第14話 青い海
文字数 2,302文字
一瞬何が起こったのか分からなかった。
けど、撮影関係のスタッフが騒ぎ出し、ついで島民、島の漁業コルホーズで働く労働者と党員たちまでもが島の工場脇広場に集まりだした。
ラジオから『偉大なる指導者』の死を知らせるアナウンスが流れ、群衆の間からすすり泣きや小さな悲鳴が聞こえた。
島外から入荷した「プラウダ」号外を買ってきた者いて、みんなはそれを回し読みした。
3月5日、僕が「スターリンを殺した」と思い込んでいる女の子と男の子と話している日に、スターリンは死んだのだ。
死亡したはずの人物がうろうろしていたのでは話にならない。
サッシャは急いで奥に引っ込められ、偉大なる指導者メイクをすべてふきとられた。
髭をはがし、つけ耳とつけ眉も外され、入念に書き込んだ疱瘡後のあばたもふき取った。
衣装をはぎ取られ、恰幅がいいように見せる肉襦袢も外されたので、痩せたやや貧相な胴体があらわになった。
「適当に、作業服でも着ていろ。建物から出るな」
サッシャは怯えた表情でうなずいていた。
スターリンが死んだ。
映画は中止だ。
撮影隊は技術陣も俳優部もみんな宿舎に拘束された。
だけど、地元の警察も党の委員も、これからどうしたらいいか指示がないのでさっぱりわからないでいるようだ。
勝手な行動をとっては自分だけでなくみんな逮捕されて、文字通り「いない」ことにされてしまう。
エキストラとして撮影に協力した島の労働者たちも、みな家に帰れるわけもなく、指示を待ちざわざわと群れている。
自分の判断で何かする、ということは全く危険なことなのだ。
ようやく全員宿舎に帰れとの『当局からの』命令が下った。
観な偉大なる指導者の喪に服せというのだ。
大人たちは自分の部屋でおとなしくウォッカでも飲んで、もえすぐ催されるであろう国を挙げての葬儀に思いをはせるのだろうが、子供はそうはいかない。
自分たちは大人だと思っていても世間的には子供、という年代が一番危ない。
「本物のスターリンが死んだよ。脳内出血だって」
僕はアーニャとユーリが閉じ込められた部屋の前に戻って、言った。
まわりには他に誰もいない。皆それどころではないのだ。
事故か事件かわからない曖昧な状況で役者を死なせた、この二人のことなんか頭の中から吹き飛んでいるに違いない。
「嘘だろ?」
ユーリが目を向いて睨みつける。
「今度は本物だ。君たちが死なせたのは、映画撮影のために呼んだそっくりさん。何本もの映画でスターリン役を務めた名優だ。でも今報じられているのは、ヨシフ・スターリンその人だ。プラウダにも載っている」
プラウダとは共産党の機関紙で、政府(最高会議と中央執行委員会)の公式誌な新聞「イズベスチヤ」とは異なるが、まあ中身は同じようなものだ。
「じゃどうなるのよ、あたしたちは。ただの役者殺しってこと? 極悪人のスターリンを殺した英雄なのに」
大体ここから間違っている。
人の命の重さは本来等価だ。職業や役職によって変わるべきではない。
でも、視察を兼ねて撮影に足を運んでくれた偉大なる指導者スターリンを殺した、と信じているこの子たちに、そんな風に思いを巡らす術はない。
教えられなかったからだし、叩き込まれたのは逆の原理だ。
彼らの目には、人の命はパン一切れより軽いものと映っているのだろう。
それが他人でも、自分でも。
僕はゆっくりかぶりを振って言った。
「どうする? 君たちをうまく逃がしてあげられると思うけど。君たちを今すぐどうこうとか、面倒になることは大人たちも避けたいだろうし」
「何がうまくいきそうだって?」
すぐ背後で、低いくぐもった声がした。
「この国のどこ身に逃げようっていうんだ?そんなのは無理だ」
