第13話 彼の恋人
文字数 2,552文字
サッシャはずいぶん瘦せた気がする。
細身でしなやかな肉体美の舞台俳優だが、父の患者になったころはあまり売れているとは言えなかった。
父は外科の権威、同時に冷静かつ豪放磊落な性格で、患者の相談に乗るうちに精神科の勉強も始め、そちらのほうでも有名になった。
いつもモスクワの大学付属の病院で診察を行っていたが、近くの国立映画撮影所にも呼ばれ、役員や監督たち、役者たちの心の健康相談も受けるようになった。
その一人が地方から出てきた彼、若い役者サッシャだった。
彼は当時すでに有名だった演出家兼詩人のアナトーリと恋に落ち、その付き人・パートナーとして一緒に暮らしていた。
アナトーリは戦前、政府の意向でイラクやアフガニスタンなどに出向し、現地の映画人への指導も行ったらしい。
父は僕ら家族に仕事のこと、ましてや患者のことを教えることはなかったが、病院の看護士や生徒たちから漏れ伝わってしまうので、僕も固く口を閉じたま、情報だけ耳に入れるようにした。
いずれ災いが降りかかってきたときの、心の準備のために。
他の国のことは知らないが、この国では突然『お上』から降ってくる災いや理不尽が多いのだ。
僕の家も知らないうちに危うい立場になったのだろう。
父はユダヤ系ロシア人で、大学教授陣の序列でも上のほう、まして政界にも近かったから大いに嫉まれていたようだ。
加えて、恋人の詩人兼演出家の、本妻との家庭の話を寝物語に聞いた俳優サッシャが、怒りに駆られて撮影所出入りの思想指導員に『演出家アナトーリが言っていたあること』を耳打ちしたらしい。
撮影所の休みが少ないこと、給料が安いこと、家族と一緒に住む住宅が狭いこと等、ささやかな愚痴だったのだが、指導員から担当の党員、職場の委員会、地区の委員会と伝えられるにつれ話が盛大に膨らんだ。
当局の耳に入るころにはアナトーリは『撮影所内での不満分子を集めたサボタージュを計画する外国のスパイ』『反体制分子』「蔑むべき扇動者」という肩書になっていった。
たちまち彼は砂漠に覆われた衛星国にとばされ、そこの地方劇団の座長に据えられた。
呆然としているうちに町の道路で、ブレーキも踏まずに突っ込んできた大型トラックにひかれて死んだ。
数週間後、密告したサッシャも別の役者から、外国の本を読み不埒な思想を周囲に振りまく思想スパイと告げ口され、こちらもグラーグに送られた。
ふたりから同時にカウンセリング依頼を受け、施術していた父もまたNKVDに連れていかれたというわけだ。
僕がなぜそんな事情を知っているかというと、演出家が飛ばされたとき、後悔で半狂乱になったサッシャが何度も僕の家に駆けこんできたからだ。
僕のせいだ、彼は悪くない。僕の嫉妬のせいだけなんだ。なのに当局は聞いちゃくれない。先生の力で助けてほしいと。
父も断ればよかったんだ、そんな犬も食わない話。
なのにくそ真面目に話を聞いてやるから、巻き込まれるのだ。
でも、そんな父を僕はちよっぴり『やっちまったんだな』と思う。
スパイの子、裏切り者の家族と罵られ、顔がゆがむほど殴られたり歯を折られたり、倒れたところに小便をひっかけられるリンチを受けても、僕はそんな父を呪う気にはならない。
正直な話、かっこいいことを言いたくても、自分の身を守るのが第一で、お人よしのくそったれ父のことなんか頭からすっ飛んでいた、というのが本当の話だ。
「スターリンが死んだ。この目で見たんだ」
「いや、あれはお芝居の上でのことだ。とり違えるなよ」
同士スターリン、この地に勲章を授けにやってきてくれた偉大なる指導者が死んだという噂は、島の人という人が集まるいたるところでささやかれていた。
大都市では目をつぶり、耳をふさぎ、自分の身を守るために心を閉じ、一切の情報を遮断するのが日常になっているのだが、このカスピ海の小さな島ではそこまで厳しい状況ではないのだろう。
映画の撮影に関わった青年たちや党員が火消しに掛かっているようだが、人の口を針と糸で縫い留めることはできない。
