第34話 snow crime

文字数 24,079文字

 それは放課後のことだった。
雪輝(ゆきてる)に友人の(りょう)が珍しく真面目な顔で相談がある、と言ってきたのだ。
彼の家にお邪魔し部屋に入ると(りょう)と向かい合って座る。
ごく普通の一戸建て、ごく普通の男子高校生らしい部屋。

「ゆっきーは九重(ここのえ)と付き合う気あるの?」

妹の八喜子(やきこ)のよき友人であり同じクラスの九重(ここのえ)朱珠(しゅしゅ)の名前がでる。
ああ、きかれたな、と思いながら雪輝(ゆきてる)は、いつも通り静かな調子で返した。

九重(ここのえ)に告白するんだろう? 俺のことは気にしなくていい」
「え!? なんでわかった?」
「この流れなら、そうだろう?」

少しずつ、(りょう)の気持ちがはっきりしたのは夏休みだったな、と思いながら雪輝(ゆきてる)は彼の話をきいていた。

「でっかいけど、俺よりはちっちゃいし」

そうだよな、と雪輝(ゆきてる)は思った。朱珠(しゅしゅ)は女子の中では、かなり背が高い。女子だけなら全校で1番と言ってもいい。
(りょう)もかなり大柄であり、校内で1番かもしれないな、と雪輝(ゆきてる)は思った。

「ずばずば言うけど、だからこそ気楽って言うか」

そうだよな、と雪輝(ゆきてる)はまた思った。
朱珠(しゅしゅ)は明け透けすぎる性格で女子からは敬遠されるが、付き合いやすいといえば、そうだ。

「下ネタもひかないし」

そうなんだよ、と雪輝(ゆきてる)はやや嘆いた。
げらげら笑ってノリがいいと言えば、そうだが、彼としては少し節操がほしかった。時たま言われたこちらが、ぎょっとすることも口にするからだ。

「怖いって言われるけどかわいいじゃん!」

そうかもな、と雪輝(ゆきてる)は思った。朱珠(しゅしゅ)は校則で禁止されている化粧をしているし、身長も相まって誰にでも派手な印象を与える。けれど昔からよく見ている笑顔はあどけないものだと思う。

「俺、今度、がんばる! ふられるかもだけど」

雪輝(ゆきてる)は、そうか、とだけ返しバイトがあるから、と(りょう)の家をあとにした。



 夕方、というには遅い時間。帰宅した雪輝(ゆきてる)は暗いな、と思った。家には誰もおらず明かりがついていない。今日は金曜日だ。
妹の八喜子(やきこ)は恋人の逢魔(おうま)のところに泊まりに行っている。
明かりをつけて、ただいま、と朝のうちにリビング兼台所のテーブルに置いておいた母の写真に向かって言う。


  ー 怒ってないよ ー


喧嘩したまま彼の母は帰らぬ人となった。
雪輝(ゆきてる)の父は優秀な「さとり」。
この世のものではないものや、人の心、さまざまなものを「見る」。彼の妹の八喜子(やきこ)もそうだ。雪輝(ゆきてる)は「『きこえる』さとり」だ。
彼が「さとり」の力をはっきりと自覚したのは母の死後、妹が逢魔(おうま)と親しくなってからだった。
それから母の墓参りに行く気にはなれなかった。なれないままでいた。
もし、と彼は思っていた。
もし、自分を怒ったままでいたら、と。
それが「『きこえる』さとり」の雪輝(ゆきてる)には、わかってしまうから行けなかったのだ。
妹が行きたい、と言った時に、転機だと彼は思った。
八喜子(やきこ)は恋人、今ではほとんど夫のようなものだが、となった逢魔(おうま)を連れて行きたがったのだ。
結果、母は雪輝(ゆきてる)に取り憑き逢魔(おうま)に対し散々、暴力をふるい、人ならざる彼から「怖い……」と評された。
そして、偶然会った鷹司(たかつかさ)から受けた伝言。それが「怒ってないよ」。それと、もうひとつ。


ー あんたたちが元気なのが1番だよ ー


彼の母はよく、そう言って笑い、そう言って消えた。
その後、彼は何度も墓に足を運んだ。
妹に内緒で。八喜子(やきこ)は週末は逢魔(おうま)の元へ行くので都合がよかった。けれど決して母には会えなかった。
彼を見兼ねた鷹司(たかつかさ)からきいた母の言葉は、さらにもうひとつある。


ー 死んだ人間は生き返っちゃいけない。いつまでも死者にすがって生きたらだめよ。私の人生は終わったの ー


それを雪輝(ゆきてる)に伝えた鷹司(たかつかさ)は、難しいことだが、と自嘲気味に笑っていた。
その時、優しい人だな、と雪輝(ゆきてる)は思った。
彼は雪輝(ゆきてる)を案じていた。母親に会いたがっている高校生だから、と。
でも、と雪輝(ゆきてる)は思う。
違うのだ。
自分は違う、と強く思う。
死者を「きいて」、死者と生きられる。死者であれば、もう死ぬことはない。大切な人が死んでいれば、もう死なない。
それができるのに、なぜ母は自分の元へ現れない、自分に見つからないようにしているのか。
「さとり」として優れている妹の八喜子(やきこ)がいれば、あるいはー。
墓場で母が現れたのは母のような、この世のものではない「怪異」を活性化させる逢魔(おうま)がいたからなのであれば、あるいはー。
けれど、それは叶わないだろう、と思う。彼らをまた墓に、と画策すれば、雪輝(ゆきてる)の意図が見抜かれるかもしれないからだ。
八喜子(やきこ)と同じ「『見る』さとり」のカナカは妹ほど優れてはいない。何度かカナカのいる八十上(やそがみ)邸を訪れて、それを確信し彼は落胆した。
なぜ、と雪輝(ゆきてる)は思う。
母の死を恐れずに一緒にいられる力が自分にも八喜子(やきこ)にもあるのに、なぜ母は現れないのか。
ずるい、と雪輝(ゆきてる)は思った。
父がいないことで苦労することは、たくさんあった。でも母がいることで楽しいことは、もっとたくさんあった。
少しくらい、ほんの少し、誰にも迷惑はかからない。
それなのに、どうして自分のたったこれだけの望みも叶わないのか。
ずるい、とまた強く雪輝(ゆきてる)は思った。



 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
逢魔(おうま)の隣に座る八喜子(やきこ)は落ち着かない様子で窓の方を見ているの。逢魔(おうま)の屋敷にいる時に彼女は眼鏡を外している。

「どうしたの?」

まだ子供の姿の彼は八喜子(やきこ)を見上げる形となる。

「……わからないです」
「教科書のことじゃなさそうだね。何かいる?」
「はっきり見えるわけじゃないんですけど……雪輝(ゆきてる)かなぁ?」

首をかしげる八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は無邪気に笑う。

「君たちは仲がいいね。少し妬けるよ」
「だって、カッコいいお兄ちゃんですから」

八喜子(やきこ)は、えへん、と胸をはった。でも、と彼女の表情がくもる。

「この間の映画のあとから、ちょっと変なんです。一緒にいる時に雪輝(ゆきてる)の考えていることが見えなくて……」
「いつもじゃないの?」
「えーっと、色はわかるんです。眼鏡がない時だけですけど。だから」