僕が逃げようっていうんしどゃない。そう言いながら振り返った僕は、背後にいたサッシャの異様な風体に後ずさった。
彼は頭を坊主に丸め、さらに長い波打つ金髪のかつらをかぶり、スカーフで頭を覆っていた。
地味な毛の上着とスカート、作業用のエプロン。靴下にかかとの低い靴。どこから見ても工場労働の女だ。
「あんたのほうが逃げる気満々じゃないか、その恰好」
「今は逃げはしない。ちょこっとささやきに行くだけだ。青帽子の奴らにね」
青帽子。それはNKVDの制帽だ。
「スターリン役者ということで俺は命ながら得たんだ。そのスターリンが死んだら、俺の価値なんかなくなる。また収容所に戻されるのなんかまっぴらだ」
そのためには、何だってするさ。
そういいおいて去ろうとするサッシャの頭が、パアンという乾いた音と共にザクロのようにはじけた。
糸を切られたマリオネットのように地面に落ちた、かつらの外れた砕けた頭からは、反固形の中身と、バケツをひっくり返したような血があふれ出た。
振り返るとアーニャとユーリが拳銃を持って立っていた。
それは古い、大祖国戦争の前、吐く軍との内戦の時に使われて、そのままなぜか回収されないでいた『遺物』のようだった。
彼らの手の中で暴発しなかったのが不思議だ。
表でも、パンパンと銃の音が聞こえた。空砲だ。兵士たちが弔砲として空に向けて撃っているのだろう。
これで僕らの銃声も目立たない。
アーニャ、ユーリ、そして僕イワンは猟犬に追われるウサギのように走り出した。
人目につかないように海岸を抜け、砂丘を走り、岩陰につないである小さな漁船に乗り込んで、綱を外した。
青い海に、冬の青い空。白い波。
僕らは力いっぱい櫂を動かし、対岸の半島を目指した。
青い海。青い空。そして偉大なる指導者、独裁者、クレムリンの帝王が死んだ。
僕らはどこに着くのだろう。
けど、撮影関係のスタッフが騒ぎ出し、ついで島民、島の漁業コルホーズで働く労働者と党員たちまでもが島の工場脇広場に集まりだした。
ラジオから『偉大なる指導者』の死を知らせるアナウンスが流れ、群衆の間からすすり泣きや小さな悲鳴が聞こえた。
島外から入荷した「プラウダ」号外を買ってきた者いて、みんなはそれを回し読みした。
3月5日、僕が「スターリンを殺した」と思い込んでいる女の子と男の子と話している日に、スターリンは死んだのだ。
死亡したはずの人物がうろうろしていたのでは話にならない。
サッシャは急いで奥に引っ込められ、偉大なる指導者メイクをすべてふきとられた。
髭をはがし、つけ耳とつけ眉も外され、入念に書き込んだ疱瘡後のあばたもふき取った。
衣装をはぎ取られ、恰幅がいいように見せる肉襦袢も外されたので、痩せたやや貧相な胴体があらわになった。
「適当に、作業服でも着ていろ。建物から出るな」
サッシャは怯えた表情でうなずいていた。
スターリンが死んだ。
映画は中止だ。
撮影隊は技術陣も俳優部もみんな宿舎に拘束された。
だけど、地元の警察も党の委員も、これからどうしたらいいか指示がないのでさっぱりわからないでいるようだ。
勝手な行動をとっては自分だけでなくみんな逮捕されて、文字通り「いない」ことにされてしまう。
エキストラとして撮影に協力した島の労働者たちも、みな家に帰れるわけもなく、指示を待ちざわざわと群れている。
自分の判断で何かする、ということは全く危険なことなのだ。
ようやく全員宿舎に帰れとの『当局からの』命令が下った。
観な偉大なる指導者の喪に服せというのだ。
大人たちは自分の部屋でおとなしくウォッカでも飲んで、もえすぐ催されるであろう国を挙げての葬儀に思いをはせるのだろうが、子供はそうはいかない。
