第15話 イワンのノート

文字数 2,914文字

 島を脱出した僕、アーニャ、ユーリーの3人は対岸の砂地に船を乗り上げると、走って逃げた。
 チェチェン島のすぐ南、アグラハン半島と呼ばれている地だ。
 まだ誰も追っては来ないが、これからどこでどう捕まるかわからない。
「逃げよう」
「でもどこへ」
 何度かめの言葉を交わした先に、小さな鉄道の待避線があった。
 一本のレールが二つに分かれ、ゆったりとカーブを描いた真ん中に、長い貨物車が止まっている。
 列車の交換のための乗り降りのない停車場、信号場だ。
 僕らは迷わず一両の貨車に飛び乗った。
 施錠が甘いのか、レールとの振動で緩んでいるのか扉は案外たやすく開いた。
「この列車はどこに行くのかな」
 ユーリーがいつもの困ったような歯の字に眉を傾けて言った。もう癖になっているのだろう。
「きっとモスクワだよ」
 アーニャは楽しみでしょうがないというばかりに息を弾ませている。
 この子は先の見通せない状況が大好きなのだ。

 僕らは貨物の間に身を寄せた。
 ぎっしりと積まれている荷物はおそらく塩だ。カスピ海で生産される塩はこの地域の主要な産物なのである。
「ねえイワンはモスクワにいたんでしょ」
 アーニャが話しかけてきた。
 塩気を含んだ髪が走っている間に風に乱され、小枝のように広がっている。
「そうだよ」
「逃げてきた僕たちが隠れて住むところがあるかな」
 多分無理だよ。身元は調べられると思うよ。クレムリンのお膝元ならなおさらだ。
 口まで出かかった言葉を、僕は飲み込んだ。

 鉄路を走る列車の規則正しい振動に身を任せるうちに、なんだか眠くなってきた。
 広いソビエトのことだ。この列車の終着点はモスクワではないかもしれない。途中で知らない支線に入って、ウラルやタジク、はては北のカレリアの方にまで行く可能性だってあるのだ。
 でも、今はそんなことどうだっていい。
 僕たちは旅に出るんだ。誰も知らない土地で、違う名前を名乗って、架空の親族の話をして。誰からも追われない全くの別人になって、この広い国の片隅で生きるんだ。
 なに、大指導者スターリンが死んだんだ。そのことに大騒ぎで僕たちのことなんか誰も思いださないさ。
 いたずらで事故を誘発し、役者を死なせた馬鹿な奴らがどさくさに紛れて姿を消したって……役人はうまくごまかして報告するさ。
 荷物の間に身を寄せ合って、ぼそぼそと小さな声で話しているうちに、僕たち3人は眠ってしまった。

 貨物列車は何時間走ったのだろう。
 ぷしゅーっと音がし高と思うと、がたんと車両が止まり、その振動で僕らは起きた。
 おなかがすいたね。
 喉も乾いたわ。
 そう、チェチェン島を脱出するときから何も口にしていない。
「何か探してくるよ。ここは無人駅のようだ。まだ当分停まったままだろう」
 僕は貨車の窓を開けて注意深く周囲を見た。
 人家もまばらな典型的な農村だ。ずっと先に小さな駅が見える。
 列車の先頭がそこに停まり、運転手が休憩しているのだろう。
 線路わきの信号は停止を表示している。
「僕はパスチラが食べたい」
 ユーリーが極甘な果物の焼き菓子を欲しがると、アーニャは
「私はプリャーニクが欲しいな」
 こちらも香辛料たっぷりの甘い焼き菓子を所望する。
「イワンは?」
「僕は温かいお茶がいいや」
 サモワールで沸かした熱々のお茶だけが今欲しいものだけど、でもそれが一番難しいかもしれない。
 僕は貨物車の窓から身を躍らせて飛び降りた。

