第1話 少年から青年への脱皮

文字数 7,112文字

5月の連休が終わりすべて平常に戻った。朝、独身寮からバスに乗り工場に行く。
伊藤主任の後について工場内の設備機器を点検し、部品の交換や故障を修理する。
単調な作業の連続だ。

オシッコたかしぃの事件から職場の雰囲気が変わった。
職場ではオシッコたかしとまでは言わないが、たかしと呼び捨てにする人が増えた。
仲間として認められたようで嬉しかった。
メトロン澄子は私に出会うとわざと口を尖らせてそっぽを向いた。
可愛いい仕草だった。顔の体裁はそれほどでもないが愛らしい雰囲気を持っていた。
人は顔じゃないんだなと感じた初めての女子だった。

コーラス部の練習が週3回ある。
総務部の建物の屋上で昼休みの時間を利用して行われる。
歌が好きではないが総務部の小池さんにうまく乗せられて入部した。
中学、高校とブラスバンドにいたので多少の音符は読めた。

7月には神田の協立講堂で発表会があるといっていた。
女子は白いブラウス、男はダークスーツを着て欲しいといっていた。
先日頼んだスーツの色でいいのか心配だった。頼んだスーツは確か濃い茶色だった。
今週の日曜日に独身寮まで届けてくれる予定だった。

又少し大人になれる気がした。七三に分けた髪も不自然ではなくなってきた。
このところ自分の姿かたちの体裁が気になってきた。
洗面所でヒゲをそる時も、鼻毛が出ていないかを気にするようになった。
2日連続履いていた靴下も毎日取り替えるようにした。
1週間に一度洗っていたワイシャツも2日に一度洗うようにした。
ビショビショのまま屋上に干すので面倒くさかった。
脱水機で絞るとクシャクシャなってしまうからだ。

同期の清水はドライヤーで髪を整えていた。その上香りのいい整髪料をつけていた。
清水の部屋には色々な化粧品があった。こいつ男なのにと心の中で嘲笑していた。
清水の部屋の中に入ると特有の匂いがした。
バイタリス、柳屋ポマード、丹頂チックなどが並んでいた。
少ない髪をリーゼントに決めるのに苦労していた
「清水、なんでそんなに頭を気にするん?」
「ばあか、かっこよくしねえと女にモテねえぞ」
清水はプレスリーの髪形を真似していた。
田舎のあんちゃんが、プレスリーの髪型なんかしたって似合うわけがない。
以前床屋に行った時返答に困った事があった
「整髪料何にしますか?」。
「ええと、何でもいいです、おまかせします」
「それじゃあ、マンダムのヘアーリキッドでもつけておきますね」

保全係はヘルメットを被って仕事をしている。頭はいつもクチャクチャだった。
食事の時とコーラス部の練習の時だけはヘルメットを脱いだ。
今までは気にならなかったがこの頃、自分の恰好が気になる。
メトロン澄子が時々自分を見ているような気がした。
クチャクチャでボサボサの頭が恥ずかしかった。櫛も持っていなかった。

寮に帰って社宅前の雑貨屋で櫛とバイタリスを買った。
田舎のうちにいたら父ちゃんに怒られるだろうなと思った。
「男はカッコなんか気にするんじゃねえよ」
父ちゃんの声が聞こえるような気がして後ろめたい。
一人になっても、長年の父ちゃんの規律が自分を時々抑えている。

一度バイタリスをつけて、髪を櫛でとかして工場に行ったことがある。
「おお、たかし色気が出てきたな」
篠原さんから冷やかされた。伊藤主任も笑っていた。
ヘルメットは被りたくなかったが、ヘルメットを被らなければ仕事にならない。
お昼休みにヘルメットをとったとき大変な事になってしまった。
髪がベタッと頭に引っ付いてメチャクチャになっていた。
ベトついているから直しようがない。職場のみんなに大笑いされた。
篠原さんが、“ベトコンたかし”と又新しいあだ名をつけた。
慣れない事はするもんじゃないなと後悔した。もうどうする事もできなかった。
ヘルメットを被ったままコーラス部の練習に行った。
メトロン澄子に笑われるのがいやだった。

小池マネージャーから声をかけられた。
「どうした、ヘルメット取らないのか」
「ええ、今日はこのままでいたいんですけど」
「おかしいよ、ヘルメット取りなよ」
「はい・・・・・」
恐る恐るヘルメットを取った。頭に黒いペンキが厚く塗られたようになっている。
小池さんが笑いを押し殺している。それに気が付き始めた人がクスクス笑い始めた。
笑いの渦はたちまち広がった。1~2分で笑いは爆発した。全員に大爆笑された。

