激昂されてしまったと、一体どのタイミングでお伝えするべきか……』


雪輝(ゆきてる)が吹き出し、八喜子(やきこ)は、ぽかんとした。
仙南(せんなん)は、ふたりに無言で頷いてみせる。


『つきましては八喜子(やきこ)奥様のご使用されているシーツ、あるいは匂いのするものを頂けないかという、お願いにあがりました』


「それは気持ち悪いです」
「おっしゃる通りです」

即座にこたえた八喜子(やきこ)仙南(せんなん)は頷いてみせた。
八喜子(やきこ)は顔をしかめながらきく。

逢魔(おうま)さんって今までも、そうだったんですか?」
「いいえ。今までは紳士的でしたが、八喜子(やきこ)奥様のこととなると本能的になられます」

本能、と言う言葉に雪輝(ゆきてる)が疑問を口にする。

仙南(せんなん)さんも気持ちがわかるんですか?」
「私はもとは爬虫類ですから恒温動物の気持ちはわかりにくいです」
逢魔(おうま)は恒温動物なんですか?」
「……違うようですね」
「もしかして、わからないって言えないんですか?」
「主人ですから」

大変ですね、と雪輝(ゆきてる)は笑いをこらえながら言った。
仙南(せんなん)は小さく息を吐く。

「あと3日のご辛抱だと申し上げているのですが、たいそうご立腹です」
逢魔(おうま)さん、お腹が痛いから怒りっぽいんでしょうか」

もう、と八喜子(やきこ)は恥ずかしくなった。すみません、と謝る八喜子(やきこ)仙南(せんなん)がぴくりと片眉をあげる。

「腹痛、ですか?」
「眼鏡を食べたから、しばらくお腹が痛いみたいです」
「それで臥せっておられるのですね。ただ怠けていらっしゃるだけかと」

仙南(せんなん)は合点がいった、というように頷いた。

「あいつは今まで、どんな生活してたんですか?」

雪輝(ゆきてる)にきかれ仙南(せんなん)は姿勢を正した。

「起床は早くて10時。就寝は日付が変わってからです。投資の取引に時差があるから、と言い訳をされてます。起きてからは昼過ぎに散歩をされ、出かけることがあれば夕方以降が多かったです」


『女性とのご関係が清算された時には都内の高級クラブでほかの方々と遊ばれて、新たな出会いがありましたが、まだ八喜子(やきこ)奥様にご関係を清算されていないようですね』


雪輝(ゆきてる)が呆れたように言う。

「むちゃくちゃなこと言ってるんで、秒読みだと思ってないんですか?」
八喜子(やきこ)奥様が無断で遠出された時には身勝手にお怒りでしたが、奥様からのご連絡で落ちつかれました」
「もう! すみません」

謝る八喜子(やきこ)を見て雪輝(ゆきてる)はため息をもらした。

「最初はびっくりしてましたけど、残念だけど、八喜子(やきこ)の方でも、そういう気ないみたいです」
「そのようで安心いたしました」
「え?! なんでわかるの?」

びっくりして目をぱちぱちさせる八喜子(やきこ)雪輝(ゆきてる)は苦々しく言う。

「なんでって、なんつーか『奥様』なんだよ……」
「え? わかんない。なんで?」
「いいよ、いいよ、いいんだよ……。兄貴から逃げてきただけなんだから」

嘆く雪輝(ゆきてる)に、それですが、と仙南(せんなん)が口を開く。

「私は逢魔(おうま)様におおまかな場所を教えて頂いたので、近くまで辿り着くことができましたが。特殊な場所ですね」
「母さんから、もしもの時はって、きいてました。色々、仕掛けがあるから人じゃないものから見つからないって」

仕掛け、と仙南(せんなん)は考えこむ。

「おそらくですが、逢魔(おうま)様も兄君(あにぎみ)八喜子(やきこ)奥様を見つけるのは難しいでしょう。私もあれ以上はわかりません」
「トタン街の場所がわからないってことですか?」

雪輝(ゆきてる)仙南(せんなん)は、はい、と頷き、八喜子(やきこ)奥様、と彼女に向かって姿勢を正す。

「ご決断はできそうですか?」

八喜子(やきこ)は浮かない顔でこたえる。

「シーツは、ちょっと……」
「そっちじゃない、そっちじゃ」

すかさず雪輝(ゆきてる)に言われ、八喜子(やきこ)は、あ、そうか、と口に手をあてる。

「……お兄さんが私に死んでほしい理由が知りたいです。みんな隠してて、ずるいです」

教えてくれないなら、どっちも嫌だし帰りません、と八喜子(やきこ)は、ぷいと横を向いた。
それをきいて仙南(せんなん)はいつもの通り、何の表情も浮かべずに口を開く。