八喜子(やきこ)はまた窓に目を向けた。

「全然、何の色も見えなくて、たぶん、何か隠してるんだと思います」
「今は何か見えるの?」
「今はー」

逢魔(おうま)はじっと彼女の目を見つめた。彼の好きな瞳が今は不安げにゆれている。それは彼が好まないものだ。
八喜子(やきこ)はゆっくりと口を開いた。

「今は……黒い色です。お母さんが言ってた近づいてはいけないって色です」
「俺や兄さん、『怪異』に見えるって言ってた色?」
「はい……」

逢魔(おうま)は立ち上がると、よしよし、と八喜子(やきこ)の頭を自分の胸に抱きよせた。

「迎えに行く? 雪輝(ゆきてる)君も今日は泊まってもらおうか? でも」

今夜は声はおさえなきゃ駄目だよ、と囁かれ八喜子(やきこ)は顔を赤くしていった。しません! と。



 金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)からの電話に雪輝(ゆきてる)は笑ってこたえた。
大丈夫だ、と。
心配そうな彼女を安心させるために笑いとばしてみせる。事実、彼の心は晴れていた。妹はまだ自分を気にかけてくれている。それが嬉しかった。
嘘はない、と安心した八喜子(やきこ)に、おやすみ、と告げ雪輝(ゆきてる)は電話を切った。
かわいい妹だ、と思い、あたたかくなった気持ちはすぐに冷える。
もう自分は1番ではない。自分が1番ではない。今、隣にいるのは逢魔(おうま)だ。
朱珠(しゅしゅ)も、と思う。
朱珠(しゅしゅ)(りょう)を悪くは思っていない。(りょう)はいい奴だ。きっと自分は1番ではなくなる。
なりたかった。ずっと1番になりたかった。得意だと思っていた野球でも1番ではなれなくなるのがわかった。
背が伸びない。力がつかない。
妹がいない。母はとっくにいない。
なれない。ずっと1番にはなれない。
だから。
もっと野球がやりたかった。
でも1番になれない。なれなくなる。
だから。
母から愛されているのは自分が1番でいたかった。
だから。
妹が考えるのは自分が1番でいたかった。
だから。

雪輝(ゆきてる)は携帯から電話をかけた。しばらくして八喜子(やきこ)の声がきこえる。

「ごめん。やっぱり、ちょっと具合が悪いみたいだから、帰ってきてくれないか。ごめんな」

だから逃げた。今も逃げる。



 数日後。霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
応接用のソファでむしゃむしゃと棣雅(たいが)多々良木(たたりぎ)がお菓子を食べている。
棣雅(たいが)はつぶらな瞳に豊かな白い口ひげをした老人だ。
多々良木(たたりぎ)は和服の少女で目から無数の黒い棘が生えている。
どちらも逢魔(おうま)と同じ「怪異」であり今は彼の森の奥に住んでいる。子供の姿の逢魔(おうま)は話し続けていた。

「ーそれで、そういうわけだから、フェーン現象って起きるんだよ」

逢魔(おうま)は話し終え、深々とため息をつき、ふたりに向かって言う。

「ギャラリーに呼んだんだから相槌くらいうったら? 『逢魔(おうま)さん、すごいですね!』とか」
「へっ! 知るか! そういうのは奥さんに頼め」
「その『奥さん』が来れないから、呼んだんじゃないか。実友(みとも)樹楼尓(じゅろうじ)は『仕事があります』って逃げるし」

ぶつぶつと不満をもらす逢魔(おうま)にかまわず多々良木(たたりぎ)は次のお菓子を口にほうりこんだ。
棣雅(たいが)は冷め切ったお茶をすする。

「おめぇ、友だちいねぇのか?」
「それは人間の? いても、すぐ死ぬからね」
「そのすぐ死ぬ人間を奥さんにするたぁ、本当におめぇは物好きだな」

棣雅(たいが)の頭を後ろから樹楼尓(じゅろうじ)がつかみ、ぎりぎりとしめあげる。樹楼尓(じゅろうじ)はすらりと背が高くスーツ姿だ。彼は鋭い目つきを、さらに険しくして言った。

「『霞末(かすえ)様』だ。野良猫」
「あぁ? 俺は招かれて来てんだぞ?」

棣雅(たいが)も喉の奥から威嚇の音を出す。多々良木(たたりぎ)は、ふたりにかまわず、ぎい、と木を擦り合わせたような音を口から出した。

「義理のお兄さんがね、具合が悪いから、って家にも行っちゃ駄目なんだよ。もっとも」

逢魔(おうま)は手に持つ鉄扇を手持ちぶたさに開いて扇ぐ。

「違うと思うんだけどね。そろそろ俺の八喜子(やきこ)を返してほしいなぁ」

また多々良木(たたりぎ)が、ぎぃ、と鳴いた。

「俺のものだよ。妻なんだから」

言って、逢魔(おうま)は顔を赤くして両手でおおう。顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。



 金扇(かねおうぎ)家。
八喜子(やきこ)は布団で寝ている雪輝(ゆきてる)の横に寝転び参考書を見ていた。再来月にまた資格の試験があるからだ。
雪輝(ゆきてる)は高校も休んで寝てばかりいる。さすがに八喜子(やきこ)は付き合うわけには行かず下校後、まっすぐ自宅に帰ってきている。

逢魔(おうま)との携帯でのやり取りも兄が不愉快に思っているのがわかるので雪輝(ゆきてる)の前では控えていた。似てるな、と八喜子(やきこ)は思った。
野球を辞めた時にこんな風になっていた、と思い出す。
雪輝(ゆきてる)は今も、うとうとと寝ているが、そのせいで彼の心がわかりやすかった。
兄は寂しいのだ。
逢魔(おうま)のことしか考えていなかった自分を少し反省したが、苛立ちを覚えなくもなかった。
きっかけは朱珠(しゅしゅ)のことだし結果を知りたくないから高校にもいかない。そのくせ自分から一歩踏み出すわけでもない。
少し離れたところで、ずっとそうやってきたように「クール王子」であり続ける。しわよせは全て母にいっていた。
今度は自分にきた。でも、家族だし兄が嫌いではないし、甘えてきたのは自分の方だし、逢魔(おうま)と自分のことを喜んでくれているのも嘘ではない。だけど、それ以外の思いが大きくなりすぎている。
八喜子(やきこ)の考えもまとまらなかった。

玄関のチャイムが鳴った。八喜子(やきこ)が眼鏡をはずして目を凝らすと征士郎(せいしろう)の姿が見える。
彼女は立ち上がった。雪輝(ゆきてる)はまだ眠っている。



 リビング兼台所でお茶を出すと征士郎(せいしろう)は小声で頭をさげる。

雪輝(ゆきてる)さんの具合はいかがですか」
「もう少し……かなぁ? 疲れが一気にでたんだと思う。色々あったから」
「そうかもしれないですね」

八喜子(やきこ)にじっと見つめられ征士郎(せいしろう)は緊張して姿勢を正した。今、彼女は眼鏡をかけていないからだ。八喜子(やきこ)は、嬉しそうにほほえんだ。

征士郎(せいしろう)君、落ちついたね。どうしたの?」
「そうですか?」
「うん。学校でも楽しそうだし。よかったね!」

にっこりと笑顔で八喜子(やきこ)に言われ、つられて征士郎(せいしろう)も笑った。

「皆さんのおかげです。やはり僕は千平(せんだいら)の人間ですから千平(せんだいら)として頑張ろうと思います」
「そうなんだ」

でも、前より苦しそうではないな、と八喜子(やきこ)は不思議に思った。
彼女の顔を見て察した征士郎(せいしろう)が続ける。

「どう言ったらいいんでしょうか……息抜きかな? 千平(せんだいら)には納得のいかないことも多いです。この間も」

征士郎(せいしろう)はため息まじりに言う。八喜子(やきこ)の目にはちらりと彼の姉のすみれの姿が見えた。
征士郎(せいしろう)は苦笑する。

「転校したことで僕を征士郎(せいしろう)として接してくださる方が多いので、なんでしょうね。自分らしくいられる場所であるというか」
「それって、みんなでえっちな動画をみてること?」

