第2話 チェチェンの島に嵐吹く

文字数 1,876文字

「さて、みんなどけどけ、どいてくれ」
 トラックのタイヤが重さのあまりきしみを上げる
 からからに乾いたカスピ海の海岸の空気は、塩を含んで肌に沁みて痛い。
 おまけに舗装されていない海岸道には空高く砂と塩の粉末が舞い、目を襲う。
 トラックのドライバーはいらいらと乱暴にハンドルを切った。
 とたんにカンコンゴリリと幌を打ち破る勢いで、小石や砂利を巻き上げる。
「イワン、いい加減にしろよ。レンズや機材に当たって傷がついたらどうするつもりだ」
 二月の風は冷たい。
 ソビエト南部、イランに近いダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国。
 カスピ海に突き出したアグラハン半島の先、浅い海を隔ててと白い砂に覆われた荒れ地の小さな島々がある。
 一番大きな島でも長径12キロ、幅は5キロ。周囲35キロという小ささで、周囲に散在する無人の小島とともにひっくるめて『チェチェン島』と呼ばれているその地に、突然嵐がやってきた。
 住民がこれまで見たこともない都会のトラックと機械、そして『映画撮影隊』という名の人々がやってきたのだ。
 小学校とパン屋、カスピ海で獲れるチョウザメの加工工場、教会、前世紀にイギリス軍が建てた石造りの灯台。そして漁業コルホーズで働く人々の村。
 この狭い範囲の世界しか知らなかった住民は目を見張った。
「嫌だわ、髪が砂だらけになってしまう。またセットし直さないといけないじゃない」
 トラックの隊列が集落の中央、風で削り出された岩板からなる天然の駐車場に停まると、厚化粧に髪を高く結い上げた女が、運転席から降りてきた。
 地味なコートの前ボタンまで開け、中のシャツの胸元は第三ボタンまでざっくり開けている。
 はなはだ『西側的な』わかりやすいセクシーアピールだったが、トラックを取り巻いた島の男たちの目は、金髪と赤い唇と白い胸元にくぎ付けになった。
 ハイヒールのかかとが地面に敷きつけられた小石にあたり、女がよろめく。
 と、村の青年が慌てて駆け寄り腕をとり、支えた。
「ありがとう。親切な坊や」
 女は艶やかな唇の端を上げてとっておきの笑顔を返した。
 黒く縁どられたまつ毛の奥に真っ青な瞳が輝く。
 青年はどぎまぎして後ずさった。
「あれがモスクワから来たという主演女優か?」
「いい女だなあ」
「有名な人なの、あれ?」
 とりまく村人たちがざわついた。
 なにしろ、この島を舞台に映画を撮影する、モスクワの国営映画会社から技術者や役者が来る、ついては島民全面的に協力せよ、という中央からの指示とやらが届いたのが2か月前。
 それからこっち、地区の党役員もコムソモールの若者たちも、チョウザメ工場の労働委員たちも、みな落ち着かなかったのだ。
「マーシャ、油売ってないで自分の荷物くらい自分で運べよ。素人相手に媚び売ってないで。他にやることいっぱいあんだろう。主演でもないくせに」
 とたんに、島民は波が引くように離れていった。
「なんだよ主人公じゃないのかよ」
「下っ端か。下手したら誰も聞いたことのない『自称』女優かもしれないな」
 自分たちで勝手に思い込み、事実が知れるといいたいことを言う。
 それは都市部よりあからさまなようだ。
 はいはいと女優マーシャが荷台から荷物を下ろし始めた時、白の大型国産車がトラック隊の真ん前に停まり、運転手がさっとドアを開けた。
 偉そうにひげを蓄えた小柄な中年男と、長身で色浅黒く、濃い眉に黒い眼の引き締まった容貌の男、そして党員バッジを光らせた初老の男に手を取られ、長い黒髪の美女が下りてきた。
「あれが主演の二人だな」
「よく見りゃ全然格が違うじゃねえか」
 主演コンビと髭の監督は、党役員の案内を受けながら島唯一の街中に消えていった。
 この先に古いがしっかりした造りのホテル、そして整備された港に島ご自慢のチョウザメ加工工場があるのだ。
「撮影に参加する村民諸君は残れ。その他は早々に帰るように」
 いかにも忙しそうなイラついた若者が島民たちに叫んだ。
 ロケーションの手配やスケジュール管理にあたるものだろう。
「トラックから機材を下ろしたら順番に小学校へ運べ。
 そうだ。当座使わないものはトラックへ残しておけ。なにしろ待機場所が狭いんだ。
 エキストラはいったん工場へ」
「同志助監督どの。トイレに行かせてください」
 一つのトラックの荷台から、悲鳴のような幼い声が響いた。ぼくも。私も。同志助監督どの。
「ああもう子役たち。忘れていた。みんな早く降りて、隊列になって教会へ向かえ。いい子でな」
 たちまちトラックの後部荷台のホロの中から、赤い頬の子供たちがわらわら降りてきた。
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