第9話 それぞれの家の貧しさ

文字数 5,834文字

加藤の兄弟は男3人だ。みんなそれぞれに優秀だ。特に次男は東大を目指している。
長男の加藤は大工の見習いだ。あまり勉強には関心がない。
弟を大学にやるためわざと関心がないようにしている。
加藤の家の生活も二人が同時に大学に入る余裕はなかった。
優秀な成績の弟を優先したのだ。
「大学なんて入るより、手に職持ったほうがいいよな、チャーボー」
「そうだよ、俺だって勉強は嫌いだよ」
「チャーボーは工業高校へ行って、自動車のエンジニアのなるんだよな」
「うん、俺、車が好きだからな、富士重工でも行くかな」
チャーボーも大学に行くのは無理だと知っている。

加藤の母ちゃんが芋の天ぷらとお茶を持ってやってきた。
「みんないい加減にやめなよもう、朝からやっているんだから」
「いいじゃん、休みなんだから、好きな事させろよ」
「お茶飲むときくらい休みなよ」
「わかったよ、うるせえな、あっちへ行ってろよ」
「せっかく、早川君がきたんだから、相手をしてあげなよ」
「わかったよ、休むよ」
「早川さ、元旦に呑龍様でも行って合格祈願でもするか」
「そうだな、そのあと金山まで登ってみるか」
「いいな、久しぶりだな金山は」
「加藤さ、元旦の呑龍様って相当混むんだろうな」
「いいじゃん、中に入んなくったって、外からだって気持ちは通じるよ」
「それもそうだな、じゃあ元旦の日、何時にする」
「早川、俺んちに10時ごろ来られるか?」
「いいよ、その時間なら」
「それから、村岡んちでも行って酒でもご馳走になるか」
「う~ん、俺はどっちでもいいけど」
「まあ、その時の気分でいいか、早川を待っているかもしれねえぞ」
「あんまり冷やかすなよ、俺、気がちいせんだから」
「まあ、後で俺が電話して都合聞いておくよ」

また麻雀が始まった。
「じゃあ、俺はこれで帰るな」
「うん、元旦、10時な」
加藤の母ちゃんに挨拶をして家まで歩いて帰った。

家では久しぶりに兄弟4人が揃った。
姉ちゃんは台所で母ちゃんの手伝いをしている。
兄ちゃんと弟は炬燵でミカンを食べながらテレビを見ている。
父ちゃんはお風呂に入っている。

♪富士のしらゆきゃノ~エ~・・・
おなじみの歌が聞こえる。今日は機嫌がよさそうだ。
弟は中学を卒業したら自衛隊に行くといっていた。
4歳年上の姉ちゃんは来年結婚するといっていた。
みんな体裁のいい家出だなと感じた。
兄ちゃんは長男だから家を出ることはすでに諦めているようだ。
兄弟がみんな言葉少ないが、それぞれの様子を伺いあっている。

父ちゃんの歌がもう少しで終わる。そろそろお風呂から出てくる頃だ。
母ちゃんが炬燵の上に夕飯を並べ始めた。
今日も稲荷寿司、海苔巻き、かたいキンピラ、それに里芋の煮物。
酢だこが出てきた。少しおかずが増えている。
兄ちゃんと姉ちゃんの働きで少しずつ生活が豊かになったようだ。
テレビも新品が置いてあった。炬燵がひとまわり大きくなっていた。
座布団も新しくなっていた。薄汚れていた畳も新しいのに代わっていた。
以前は兄弟喧嘩が多かった。それも家出をしたい原因だった。
豊かさは人を優しくするようだ。少し家族の雰囲気が穏やかになった気がする。

父ちゃんがお風呂から出てきた。子供の前ではいつも渋い顔をしている。
あまり父ちゃんの笑った顔を見たことがない。
「たかし、ボーナスも出たんじゃねえか」
「うん、いくらも出ないよ、今年入ったばかりだから」
「あんまり無駄遣いするんじゃねえど」
「うん・・」
父ちゃんに「無駄遣いすんな」と言われたくなかった。
5千円札が6枚入った封筒は母ちゃんに渡した。
母ちゃんは胸に挟んで「わりいな」と言って神棚に上げた。

