第16話 弔旗を掲げよイワン

文字数 1,083文字

「君、スケッチでもしているのかい、 こんな何もないところで」
 男の張りのある若い声が、すぐ近くで聞こえた。
 僕は反射的にノートを閉じ、胸に抱えて身構えた。
 声の主は殺風景な駅のホームを僕に向かって歩いてくる、さほど背の高くないがっしりとした青年だった。太い首と、気力がみなぎった大きな目が印象的だが、美男子という感じではない。
「いえ、スケッチじゃありません」
 警察か党の人間かもしれない。僕はいつでも逃げられるように腰を浮かした。
「いや、この辺で絵を描くような子は珍しいなあと思ってね。何を描いているの?」
「今までの思い出です」
 青年は近寄って、見せてほしそうに体をかがめた。
 僕はしぶしぶページを開いて木炭で描いた絵を見せた。
「友達の話を聞いて想像して書きました。でもこの続きに何を書くかは、まだ決めていません」
「君は画家になりたいの?」
 僕は黙った。彼はバツが悪そうな笑みを浮かべて、自分から名乗った。
「そう警戒しなくていいよ。僕はミハイル。友人や家族からはミーシャって呼ばれている」
「僕はイワンです。ミハイルさん」
「そうか、イワン。これからは何でも描けるさ」
「そうでしょうか。この国で書くものを自分で決められるようになるか、なんて」
「僕は自分の人生は自分で決める時代が来ると思うよ。今度の『こと』は一つの区切りだと思うんだ。これからモスクワ大学の同級生に逢いに行くんだが、そう。彼女との明るい未来を夢想している」
 いいなあ。この人は。明るい未来が来ると公言できる、その楽観はどこから来るんだろう。街はわけのわからない悲しみ祭り、偉大なる指導者が死んだ不安と嘆きの熱情で溢れているというのに。
「君、これからいくらでも続きを書けるよ。しかも好きに書けるようになるよ」

 おかしいなあ、駅で待ち合わせをしたんだけどラリサが来ない。これは、家まで迎えに行く約束を僕が忘れていたってことかな。
 ミハイル青年はそう呟きながら、ホームから離れて駅舎を出ようとした。
 ふと、この小さな無人駅のどこにも半旗が翻っていないのに気が付いたようだ。
 自分の赤いマフラーをするりとほどくと、ホーム端で伸び放題になっている樹を折り、先っぽから下った低い位置に結んだ。海軍などで使う半旗だ。
「イワン、弔旗を掲げてくれ。このホームのどこでもいい」
 旧き時代、そこに消えた幾人もの人たちへの弔旗を。
 僕はベンチの後ろに旗を立てかけて、手入れされていない駅の壁を覆っている枯れたつる草でくくった。
「弔旗を掲げろ、イワン」
 駅を出たミハイルは振り返り、笑顔で叫んだ。
 旧い世界に対するとむらいの旗を。
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