第7話 アーニャのハンカチ
文字数 2,572文字
1937年早春
草原から遠くの山々のふもとに向けて、一本の鉄路が伸びている。
アーニャの記憶の中には、その鉄道線路が強烈な思い出となって残っている。
日に何度か轟音を立てて山の中へ通り過ぎていく長い蛇のような列車。
時計の読み方を知らない彼女でも、おおよその通過のころ合いは分かった。
赤ん坊のころから、父や母や、モスクワに住んでいてたまに帰ってくる母の姉に背負われて、黙々と煙を上げて爆走する姿を眺めていたのだ。
汽車が通過しない間は周囲に咲き乱れるキンポウゲの花を摘んだり、羊の群れに混ざったり、草の先っぽまでつつと歩き、端まで登っては飛び立つテントウムシを眺めたりして過ごしたものだ。
夕暮れのカフカスの山あいの空間に、犬の遠吠えやこずえのそよぎに交じって、低く重い列車の車輪の音が差し込んでくる。
線路の周りはからからに乾いて埃を噴き上げる粘土のような土と、まばらにおかれた小石。
そこに、もうもうと煙を上げながら突進してくる巨大な列車。
それは野生のクマのように力強く、近くで見ている自分のような子供がいても少しも早さを緩めることなく突っ込んでくる。
アーニャの視野に機関車の顔と煙がいっぱいに迫りつつあるころ、ようやく猛々しく汽笛が鳴らされる。
耳を圧する空気の波は、自分に向かって咆哮する野生動物の猛りかと思えた。
アーニャは走って線路から離れ、赤い鉄さび色の地面に転がった。
列車は幼女の前を通り過ぎ、川に掛かる鉄橋に差し掛かった瞬間、列車の中からばあんと音がして、大小の木片が外に飛び散り、黒い人影が車両から身を乗り出した。
上着か何かが中から引っ張られているようだったが、そのまま身を躍らせて鉄橋の隙間から川に落ちた。
ボチャンと小さな水音がして、白波を立てる川の急流の中で、水黒い人影は二転三転と回り、動かなくなった。
列車は轟音と共に通り過ぎて行った。
アーニャは恐ろしくなり、急いで走って家に向かった。
何も見なかった。
何もなかった。
ただいつものように、山の強制労働現場に囚人を連れてゆく列車が過ぎていっただけだ。
川から岸に這い上がった少年は、明るい淡い色の髪に空と同じの色の目をしていた。
彼は足を引きずり、骨折した肩を抑えてよろよろと歩き出した。
もうすぐ日が暮れる。近くの詰所から秘密警察の奴らが自分を探しに、あるいは始末しに来るだろう。
でも、カフカスの山の中の鉱山で、殴られ拷問を受けながら、死ぬまで働かされるのは嫌だ。
たとえ残された時間が数時間、いや数十分だろうと逃げてやる。
もしかしたら神の奇跡が起こるかもしれない。
ああ神様。
街の神学校の司祭は革命の後でチェーカに殺されてしまったけど、天国には行けたのだろうか。
一足早く捕まった父と母と兄は、まだ生きて苦しんでいるんだろうか。
折れた足を引きずり、彼が迷い込んだのは大地の隅っこ、森のはずれの墓地だった。
新しく盛られた土饅頭に粗末な木の墓標、ただ地面に置かれた無機質なプレート、古式ゆかしい立派な十字架。
少年は掘りかけらしき墓穴の、積み重ねられた土の蔭に身を横たえた。
虫の羽音がぶんぶんと響いている。
ハナアブか、埋葬された死体の匂いを嗅ぎつけてきたハエか。
じきに自分も奴らの手に掛かって殺され、ハエたちの餌になるんだろうか。
嫌だ。怖い、いやだ。
先月までは、自分たちがこんな目に合うとは思ってもいなかった。
アパートの居室に、青い帽子の奴らが銃を構えて押し入ってくるまでは。
誰かがこちらを見ている。
背高くとげだらけの葉を茂らせたアザミの株の向こうから。
彼は起き上がろうとしたが、手足を負った痛みで力が残っていなかった。
待てよ。
追っ手じゃない。幼い女の子だ。
地べたに腹ばいになって、頬杖をついてこちらを見ている。
女の子はじりじりと這って、もうすぐ少年の手が届くというところまできた。
幼女は何も言わず、ポケットから硬いパンのひとかけらを取り出すと、地面に草の葉をむしって、その上に置いた。
やや時間をおいて、少年は手を伸ばそうとしたが、折れた激しく痛み、届かない。