父ちゃんはそんなに稼ぎが多くないのに日曜日には競艇に行って損してくる。
それが母ちゃんとの夫婦喧嘩の原因になっていた。貧しさは自分で作っているのだ。
あんちゃんもこの頃日曜日にパチンコに行っているようだ。
この家の貧しさの連鎖はまだ当分続きそうだ。

父ちゃんが夕飯を食べながらチクリと言ってくる。
「たかし、もう少し家にお金入れられないんか」
「うん、俺にもちょっと予定が」
「何か悪い遊びでもしてるいんじゃねえだろうな」
「何も悪い遊びはしてないよ」
「じゃあ、だいぶ貯まったんじゃねえか」
「うん、着るものや何やかやでいろいろかかるよ」
かあちゃんが助けに入る
「父ちゃん、あれだけ貰えば充分だろ~」
「うるせえ、お前は口出すな」
「父ちゃんがそうゆんだから、みんな家を出ていっちゃんだよ」
「うるせい、つべこべゆうな。俺のせいじゃねえよ」
「だんだん楽になって、みんなで仲良く暮らせると思っていたのに」
「俺だって、今まで苦労して子供を育ててきたんだ」
「このままじゃ母ちゃん一人になっちゃうよ」
母ちゃんが泣き顔になってきた。

何を言われても貯めたお金のことは言わなかった。
貯めたお金は運命変えるための資金だった。
貯めたお金は未来を買うための道具だった。
父ちゃんに大学の入学金を貯めているとは言えなかった。

父ちゃんは「頭で金を稼ぐなんてろくなやつじゃねえ」が口癖だった。
父ちゃんが本を読んだのを見たことがなかった。
私が夢中になって本を読むのを不思議がっていた。
誰だって学習しなければ成長がない。成長がなければ生活も心も豊かになれない。
心が豊かにならなければ優しさや思いやりは生まれない。
この連鎖で周囲が生活も気持ちも豊かになっていく。

心にも貧しさと豊かさがある。
心にも預金が出来る。優しくされれば優しくできる。
自分で体験しなくても本の中でも共感し学習できる。
共感して感動すれば心の預金が増えていく。

生活も心も貧しさは自分で作っている。
父ちゃんは家族6人の生活を維持するだけで限界だった。

12月31日 大晦日
姉ちゃんは来年結婚する人が迎えに来て出かけていった。
あんちゃんはパチンコに出かけていった。
弟はコタツでテレビを見ている。
父ちゃんは競艇に出かけていったようだ。
「あのくそ親父、また競艇に行ったんだな、まったく・・・・」
母ちゃんはぶつぶつ言いながら家の片づけをしていた。

父ちゃんは朝4時ごろから夜8時ごろまで働いていた。
母ちゃんだって一日中内職をしている。
二人とも朝から晩まで働いているのに、なぜ貧しい暮らしなのかわからなかった。
生きるために食べる食費はそんなにかかるものとは思えなかった。
小さい頃は気が付かなかった。
父ちゃんの賭け事が生活を苦しくしている事は知らなかった。

中学の頃から自分がどう生きていくかを考えるようになった。
父ちゃんの生き方がちょっと違うような気がし始めていた。
気が付いても親に説教は出来なかった。
父ちゃんの姿を見れば、私に優れた能力があるとは思えなかった。
母ちゃんの性格を考えると、私が豊かな心を持っているとは思えなかった。
生活が貧しいのは心の貧しさにも原因があるような気がした。
自分だけでもなにか変えていかなければならないと感じていた。


家は農家の物置を借りて住んでいた。
柱は傾き今にも倒れそうだった。
土壁はひび割れ、雨の日は仲間で水がしみ込んできた。
屋根瓦の半分は割れていた。割れた所には農家からもらったゴザを被せていた。
家の中の20wの裸電球はのコードは所々被膜が破れていた。
「贅沢言ううんじゃない、住めるだけ十分だ」といつも怒っていた。

