第4話 同士スターリン、カスピ海に来たる

文字数 2,869文字

「さあみんな、自分の配置についていつも通り作業をしてください。役者が話しかけたら自然な形で受け答えをしてください」
「わかりました。『同志監督』」
漁業コルホーズの女工リーダーは、感情のない張り詰めた声で叫んだ。
灰色の作業着に、髪をスカーフでまとめ、手を休めず水産加工の作業をする部下の女工たちは、大声で復唱しながらもさすがに疲れた表情だ。
ダゲスタンの中でも最高ランクの生産高と生産額を誇る漁業コルホーズ『チャパエフの記憶』
その選り抜きの仕事人が、作業台の上で獲れた魚をさばいている。
水揚げされ、種類別のかごに入れられた魚を、女たちは小刀を手に鱗を取り、はらわたを出し、次の工程に送り出す。
魚は水洗いされ、塩漬けにされるか格子状の板にびっしりと並べられ、カスピ海の強い日差しの下に置かれ、干物にされる。
女たちの素早く繊細な手さばきは、ほれぼれするような動きでよどみなく続けられていたが、さすがにあちこちカメラが動きまわり、強い照明に照らされる状況は堪らないのか、撮影が長引くにつれ上司に進言するものが増えてきた。
強いライトの熱で魚が傷んでしまう、大勢の撮影スタッフが巻き上げる足元の砂と埃で、せっかくの商品が傷んでしまう。
機材のケーブルが縦横無人に張り巡らされ、足下が危ない。
そして、女工たちの中に入った女優たちの動きが悪く、危険極まりない。
「そんなこと言われたって、リハーサルの時間も機会もなかったんだもの、仕方ないじゃないの」
早めに島について撮影に臨んだ若手の女優、マーシャは化粧を直しながら不機嫌な声を上げた。
いやだいやだ、この生臭い魚の匂い。
手にも髪にも衣装にもついて、洗っても落ちやしない。
元々魚は嫌いなのだ。
しかもモスクワでは見慣れないチョウザメ。
大部屋女優たちは地元の女たちと肩をぶつけたり、肘で小突いたり、カメラの陰でひそかに戦いながら撮影に臨んでいた。

「そろそろ飽きてきたわよねえ、来る日も来る日も魚工場で作業風景ばかり」
「仕方ないわよ、同志スターリンがまだ着かないんですもの」
「とはいっても、子役たち相手もいい加減うんざりよ」

この映画には村の子供たちに加え、加工工場で働く少年少女、コムソモールやピオネールの子供たちが大勢登場する

と台本に記されている。
だから冒頭にあるように、近郷近在以外からも、ソビエト各地から集められた、襟抜きのかわいい子供たちが画面に映ろうと、とびきりの演技をしていた。
もちろんそんなシーンは遠慮なくカットされてしまうのが定石だし、映ったとしてもほんの一瞬、運が良ければ数秒という短さなのだが、全ソビエトで公開される(はず)なのだ。
子供たちは疲れ不平も訴えず、目を輝かせて撮影に参加している。
監督のセルゲイ・イワノヴィッチはそんな真面目でひたむきな子供たちを、一種奇妙な恐ろしさをもって見ていた。
あの時と同じだ。
大祖国戦争で、何百人、いやそれ以上の子供たちがパルチザンに参加し、死んでいった。
あの男の子、女の子たちもみんな澄んだひたむきな目をして、自分の命の価値など『集団』の前にはたとえようもなく軽いものと思い込んだまま、無防備に命を散らしていったのだ。
自分を守るすべも教えられず、最低限の『殺人法』『破壊法』だけを教え込まれて。
セルゲイはかぶりを振って、目の前に沸いた幻像を追い払った。
自分は国営ニュース映画会社の映像記者として彼らと行動を共にした。
だが見たものの数十分の一もフィルムの反映できなかった。
今目の前で、カメラに少しでも映るべく努力している子供たちの笑顔は、あの時の子供らの犠牲があってこそだ。
そうセルゲイは思い込むことにした。

「監督、同志スターリンが対岸に着きました。いまヘリコプターでこの島の空港に向かっています」
やっと、やっと来たぞ同士スターリン。
彼が来さえすれば、感動のクライマックスを撮影することができる。
英雄的な働きをした若き労働者青年をスターリンが称え、彼が手づから名誉のバッジを与えるのだ。
「よしよし、じゃスターリンの到着を待とう。役者やエキストラたちにも周知しておいてくれ。待ちに待ったわれらの同志スターリンがお越しになるってね」

アシスタントプロデューサーにそう命じると、監督のセルゲイは人が変わったように精力的に動き出した。
台本を切り張りし、撮影の順番を変え、カメラの位置を変え……
その時、港から大きな歓声が上がり、人々が雪崩を打って桟橋に駆け寄っていくのが見えた。
一隻の小型漁船がモーターの音も勇ましく、港に入ってきたのだ。
ただそれだけだったら、この島では日常の光景なのに、なぜ漁民や工員たちは我先にと港に走って集まるのだろう。

「監督、港の撮影スタッフから連絡がありました。今到着した漁船は、近来まれにみる魚を捕獲したのだそうです。一トンクラスのオオチョウザメです」
下っ端伝令役の若者が桟橋から走ってきて、撮影テント下に集まる演出部に伝えた。

主任カメラマン、照明、録音と連れだって港に駆け付けると、既に労働者たちが集まりつつあった。
漁船の甲板からロープが投げ込まれ、陸上の作業員がその端を拾って輪になった先を桟橋の杭に結び付け、しっかりと船を陸に固定する。
すぐに山ほどの人が見物に駆け付けた。
甲板には小山のような、砲弾のような銀色の巨大魚が固定されている。
カスピ海からボルガ川河口近くにいるという、オオチョウザメだ。
船は魚を積んだほうに大きく傾き、岸に寄せるのも一苦労と見える。
ぴったりと岸壁に接岸し、甲板上に乗組員が桟橋を渡す。
「カメラ、回せ!」
駆け付けた監督、カメラマン、照明、録音部。
皆一斉に動き出す。
エキストラたちの顔も弾んでいるようだ。
それは無理もない。めったに網にかからない巨大魚で、しかもメス。
腹の中には卵、キャビアも大量に宿しているはずだ。
カメラマンはひたすらフィルムを回した。
甲板に固定されている巨大チョウザメを漁師たちが縄を外し、体の下に丸太を入れて「ころ」の形で床を移動させる。
この大きさだと体重はほぼ1トン近いだろう。
床を引きずって魚を傷つけることはできない。
漁師たちの日に焼けた顔は誇らしげで、寒さに赤くなった鼻の頭と帽子からはみ出した耳の痛みも感じないようだ。
「監督、『同志スターリン』が島に着きました! 衣装とメイクを済ませれば、すぐに撮入可能だそうです」
若い男の叫び声が、群衆の感性の中響いた。さっきも入船の情報を持ってきた、伝令の助監督見習いのイゴールだ。地面の砂を巻き上げ、むせてせき込みながら走ってくる。
『同志スターリンだって!?
『スターリンが!?
監督のセルゲイが声を限りに叫んだ。
「おうい、魚の水揚げは待ってくれ! 『同志スターリン』が到着した。スターリンが魚を見るシーンを先に撮るから、水揚げは待ってくれ」

たちまち人々が動いた。
漁港の人間が大箱いっぱいの氷を持ってくると、チョウザメの口の中に流し込んだ。
傷みやすい内臓の腐敗を防ぐため、体の中から冷やすのだ。
スターリンが来る!
スターリンが来る!
港は一気に沸き立った。
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