第9話 シベリヤからくるスターリン  

文字数 1,702文字

 始めの電話から二時間後、「当局」から第二のスターリン役者をそちらに送るとの連絡が届いた。
 アレクサンドル・パナーリン。通称『サッシャ』と呼ばれる男らしい。
 映画のスタッフたちは、到着次第すぐにでも撮影を再開できると期待していたが、ことはそれほど簡単でもなかった。
 関係者は、その替えの役者はモスクワやレニングラード、またはキエフ等、都市部からやってくるのだと思っていたが、どうやら違うようだった。

 サッシャ・パナーリンは当局お墨付きの役者ではなかった。
 まずその前半生で、既に当局から睨まれている。
 モスクワで優秀な演出家兼俳優として活躍をしていた彼は、友好関係にある外国の劇場に派遣され、その再興に尽力し称賛された。
 帰国し、ソビエトが誇る世界的に有名な作曲家の、オペラ初演の演出を手掛けた。
 政治闘争や思想的なダイナミズムとは無縁な、革命前の閉鎖的な村でおこる暴力と浮気と殺人劇。
 初日の聴衆や評論家の賞賛は高く、脚本家も作曲家も、もちろん演出のサッシャ・パナーリンも大いに栄誉を得た。

 だが、公演半月経つと、なにもかもが変わった。
 党の機関紙に、オペラの厳しい批判記事が載ったのだ。
 曰く「野蛮な西側的劣情にまみれたきわもの」「党と国民が推し進めてきた革命の美意識に対する完全な侮辱」
 帰宅して、キオスクで買い込んだ党機関紙を目にするなり、パナーリンはベッドにもぐりこみ、毛布を頭からかぶった。
 目をつぶっても、深呼吸をしても手足がぶるぶると震え、背中に氷を入れられたようなしびれが走る。
 これからの自分の運命が見えた気がした。
 今まで幾人の友人、作家仲間、演出家や音楽家が姿を消しただろう。
 アパートに『青い帽子の秘密警察』の奴らがやってきて、着の身着のまま護送車に載せられ警察署に向かうのだ。
 そして完全に姿を消す。
 消息も、痕跡も残らない。家族もいつの間にか町から姿を消す。
 そして残された『つながりのあった者』は、はじめからそんな奴らはいなかったように日々を過ごすのだ。
 ああ。何人もの表現者たちがそうやって持ち上げられては批判され、存在そのものを消されてきた。
 俺は知っている。

 案の定、新作オペラの公演はその日をもって閉幕した。
 一か月後、予想通り青い帽子に銃を下げた男たちがやってきて、サッシャは車に押しこまれた。
 一緒に暮らしている詩人で『彼氏』のミーシャ…ミハイル・スヴァチェンコも一緒に連れていかれた。
 警察署の門をくぐり、車から降ろされると二人は引き離され別々に護送され、それっきり二度と会うことはなかった。

 それ以来、サッシャは収容所にいた。
 シベリヤの奥地、永久凍土に覆われたコルィマの鉱山で、また森の奥の開拓地で。
 同じように各地から連れてこられたと思しき男たちと、重い労働を課せられていた。
 どのくらいの月日が経ったろう。
 そこに、降ってわいたような『役者として復帰せよ』の命令だ。
 ボロボロの服をまとい、瘦せ衰え垢としらみだらけのサッシャは風呂に入れられ、衣服を与えられ、栄養のある豊かな食事を与えられた。
 飢えに慣れた胃袋は最初高カロリーな食べ物を受け付けず、夢にまで見た肉やチーズ、白いパンを吐き戻してしまったが、収容所の看守や秘密警察職員が血相を変えて口に詰め込んだ。
 まるで出荷する前の家畜だ。
 そう、彼は鉄道で撮影地までの長い旅をしている間に、体格を『恰幅よく』整えなければならないのだ。
『同士スターリン』を役者として演じるために。

「なんでもずっと重労働についていた役者らしいが、風格と演技は確かだそうだよ」
 サッシャ・パナーリンという名前、そして『重労働に従事』
 映画の撮影スタッフは、送られてくる第二のスターリンについて、それ以上詮索するのをやめた。
 ともかく映画が無事撮影終了すればいい。
 カスピ海での英雄的労働をスターリンが認め満足するという、『社会主義的リアリズムに満ち溢れた』くそみたいな映画を。

 彼が着いたら打ち合わせをしてさっそく撮影再開だ。
 役者も技術者もプロデューサーも、早く終わらせて都市のスタジオに帰りたい。それだけを考えていた。
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