・・・・・・その父ちゃんは、3年前に92歳で亡くなった。
・・・・・・最後の日に、小さく縮んだ体で言った。
・・・・・・「姉ちゃんばっかりに苦労させんなよ」
・・・・・・「たかし、お金ありがとうな」
・・・・・・絞りだしたような声だった。
・・・・・・これが最後の言葉だった。
・・・・・・葬式の日、棺の中には感情のなくなった父ちゃんがいた。
・・・・・・今まで見た中で一番優しい顔だった。

小説はは貧しさを忘れせてくれた。悲しい詩は心を慰めてくれた。
中学の3年生の頃内緒で読んでいた本があった。
尾崎士郎の小説「人生劇場」だった。題名に興味を感じて手に取った。
町の古本屋で1冊10円だった。主人公青成瓢吉の青春とその後を描いた本だった。
ドキドキしながら読んでいた。大衆小説の娯楽としての面白さを知った。
そのころ、その中に出てくる早稲田大学の存在を知った。
「愛慾篇」は誰にも見られないように金山へ登って読んだこともあった。

  ♪端役者の 俺ではあるが
  ♪早稲田に学んで 波風受けて
  ♪行くぞ男の この花道を
  ♪人生劇場 いざ序幕

家を出てからまだ1年も経たないのに、あの頃が遠い昔のように感じられた。
ここに住んでいた数年が懐かしい思い出に変わっている。

小さい頃預けられた田んぼの中の保育園。
田んぼの中の小川に沿って歩いていった小学校。
そのすぐ裏にあった思い出の中学校。
アルバイトしながらやっと卒業した田舎の高校。
自分の歩んだ歴史を見るようだった。

あと何ヶ月かで次の運命が決まる。
町の本屋さんで早稲田大学の過去問題集を立ち読みした。
また焦りが出てきた。まだわからないところが多かった。
かなり厚い本だった。また焦りを感じ始めた。
買えない金額ではなかったが、手に持って家に戻る事は出来なかった。
この問題集が最後の仕上げになると思った。
寮へ帰るときに途中の千葉の書店で買おうと決めた。

大晦日の夜
家族6人が、同じコタツの中で「紅白歌合戦」を見た。
テレビがあると楽だった。たいした話をしなくても時間が過ぎていく。
あんちゃんは酒を飲んでタバコを吸っていた。
父ちゃんはしかめっ面でタバコを吸っていた。
ねえちゃんと弟はミカンを食べながらテレビを見ていた。
来年はこの家から一人ずつ外に出て行ってしまう。
残った母ちゃんがかわいそうに思えてきた。
大学へ入ったら仕送りが続けられなくなる。

ああ、仕送りが出来ない事よりも、もっと考えなければならない事がある。
もし大学に合格しても、どうやって生活していくのかまだ考えていない。
アルバイトをする所も住む所もまったく考えていなかった。
貯めたお金もすべて払い込んだら手元にお金がなくなってしまう。
入学した4月はどうやって過ごすんだ。
いままでは受験勉強のことしか考えていなかった。
ここで父ちゃんに相談するわけにもいかない。
“そんなばかげた事を考えるな”といわれるのは目に見えている

<母ちゃんのやさしさ>
大学の合格発表日が2月26日。
合格すれば工場を1ヵ月後の3月25日に退職する。
大学の授業は4月7日から始まる。この空白の2週間は住む所もなくなる。
住む所やアルバイト先を考えなければならなかった。
工場の3番勤務は深夜1時から翌朝9時だった。
3番勤務の時を利用すればアルバイト先を探す活動が出来るかもしれない。
運命はこれでもか、これでもかというように試練を与え続ける。
貧しさの連鎖を断ち切るにはどうしても超えなければならない壁があった。
この家の延長線上の人生を送りたくはない。ここまで来て諦める訳にはいかない。