青帽子の奴らが警備車両からわらわらと出てきて、片っ端から逮捕していく、という事態も起こらなそうだ。
人々は素直に興奮してああだこうだと騒いでいるのだ。
替えの役者サッシャが着いているのに撮影はなかなか再開しない。
「おうお前、メイクも衣装も済んでいるんだから、ちょっとその辺に姿を見せてみんなを鎮めて来いよ」
「そうだよ。せっかく国内屈指のスターリン役者なんだから、群衆の目をだまくらかすくらいできるだろ」
監督やプロデューサーと思しき偉そうな声が、支度小屋の周りに張り巡らせたカーテンの蔭から聞こえた。
ぽつりぽつりと反論するサッシャの声が聞こえてきた。
ああ、変わらない。父に話を聞いてもらっているときの、消え入りそうな自信のない声。
スクリーンや舞台で見た堂々たる態度、腹の底から響く声や言葉とまったく別人のようだった。
「お前、自分に反論する権利があると思っているのか?」
いつもはほんわかしているプロデューサーの、凄みのある声が響いた。
しばしの沈黙が流れる。
帳の蔭でこっそり聞いている奴がいるとは、誰も気づいていないようだ。
「……わかりました。同志アレクセイ」
サッシャの消沈した声がかすかに聞こえた。
「じゃ、もう少し後で群衆の前に出るぞ。姿を現して、ゆっくりと見まわして、威厳をもって右手を振る。それだけだ」
監督セルゲイ・イワノビッチのせわしない口調。
この男は大祖国戦争中はニュース映像を撮っていたカメラマンだったという。
取材していたパルチザンの子供兵士が、目の前で処刑されて以来、カメラをのぞくのが怖くなったと、昨日スケジュール係のフョードル氏にこぼしていた。
「……そろそろ」
プロデューサーの言いかけた声は、建物の奥から鳴り響く電話の音と、それをとって彼を呼びだす監督見習いイゴールの声でぶった切られた。
いらいらと電話を替わったプロデューサー・アレクセイの口調はすぐにひきつったうめき声になった。
「中止だ。サッシャの顔見世は中止!!」
ざわつくスタッフたちの息吹を、彼の抑えた叫び声が圧した。
「同士スターリンが死んだ。本物だ。撮影は中止!!!」
細身でしなやかな肉体美の舞台俳優だが、父の患者になったころはあまり売れているとは言えなかった。
父は外科の権威、同時に冷静かつ豪放磊落な性格で、患者の相談に乗るうちに精神科の勉強も始め、そちらのほうでも有名になった。
いつもモスクワの大学付属の病院で診察を行っていたが、近くの国立映画撮影所にも呼ばれ、役員や監督たち、役者たちの心の健康相談も受けるようになった。
その一人が地方から出てきた彼、若い役者サッシャだった。
彼は当時すでに有名だった演出家兼詩人のアナトーリと恋に落ち、その付き人・パートナーとして一緒に暮らしていた。
アナトーリは戦前、政府の意向でイラクやアフガニスタンなどに出向し、現地の映画人への指導も行ったらしい。
父は僕ら家族に仕事のこと、ましてや患者のことを教えることはなかったが、病院の看護士や生徒たちから漏れ伝わってしまうので、僕も固く口を閉じたま、情報だけ耳に入れるようにした。
いずれ災いが降りかかってきたときの、心の準備のために。
他の国のことは知らないが、この国では突然『お上』から降ってくる災いや理不尽が多いのだ。
僕の家も知らないうちに危うい立場になったのだろう。
父はユダヤ系ロシア人で、大学教授陣の序列でも上のほう、まして政界にも近かったから大いに嫉まれていたようだ。
加えて、恋人の詩人兼演出家の、本妻との家庭の話を寝物語に聞いた俳優サッシャが、怒りに駆られて撮影所出入りの思想指導員に『演出家アナトーリが言っていたあること』を耳打ちしたらしい。
撮影所の休みが少ないこと、給料が安いこと、家族と一緒に住む住宅が狭いこと等、ささやかな愚痴だったのだが、指導員から担当の党員、職場の委員会、地区の委員会と伝えられるにつれ話が盛大に膨らんだ。
当局の耳に入るころにはアナトーリは『撮影所内での不満分子を集めたサボタージュを計画する外国のスパイ』『反体制分子』「蔑むべき扇動者」という肩書になっていった。
