第10話 母ちゃんには隠せない

文字数 6,265文字

元旦の朝 金山に向かって歩き始めた。まだあたりは暗かった。
呑竜様の横を通り金山の坂を上り始めた。
何人か日の出を見に行く人が歩いていた。
空が少しずつ明るくなってきた。



以前村岡良子と夜景を見た所に着いた。東の空が明るくなりかけていた。
眼下に広がる町並みを眺めていると、この先の人生が小説のように浮かんでくる。
元旦の太陽が見え始めた。いつになく太陽がありがたく見えた。
太陽の中央がオレンジ色に渦巻いていた。
今年が人生の正念場だと思った。
自分の人生で初めての大きな試練の年だと思った。
初日の出に向かって何回も合格のお願いを繰り返した。

山本有三の「路傍の石」の中にあった言葉が思い浮かんできた。
・・・・たった一人しかいない自分を
・・・・たった一度しかない人生を
・・・・本当に生かさなかったら
・・・・生まれてきた甲斐がないじゃないか 

帰ったら母ちゃんに相談してみよう。
何か助けてくれるかもしれないという気がしてきた。
帰りがけに今日の約束を断るため加藤の家に寄った。
時刻は朝の8時半ごろだった。家族全員が炬燵に入ってテレビを見ていた。
富士重工に勤めている加藤のお父さんもいた。窓ガラスの外から声をかけた。
「おめでとうございます」
加藤が中から顔を出した。
「あれ、早川、今日は10時の約束だったんじゃねん」
「うん、金山まで歩いて日の出を見に行ってきたんだよ」
「そうか、じゃあ今日は初詣に行かなくてもいいか」
「そうだな、今日は家でゆっくりするよ」
「じゃあ、気が向いたら遊びに来いよ、麻雀でも教えてやるよ」
「うん、じゃあな」

家に帰るともう全員が起きていた。母ちゃんは朝御飯の支度をしている。
姉ちゃんも朝御飯の支度を手伝っていた。
父ちゃんはタバコを吸ってテレビを見ていた。
「たかし、おめえ何やってきたん」
「うんちょっと金山まで初日の出を見に行ってきたんだよ」
「正月くらい家にいなけりゃ駄目だぞ」
「父ちゃんも今日は家にいるん?」
「父ちゃんはな、ちょっと大事な用があるんだよ」
「どこへいくん?」
「仕入先の社長に新年の挨拶だよ」
どうも様子がうそくさい。
「たかし、今年はちょこちょこ帰ってこなけりゃ駄目だぞ」
「うん、そうするよ」
父ちゃんの座っている座布団の端から競艇新聞がはみ出している。
今日も競艇に行くのは間違いなさそうだ。

炬燵の上には煮物がいっぱい並んでいた。
父ちゃんの好きな酢だこも並んでいた。
私の好きなキンピラもいつもの倍あった。
かまぼこ、たまご焼き、昆布巻き等お正月らしい体裁をしていた。
母ちゃんが酒を持ってきた。
「たかし、今日は酒飲んでもいいど」
「あんまり好きじゃないけど、ちょっとだけ貰うよ」
兄ちゃんは一升瓶から酒をコップに注いで飲んでいる。
父ちゃんはお酒に砂糖をいれなければ飲めない。
それもちょっと飲むと真っ赤になってしまう。
ゆで蛸のような真っ赤な顔で、酢だこを食べている父ちゃんの顔が可笑しかった。

兄ちゃんは時計を見てそわそわしている。
パチンコ屋の開店の時間が気になるようだ。
姉ちゃんは嫁入り先の家に挨拶に行くといっていた。
名前は宮田といって同じ工場で知り合ったらしい。
今日も車で迎えに来るといっていた。
ここから車で10分くらいの、高林と言う隣の町に住んでいると言っていた。

姉ちゃんは色が黒くてそばかすが顔一面にあり、いかにも貧乏人と言う顔をしている。
姉ちゃんは前に見た時より多少はきれいに見えた。お化粧でごまかしているようだ。
その姉ちゃんがお嫁に行くなんて考えてもいなかった。
結婚式は今年の11月3日だといっていた。