征士郎(せいしろう)は顔を赤くした。

「え!? 違います!」
「見てるよね?」
「それは違わないですけど! 違います!」

ちょっと身を引いた八喜子(やきこ)にややショックを受けながら征士郎(せいしろう)は赤い顔で続けた。

「ずっと千平(せんだいら)としていなければいけなかった前より征士郎(せいしろう)でいられる時間があるので頑張れるということです」

そういえば休み時間にやっている野球もうまくなってきたな、と八喜子(やきこ)は思った。また彼女は笑った。

「よかったね」

兄の部屋から自分を呼ぶ声がきこえ八喜子(やきこ)は、ごめん、と立ち上がった。引き戸を開けて兄のところに行く。金扇(かねおうぎ)兄妹の会話を開いたままの戸から征士郎(せいしろう)はきいていた。
まだ寝る、と兄が言うので八喜子(やきこ)はリビング兼台所にもどると引き戸を閉める。

「……()(かた)のところへは?」

征士郎(せいしろう)にきかれ八喜子(やきこ)は目を伏せ首を横にふった。小声で雪輝(ゆきてる)が嫌がっている、と言う。

雪輝(ゆきてる)さんは熱があったりするんですか?」
「ううん。体は元気。起きられないだけ。今もすぐ寝ちゃった」
「……今日は僕が雪輝(ゆきてる)さんの看病をします」
「え?」
「料理を教えていただきましたから。そのお礼です」

でも、と言う八喜子(やきこ)を押し切り征士郎(せいしろう)逢魔(おうま)をよばせた。



 目が覚めた雪輝(ゆきてる)は引き戸を開けると、うわ、と驚きの声をあげた。妹ではなく征士郎(せいしろう)がいたからだ。彼はリビング兼台所のフローリングの上で正座をして彼を待っていた。
キッチンのガスコンロの上には夕飯の鍋がのっている。

八喜子(やきこ)は?」
()(かた)のところです。雪輝(ゆきてる)さん、お話しがあります」

いつになく真剣な彼の様子に気圧され雪輝(ゆきてる)も同じように正座をした。

雪輝(ゆきてる)さん。八喜子(やきこ)さんを束縛してはいけません」
「……妹だぞ? まだ高校生だし、今までが異常だったんだ」
「……椅子がないんです」
「座るか?」
「違います。先ほど、()(かた)八喜子(やきこ)さんが会った時にー」

征士郎(せいしろう)はうつむき目のはしに涙をにじませる。

「笑って……僕には絶対にあんな風に笑ってくれない。わかりますよ、資産家で、どこかの大学教授の論文も内密に代筆していたり、男性ですがきれいですし、僕が勝てるところなんて何もない」
「ほとんどの奴が勝てないと思うが」
「そうですよ! あなただって、そうです!」

征士郎(せいしろう)に言われ雪輝(ゆきてる)はむっとした。

「俺は兄だ」
「この間の映画館では僕と同じ役立たずだったではありませんか。中にまで入ったのに」
「あんなのわかるわけない」

雪輝(ゆきてる)は苛立ちをにじませて言う。征士郎(せいしろう)は深呼吸をして口調を落ちつける。

「わかるほど、もう雪輝(ゆきてる)さんは一緒にいないんです。八喜子(やきこ)さんが一緒にいたいのは()(かた)だから。だから、八喜子(やきこ)さんの心に僕の居場所はないんです。ただの『友だち』だから、いつかなくなります」

でも、と征士郎(せいしろう)は続ける。

「『お兄さん』は絶対になくなりません。雪輝(ゆきてる)さん、病気のふりをして、そばにいてもらっちゃ駄目です」
「俺は家族だ」
「家族だからこそ駄目です」

征士郎(せいしろう)のひざにおいた手が握りしめられる。

「家族なら、心配してもらえます。だって大切だから。僕の母は」

握りしめた彼の手の指は白くなっていた。

「母は千平(せんだいら)の父の浮気相手でした。だから、僕が小さい頃は千平(せんだいら)の人間として認められず引き取られることもなかったです。でも」

征士郎(せいしろう)はまたたきを何度もくりかえす。

千平(せんだいら)の子だから、ちゃんとしなさい、って、ずっと言われて厳しく育てられました。6才の時に反抗したら」

彼は声をつまらせた。

「死んでやるって首を吊る真似をされて……時には刃物を持ち出して母は自分を傷つけようとしたり」

雪輝(ゆきてる)は目を見開いた。

「死ぬ気はないのに……脅しでした。でも、死んでほしくないから、家族だから、泣いてとめて、逆らえなくて」
征士郎(せいしろう)、もういい。わかる」

肩をたたく雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)は首を横にふる。

「子供だから、わかりませんでした。脅しだって。怖くて、母に従って、でも、やっぱり我慢できなくて喧嘩することもあって……ある日」
征士郎(せいしろう)!」
「疲れたんです。そんなことに。それで、母の立っていた椅子を蹴とばして」

征士郎(せいしろう)は涙をこぼした。

「母が死んだのは僕のせいです。自殺したことになってます。でも、違うんです。雪輝(ゆきてる)さん」

征士郎(せいしろう)は涙を流しながら静かな声で言った。

「縛りつけるのは家族じゃありません。呪いです。呪いなんです」

雪輝(ゆきてる)は何も言えなかった。征士郎(せいしろう)は袖で涙をぬぐう。

「さっき、八喜子(やきこ)さんが僕に『よかったね』って笑ってくれました。僕は誰かにあんな風に絶対に言えません。八喜子(やきこ)さんがああして笑えるのは、お母さんと、あなたと」

征士郎(せいしろう)はふう、と大きく息を吐き出した。やや苛立ちをにじませて、やっかみともとれる声音で言う。

逢魔(おうま)から、もらって、たくさんあるからなんでしょうね。愛情が。もってないとあげられないです」

征士郎(せいしろう)は笑った。

「だから、僕も返します。笑ってくれたから、笑っていられるように」

悲しそうであり、どこかふっきれたような笑みだ。雪輝(ゆきてる)の耳には彼が快く思う音がきこえている。

「……ありがとう、征士郎(せいしろう)
雪輝(ゆきてる)さんのそう言ってくださるところが好きです」
「俺は男は恋愛対象外だ」
「僕もですよ!」

飯にするか、と雪輝(ゆきてる)は立ちがった。



 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
ソファに並んで座りながら、まだ子供の姿の逢魔(おうま)八喜子(やきこ)に頬ずりをしていた。

八喜子(やきこ)! ずっと会いたかったよ」
「私もですけど、ちょっと、しつこいです」
「えぇ……わかった」

逢魔(おうま)は音を立てて八喜子(やきこ)の耳にキスをした。うひゃあ、と悲鳴をあげる彼女にそのままささやく。

「こっちの方がいい?」
「よくないです!」

ああ、そう、と逢魔(おうま)は無邪気な笑い声をあげる。
その顔を見ながら八喜子(やきこ)もにっこりと笑い胸にのびてきた彼の手をぴしりとはたき落した。



 翌日。土曜日。
授業が午前中で終わり雪輝(ゆきてる)(りょう)に誘われ自然公園に来ていた。
自然公園は山、というよりは丘をぐるりと囲んだ公園で、紅葉が山を染めている。
ベンチに並んで座ると(りょう)は体の横に手をつき空を見上げた。

「ふられた。『はぁ!? きもい』って」

雪輝(ゆきてる)がどう声をかけていいものか迷っていると(りょう)から次々と話し出す。

「『意味わかんない』って、すげー嫌そうな顔で言われた。なあ! ゆっきー! ひどくね? 『海でお尻ばっかり見ててきもいしありえなくない?』って」

(りょう)は深い深いため息をついた。

「あー、ないわ。やっぱり九重(ここのえ)はないわ。ちょっといいって思ったの幻想だったわ」
「幻想というよりは、それが九重(ここのえ)だっていうか」

(りょう)は、うんうん、と腕組みをして頷く。

「だから、なかったことにして俺は今まで通り、あいつを男友達だと思うって言ってきた」
「そうか。余計に怒っただろう」
「うん。冗談だと思ってくれた。めっちゃ蹴られた。痛い」
「そうか」