いつものボサボサ頭とは違い、べっとりとした髪がペタッと頭に引っ付いていた。
それもヘルメットでクチャクチャになっていた。
メトロン澄子も腹を抱えて笑っている。もうこの子とは終わりだなあと思った。
その日はコーラスの練習にはならなかった。
ちょっと歌い始めると誰かが笑う。それにつられてみんなが笑う。
一曲も練習にならなかった。もうこんな事はやめようと固く心に誓った。
穴があったら入りたいと真剣に思った日だった。
リーダーはその日は歌の練習をやめ、今後のスケジュールに話を切り替えた。
6月には、葉山に行って合宿訓練する事。7月に中旬に発表会がある事を報告した。

発表曲目は「早春」という曲だった。
♪♪朝の光山にみち
♪♪雲は明るく浮かびたる
♪♪そよ風わたり
♪♪白い山肌光りかがやく

♪♪枝から枝へ鳥はとび交い
♪♪春よ春よ山の春よ
♪♪小川のせゝらぎ音もかるく
♪♪あけゆく山にこだまする

♪♪鳥はやさしくよび交わしゆく
♪♪あけゆく蔵王に雪はかがやく
♪♪讃えよ春を
♪♪讃えよ蔵王
♪♪蔵王の山に春は来たりぬ
♪♪あゝ蔵王 蔵王の山・・・・・・ 
・・・・・・尾崎磋瑛子

もう一曲のほうは曲名を覚えていない。
♪♪♪ジェッシー・ジェームズ彼は人を殺し、列車を襲い~
♪♪♪金を取って、貧しい人に授けてやったという~

今度の日曜日にはスーツが来る。今までとは別の幸せな気分がした。

5月 第2日曜日
洋品店の人が部屋までスーツを届けてくれた。
オマケのネクタイと靴下が付いていた。最初の1000円を支払った。
1000円でスーツが買えた気がしてすごく得した気持ちになった。
人生の道具や武器がだんだん揃っていく。
早速着てみたが部屋には鏡がない。姿見があるのはお風呂場だけだった。
部屋でスーツを着てネクタイを締めた。ネクタイの締め方の説明書も付いていた。
図解入り説明書が入っている。鏡がないのでどうしても出来ない。

今の時間ならは誰もいないだろうと思ってお風呂場に行った。
幸いお風呂場には誰もいない。説明書を見ながらやってみたが、どうもいい形にならない。
何回繰り返してもネクタイの表が裏になってしまう。

後ろに人の気配がした。
ウワー、一番見られたくなかった宣伝カーの篠原さんが後ろに立っていた。
「お前、お風呂場で何してるんだ!」
「ええ、ちょっとお風呂に入ろうと思って・・・」
「風呂場にスーツ着てくる馬鹿がいるか」
「あの~じつは、ネクタイの絞め方がわからなくて」
「この頃おしゃればっかり気にするようになってからに」
「7月にコーラス部で発表会があるんです」
「そんなこといって、メトロン澄子のことが気になるんだろ」
「そんなんじゃないです」
「みんなに言っちゃおう、お風呂にスーツ着て入って来たって」
「先輩それだけは止めてください」
「ほれ、ネクタイ貸してみろ、色男たかしぃ」

篠原さんはネクタイの締め方を教えてくれた。
近づいた篠原さんからは、酒の匂いがした。
「ちょっと臭いですね、酒飲んでいるんですか」
「酒なんか飲んでいないよ、焼酎だよ」
「朝からですか・・」
「あたりまえだろ、しょっちゅうだよ」
ダジャレに気付いたが、返すダジャレが思いつかなかった。

篠原さんはダジャレで周囲を明るくしている。
そのへんは勉強になったが、どうも私は馬鹿にされている。
「しょっちゅう飲めば、酒ではないんですか」
「お前、もっと気の効いたダジャレでないのか」
「例えばどんなダジャレですか」
「いくつでもあるだろう」
「篠原さんは酒臭いからサケよう、でもいいんですか」
「うんそうだよ、酒はサケたい! とかな」
「ええ」
「酒を飲んだことは口がサケてもいえない!とか」
「ええ」
「酒なんか飲んでナサケないとかな、いくらでもでるだろ~」
「でも、恥ずかしいでしょ」
「お前馬鹿か、それが世渡りのコツなんだよ」

冗談を言いあいながらやっとネクタイの絞め方がわかった。
「たかしぃ、あとな、あんなにいっぱい整髪料つける馬鹿いないど」
「どのくらい付けていいか知らなかったんです」
「シャンプーじゃないんだから、たっぷりつければいいってわけじゃないんだよ」
「シャンプーって何ですか」
「頭を洗う液体洗剤だよ」
「頭はそういうんで洗うんですか」
「お前は何で洗ってたんだ」
「体を洗う四角い石鹸ですけど」
「オシャレしたかったら、シャンプーやドライヤーくらい買えよ」
石鹸を頭にこすりつけると石鹸に髪がこびりついて取るのに大変だった。
知らなかった事をまた教えてもらった。少しずつ大人になっていくような気がした。