9時半になると兄ちゃんが出て行った。
10時には姉ちゃんの婿の宮田さんが迎えにきた。
面白そうで気さくな人だった。
「たかしくんだっけ、いつも姉ちゃんに聞いているよ」
「たかしです。姉ちゃんよろしくおねがいします」
「あいよ、まかしとけよ」
姉ちゃんの新しい人生が始まっている。よさそうな人で安心した。

父ちゃんが時間を気にしてそわそわし始めている。
母ちゃんが片付け物を終わって炬燵に入ってきた。
「父ちゃん、今日はどこへいくん」
「どこだっていいがな、社長のうちだよ」
「今日は正月だから好きなようにしな、あんまり損をしないようにね」
「なんで社長のうちに行って損することがあるんだ」
「もう時間じゃねん、早く出かけなよ」
「まったくおめえは余計な事ばっかりを言うんだから」
ブツブツ文句を言いながら父ちゃんは出て行った。

炬燵には母ちゃんと弟と3人になった。
弟はおとなしいので害はなかった。思い切って話を始めた。
「かあちゃん、両国の知り合いって誰?」
「内職を持ってくるおじさんだよ」
母ちゃんの内職は成型部品のバリをとる仕事だった。
成型部品についている無駄な部分をニッパではぎっていた。
その会社は地元の太田市に工場があり、東京の両国に営業所がある。
どの会社も高度成長で人手がいくらあっても足りないご時世だった。
「去年から両国に行ってるんだよ」
「へえ、そのおじさんが知り合いなんだ?」
「母ちゃんの親戚だよ」
「親戚って?」
「竜舞の姉ちゃんの旦那なんだよ」
「じゃあ、天田のおじさんのこと」
「うん、今単身で東京の独身寮に住んでいるんだと」

竜舞は太田の外れで母ちゃんの実家だ。天田は母ちゃんの旧姓だった。
母ちゃんには姉ちゃんがいる。その旦那さんが太田の成型工場に勤めている。
東京の墨田区緑町にも成型工場があって、そこに1年間の出向をしていると言う。
そこにアルバイトとして雇ってもらえればいいなという気がして興味が合った。
「独身寮ってどのへんにあるん」
「両国駅の近くっていったかな」
「おじさんはそこに住んでるん」
「その両国営業所の4階が寮になっているんだと」
「そこの会社は、どんな仕事してるん」
「工場から送られてくる成型品を問屋さんに販売してるって言ってたなあ」
「おじさんはどんな仕事してるん」
「緑町の成型工場で、3交替制でやっているんだって」
「へえ~、けっこう忙しいんだ」
「だから、太田の工場から何人も出向してるんだってさ」
「何人くらい従業員がいる会社なん」
「よくはしんねいけど、50~60人くらいって言ってたかな」
両国は総武線で新宿まで1本だ。通学するにはちょうどいい。

私があんまり細かい事を聞くんで母ちゃんは確信したようだ。
母ちゃんはテレビを消した。
「たかし、やっぱり大学へ行きてんか」
「うん、そうじゃないけど東京って興味あるよ」
「父ちゃんには言わないからいってみな」
「・・・うん、ぜったいいわないでな。早稲田大学にいきたいんだよ」
「早稲田って、あの吉永小百合の行った大学か」
「それはよくしらねえけど、新宿の近くの高田馬場にあるんだよ」
「そんな所へ行って何がしてんだ」
「まだ、決まってないけど・・」
「お金はどうするんだ」
「うん、受かればアルバイトをしながらやってみるよ」
「それじゃあ、住むとこがなかんべえ」
「住み込みのアルバイト先でも探してみるよ」
「そんなとこあるんか」
「新聞配達なんかが住み込みの学生アルバイトが多いんだって」
「ふ~ん、母ちゃんがおじさんに、アルバイトの仕事があるか聞いてみべいか」
「まだ早いと思うけど、2月の中ごろには結果がわかるよ」
「様子だけ聞くんならいいがな」
「うん、まだ大学の事話しちゃ駄目だよ」
「今日は母ちゃん実家にいくんだけど、一緒に行ってみるか」
「うん、おじさんだったら俺も知っているから行ってみるかな」