女の子は近づいてパンを彼の顔の横に置いた。
そして木の器に入れた、まだ温かい羊の乳をカバンから出した。
少年はたいそう苦労をして、痛い思いをこらえ、体を起こした。
動くほうの手でパンをつかむと、夢中でかじりつき、飲み下した。
羊の濃い匂いのする乳でのどを潤すと、ようやく恐怖が形になって襲ってきた。
この子の後ろから、青い帽子の奴ら…NKVDが立ち上がり、自分に向けて撃ってくる。
そんなビジョンが夕暮れの闇と共に襲ってくる。
少年は体を縮めて草の蔭ににじり寄った。
折れたほうの手首に、柔らかい指が触れた。
さっきの幼い女の子が、自分の傍らに座り、一生懸命傷に布を巻こうとしていた。
小さな指で結び目を作り、きゅっと引き絞ると、それは不格好ながらも立派な包帯だった。
女の子は白い歯を見せにこりとすると、ゆっくりと立ち上がり、薄明りの夕日の中に消えていった。
遠くに人家の明かりが見える。
飢えとのどの渇きは少しはしのぐことができた。
ありがたい。
あとは夜の闇に紛れて少しでも逃げなければ。
アーニャは満足だった。
困った人がいたら助けてあげなさい。
そうパパやママに何度も言われた教えを実践できた。
同士スターリンに逢ったあとにもらった、立派な子しかもらえないハンカチを、けがした人に巻いてあげたけど、ちっとも惜しくはなかった。
夜、墓地からあまり離れていない森の中に、何発もの銃声が響き渡った。
次の日の昼間だった。
アーニャの家に青い帽子の兵士たちと警察の男たちがやってきて、両親が連れだされた。
両親が家に戻ることはなかった。
輸送列車から脱走した「政治犯」を匿い手当てをしたとして処刑されたのだ。
アーニャはモスクワに住む母方の叔母に引き取られ、名を変えて育てられたが、兄のセルゲイは『国民の敵』の子供たちが収容された孤児院で死んだ。
家から連れ出される瞬間、恐怖で目を大きく開け振り返った父と母の「ヤーコフ!
アーニャ!」という叫びを忘れることなく、彼女はモスクワの学校で演技を学び、映画の子役募集に応募し、撮影に参加したのだった。
草原から遠くの山々のふもとに向けて、一本の鉄路が伸びている。
アーニャの記憶の中には、その鉄道線路が強烈な思い出となって残っている。
日に何度か轟音を立てて山の中へ通り過ぎていく長い蛇のような列車。
時計の読み方を知らない彼女でも、おおよその通過のころ合いは分かった。
赤ん坊のころから、父や母や、モスクワに住んでいてたまに帰ってくる母の姉に背負われて、黙々と煙を上げて爆走する姿を眺めていたのだ。
汽車が通過しない間は周囲に咲き乱れるキンポウゲの花を摘んだり、羊の群れに混ざったり、草の先っぽまでつつと歩き、端まで登っては飛び立つテントウムシを眺めたりして過ごしたものだ。
夕暮れのカフカスの山あいの空間に、犬の遠吠えやこずえのそよぎに交じって、低く重い列車の車輪の音が差し込んでくる。
線路の周りはからからに乾いて埃を噴き上げる粘土のような土と、まばらにおかれた小石。
そこに、もうもうと煙を上げながら突進してくる巨大な列車。
それは野生のクマのように力強く、近くで見ている自分のような子供がいても少しも早さを緩めることなく突っ込んでくる。
アーニャの視野に機関車の顔と煙がいっぱいに迫りつつあるころ、ようやく猛々しく汽笛が鳴らされる。
耳を圧する空気の波は、自分に向かって咆哮する野生動物の猛りかと思えた。
アーニャは走って線路から離れ、赤い鉄さび色の地面に転がった。
列車は幼女の前を通り過ぎ、川に掛かる鉄橋に差し掛かった瞬間、列車の中からばあんと音がして、大小の木片が外に飛び散り、黒い人影が車両から身を乗り出した。
上着か何かが中から引っ張られているようだったが、そのまま身を躍らせて鉄橋の隙間から川に落ちた。
ボチャンと小さな水音がして、白波を立てる川の急流の中で、水黒い人影は二転三転と回り、動かなくなった。
列車は轟音と共に通り過ぎて行った。
アーニャは恐ろしくなり、急いで走って家に向かった。
何も見なかった。
何もなかった。