雪輝(ゆきてる)も同じように空を見上げた。秋晴れの気持ちのいい空が広がっている。

(りょう)はいい奴なのに。九重(ここのえ)はもったないことをしたな。俺が女だったら一緒にいたら安心するよ」
「……ゆっきー」

(りょう)は両手を広げた。

「泣きたいことがあったら俺の胸で泣いてもいいのよ? 胸囲なら、やっきーよりあるのよ?」
「かたいからいやだ。柔らかいのがいい」
「ひどい! わたしというものがありながら!」
(りょう)
「はぁい❤︎」
「ありがとう。友だちになれて本当に嬉しい」

(りょう)は、ぽかんとしたが照れもせず嬉しそうに笑っている雪輝(ゆきてる)を見て顔を赤くした。

「いやああ! ゆっきー! 俺、ゆっきーでいいかも!」
「俺がよくない。帰るか」
「おう」

ふたりは立ち上がり、ふざけながら歩き出した。



 C市T寺。
空がオレンジ色に染まり出した頃、雪輝(ゆきてる)は母と祖父の眠る墓前に来ていた。しばらく墓を見つめていたが、やおら口を開く。

「……寂しい」

言葉にしてしまうと気持ちがとまらなかった。次々と涙があふれだし立っていられなくなる。ひざをついて声をあげて泣いた。
寂しい。悲しい。苦しい。
もう会えない。
寂しい。悲しい。悲しい。
妹には自分が1番ではない。
寂しい。悲しい。悲しい。
墓の中の母は何も言わない。静かに見守っていてくれている。
生前に泣け、と言われた。
泣き終わるまで待ってやる、と。
雪輝(ゆきてる)は暗くなるまで泣き続けた。

外が暗くなり寒い、と思う頃、雪輝(ゆきてる)は立ち上がった。目が痛かったが気持ちはすっきりとしている。はあ、と大きく息を吐き時間を見ようと携帯を取り出すと妹と征士郎(せいしろう)鷹司(たかつかさ)(りょう)朱珠(しゅしゅ)から、かなりの件数の着信や通知があった。

雪輝(ゆきてる)君」

子供の声に頭上を見上げると墓所の間に生えている、りっぱなの木の枝に逢魔(おうま)が座っている。彼は大人の時のようなゆったりとした服装だ。

八喜子(やきこ)が心配してるんだけど。『どこかわかりませんか!?』って泣きそうな顔で。大丈夫だって言ってるのに。妬けるよ」

逢魔(おうま)は、ぶすっとした顔で彼を見下ろした。

「俺が来てからは42分38秒。待ってあげたんだけど?」
「……それは、ご心配をおかけしました。ありがとうございます」

雪輝(ゆきてる)は、ぴっと姿勢正しく頭をさげた。逢魔(おうま)はひらりと雪輝(ゆきてる)の前に降り立つと、ぽんぽん、と彼の肩を軽く叩く。

「年相応のところもあるんだね」
「俺だって、まだ子供だ」

ふたりは並んで歩き出した。ぽつりと雪輝(ゆきてる)がもらす。

「お前って、すごいな」
「どこが? ありすぎてわからない」

逢魔(おうま)は鉄扇で自分を扇ぎながら柔和な笑みを浮かべている。

「お前は年をとらないんだろう? 年をとるのは八喜子(やきこ)だけだし……」

言い淀む雪輝(ゆきてる)の代わりに逢魔(おうま)は、にこにこと笑みを浮かべたまま続ける。

「死ぬのも八喜子(やきこ)だけだね。俺の見かけの方はどうにでもなるさ」
「だろうな。俺は、無理だ。もう、家族と言えるような人を増やす気にならない。またいなくなるのに耐えられない」
「ああ、そう。雪輝(ゆきてる)君」

逢魔(おうま)は無邪気に笑う。

「すぐに結論を出さなくてもいいんじゃない? 君はまだ若いんだから。ただ時間に流されるっていうのも解決方法のひとつさ」

墓場の外には街灯がついている。その明かりが逢魔(おうま)の髪や瞳を金色に見せていた。雪輝(ゆきてる)逢魔(おうま)は駅に向かって歩きだす。暗闇の中でも逢魔(おうま)の髪と瞳は金色に見える。

「……『神さま』って」

雪輝(ゆきてる)の言葉に逢魔(おうま)は無言で目線だけでこたえた。
じっと彼の言葉を待つ。

逢魔(おうま)のことを『神さま』って言うのが、わかる気がする」

逢魔(おうま)は無邪気な笑い声をあげた。

「そんなにいいものじゃないよ。俺ね、あの墓場で八喜子(やきこ)が『怪異』になりかけたことがあったでしょう?」

ああ、と雪輝(ゆきてる)は頷いた。

「その時に八喜子(やきこ)を助けようと思わなかった。『怪異』のままにしておけば死なない方法があるから、ずっと手元においておけばいいじゃない?」

ああ、とまた雪輝(ゆきてる)は頷いた。

「そう思ってたんだけど『怪異』になるってことは強い思いに、ずっと囚われるってことでもある。だから、ね」

逢魔(おうま)は、ふう、とため息のように息を吐く。

「苦しんで泣いてる八喜子(やきこ)を見たら、いいや、って。俺はさ」

逢魔(おうま)は照れて赤い顔に両手をあてる。

「笑ってる八喜子(やきこ)と一緒にいたいんだよね」

嬉しそうに笑う逢魔(おうま)から雪輝(ゆきてる)の耳には彼にとって快い音がきこえている。

「強い思いに囚われるって、逢魔(おうま)は何かあるのか?」
「う〜ん……今は八喜子(やきこ)と一緒にいたい、だね。だから俺だけ帰っていい?」

住宅地を抜けると街灯と通りすがる人が増えてきた。逢魔(おうま)を見ると惚けたようになり足をとめるものもいる。
雪輝(ゆきてる)は、くすり、と笑う。

「きっと『我がまま』だな」
「そうかもね」

あはは、と声をあげて笑い、逢魔(おうま)の姿は溶けるようにして消えた。



 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
逢魔(おうま)が姿を現わすと八喜子(やきこ)は彼に抱きついた。

逢魔(おうま)さん! 逢魔(おうま)さん! 雪輝(ゆきてる)がいました! ありがとうございます!」

ああ、そう、と逢魔(おうま)は彼女の背中を、とんとん叩いた。疲れた、ともらしソファに体をあずける。
心配そうに自分を見ている八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は、にこにこ笑いながら言う。

「今日のご飯はなぁに?」
「ビーフシチューです」

逢魔(おうま)は両手をあげて喜ぶと八喜子(やきこ)に抱きついた。

「早く食べようよ!」

にこにこと嬉しそうに笑う逢魔(おうま)八喜子(やきこ)もほほえみ彼の頭をなでると支度をしにいく。
扉が閉まると逢魔(おうま)は行儀悪くソファにひっくりかえる。
彼は迷っていた。戻れるようになったとして大人に戻るべきかどうか、と。
子供の姿だと八喜子(やきこ)に迫っても手痛い反撃をされることがないからだ。
彼の方が力が弱い。声音と表情こそ怒っているものの大人の時のように思い切り噛みつかれたり蹴とばされたり殴られることがなかった。
つまり、と逢魔(おうま)は思う。
八喜子(やきこ)を刺激して、その気にさせればいける可能性が高い、と。
いけません! と扉の向こうから彼女の声がきこえ彼は無邪気に笑った。



