第5話 スターリンという『役目』

文字数 2,821文字

「ミハイル・シュイスキー、到着したらすぐにカメラを回すぞ」
「わかった。メイクはそれまでに、完璧にしておくよ」

揺れる専用車の中、白い軍服姿の『同志スターリン』は、鏡に向かっていた。
顔にいろんなものを塗りたくるのに余念がない。
ドーランを厚く塗り、首と手にも化粧を施し、しわやシミを描く。
ヨゼフ・ヴィザリオノヴィッチは子供のころかかった伝染病で、顔に発疹の跡が残っていた。
そっくり同じ個所に『あばた』を作りこむのは欠かせない作業である。
自分はソビエト各地で舞台俳優をやっていたから、メイクを駆使した変身と体型をカバーする補正、そして演技はプロフェッショナルだ。
ただ、口元は髭と口の中に入れた綿でごまかせるが、耳や鼻の形だけは補えない。
ソビエト連邦芸術家が作った、同士スターリンに似せた形のつけ鼻と耳を装着し、境目をメイクで塗りつぶすしかない。
聞いたところによると、同志スターリンの影武者は自分を含め数人いるらしい。
政治の場や民衆へのお目見えなどの際に、交代でなり替わる。これはとても重大な任務だ。
なにしろ偉大なる指導者は常に外国のスパイや犯罪者、ごろつきに命を狙われているから。
スターリンの命を守るためにも、それら『鳥の目を持つ者たち』の分析を欺けるほどの演技をしなければならない。

彼ミハイル・シュイスキーたちが務めているのは、映画における『ヨシフ・ヴィザリオノヴィッチ』の代役だ。
これは彼を含めて3人いる、ということが分かっている。
ひとりはスターリンと同郷で、訛りやアクセントまで完璧に再現することができる、まだ若い(確か20代と聞いた)男優。
そしてモスクワ出身の自分。
もうひとり、ユダヤ系の影武者がいるという話だが、その男のことは一度も目にしたことはない。

自分はつい先ごろまで、ミンスクのスタジオ制作の大祖国戦争の英雄を描いた映画に『スターリンとして』降臨していたが、そちらの撮影が長引いたので、ここダゲスタンの離れ小島に来るのが遅くなってしまった。
エキストラとして参加する島の人々や漁業コルホーズの面々、子役たちには『同士スターリンが視察ついでに来てくれる』と伝えられているという。
ならば、このロケバスから一足降りた瞬間から、同士スターリンになりきらなくてはいけない。
今回撮るのは『港近くの工場に現れて、英雄的働きをした工員に記念のバッジを与える』というシーンだけだ。

「ミハイル・シュイスキー、そろそろ到着するぞ」
「わかった。こちらも準備はできている」

よし。カメラが回りだした。自分の心のカメラが。
ミハイル、この車を出て日の光の下に出るときは、国の希望、偉大なる党指導者ヨセフ・ヴィザリオノヴイッチ…スターリンだ。
車が止まった。
スターリン役者ミハイルは、帽子を整え髭を撫でつけ、立ち上がった。
ドアが開く。
カスピ海沿岸地方の、まぶしくぎらつく冬の陽だ。
島の人たちが幾人か、ぎょっとした顔でこちらを向き、慌てて建物の陰に隠れる。
警備兵の扮装をし、作り物の銃を下げた若い役者たちが周りを固め、仰々しく歩き出す。
埃と砂が渦巻く島の駐車場の、ロケ車から現れた『同士スターリン』は威厳に満ちた笑みを浮かべながら、ゆっくりと港の桟橋へと歩みを進めた。
途中小石と砂利に足を取られそうになるのをこらえながら。

「同士スターリンだ」
その一声で十分だった。
白の軍服とブーツ、そしてやや小柄な体を丈高く見せる帽子。
警備兵に囲まれながら、スターリンがやってくる。
僕たちの島に、同士スターリンが。

島の主要な役職者や、映画撮影のコーディネートにあたった者たちは、みんな知っている。
いま港の駐車場でロケ車を降りて、大チョウザメが水揚げされる漁船の待つ桟橋へ、ゆっくりと歩みを進めている人物が「影武者」いわゆるそっくりさんであることを。
モスフィルム所属のプロのスターリン役者ミハイル・シュイスキー。
だがエキストラとして参加している大半の島の人たちや、子役、他の地区からの下級役人などはみな圧倒され、畏れている。
大きな声では言えないが、町の党の役員や指導者が次々と姿を消し、戻ってこない。家族も捕まりどこかへ送られてしまっている。
その「取り締まり」の最高責任者、国民の生死を握っている大審判者。
その人物がこちらに迫っているような、妙な心地悪さが全身を駆け巡るのだ。

こんな時でも監督は冷静だ。
「同士スターリン、工場の青年と女工と並んで、こっちを向いてください」
女工役の女優かしまし屋のマーシャと、カチコチになった本物の缶詰工が並び、スターリンを迎える。
後ろの船上では、ロープに括り付けたオオチョウザメが、ぎりぎりとロープと滑車で釣り上げられていく。
「そうだ、ゆっくり同志スターリンの背後にサメを…」
カメラはゆっくりとパンアップする。
ロープの位置は万全。
桟橋に横付けされたクレーン車が、船の上から巨大すぎるチョウザメを吊り上げ、スターリンたちの後ろに降ろす算段だ。
その大きさたるや、巨大な砲弾か小型潜水艦のよう。
微笑みながら歓声にこたえる大指導者。
そしてほほを赤らめてお褒めにあずかる、英雄的働きを見せたキャビア缶詰工場の工員たち。
チョウザメを背に、彼らが向かい合い、畏れ多くも直に言葉を受ける

バシュッという音
発射機から放たれた銛がチョウザメを吊り下げたロープを断ち切った。
……その瞬間、サメが空から降ってきた
逃げる間もなく、巨大な口が「スターリン」の体を一飲みし、1トンを超える自重で押しつぶした。
隣の女優と工員も、倒れてきた巨大な胴体の下敷きになり、声一つなく潰れた。
悲鳴、絶叫、我先に逃げようとパニックに陥る群衆。
「スターリンが死んだ !!
「同士スターリンが死んだ、俺たちも殺されるぞ !」
一度タガが外れた群衆は、恐怖に背を押されるあまり、海に飛び込み逃げようとする者までいた。

「カメラを止めろ、止めるんだ」
警察も、映画省の役人もまだ来ていない。
撮影中の事故だ、よくあることだ。それが「同士スターリン」のそっくりさん役者だったということだ。
粛清されは……しないと思う。
監督は混乱する頭で、スタッフに命じてサメを除けようと踏ん張った。
しかし何という血だ。
ただでさえ滑りやすい桟橋と岸壁が、飛び散った内臓と血でぬるぬるしている。
その光景と血の臭気に耐えかね、照明の青年が四つん這いになって吐いている。
子役たちは泣き叫んで収拾がつかない。
そこに野太い怒鳴り声が響いた。
「犯人がいたぞ。銛銃でロープをぶった切ったやつらがいたぞ」

工場の古い物入れの二階に、人々が殺到した。
撮影陣が駆け寄った時、大勢の工員たちに囲まれて、少年と少女がゲラゲラと笑っていた。
「大丈夫だよ。逃げないよ」
少年が澄んだ目で大人たちを見上げて言った。
「あたしたち死ぬんでしょう。同士スターリンを殺しちゃったから。そうでしょ」
あどけない顔の少女が弾んだ声で叫んだ。
その手は古びて破棄された、銛銃の銃身に掛かっていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み