 駅の周囲に何件か家が見える。そこではきっと、鉄道員のための食べ物や飲み物を提供しているに違いない。
 思ったより飛び降りた地点から離れているが、幸いまだ当分列車は動きだしそうにない。
 冬枯れのコーカサスの原野に冷たい風が吹き渡る。
 僕たちはどうなるんだろう。
 サッシャは僕を脅かしたけど、それが死ななければならないような件だったんだろうか。暴力や力の誇示はこの国では正義の発揮のようなものだ。
 だがそんなことを言っていたら、警官や『青帽子の奴ら』に連れていかれ、そのまま帰らない人たちこそ、『その量刑を課せられる』に足ることをしたのだろうか。
 例えば土地の開発に心血を注ぎ、痩せた火山地帯の故郷を観光療養都市として安定させようとしたアーニャの両親や、日本からきて商売に励んでいたユーリーの親や親族。
 そして僕の父親。
 みんな自分たちが置かれた場所で懸命に生きていただけだ。
 大指導者が死んだこの国は、変わっていくのだろうか。それともがちがちに固められた体制で駒がいくつか変わるだけ、このまま緩やかに手足を押さえつけられて過ぎていくのだろうか。

 ブオーッと汽笛が鳴った。
 まさか。
 振り返ると信号は『進め』に変わり、列車がゆっくりと動き出した。
 ユーリーとアーニャの声が聞こえる。
 飛び乗れ、と叫んでいるようだ。
 だが巨大な車輪が次第に早く回転し、列車は速度を増して目の前を通過していった。
 荒野の中にうごめく蛇のように長く続く車両の帯。
 僕は立ち止まって見送った。
 飛び乗ろうという仕草さえ見せなかった。
 年下のふたりは窓から顔を出して、僕を呼んでいるかもしれない。
 どうしていいか分からずに、混乱しているのかもしれない。
 でも、もういい。アーニャとユーリ―、二人いれば子供でもどうにか生きていけるだろう。
 それが『人民民主主義』だ。
 スターリンは死んだというが、この国にはまたきっと次のスターリンが現れる。
 その中で僕も自分を「どうにか」するさ。

 線路に沿ってだらだらと歩き、さっきまで列車が停まっていた駅に着いた。ホームに壊れかけた木造りのベンチがあったので、そこにかけた。
 駅舎には誰もいないらしく、ただ歩いてきて座っているという怪しい自分を見つけて出てくる気配もない。
 僕はポケットから小さなノートを取り出した。
 風は相変わらず冷たく乾いている。だが春は少しずつ近づいているはずだ。
 なぜなら列車の中から見えたスターリンの死を悼む各地の祭礼場には、山ほどの花が供えられているからだ。
 目をつぶると、様々な残像が瞼の裏に沸いては消えた。
 日本からウラジオストックという港町に着いたばかりで緊張したユーリーの一家……
 カフカスの山中の町で、母親とお菓子を作って父親の帰りを待つアーニャ……
 話を聞いただけで、見たことも行ったこともない町の、よく知らない子供と家族の情景が、次々と浮かんできた。
 僕は反対のポケットから、宿舎でくすねた木炭のかけらを取り出した。
 ノートの何も書いていないページ、灰色のざら紙に白いかけらが落ちてきた。
 雪の粒だ。
 濃い藍色の空のどこかに雪雲があるのだろうか。風に乗ってふわふわと髪や服にくっつき、貴重なノートの紙を濡らす。
 僕は構わず、ページにさらさらと木炭を滑らせた。
 カスピ海の海原を滑る小舟、山中のダーチャの台所でお菓子を焼く女の子。沿海州からシベリアへ延びる鉄道に両親や親族と乗り込み、都市での生活―の期待で緊張する少年ユーリー。
 僕は次々と描き出した。
 頭の中の光景の、一つのカットも逃すまいと夢中で木炭を滑らせる。
 そしてページの隅に文字を書き留めた。
「『このこと』を忘れない」と。
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