「『さとり』で逢魔(おうま)様の体液を摂取されている八喜子(やきこ)奥様が、強く『見ない』と思われると私ども『怪異』は存在を消されます」

すなわち「死」です、と仙南(せんなん)は淡々と言った。彼は同じ調子で続ける。

「一度、逢魔(おうま)様も八喜子(やきこ)奥様に消されかけました。どれほどのお怪我でも、すぐに治ってしまう逢魔(おうま)様と兄君(あにぎみ)に『死』をお与えになれるのは、八喜子(やきこ)奥様、あなただけです」

グラスの中の氷が溶けて、からりと音を立てる。八喜子(やきこ)は呆然と仙南(せんなん)の顔を見つめていた。長い沈黙の後、消え入りそうな声を発する。

「私が逢魔(おうま)さんを……」
「はい。11月に温泉街でお会いした時です。奥様は逢魔(おうま)様が『見えません』でした」

八喜子(やきこ)の胸の底で悲鳴があがる。涙が出そうになり、彼女は慌てて、トイレ、と席を立った。走るようにして歩き、トイレに入ると涙があふれてくる。やっぱり、と彼女は思う。
自分は子供で、皆が優しい、と。
自分がこうして泣くから、皆は黙っていたのだ。せめて、皆の前で泣かないようにしよう、と。


 八喜子(やきこ)がいない個室では沈黙が続いていた。何度もためらったが雪輝(ゆきてる)は、ようやく口を開く。

「勝手に言ってよかったんですか? 逢魔(おうま)が言ってないのに」
「奥様が知りたいとおっしゃられたので、私はそれに従ったまでです。それに短い人生において、重大なご決断をされるのに、いつまでも隠しているのはおかしいです」


『どのみち、シーツが手に入らなくては怒られるので同じです』


「……逢魔(おうま)の使用人、辞めたくならないんですか?」
「私たちは変わりませんが、常に変化にあふれていますから」

経済的に困窮することもありませんし、と仙南(せんなん)は淡々とこたえた。


 1月4日。F市。
中心地からやや離れ、小さな山があり、住宅からも離れた一角に神社があった。今は参拝客も落ちついた早朝。まだ暗さが残っており、あたりは静けさに包まれている。
本殿を、ぐるりと白い塀が囲み、屋根のつくりから祀られているのは男神だ。それを見上げていた志楽(しぐら)は、ひらりと塀の上に飛び上がり、本殿へと向かう。
志楽(しぐら)が玉砂利を踏みしめながら歩いていると、本殿の前にあぐらをかいている男がいた。男は日本神話の神を思わせる風貌だ。

「ここの『神さま』?」

志楽(しぐら)に声をかけられた、男の姿をした『怪異』である觜二駆(しにく)は眉をひそめる。彼の姿は人間に見えないようにしているはずだからだ。志楽(しぐら)は、にっと笑い片手の平を向ける。

「バーンッ!」

そう言うなり、志楽(しぐら)は握りこぶしをつくる。觜二駆(しにく)の頭がぎりぎりと痛み、頭蓋骨がみしみしと音を立てた。甲高い馬のような悲鳴をあげ觜二駆(しにく)はのたうち回る。それを見ながら志楽(しぐら)は握りこぶしに力をこめていった。指先が白くなる。
一際、大きな声で鳴くと觜二駆(しにく)の頭頂が避け2本の角が現れた。

「オッケー!」

にやりと口元を歪めて駆け出した志楽(しぐら)觜二駆(しにく)の角に手をかけた。力をこめて引き抜くと頭蓋骨ごと、ずるりと抜けてくる。
志楽(しぐら)がそれを見て、眉間に皺をよせると頭蓋骨と角の接合部が、ぱちんとはじけて転がっていく。ごろりと横たわった觜二駆(しにく)の頭部は厚みがなく、皮だけになっていた。
志楽(しぐら)はポケットから115円を取り出し、じゃらりと觜二駆(しにく)の腹のあたりに落とす。柏手を打つと彼は言った。

「いいご縁がありますように!」

朝日が昇り、あたりは明るくなっていく。

「さあ、『神さま』をぶん殴ろう」

角を肩にのせ、志楽(しぐら)は歩き出した。
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