 週が明け、あっという間に週末になった頃。征士郎(せいしろう)雪輝(ゆきてる)の様子に八喜子(やきこ)は違和感を覚えた。
もとから仲はよかったが、最近はより仲が深まったようだ。
反対に八喜子(やきこ)に対してはよそよそしさが増していた。
少し悲しく思いながら八喜子(やきこ)は仕方がない、と思う。
征士郎(せいしろう)の優しさに後ろめたさを感じながらあきらめた。彼女は逢魔(おうま)のことしか考えられないからだ。
それ以外に何かある。
はっきりと見たわけではないが漠然とそれがわかった。
けれど無意識にせよ意識的にせよ見ようとも、暴こうとも思えなかった。
八喜子(やきこ)の知りたい、という関心は逢魔(おうま)にしか向けられていないからだ。



 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。

「おかえり! 八喜子(やきこ)

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)が入ってくるなり彼女に抱きついた。八喜子(やきこ)は制服姿で彼はまだ子供の姿だ。ちょうど顔が八喜子(やきこ)の胸のあたりになる。
眼鏡をかけていても彼女の目には彼の周りに白い光が見えていた。
八喜子(やきこ)は眼鏡をはずしてスカートのポケットにしまうと頬ずりをしてくる彼の頭を気持ち、優しく押しもどす。

逢魔(おうま)さん。いけないです」
「まだ何も言ってないでしょう? 見えるからって、そういうのはよくないよ」
「わかりました。いくら企んでも、今日もしないです」
「ああ、そう。でも」

逢魔(おうま)は背伸びをして耳元でささやく。

「俺の好きな色にしてくれて嬉しいよ」

八喜子(やきこ)は顔を真っ赤にした。逢魔(おうま)は続ける。

八喜子(やきこ)、それで期待するなっていうのは残酷だよ」
「知りません!」

ぷいと横を向く彼女に逢魔(おうま)は無邪気に笑い、彼女のカバンについた白くて丸いキーホルダーに目をとめる。

「どうしたの? これ」
「いつも購買のパンのるる子ちゃんと、お弁当を交換したんです。それで、お礼にくれたんです」

逢魔(おうま)さん、逢魔(おうま)さん、さわってみてください、と笑顔で八喜子(やきこ)から差し出され、彼はそれに従った。

「ぷにぷにして気持ちいいですよね!」

言われて逢魔(おうま)は、うーん、とうなり、やおら八喜子(やきこ)の胸をつかむ。俺はこっちがいい、と言った彼の頭はしたたかにはたかれた。



 陰陽庁(おんみょうちょう)
休憩室。鷹司(たかつかさ)雲母坂(きららざか)を見かけ声をかけた。

「よお。お前、霞末(かすえ)の靴を舐めて命ごいしたんだってな!」

雲母坂(きららざか)は特徴的な眉をつりあげて彼をにらむ。鷹司(たかつかさ)はかまわず彼の向かいに座った。

「きいたぞ。霞末(かすえ)の色つき様が『謝れば許してあげるよ』って生き残りのお前を踏みつけて靴舐めさせたんだろ?」

雲母坂(きららざか)は無言で下を向く。彼の顔つきは険しい。

「慈悲深くなったもんだ。投獄されてたお前のためにわざわざ出向いてくださった。死ぬことはない、ってな」

鷹司(たかつかさ)は紙コップのコーヒーを飲みながら続ける。

「生かしてやるから屈服しろとは、本当に慈悲深いな。雲母坂(きららざか)

鷹司(たかつかさ)は立ち上がった。

「知り合いが死ぬのは、もうごめんだ。生きてりゃいいことある」
「……鷹司(たかつかさ)

立ち去ろうとする鷹司(たかつかさ)の背に雲母坂(きららざか)が声を発した。

「お前はそう思うのか?」
雲母坂(きららざか)、お前は真面目な公務員だ。家族も恋人もいる。泥の味なんてすぐ忘れられる。よかったな」
「……だから、お前は?」

さあ、と背を向けたまま鷹司(たかつかさ)はこたえた。

「思ってたら特課(とっか)にいられない」



 鷹司(たかつかさ)の家。マンションの一室。
雪輝(ゆきてる)はいすに座ってスマホをいじっていたが、顔をあげ向かいの征士郎(せいしろう)にスマホをつきつける。征士郎(せいしろう)は参考書を解いていたノートから顔をあげた。

「この『突戦! ふしぎ発見!』ってブログは絶対にあの人だ」
「……斗瀬(とせ)先輩ですね。おひとりで廃墟など探検に行ってますが危険です」
「先生と笹沢(ささざわ)センセに言っておこう」

雪輝(ゆきてる)はまたスマホをいじりだした。

雪輝(ゆきてる)さんはどちらの大学へ?」
「手堅く県立大か市立大。お前は?」
千平(せんだいら)が行くところは決まってますから」
「そうか。八喜子(やきこ)はー」

言って黙りこんだ雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)は、どうぞ、と彼の言葉をうながした。

特課(とっか)の方で就職させてもらえるみたいだ。助かった。あいつバカだもんな。ほかのところでやっていける気がしない」

雪輝(ゆきてる)は心の底からの安堵の息を吐いた。

「それもいつまでなのか知らないけどな。逢魔(おうま)と子供もできるだろうし」
「子供、ですか?」

征士郎(せいしろう)は眉をよせた。

「『さとり』だと『怪異』と子供がつくれるそうだ。……先生は言ってなかったのか?」
「はい。雪輝(ゆきてる)さん、僕はきかなかったことにします。そうでなければ、それはあなたにもあてはまります」

鷹司(たかつかさ)が隠しているのはあなたと八喜子(やきこ)さんを思ってでしょう、と征士郎(せいしろう)は続けた。雪輝(ゆきてる)は礼を言う。

「じゃあ、俺もお前との秘密をつくろう。俺の腹の中には逢魔(おうま)の指が入ってる」

征士郎(せいしろう)は目を見開き驚きをあらわにした。

「指、ですか」
「そう。腹を裂かれて埋めこまれた。めちゃくちゃ痛かった。で、逢魔(おうま)の指が入ってるから俺()安全なんだ。この間の八喜子(やきこ)みたいに自分から『怪異』に近づかなきゃ襲われないし、危害を加えられない」

俺も逢魔(おうま)のものだから、と雪輝(ゆきてる)は続ける。

「ただし映画館みたいに閉じこめられたら餓死はするみたいだけどな。それも自分から入った時だけだそうだ」

この間みたいにならなきゃどこにいるかもわかるし、と言うと雪輝(ゆきてる)征士郎(せいしろう)を真っ直ぐに見て彼の名前を呼んだ。

征士郎(せいしろう)
「はい」

雪輝(ゆきてる)は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。

「あいつ八喜子(やきこ)の方は胃の中だからって月1で新しく入れないと駄目とか言ってんだけど! 本当か? 俺、絶対に嘘だと思うんだけど隠してるからわからない!」
「胃の中って……」

征士郎(せいしろう)は顔を赤くしてうつむいた。

「……そういう話はきいたことがありません」

彼は小さく、知りたくありませんでした、と呟いた。

「俺もだよ。俺のかわいい妹が……ああ……あいつの好きな色のパンツとかはくし。ふざけんなよ」

征士郎(せいしろう)逢魔(おうま)雪輝(ゆきてる)は似ているんだな、と最近、思うようになった。



 C市。
住宅地のさらに奥の林道をぬけると廃寺がある。
門はなく石畳も砕け雑草が生えており、ぼこぼことして歩きにくい。
墓地も長い間、誰も来ていないのだろう。苔むしていればまだマシな方で傾き欠けているものがほとんどだ。
夕焼け空が黒く変わり出した頃、寺の正面に立ち斗瀬(とせ)はスマホを向けて撮影していた。制服姿で声はボイスチェンジャーをあてて変えている。