竜舞の実家へは中学の頃まで、毎年母ちゃんとお正月に行っていた。
そこでお年玉を貰ったりご馳走を食べたりした。
竜舞のおじさんは良く知っている。
話してよかった。ほんのわずかだが望みが見えてきた。
弟も私の話に興味あるようでおとなしく聞いていた。
弟は普段でも父ちゃんと話をしない。弟が父ちゃんに話すことは100%ない。
弟も今年は北海道の自衛隊に入ると言う。母ちゃんだけには話したようだ。
弟もこの家から逃げ出したいのだろう。兄弟、みんな考えることは同じようだ。
それぞれ自分なりに家出を考えている。母ちゃんがかわいそうになってきた。

母ちゃんは竜舞のおじさんに電話している。
「おじさん今いるって、じゃあ今から行って見るか」
「うん、それじゃあ話しだけ聞いてみるかな」
加藤との約束を断ったのが幸いした。
未来の扉が開き始めたような気がしてきた。
母ちゃんの後について竜舞のおじさんのうちに向かった。
竜舞はバスで太田駅まで行き、太田駅から東武線で2つ目の駅だ。
母ちゃんは道すがらポツリポツリ話し始めた。

「母ちゃんはな、たかしが大学へ行きたいっていうんは前から知ってたんだよ」
「俺、一度も口に出したことはないよ」
「だってさ、就職先は太田にだって富士重工や三洋電機があったよな」
「だけど今のところが、給料や待遇が一番良かったんだよ」
「そんな事だけで、あんな遠くへ行く馬鹿がいるかよ」
「食事だって三食出るんだよ」
「何であんな遠い千葉までいくんか、ちょっと考えれば誰だってわかるよ」
「同じような同級生だって何人もいたよ」
「逃げだしたかったんだろ、家出したかったんだろ」
「・・・・そんなことはないよ」
「母ちゃんはな、たかしがこの家から出ていきたいんだなと思ったよ」
「うん、ほんとは誰にも邪魔されずに勉強したかったんだよ」
「かあちゃん、わかっているよ。たかしは良く本を読んでいたもんな」
「俺の頭じゃ、他に方法はなかったんだよ」
「あんな父ちゃんだから、しょうがないかなって思っていたよ」
母ちゃんは、俺の体裁のいい家出に気付いていた。
だから何ヶ月も帰らなくてもうるさい催促がなかった。

「4月には弟の正二も自衛隊にいっちゃうしさ」
「正二が自衛隊に行くのはもう決まっているんだ」
「うん、母ちゃん一人になって、やる事なくなっちゃうよ」
「そうか、北海道なんて遠いな。なんでだろう」
「この家に帰ってきたくないんだろう。父ちゃんが嫌なんだよ」
「だけどなんで自衛隊なんだんべ」
「正二が自衛隊ならただでトラックの運転免許が取れるんだって」
「熊谷とか高崎にも自衛隊はあるのに、なんで北海道なんて」
「たかしだってそうなんだろ。正二は正二なりに家出を考えているんだよ。」
「そうか、みんないなくなっちゃうんだ」
「正二が自衛隊にいったら、母ちゃんどっか外に働きに出るよ」

バスは太田駅に到着し今度は電車に乗り換える。
母ちゃんが切符を買ってくれた。
母ちゃんの前では幼い頃の気持ちに戻ってしまう。
切符を買ってくれる母ちゃんを見ていると安心した気持ちになった。
電車の中でも母ちゃんの独り言のような話しは続く。
「実はな、母ちゃん加藤君の所にこの前電話したんだよ」
「何で加藤のところに電話したん」
「お前がいつ来るかわかんねえからだよ、加藤君なら知ってるだろうと思ってさ」
「俺に直接電話すればいいだろ、加藤はなんか言ってた?」
「おばさん心配すんなよ、あいつは頑張っているよ」
「たかしは何を頑張っているんだいって聞いたんだよ」
「加藤のやつ、なんかいったん」
「アルバイトしながら早稲田へ行きたいって勉強しているよってさ」

加藤は母ちゃんに秘密をばらしてしまった。
秘密って絶対にバレるようになっている
口から出た言葉は独り歩き始めてしまう。
人の口に鍵はかけられないと思った。
加藤を怒る気持ちにはならなかった。

