第6話 アーニャの絵本

文字数 2,338文字

 『彼』の手はとても暖かかった
 銛銃を撃った少女アナスタシア、アーニャは15年前に刻まれた頭のてっぺんの感触を、いまだ忘れられないでいる。
 彼女の隠れた自慢は『同士スターリンに頭を撫でてもらった』ということだけだった。

 アーニャの生まれた町、カフカス山脈の北側にしがみついているような故郷の町は、支配する国によって地域の呼び名がしばしば変わった。
 新しいところでは同志スターリンやミコヤンと古い友人だった人物にちなみ、オルジョキニーゼ地方と呼ばれていたが、大祖国戦争の最中にようやくスタブロポリ地方と定まった。
 アーニャは黒に近い濃い褐色の髪に、黒い瞳の少女だ。
 様々な民族が隣接し交じり合うカフカスの地の娘らしく、何民族と言われても「ああそうか」と納得してしまう、様々な要素が交じり合った容貌をしている。
 だが、党の新聞に載った3歳になる直前の写真では、おかっぱ頭、黒い丸い目に高くはない丸い鼻と、東アジア・モンゴル民族のような雰囲気を醸し出していた。

 アーニャの両親、イーゴリとリュドミラは故郷で党の委員をしていた。
 古くから鉄をはじめとしたミネラル分を多く含んだ温泉が湧きだし、療養地としても人気があったスタブロポリ地方は、保養目的で来る党中央の人々や軍人で栄えた。
 それぞれの町の規模は大きくはなかったが、複数の鉄道が通じ、多くの療養所(サナトリウム)の建設が進んだ。
 それら一連の開発の渦中で献身的に働いたのが、イーゴリとリュドミラの夫婦の委員である。
 おかげで地域の生産は上がり、経済も活気づいた。
 山々から豊富にとれる鉱物資源も、開通した鉄道に乗って周囲の工場地帯に運ばれ、工業製品に使われる。
 スターリンの推奨した重工業化政策にかなうものであった。

 アーニャがまだ幼いとき、党の委員会出席のため両親がモスクワに向かう機会があった。
 赤ん坊がすこし大きくなったばかりの女の子は、両親についていくと駄々をこね、精いっぱいのおめかしをして、祖母の手作りの人形を背負い、鉄道に乗った。
 兄は学校があるので家に残った。
 何日も汽車に揺られて着いたモスクワは、雲が低く、山々の代わりに巨大な箱のようなアパートの群れが町中に建ち、空の縁を隠していた。
 父と母に連れられて大きな建物に入り、(驚くべきことに子供はノーチェックだった) 厳めしい控室のテーブルを囲んだ椅子に座り、何時間も両親を待った。
 持ってきた絵本は飽きるほど読んでしまっていたので、謁見の前日、両親は彼女に新しい絵本を買ってくれた。
 おかっぱ頭に晴れ着を着た幼女は、警備の兵士に付き添われ、スターリンの謁見の部屋に入り込んだ。
 茶色の軍服を着た国防軍、同じような制服だけど帽子のてっぺんが青い兵士たち、じゃらじゃらと重そうな勲章をいっぱいに着けた恰幅のいいおじいさんたち。
 その中に、スターリンがいた。
 宿舎や議会、自宅マンションに飾られている写真や絵の通り、豊かな髪を後ろになでつけ、襟の高い軍服に長靴、威厳ある髭のお顔。
 間違いない。憧れの同士スターリンだ。
 ちょうど両親がスターリンに挨拶をしているとき、彼女は前に進み出て、両親が慌てふためく間も有らばこそ、買ってもらったばかりの絵本をハイと差し出した。
「同士スターリン」
 元気な声で呼びかけたつもりだが、下を向きかがんで顔を近づけたスターリンの、人を射抜くような鋭い目つきにおびえ、声は小さくなった。
「私の大好きな本です。どうぞ大好きなあなたに」
 あわてて襟をつかんで引っ込めようとする父と母を制し、スターリンは目線を緩めた。
「私にこれをくれるのかな? いい子だ」
 ふわりと体が浮き上がり、アーニャの小さな体はスターリンに抱き上げられていた。
 ぷうんとパイプタバコの香りと、汗と少しの血が混じったようなにおいがした。
「本が好きなのかい?」
「はい。大好きです。でも」
 震える手でスターリンの軍服にしがみつきながら、アーニャは精一杯の声を出した。
「ママとパパと、同士スターリンのほうが何倍も好きです」
 まわりの群衆がどっと沸いた。
 カメラマンが周りに群がり、何枚も写真を撮る。フラッシュがまぶしくて、アーニャはスターリンの顔もパパとママの顔もみえなくなった。
 だから、その時両親がどんな顔をしていたのか、全く覚えていない。
 だが、今になって思う。
 きっと誇らしく、うれしく、未来が約束された心地がしただろう。
 だけどほんの少し不安だったろう。
 両親は知らなかったかもしれないが、スターリンの旧くからの仲間には、不審な死を遂げた人物が多かったから。

「たくさん勉強して、パパとママや大人の言うことをよくきいて、りっぱなソビエトの子供になるんだよ」
 スターリンの言葉を夢心地で聞いたアーニャは、両親と宿舎に帰ると、へやのドアをあけて仰天した。
 絵本やおもちゃ、お菓子、上等な子供服、きれいな靴、そして何冊もの絵本がテーブルやベッドを埋め尽くしていたから。

 カフカスの山の奥への帰りの電車は、来る時とは全く扱いが違っていた。
 貴賓室扱いの特別の個室が与えられ、世話係の少年が常に通路のドアの外に待っており、食事もフルコース仕立てだ。
 帰郷した両親とアーニャは英雄扱いだった。
 通りや公園には父や母の名がつけられ、図書館にはアーニャが好きな本のコーナーができた。
 誕生日や記念日には、玄関が埋まるほどの花やプレゼントが、各地の有力者から届き、カスピ海沿岸の町へのリゾート旅行まで手配された。
 みんなみんな、スターリンのおかげ。
 スターリンは私たちの望むことは何でもかなえてくれる。
 幼いアーニャは夢心地に浸った。

 1937年、両親が秘密警察に連れていかれるまでは。
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