スーツ着てネクタイ締めた格好は一人前の社会人に見えた。


「たまには部屋まで遊びに来いよ、焼酎飲ませてやっから」
「はい、ありがとうございます、しょっちゅうは行けませんけど」
「なサケねえ男だな、そんなに俺をサケんなよ」
篠原さんはいくつでも出てくる。頭がいい人なんだなあと思った。
篠原さんは笑いながらお風呂に入っていった。

誰にも見つからないように部屋に帰りたかった。
部屋に行くには食堂のそばを通らなければ行けない。
「あら、早川君。スーツ着て朝食なの?」
「いいえ、この間買ったスーツ着てみたんです」
賄いの伊藤さんに見つかってしまった。
「かっこいいじゃない、小夜子にも見せてやって」
「やめてくださいよ、見せもんじゃないんですから」
「小夜子~、見てごらん、早川君だよ」
だんだんおおごとになっていきそうだ。恥ずかしくなってくる。

娘の小夜子は日曜日になると、賄いのお母さんについてきて食堂にいる。
いつも暇そうに食堂のテレビを見ている。小夜子は走って近づいてきた。
「早川君かっこいい、池部良みたい」
「池部良って・・・?」
「お父さんが見ているヤクザ映画に出ていたの、唐獅子牡丹っていう」
「お父さんヤクザ映画が好きなんだ」
「うん、日曜日になるとカセットをテレビに入れて見ているの」
「そうなんだ、だからこっちでテレビを見ているんだ」
「この人、早川君にちょっと似ているなって思ってたの」
「へえ、そんな人いるんだ」
「お父さんが池部良って教えてくれたの、でももう見飽きちゃった」
「勉強でもしたら?」
「勉強なんて、面白くないもん」

賄いの伊藤さんが声をかける。
「小夜子、早川さんにデートでも誘ってもらいな」
「止めてくださいよ~冷やかすのは、ただ試着しただけなんですから」
小夜子はニコニコ笑っている。どうも子供には興味が湧かない。

同僚の清水はカメラを持っている。
まだ買ったばかりで珍しいらしく、時々部屋に来ては私の写真を撮っていく。
せっかくスーツを着たので勿体無い気がして清水の部屋に行った。
清水はまだ寝ていた。
「清水、起きろよ」
「早川どうしたんその格好!」
「先週スーツ買ったんだよ」
「高かったんべ」
「月賦だよ」
「写真とってやるから、ちょっと待ってろよ」
「うん・・」
「そうだよな、一着はないとな、デートも出来ねえよな」
「7月に、コーラス部の発表会があるんだよ」
「何でもいいけど、必要だよな」
「そうだろ~、俺も買ってよかったよ。月賦っていいな」
「早川、けっこう似合うがな、馬子にも衣装だな」
清水は何枚か写真を撮ってくれた。

部屋に戻りパジャマに着替えて勉強を再開した。


勉強も順調に進んでいる。村岡良子にもお礼の手紙を送っておいた。
返信の必要がないような、通り一遍のお礼の挨拶だけにした。

スーツ一つ買っただけで心に余裕が出てきた。
人生のステージが一つあがったような気がした。
小中可南子や村岡良子にこの格好を見せてみたいという気持ちになった。
ただ、父ちゃんや母ちゃんには見せたくなかった。
大きな買い物を一人で決めてしまった。怒られるのは間違いない。

参考書の中には持っていたお金と合わせてまだ2万円ほど残っている。
来年の3月までには25万円の入学金も貯めなくてはならない。
育った環境のせいか無駄遣いという習慣がなかった。
洗濯の洗剤も洗濯機の横に箱で置かれていた。
粒々のピンク色の粉石鹸が自由に使えた。洗髪も固い石鹸で十分だった。
洗面器にお湯を入れ、固形の石鹸をかき回していればシャンプーみたいになった。

日曜日も外に出る事はなかったのでお金が減っていくという事はなかった。
外に出なかったので独身寮の周辺に何があったか覚えていない。
寮の生活環境はマイペースで過ごすには絶好の場所だった。
寮から工場へは作業服で通っていたので、私服も増やす必要がなかった。
食堂にはジュースやビールの自動販売機があったが飲みたいとも思わなかった。
熱いお茶がいつでも無料で飲めるようになっていた。
新聞も2~3誌は常備されていた。食堂のテレビも見たいときに見る事ができた。