「ここは朽ち果てた寺。雰囲気はばっちり。では、本日の突戦! ふしぎ発見! スタート!」

意気揚々と歩き出した彼女の頭に握りこぶしが落とされた。突然のことに取り落としたスマホが地面ではねる。

「お前はまだ懲りないのか?」

鷹司(たかつかさ)は涙目で見上げてくる斗瀬(とせ)を鬼のような形相でにらみつけた。それを見ながら矢継早(やつぎばや)はけらけらと笑っている。鷹司(たかつかさ)はスーツ姿で矢継早(やつぎばや)は黒いスーツ姿だ。
斗瀬(とせ)はスマホを拾い上げ、うらみがましく言う。画面が割れていた。

「……暴力教師は問題よ」
「命を救ってやってる。帰るぞ」
「先生が来たということは、ここはふしぎ発見できるのかしら?」
「ああ? 関係あるか? 来い」

鷹司(たかつかさ)斗瀬(とせ)の腕をつかんで歩きだす。足元の石に気を配りながら斗瀬(とせ)は、よたよたと歩いたが鷹司(たかつかさ)はかまわず大股で歩いていく。

金扇(かねおうぎ)さんと私へのあつかいが違うわ。彼女には優しいのね」
「付き合いの長さが違う」
「私は3年生よ、先生。私の方が生徒歴は長いじゃない」

鷹司(たかつかさ)は鼻を鳴らした。

「問題児のお前に優しい気持ちをもてると思うか?」
金扇(かねおうぎ)さんも似たようなものじゃない」
「似てない。自分から進んでバケモノに突っこんでいってる奴とは違う」

言われて斗瀬(とせ)は、まあ、と顔を赤くする。

金扇(かねおうぎ)さんはバケモノに突っこまれている方だなんて。先生。例えが生々しすぎて卑猥よ」

また斗瀬(とせ)の頭ににぎりこぶしが落とされ、ごつん、という音がひびいた。矢継早(やつぎばや)はまた、けらけらと笑っている。

「■■■■ーっ」

斗瀬(とせ)の全身にざわりと鳥肌が立つ。何を言っているかはわからなかったが脳に響くように不快でおぞましい音がした。それは鷹司(たかつかさ)矢継早(やつぎばや)にも同様である。矢継早(やつぎばや)は顔をしかめて身をすくめ、鷹司(たかつかさ)はあたりに目を配っている。
彼の目が一点をとらえてとまった。
あったとすれば門のあたりに、それがいる。藤色の着物を身につけ髪を結った色の白い、唇が紫色の女。女の唇は血色が悪いわけではなく、ぷっくりと艶やかで、ぬらぬらとしている。
鷹司(たかつかさ)の右手が炎につつまれた。彼の右手から噴き出した炎は女に向かっていったが、彼女の笑い声とともにかき消されていく。
女の前に壁のように炎が広がった。女は笑いながら手を差し伸べ炎を消していく。壁がなくなった時に鷹司(たかつかさ)たちの姿がなく女は小首をかしげながら彼らを探して歩き出した。



 寺の墓地。奥の墓石に身を隠しながら斗瀬(とせ)は震えていた。隣の矢継早(やつぎばや)に小声できく。鷹司(たかつかさ)も身を低くし様子をうかがっている。

「あれは何? 先生の火で燃えないじゃない」
蛭姫(ひるひめ)です。この辺で出たことなかったんですけどね」
「それは何?」

矢継早(やつぎばや)霞末(かすえ)のゴリラのように祀られている「怪異」だと説明した。

「あれくらいだと鷹司(たかつかさ)んの炎ってきかないんですよね。見たでしょう?」
霞末(かすえ)って金扇(かねおうぎ)さんの彼氏ね。話が通じないの?」

斗瀬(とせ)矢継早(やつぎばや)は声を出さずに笑ってこたえる。

霞末(かすえ)のゴリラが通じるのは、お気に入りのやっきーがいるからですよ。ここにいる誰が、あれのお気に入りだと思いますか?」
「寺に入った。行くぞ」

鷹司(たかつかさ)に続いて矢継早(やつぎばや)斗瀬(とせ)も歩き出した。音を立てないようにしながら墓地を抜け寺から林道へと向かう。
林道を歩きながら斗瀬(とせ)が口を開いた。

「先生では退治できないということよね。ほうっておくしかないの?」

矢継早(やつぎばや)が小声でこたえる。

「そうですね。あれくらいですよ。霞末(かすえ)のゴリラに正面切って喧嘩を売るのは」
「そう。あっ……スマホを落としてしまったわ」
「戻るのはあきらめてください。行くなら、おひとりで」

矢継早(やつぎばや)に言われ斗瀬(とせ)は名残惜しそうに後ろを振り返ったが、また蛭姫(ひるひめ)の声がきこえ足を早めた。



 霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
食後のお茶を飲んでいた逢魔(おうま)が急に顔をあげ窓の外に目を向ける。八喜子(やきこ)もそれを追って外を見たが何も見えなかった。
逢魔(おうま)仙南(せんなん)樹楼尓(じゅろうじ)を呼び八喜子(やきこ)のそばにいさせる。
彼は立ち上がり閉めてある窓に近よると口笛を吹いた。八喜子(やきこ)が目を凝らすと森の奥から白い大猫が走ってくるのが見える。
八喜子(やきこ)の胸がどきどきとした。不安でたまらず逢魔(おうま)にきく。

「どうしたんですか?」
「ちょっとね……気のせいならいいんだけど」

逢魔(おうま)は窓の外へ目を向けたままこたえる。
八喜子(やきこ)が悲鳴をあげた。
すぐに逢魔(おうま)は彼女へと目を向ける。

「どうしたの?」

顔を両手でおおって震えている八喜子(やきこ)に駆けより逢魔(おうま)は彼女の頭をなでる。八喜子(やきこ)は涙のうかんだ瞳で逢魔(おうま)を見る。

多々良木(たたりぎ)ちゃんが……折られました」

逢魔(おうま)は眉をよせると、泣いている彼女をなぐさめながらきいた。

「誰にかわかる?」
「藤色の着物の……『蛭姫(ひるひめ)』です」

八喜子(やきこ)がこたえると樹楼尓(じゅろうじ)の瞳が黒から赤に変わり仙南(せんなん)も、いつもは表情のない顔を厳しくした。
また八喜子(やきこ)が悲鳴をあげる。真っ青な顔で震えている彼女を逢魔(おうま)は抱きしめ額に口づけをした。途端、八喜子(やきこ)の意識が遠くなる。逢魔(おうま)樹楼尓(じゅろうじ)の手をかりて八喜子(やきこ)をソファに横たえた。
仙南(せんなん)の頰にふたつずつ小さな穴があく。彼は窓にはりついて外を見ながら言った。

(あやま)様。多々良木(たたりぎ)が燃やされました」
「燃やす? どうやって?」
「どこかで蓄えてきたのでしょう。おそらくは鷹司(たかつかさ)の炎だと思われます」
「また随分と手のこんだことをしてきたね。今度は何をしに来たんだか」

ガラスの砕ける音と猫の悲鳴のような声がひびいた。樹楼尓(じゅろうじ)が、役立たず、と吠えると獣の姿になり大広間を飛びだしていく。

棣雅(たいが)をハンマー代わりにして窓を割ったのかな? そうでもなきゃ割れないと思うけど」

逢魔(おうま)は鉄扇をたずさえ仙南(せんなん)樹楼尓(じゅろうじ)の後を追った。



 逢魔(おうま)の屋敷。廊下。
白い大猫の姿の棣雅(たいが)と茶色の毛皮の犬のような獣の姿の樹楼尓(じゅろうじ)が紫色の人の腕ほどの無数の触手に絡めとられ身動きがとれずにいた。
その様子を見て逢魔(おうま)が笑いながら言う。