たちまち彼は砂漠に覆われた衛星国にとばされ、そこの地方劇団の座長に据えられた。
呆然としているうちに町の道路で、ブレーキも踏まずに突っ込んできた大型トラックにひかれて死んだ。
数週間後、密告したサッシャも別の役者から、外国の本を読み不埒な思想を周囲に振りまく思想スパイと告げ口され、こちらもグラーグに送られた。
ふたりから同時にカウンセリング依頼を受け、施術していた父もまたNKVDに連れていかれたというわけだ。
僕がなぜそんな事情を知っているかというと、演出家が飛ばされたとき、後悔で半狂乱になったサッシャが何度も僕の家に駆けこんできたからだ。
僕のせいだ、彼は悪くない。僕の嫉妬のせいだけなんだ。なのに当局は聞いちゃくれない。先生の力で助けてほしいと。
父も断ればよかったんだ、そんな犬も食わない話。
なのにくそ真面目に話を聞いてやるから、巻き込まれるのだ。
でも、そんな父を僕はちよっぴり『やっちまったんだな』と思う。
スパイの子、裏切り者の家族と罵られ、顔がゆがむほど殴られたり歯を折られたり、倒れたところに小便をひっかけられるリンチを受けても、僕はそんな父を呪う気にはならない。
正直な話、かっこいいことを言いたくても、自分の身を守るのが第一で、お人よしのくそったれ父のことなんか頭からすっ飛んでいた、というのが本当の話だ。
「スターリンが死んだ。この目で見たんだ」
「いや、あれはお芝居の上でのことだ。とり違えるなよ」
同士スターリン、この地に勲章を授けにやってきてくれた偉大なる指導者が死んだという噂は、島の人という人が集まるいたるところでささやかれていた。
大都市では目をつぶり、耳をふさぎ、自分の身を守るために心を閉じ、一切の情報を遮断するのが日常になっているのだが、このカスピ海の小さな島ではそこまで厳しい状況ではないのだろう。
映画の撮影に関わった青年たちや党員が火消しに掛かっているようだが、人の口を針と糸で縫い留めることはできない。
青帽子の奴らが警備車両からわらわらと出てきて、片っ端から逮捕していく、という事態も起こらなそうだ。
人々は素直に興奮してああだこうだと騒いでいるのだ。
替えの役者サッシャが着いているのに撮影はなかなか再開しない。
「おうお前、メイクも衣装も済んでいるんだから、ちょっとその辺に姿を見せてみんなを鎮めて来いよ」
「そうだよ。せっかく国内屈指のスターリン役者なんだから、群衆の目をだまくらかすくらいできるだろ」
監督やプロデューサーと思しき偉そうな声が、支度小屋の周りに張り巡らせたカーテンの蔭から聞こえた。
ぽつりぽつりと反論するサッシャの声が聞こえてきた。
ああ、変わらない。父に話を聞いてもらっているときの、消え入りそうな自信のない声。
スクリーンや舞台で見た堂々たる態度、腹の底から響く声や言葉とまったく別人のようだった。
「お前、自分に反論する権利があると思っているのか?」
いつもはほんわかしているプロデューサーの、凄みのある声が響いた。
しばしの沈黙が流れる。
帳の蔭でこっそり聞いている奴がいるとは、誰も気づいていないようだ。
「……わかりました。同志アレクセイ」
サッシャの消沈した声がかすかに聞こえた。
「じゃ、もう少し後で群衆の前に出るぞ。姿を現して、ゆっくりと見まわして、威厳をもって右手を振る。それだけだ」
監督セルゲイ・イワノビッチのせわしない口調。
この男は大祖国戦争中はニュース映像を撮っていたカメラマンだったという。
取材していたパルチザンの子供兵士が、目の前で処刑されて以来、カメラをのぞくのが怖くなったと、昨日スケジュール係のフョードル氏にこぼしていた。
「……そろそろ」
プロデューサーの言いかけた声は、建物の奥から鳴り響く電話の音と、それをとって彼を呼びだす監督見習いイゴールの声でぶった切られた。
いらいらと電話を替わったプロデューサー・アレクセイの口調はすぐにひきつったうめき声になった。
「中止だ。サッシャの顔見世は中止!!」
ざわつくスタッフたちの息吹を、彼の抑えた叫び声が圧した。
「同士スターリンが死んだ。本物だ。撮影は中止!!!」