竜舞の駅から歩いて10分くらいの所におじさんの家がある。
途中、寂しい林の中の道を抜けていく。
「母ちゃん4月ごろから外に働きに出るよ」
「母ちゃんどっか働くとこがあるん?もう50歳になるんじゃねん」
「姉ちゃんが勤めている工場で食堂の賄いを探してるんだって」
「へえ~、あてがあるんだ、今から勤めじゃ大変だろうよ」
「正二が家をでたあとは、別れちゃうかって思った時もあったよ」
「それでもいいよ俺は・・」
「馬鹿、母ちゃんがいなかったらみんなの帰ってくる所がないだろ」
「・・・そうだけどさ」
「子供の結婚だとか、就職だとか考えてみろや、離婚なんて恥ずかしいだろ」
「・・・・うん」
「母ちゃんが働けばたかしの金なんかあてにしなくてもいいしな」
「父ちゃんはいつも競艇に行ってるん」
「もう、なおんねえよ。父ちゃんだって他に何の楽しみもねえしな」
「あんちゃんも、いつも日曜日にはパチンコなんだろう」
「あれも父ちゃんと似て、働き者だけど悪い所もにっちゃったよな」

おじさんの家に着いた。
家を出てからの1時間があっという間に思えた。
母ちゃんは挨拶もしないで家の中に入っていく。
中では母ちゃんの姉ちゃんとおじさんがコタツに入っていた。
「おお、たかし君か久しぶりだな」
「ご無沙汰しています」
「なに、東京のほうに行きてえんだって」
「ええ、まだはっきり決めたわけじゃないんですけど」
「母ちゃんから聞いたけど、大学へ行きてんだって」
ここでも秘密は守られていなかった。それでも母ちゃんを怒る気にはならなかった。

「アルバイトしながら、行きたいと思っているんですけど」
「たかし君は頑張り屋だからな」
「そうでもないんですけど、なんか俺でも行けるかなって」
「そうか、勉強したいんか、えらいな~」
「おじさん、今は両国なんですか」
「うん、今俺の住んでいる両国の寮にな。10人以上いるかな」
「へえ~、何部屋くらいあるんですか」
「6畳の部屋が3つと、20畳以上あるかな。大部屋があるんだよな」
「おじさんはどっちに入ってるんですか」
「出向者は大部屋と決まってるんだよ。工場からの出張者もそこへ泊まるんさ」
「6畳の部屋って、どんな人が入ってるんですか」
「中卒で地方から出てきたんが二人いるんだよ、夜間高校に行ってるらしいよ」
「へえ~、働きながら夜間高校ですか」
「それから、大学生が1人いたかな」
「ええ、大学生も」
「法政大学だったかな、夕方からおじさん達と一緒に働いているんだよ」
急に興味が出てきた。気持ちも興奮してきた。そこにも同じような人がいた。

母ちゃんはハマさんという、ほんとの姉ちゃんとおしゃべりしていた。
おじさんにさらに具体的な事を聞いた。
おじさんも、前もって準備していたようでさらさらと答えてくれる。
「その大学生はどんな仕事してるんですか」
「プラスチックの製品をインジェクションという機械で作るんだけどな」
「へえ~、大学生でも出来るんですか」
「うん、仕事は単純で機械に材料を入れたり、製品を箱に詰めたりだよ」
「その大学生、何時間くらい働いてるんですか」
「夕方から夜の11時ごろまでかな。6~7時間位働いているよ」
「仕事ってそんなにあるんですか」
「うん、きりがないくらいあるんだよ」
「何に使う製品なんですか」
「洋服に付けるボタンだよ、機械が高いから24時間ずっと動かしているんだよ」
「へえ~、そんなに仕事があるんですか」
「うん、社長がまだしばらくは続きそうだって言ってたな」

自分にも出来そうな仕事だった。目の前に大きな道が見えてきたような気がした
「ところで、たかし君はどこへ行きてえんだ」
「希望だけなんですけど、早稲田なんです」
「早稲田か、俺達の世話をしている総務課長も早稲田を出たって言ってたな」
「ええ~、そうなんですか。なんていう方なんですか」
「安田って言う人なんだけどな、酒が好きでよく一緒に飲むんだよ」
「早稲田の何学部なんですか」
「文学部って言ってたな、趣味で小説書いてるんだって」
「どんな人なんですか」
「冗談がうまくて面白い人だよ」
「何歳くらいの人なんですか」
「30半ばじゃねんかな~、若いけどしっかりした人だよ」


母ちゃんのおかげで人の輪が広がっていく。

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