ただいつものように、山の強制労働現場に囚人を連れてゆく列車が過ぎていっただけだ。
川から岸に這い上がった少年は、明るい淡い色の髪に空と同じの色の目をしていた。
彼は足を引きずり、骨折した肩を抑えてよろよろと歩き出した。
もうすぐ日が暮れる。近くの詰所から秘密警察の奴らが自分を探しに、あるいは始末しに来るだろう。
でも、カフカスの山の中の鉱山で、殴られ拷問を受けながら、死ぬまで働かされるのは嫌だ。
たとえ残された時間が数時間、いや数十分だろうと逃げてやる。
もしかしたら神の奇跡が起こるかもしれない。
ああ神様。
街の神学校の司祭は革命の後でチェーカに殺されてしまったけど、天国には行けたのだろうか。
一足早く捕まった父と母と兄は、まだ生きて苦しんでいるんだろうか。
折れた足を引きずり、彼が迷い込んだのは大地の隅っこ、森のはずれの墓地だった。
新しく盛られた土饅頭に粗末な木の墓標、ただ地面に置かれた無機質なプレート、古式ゆかしい立派な十字架。
少年は掘りかけらしき墓穴の、積み重ねられた土の蔭に身を横たえた。
虫の羽音がぶんぶんと響いている。
ハナアブか、埋葬された死体の匂いを嗅ぎつけてきたハエか。
じきに自分も奴らの手に掛かって殺され、ハエたちの餌になるんだろうか。
嫌だ。怖い、いやだ。
先月までは、自分たちがこんな目に合うとは思ってもいなかった。
アパートの居室に、青い帽子の奴らが銃を構えて押し入ってくるまでは。
誰かがこちらを見ている。
背高くとげだらけの葉を茂らせたアザミの株の向こうから。
彼は起き上がろうとしたが、手足を負った痛みで力が残っていなかった。
待てよ。
追っ手じゃない。幼い女の子だ。
地べたに腹ばいになって、頬杖をついてこちらを見ている。
女の子はじりじりと這って、もうすぐ少年の手が届くというところまできた。
幼女は何も言わず、ポケットから硬いパンのひとかけらを取り出すと、地面に草の葉をむしって、その上に置いた。
やや時間をおいて、少年は手を伸ばそうとしたが、折れた激しく痛み、届かない。
女の子は近づいてパンを彼の顔の横に置いた。
そして木の器に入れた、まだ温かい羊の乳をカバンから出した。
少年はたいそう苦労をして、痛い思いをこらえ、体を起こした。
動くほうの手でパンをつかむと、夢中でかじりつき、飲み下した。
羊の濃い匂いのする乳でのどを潤すと、ようやく恐怖が形になって襲ってきた。
この子の後ろから、青い帽子の奴ら…NKVDが立ち上がり、自分に向けて撃ってくる。
そんなビジョンが夕暮れの闇と共に襲ってくる。
少年は体を縮めて草の蔭ににじり寄った。
折れたほうの手首に、柔らかい指が触れた。
さっきの幼い女の子が、自分の傍らに座り、一生懸命傷に布を巻こうとしていた。
小さな指で結び目を作り、きゅっと引き絞ると、それは不格好ながらも立派な包帯だった。
女の子は白い歯を見せにこりとすると、ゆっくりと立ち上がり、薄明りの夕日の中に消えていった。
遠くに人家の明かりが見える。
飢えとのどの渇きは少しはしのぐことができた。
ありがたい。
あとは夜の闇に紛れて少しでも逃げなければ。
アーニャは満足だった。
困った人がいたら助けてあげなさい。
そうパパやママに何度も言われた教えを実践できた。
同士スターリンに逢ったあとにもらった、立派な子しかもらえないハンカチを、けがした人に巻いてあげたけど、ちっとも惜しくはなかった。
夜、墓地からあまり離れていない森の中に、何発もの銃声が響き渡った。
次の日の昼間だった。
アーニャの家に青い帽子の兵士たちと警察の男たちがやってきて、両親が連れだされた。
両親が家に戻ることはなかった。
輸送列車から脱走した「政治犯」を匿い手当てをしたとして処刑されたのだ。
アーニャはモスクワに住む母方の叔母に引き取られ、名を変えて育てられたが、兄のセルゲイは『国民の敵』の子供たちが収容された孤児院で死んだ。
家から連れ出される瞬間、恐怖で目を大きく開け振り返った父と母の「ヤーコフ!
アーニャ!」という叫びを忘れることなく、彼女はモスクワの学校で演技を学び、映画の子役募集に応募し、撮影に参加したのだった。