「仲がいいね」

抗議しようとしたが樹楼尓(じゅろうじ)たちは触手にかみつき、もがくだけで精一杯だった。逢魔(おうま)が鉄扇で切り裂き彼らは自由になる。ぼたぼたと落ちた触手はぶるぶると震え灰のように崩れていく。
棣雅(たいが)は口の中の触手を吐き出し毒づいた。

蛭姫(ひるひめ)が来るなんてきいてねぇっ! 割りに合わねえぞ!」
「俺も今さら来ると思ってなかったよ。何でだろうね? どっちに行った?」

逢魔(おうま)にきかれ仙南(せんなん)はこちらです、と先を歩く。彼らはそれに続いた。



 八喜子(やきこ)は夢を見ていた。
三日月の明るい夜。山の中の広場のようにひらけた場所で女が交わっている。下になった女は嬌声をあげ上になった女は紫色の唇で笑う。名前は蛭姫(ひるひめ)だ。不意に蛭姫(ひるひめ)が顔をあげる。
木の上に男が立っていた。男は陶器のような肌をしており月明かりで髪が金色に見える。途端、組み敷いた女が、ああ、と声をもらす。女は潤んだ瞳で男を見上げ頰を染めていた。蛭姫(ひるひめ)の姿は目に入っていない。いくら女を責めたてても男しか見なかった。
憎い、と蛭姫(ひるひめ)は思っていた。
お前の女を奪ってやろう、と。

おぞましい感覚に八喜子(やきこ)は目を開けた。目の前に蛭姫(ひるひめ)の顔がある。声をあげようとしたが口に吸いつかれふさがれた。無数の短い舌が口の中をまさぐる。嫌悪で吐きそうになり暴れたが、ものすごい力でおさえこまれた。声にならない声で八喜子(やきこ)逢魔(おうま)の名前を叫んだ。



 逢魔(おうま)の屋敷。2階。
逢魔(おうま)たちは仙南(せんなん)が、ここです、と示す扉の前でとまった。仙南(せんなん)が扉を開けると中から洪水のように触手があふれてくる。しまった、と思うと同時に彼らはその波に飲みこまれた。
食われる、と逢魔(おうま)は思った。力がどんどん抜けていき立ち上がれない。


  ー 子供のお前は弱すぎる ー


兄の言葉が頭によぎる。逢魔(おうま)は自分の体が吸われ、食まれていくのを感じていた。



 逢魔(おうま)の屋敷。大広間。
涙を流して嫌がる八喜子(やきこ)の様子を蛭姫(ひるひめ)は笑った。
蛭姫(ひるひめ)は乱した着物から足をあらわにし股に生えた無数の触手を八喜子(やきこ)のスカートを破き、彼女の下着ごしにおしつける。ひきさかれた制服があたりに散らばっている。あらわにした彼女の胸にも無数の舌で吸いつき八喜子(やきこ)が悲鳴をあげるたびに蛭姫(ひるひめ)は笑った。
ひときわ愉快そうに彼女が笑った途端、気温がぐっとさがる。
照明が明滅し一瞬の暗闇が明けると黒ずくめの陶器のような肌をした男、(あがま)が立っていた。
(あがま)蛭姫(ひるひめ)の顔をつかむと軽々と持ち上げ床に叩きつける。
一度で蛭姫(ひるひめ)の頭は半分にひしゃげ床がへこんだ。そのまま(あがま)が力をこめていくと骨の砕ける音がした。
のたうちまわりながら蛭姫(ひるひめ)が音を発する。(あがま)はいつものように表情のない声で言った。

「愚かもの。お前が見たのは私だ」

(あがま)蛭姫(ひるひめ)の首を引きちぎった。切り口から血は出ずに蛭のような紫色の触手がうごめいていたが、やがて動かなくなり全身が灰のように崩れる。
(あがま)が立ち上がり八喜子(やきこ)へ目を向けると彼女は自分の肩を抱き、浅い呼吸を繰り返していた。
ぼろぼろと涙をこぼし彼が近よると悲鳴をあげて泣きわめき体がひどく震えている。
壊れる、と(あがま)は思った。
彼の弟は、すぐに来られそうにないのがわかる。

八喜子(やきこ)

名前を呼ばれ八喜子(やきこ)が目を向けると涙でゆがむ視界に明るい髪の色と瞳の男が見えた。いつものように優しくほほえみ愛おしげに彼女の頰を両手でつつむ。彼の周りには白い光が見えていた。八喜子(やきこ)は男の名前を口にする。

逢魔(おうま)さん…… 逢魔(おうま)さん!」
「大丈夫」

男はべろりと八喜子(やきこ)の涙をなめ、まぶたと彼女の額に口づけをした。途端、彼女は意識を失いぐらりと倒れる。男、(あがま)八喜子(やきこ)をソファに横たえると自分の上着を彼女にかけた。彼の髪と瞳はいつもの黒い色にもどる。
(あがま)は大広間を出て2階に向かった。樹楼尓(じゅろうじ)の吠える声がきこえている。



 廊下に横たわった逢魔(おうま)をかばうように彼の上に獣の姿で樹楼尓(じゅろうじ)が四つ足で立っていた。蛭姫(ひるひめ)の触手はすべて灰のように崩れ落ち消えている。
樹楼尓(じゅろうじ)の毛皮はところどころがえぐられ肉が見えていた。白い大猫、棣雅(たいが)も同様だ。大蛇の姿である仙南(せんなん)もウロコのあちこちが溶けたようになくなり肉をのぞかせている。
棣雅(たいが)仙南(せんなん)はぎらついた目で逢魔(おうま)を見て樹楼尓(じゅろうじ)に威嚇をしていた。その声の意味は「食わせろ」。
樹楼尓(じゅろうじ)の下で逢魔(おうま)は力なく言う。

「痛いのは嫌だよ」

彼は鉄扇を持つ手で反対の腕を肩から切り落とし、無造作に棣雅(たいが)仙南(せんなん)に投げた。彼らは争うように、それに食いつき貪りだす。
樹楼尓(じゅろうじ)が心配するかのように逢魔(おうま)の顔をのぞきこむ。

「食いつかれるより、よほどいい。ちょっと待ってね。最近」

彼は腕のない肩に、もう一方の手の指先でふれる。

「治りが遅くて。俺も寿命があるのかな」

もしそうなら、と逢魔(おうま)は続ける。八喜子(やきこ)より先に死にたい、と。ゆっくりと彼のなくなった腕が生えてくる。
逢魔(おうま)の腕を食い尽くした棣雅(たいが)仙南(せんなん)は同時に顔をあげた。廊下を(あがま)が歩いてくる。びくり、と体を震わせた棣雅(たいが)は目の前の開いたままの部屋の中にとびこみ壊された窓から逃げ出した。
樹楼尓(じゅろうじ)逢魔(おうま)の上からよけると(あがま)の前に伏せる。(あがま)逢魔(おうま)を抱きおこした。

蛭姫(ひるひめ)に食われたか」

仙南(せんなん)は許しを請うように鎌首を床にこすりつける。
逢魔(おうま)(あがま)にしがみつきながら彼を見上げる。

実友(みとも)を怒らないでよ。よくやってくれてるんだから」

樹楼尓(じゅろうじ)が唸り声をあげ声を発する。

「野良猫を追いかけます」
「そっちもほっといていいよ。あとで働いてもらうから」

樹楼尓(じゅろうじ)は困ったように(あがま)を見る。

(あやま)がそう言うなら、それでいい。(あやま)