見えない力が与えてくれた受験環境だった。
受験勉強は単調な繰り返しなのでもう習慣化している。
1日の5~6時間勉強しても辛い感覚はなかった。
田舎のうちにいたらこんなに自由に勉強は出来なかった。
この独身寮で勉強できる事に充実感を感じていた。あの時決断してよかった。

何冊もない参考書なので迷うことなく進んでいけた。
同じ参考書を何回も読んでいるので重要な箇所がだんだんはっきりしてくる。
疲れたときは小中可南子や村岡玲子を思い出した。
目標があったので好きな人の事を考えても妄想や執着はなかった。
詩集や思い出は勉強の休憩に使った。
1時間1度くらい休憩しないと能率が上がらないのは経験で知っていた。
競争相手がいないので頼りは自分の継続の意思だけだった。

同じ所を何回も繰り返すので飽きる事もあった。
飽きても飽きても繰り返した。忘れないようにするためだった。
練習問題も問題を見ないで答えがわかってしまうが、
それでも一つ一つ指差して確認しながら回答した。

工場の仕事は助手的な仕事なので頭を使う事はなかった。
目の前の作業を言われた通りにこなせば一日が過ぎた。
休憩時間や待ち時間にはポケットのメモを見て、単純な暗記を繰り返した。
1日中無駄な時間はなかった。

安らぎは週3回のコーラスの練習だった。それも1番勤務の時だけだった。
コーラスや歌は好きではない。メトロン澄子の近くにいけるのが嬉しかった。
メトロン澄子とは特にこれといった発展はなかった。
男のほうから仕掛けない限り発展はないことは何となくわかっていた。
楽しい気持ちだけで充分だった。

受験という目標がなかったら、メトロン澄子との発展方法を考えたかも知れない。
言葉は将来につなげなければ発展しない事はわかり始めていた。
身近な所にしか身近な幸せはない。
私から仕掛けなければメトロン澄子と仲良くなる事はない。それでも充分だった。
ここに来たのは目的がある。そう思い自分の心を抑えた。

横からメトロン澄子の歌声が聞こえる。その声ははっきり識別できた。
普段はまったりした会話でじれったくなるが、歌う声は美声だった。
コーラス部のリーダーは小海さんと言った。
小柄だが快活で明るい統率力のある人だった。
男なのにピアノが弾ける人だった。信じられなかった。
有名な大学を出た人だった。住む世界の違いを感じた。

先輩達の会話を聞いていると有名大学の出身者が多かった。
みんな言葉が流暢で会話がスムーズだった。
着ている作業服もきれいにアイロンがかかっていて、汚れている所がなかった。
総務課とか品質管理課、開発課の名札が付いていた。
汚れた作業服を着た現場の人は何人もいなかった。
特に意識する事はなかったが、頭を使って仕事をする人が尊敬できた。

先週の練習日だった。
小海さんから発表会の課題曲とパートの発表があった。
「早川君は、テノールのパートを担当して下さい」
言葉がわからなかった。難しい事のような気がした。
「すみません、私はテノールは無理だと思います」
小海さんの表情が一瞬止まってしまった。
「まあ、まあ、まあ、まあ冗談はそのくらいで・・・・」
私が冗談を言ったと思っている。
市原も同じテノールだったので特にそれ以上の質問はしなかった。
市原の真似をすればいいと思っていた。
メトロン澄子はソプラノといわれていた。

「なあ、市原、テノールって何をすればいい」
市原は笑っていて答えない。
「なあ、教えろよ・・」小声で話した。
声の質かなと想像できたがはっきりとは知らなかった。
音楽の授業で聴いた事のある単語だが、関心ないのでよく理解していなかった。
「なあ、教えてくれよ、市原、頼むよ」
「早川、冗談はやめろよ」
周りがクスクスし始めた。
リーダーの小海さんが異常な雰囲気を察知して説明してくれた。
「早川君、音階のパートです。ソプラノ・アルト・テノール・バスがあります」
小海さんの言葉で、押し殺していた笑いがいっせいに爆笑に変わった。
なぜこんなに笑われるのかわからなかった。

比較的若い女子はソプラノだった。年配の女性はアルトが多かった。
ソプラノといわれた人は喜んでいた。アルトと言われた人はがっかりしていた。
総務の小池さんはバスの担当だった。

会社の保養所が三浦海岸の葉山にある。
そこで6月の第2日曜日に合宿訓練すると言っていた。
葉山には天皇陛下の御用邸があるのは、新聞やテレビで知っていた。

すごい所へ行けるんだなと思った。
総務の小池さんがコーラス部のマネージャーをしている。
費用は福利厚生費として半分会社持ちだった。
見えない力がまた未来を作り始めている。また何かが変わりそうだ。
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