・・・紅白歌合戦はもう終わっていた。
母ちゃんは以前ほどうるさく言わなくなっていた。
「たかし、もうそろそろ、寝ろ」
「うん・・・」
「たかしは、明日どこに行くんだ」
「10時ごろ、加藤んちへ行くよ」
「何時ごろ帰って来るんだ」
「まだ時間は決めていないよ」
「何か心配事でもあるんか」
「とくにないよ、なんで」
「あんまりおとなしいんで、何かあるんじゃねえかと思ってさ」
「心配しなくていいよ」
「なんかあったら言えよ、かあちゃんでも多少役にたつぞ」
「大丈夫だよ、なにもねえから」
母ちゃんは考え事をしていた私の顔色を見て何か感じたようだった。
父ちゃんはイビキをかいて寝ていた。

「あんな父ちゃんだけど、お前の事を心配しているぞ」
「なんで、なにもしてないよ」
「半年も帰ってこなけりゃだれだって心配するぞ」
「ちょっとやる事があるんだよ」
「なんでもいいから言ってみな」
「いいよ、どうにもならないから」
「母ちゃんだって心配だぞ、土曜日の夜はいつも玄関の鍵を開けて待ってんだぞ」
「帰ってくるときは電話するよ」
「明日、父ちゃんまた競艇に行っちゃうから、その時何かあるんなら話せよ」
「特に何もないよ」

よっぽど母ちゃんだけには言ってしまおうかと思った。
運命が狂ってしまうような気がして言い出せなかった。
いつかは言わなければならない。それは合格発表の日しかない。
合格しなければすべては今のままで何の変化かもない事だった。
すべては自分の心の内側に意思がある。誰にも入り込んでこられない。
人は誰でも外から見てもわからない意思を、内に秘めて動いている。

1968年(昭和43年)元旦
朝5時に起きた。まだ外は暗かった。空には星が出ていた。
お願いして叶うなら、神にも仏にも祈りたい気持ちだ。
初日の出を見ようと思った。金山まで歩いて1時間半くらいかかる。
着替えて出かける準備をした。隣で寝ていた母ちゃんに小さく声をかけた。
「ちょっと金山まで行ってくるよ」
「それじゃ寒いど、ちょと待ってろ」
母ちゃんは箪笥の中からセーターとコートを出してくれた。
どっちも高校時代に着ていた物だった。
「何時に帰ってくるん」
「9時前には帰ってくるよ」
「風邪ひくんじゃねえど」
どこからか軍手を出してきてくれた。父ちゃんの使っていた軍手だった。
「今日は父ちゃん休みだからから使わないよ」
「うん、わかった」

母ちゃんは寝巻きのまま玄関までついてきた。
「たかし、おめえ、まさか大学に行きてんじゃねえだろうな」
「ええ、なんでそんなこと・・」
「たかしのバックの中に新しい下着を入れた時にな」
「ええ、俺のカバン見たんだ」
「中に大学受験用の本が入っていたんだよ」
「ただ、読んでいるだけだよ」
「言って見ろ、父ちゃんには言わねえから」

五月の連休の時にも母ちゃんは俺のバックに稲荷寿司を入れてくれた。
あの時もバックには参考書が入っていた。
その時も見られたに違いない。迂闊だった。そこまで気が回らなかった。
母ちゃんは以前からうすうす気が付いていたんだ。
「まだ考えているだけだよ、念の為お金も貯めているし、勉強もしているよ」
「あんまり無理すんなよ、東京の学校なんか?」
「まだはっきり決めていないけど、東京のほうだよ」
「アルバイトするんなら、両国に母ちゃんの知ってる人がいるから聞いてやるよ」
「うん、まだいいよ、受かるかどうかもわかんねえし」
「はっきりしたら、早く言うんだど」
「うん、その時は電話するよ」

内職しかしてない母ちゃんに東京に知り合いがいるとは思えなかった。
その時はそのまま聞き流していた。
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