自分たちは大人だと思っていても世間的には子供、という年代が一番危ない。
「本物のスターリンが死んだよ。脳内出血だって」
僕はアーニャとユーリが閉じ込められた部屋の前に戻って、言った。
まわりには他に誰もいない。皆それどころではないのだ。
事故か事件かわからない曖昧な状況で役者を死なせた、この二人のことなんか頭の中から吹き飛んでいるに違いない。
「嘘だろ?」
ユーリが目を向いて睨みつける。
「今度は本物だ。君たちが死なせたのは、映画撮影のために呼んだそっくりさん。何本もの映画でスターリン役を務めた名優だ。でも今報じられているのは、ヨシフ・スターリンその人だ。プラウダにも載っている」
プラウダとは共産党の機関紙で、政府(最高会議と中央執行委員会)の公式誌な新聞「イズベスチヤ」とは異なるが、まあ中身は同じようなものだ。
「じゃどうなるのよ、あたしたちは。ただの役者殺しってこと? 極悪人のスターリンを殺した英雄なのに」
大体ここから間違っている。
人の命の重さは本来等価だ。職業や役職によって変わるべきではない。
でも、視察を兼ねて撮影に足を運んでくれた偉大なる指導者スターリンを殺した、と信じているこの子たちに、そんな風に思いを巡らす術はない。
教えられなかったからだし、叩き込まれたのは逆の原理だ。
彼らの目には、人の命はパン一切れより軽いものと映っているのだろう。
それが他人でも、自分でも。
僕はゆっくりかぶりを振って言った。
「どうする? 君たちをうまく逃がしてあげられると思うけど。君たちを今すぐどうこうとか、面倒になることは大人たちも避けたいだろうし」
「何がうまくいきそうだって?」
すぐ背後で、低いくぐもった声がした。
「この国のどこ身に逃げようっていうんだ?そんなのは無理だ」
僕が逃げようっていうんしどゃない。そう言いながら振り返った僕は、背後にいたサッシャの異様な風体に後ずさった。
彼は頭を坊主に丸め、さらに長い波打つ金髪のかつらをかぶり、スカーフで頭を覆っていた。
地味な毛の上着とスカート、作業用のエプロン。靴下にかかとの低い靴。どこから見ても工場労働の女だ。
「あんたのほうが逃げる気満々じゃないか、その恰好」
「今は逃げはしない。ちょこっとささやきに行くだけだ。青帽子の奴らにね」
青帽子。それはNKVDの制帽だ。
「スターリン役者ということで俺は命ながら得たんだ。そのスターリンが死んだら、俺の価値なんかなくなる。また収容所に戻されるのなんかまっぴらだ」
そのためには、何だってするさ。
そういいおいて去ろうとするサッシャの頭が、パアンという乾いた音と共にザクロのようにはじけた。
糸を切られたマリオネットのように地面に落ちた、かつらの外れた砕けた頭からは、反固形の中身と、バケツをひっくり返したような血があふれ出た。
振り返るとアーニャとユーリが拳銃を持って立っていた。
それは古い、大祖国戦争の前、吐く軍との内戦の時に使われて、そのままなぜか回収されないでいた『遺物』のようだった。
彼らの手の中で暴発しなかったのが不思議だ。
表でも、パンパンと銃の音が聞こえた。空砲だ。兵士たちが弔砲として空に向けて撃っているのだろう。
これで僕らの銃声も目立たない。
アーニャ、ユーリ、そして僕イワンは猟犬に追われるウサギのように走り出した。
人目につかないように海岸を抜け、砂丘を走り、岩陰につないである小さな漁船に乗り込んで、綱を外した。
青い海に、冬の青い空。白い波。
僕らは力いっぱい櫂を動かし、対岸の半島を目指した。
青い海。青い空。そして偉大なる指導者、独裁者、クレムリンの帝王が死んだ。
僕らはどこに着くのだろう。