(あがま)の厳しい声音に逢魔(おうま)は身をすくめた。

「なぜ蛭姫(ひるひめ)を食わなかった?」
「なぜって……俺が食べてる間に、みんなが食べられちゃうかと思って」

表情のない(あがま)の瞳にじっと見つめられ逢魔(おうま)は、ばつが悪そうに白状する。

八喜子(やきこ)がいるでしょう? 見られるかと思って……」
「その八喜子(やきこ)蛭姫(ひるひめ)にねぶられていた」
「え!?」

逢魔(おうま)は慌てて階下へと駆けだした。樹楼尓(じゅろうじ)は赤い瞳をまたたかせ口を開く。

八喜子(やきこ)奥様はご無事ですか? 蛭姫(ひるひめ)に襲われた女は気が狂います」
「心配ない」
「奥様は(あやま)様のものでは? なぜ蛭姫(ひるひめ)が手を出せたのでしょうか」
「あれの(たち)の悪いところは与えるのが快楽で危害ではないからだ」

(あがま)は、その心配ももうない、と言うと樹楼尓(じゅろうじ)の頭を両手でなでた。樹楼尓(じゅろうじ)のしっぽがちぎれんばかりに、ぶんぶんと振られる。




  ー かや ー

優しい声と笑顔で男が言う。
明るい色の髪と瞳。陶器のような肌をした整った顔立ちの男だ。

   ー 大丈夫 ー

男の周りには白い光が見えている。見知ったいつもの笑顔によく似ている。
彼の名前はー。



八喜子(やきこ)!」

八喜子(やきこ)が、はっとして目覚めると心配そうな顔をしている逢魔(おうま)が目に入った。

「……逢魔(おうま)さん」
「大丈夫?」
「はい……っ!!!」

八喜子(やきこ)は自分があられもない姿なのに気がつき声にならない悲鳴をあげて顔を赤くした。黒い上着をぎゅっとにぎりしめ猜疑的な目を向けてくる八喜子(やきこ)逢魔(おうま)は首を横にふる。

「違うよ。覚えてない?」
「はい……私、どうしたんでしょうか? あ! 多々良木(たたりぎ)ちゃん!」
「『怪異』って、そう簡単に死なないよ。多々良木(たたりぎ)はどうしてる?」

八喜子(やきこ)は窓の外に目を向け目を凝らした。

「苦しそうです……」
「ああ、そう。じゃあ、行ってくるね」

逢魔(おうま)は、待っててね、と手を振ると窓からテラスに出る。そのまま森へと歩いて行った。
扉の開く音に八喜子(やきこ)が、びくりと身をすくめると樹楼尓(じゅろうじ)をともない(あがま)が入ってくる。
樹楼尓(じゅろうじ)はいつもの少年の姿でスーツを身につけていた。
八喜子(やきこ)(あがま)の上着をにぎりしめたまま困っていると彼が声を発する。

「返さなくていい。お前の匂いがついてくさい」
「くさい!? ……ありがとうございます」

八喜子(やきこ)はむっとしながら立ち上がり大広間を出て2階に向かった。
お茶を用意しに樹楼尓(じゅろうじ)がいなくなる。
ひとり残された(あがま)は開いたままの窓の前に立つ。外は暗かったが弟が歩いてくるのが見える。暗闇でも金色の髪と瞳がきらきらと輝いていた。
懐かしい、と(あがま)は思う。
幼かった弟と自分と女がひとり。
女はひどくうまかった。今と同じく。



 逢魔(おうま)の屋敷。逢魔(おうま)の部屋。
着替えを終えた八喜子(やきこ)はクローゼットの中の逢魔(おうま)の服を見つめた。大人の逢魔(おうま)の服で彼女からすると、ずいぶんと大きい。
子供の姿の逢魔(おうま)はかわいらしく、仕草も無邪気だ。味覚も興味も体に合わせて子供のようになっている。
弟ができたようでもあり、たまに大人の時と同じで、なんだか不思議だった。
でも、と八喜子(やきこ)は思う。そろそろ大人の逢魔(おうま)が恋しかった。またいつものように彼に甘えたいと思う。

 不意に、携帯が鳴り八喜子(やきこ)はびっくりした。なんだかどきどきしながら見ると八十上(やそがみ)ミヤからの通知がある。
内容は謝罪だった。八十上(やそがみ)ミヤのもとには八喜子(やきこ)と同じ『さとり』のカナカがいる。
彼女は八喜子(やきこ)と同じく人の心を『見る』。人間でありながら「怪異」のように成り果てているカナカが『見る』と相手の感情を増幅させてしまうことがある、とミヤは説明していた。それでカナカが、たびたび訪問してきていた雪輝(ゆきてる)を不審に思い『見た』。彼の母親への思慕を増大させてしまってはいないか、というのがミヤの謝罪の内容だった。
八喜子(やきこ)は、もう大丈夫です、と返す。

 そういえば、と彼女は思い出した。
八喜子(やきこ)鷹司(たかつかさ)に言われたことがあったからだ。
心を見られたら、もう立てない。
だから見ないでくれ、と。
鷹司(たかつかさ)八喜子(やきこ)にとって、時には雪輝(ゆきてる)よりも頼りになる兄のようで父のようでもある。
それは大人だからだろう、と思った。
雪輝(ゆきてる)はひとつ上とはいえ、まだ子供だ。
自分はもっと子供だけれど、と思いながら八喜子(やきこ)逢魔(おうま)の部屋を出た。彼が帰ってきたのがわかったからだ。



 夜。逢魔(おうま)の部屋。
明かりを消すと逢魔(おうま)はすぐに、疲れた、とベッドに横になって目を閉じる。

逢魔(おうま)さん、逢魔(おうま)さん」
「……なぁに?」

逢魔(おうま)は薄目を開けて八喜子(やきこ)を見る。

「前に征士郎(せいしろう)君を助けてくれた時のことですけど」
「いつ?」
「えーっと、神社に入って、いなくなっちゃった時です」
「ああ、うん。初めてキスした日だね……」

逢魔(おうま)のまぶたが閉じそうになり八喜子(やきこ)は彼の顔に自分の顔を近づけた。彼女の目は彼の周りに白い光を見せている。

「ごめんなさい。あの時に『疲れた』って言って、その……やっぱり、ちょっとは元気になれるんですか」
「ああ、うん……『さとり』っていうか、八喜子(やきこ)がおいしいし、『さとり』だから俺たちに近いんじゃない?」
「そうなんですね……逢魔(おうま)さん」

八喜子(やきこ)は彼のくちびるに、そっと自分のくちびるを重ねると舌をいれた。
逢魔(おうま)は驚いて目を見開いたが、すぐに目を細め彼女を抱きよせると舌をからめて吸う。長い間、そうしていたが逢魔(おうま)から口を離した。彼はくすくすと笑う。

「今の俺は子供だよ?」
「だから、です。早くもとにもどって……」
「じゃあ、もっとほしい」

逢魔(おうま)八喜子(やきこ)を寝そべらせると上にのる。八喜子(やきこ)の顔は赤く、鼓動が早かった。けれど妙に冷静な頭のどこかで、いつもと違って軽いな、と思っていた。



 翌日。休日の朝。霞末(かすえ)の森。逢魔(おうま)の屋敷。
いつもと違って起きてこない奥様と主人を起こしに行こうとする樹楼尓(じゅろうじ)仙南(せんなん)がとめた。

「お疲れですから」
「知ってる」



 逢魔(おうま)の部屋。
逢魔(おうま)の腕の中で目覚めた八喜子(やきこ)は大人の姿の彼を見て、ほほえみ、裸の彼に顔を赤らめながら、たくましい胸に頰をよせた。
彼女の好きなあたたかく力強い鼓動がきこえる。
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