第6話 大隈重信の像は語らず

文字数 5,985文字

駅周辺は学習塾の看板が多かった。駅にある案内図を見て戸塚町のほうに向かう。
学生らしき集団が歩いている。道を歩きながら会話している姿は刺激を受ける。
道路に線路があった。路面電車が走っている。
古本屋が並んでいる。古本屋じゃない書店も何件もある。
さすが学生街だと思いながらキョロキョロしながら歩いていた。
道行く人がみんな学生に見えた。年配の紳士風の人は教授だろうと思えた。
坂道が多かった。急な坂ではないが上りになったり下りになったりしている。
なかなか大学が見つからない。不安になってきた。細い道に迷い込んでしまった。
また今来た道を戻る。

不審な人と怪しまれないように高校のときの学生服を着てきた。
学生服なら親切にして貰えるだろうと自分なりに考えた。
行ったり来たりしていたが見つからない。
小心者はなかなか人に尋ねる勇気が出ない。優しそうな人を探した。
話しながら歩いてくる二人連れの学生らしい人がいた。
手には本を持っている。3冊くらいの本を紐で縛って持っていた。
間違いなく学生だ。
「すいません、早稲田大学ってどっちのほうへ行けばいいんですか」
「何学部へ行くの?いろいろあるけど」
「ええと、文学部へ行ってみたいんです」
「君、来年受験するの?」
「はい、文学部に入りたいんです」
「へえ~、高校はどこなの」
「群馬県の高校です」
「じゃあ、今日は見学に来たの」
「ええ、まあ」
「じゃあ、僕らの後をついてこいよ」
「ああいいですか、すいません」
「がんばれよ、いい大学だよ」

いい人にめぐり合えた。二人は話しながら前を歩いてくれた。
普通の人とは顔が違った。目が輝いていた。利口そうに見える。
屈託のない明るさは今まで見たことのないタイプの人間だった。
前を行く二人の話しながら歩く後ろ姿はかっこいい。

よくは聞こえなかったが二人は難しそうな話をしていた。
一人が後ろを振り向いた。
「ここから右へ行くと、文学部だよ、そこに白い建物が見えるだろ」
「はい・・・・」
「左のほうへ行くと、大隈講堂や法学部、商学部、政経学部があるよ」
「ありがとうございます」
「案内してあげようか?」
「いいえ、あとは自分でゆっくり見てみます」
「そうか、じゃあ来年は入学してきなよ、待っているからな」
「ありがとうございました」
二人は歩きながら今来た道を戻っていった。わざわざ連れてきてくれたんだ。
いわれた通り行くと左手に文学部の建物が見えた。
文学部の建物の前には緩く長いスロープがあった。
このスロープは限られた人しか渡れないような気がした。
右側には大きな体育館があった。中に入ってみたかったが入る勇気が出ない。

文学部の向かい側には「穴八幡」という神社があった。
少し高い所にあった。石段を登り穴八幡に行った。
穴八幡から文学部がよく見える。ここが目標の大学だった。
入れるような気がしなかった。憧れの片思いのように思えた。
ここに入れるのはほんの一握りの人だ。
勝ち抜いてきた者だけがあのスロープを登っていける。

勉強をしてそのレベルに達したものは入学できる。
入学基準に貧富の差がないのが嬉しかった。それだけが救いだった。
ここに入学すれば、富める人達と同じステージに立てると思った。
しばらく文学部を眺めていた。ここへ来たのが運命のように思えてきた。
何かに導かれたような気がする。今、何をすればよいか漠然とわかりかけてきた。

穴八幡には何のご利益があるかわからないがお金を取り出しお賽銭箱に入れた。
お金をお賽銭箱に入れたのは初めてだ。
最初は百円玉を出したが得体のしれない神様に百円はもったいない。
賽銭箱に十円を入れ何度もお願いをした。追加で十円入れる。

午後4時ごろだった。まだ陽は明るい。
この際、全部見ていこうと大隈講堂のほうに向かって歩いていった。
もう場所はわかる。学生姿で歩いていると自分が大学生になった気がしてくる。
間違って道を聞かれたらどうしようと思いながら歩いていた。

右手のほうに大隈講堂が見えてきた。大隈講堂へ行く道の左右には食堂が多かった。
お昼は食べていなかったが空腹は感じない。それ以上に気持ちは興奮状態だった。
だんだん大隈講堂の姿が大きくなってきた。

歴史の流れを見るような風景だった。
自分の姿が蟻一匹のようなちっぽけなものに感じた。
その荘厳な建物は、半端なものは寄せ付けない風格を持っていた。
その威圧に近づくのが怖いような感覚だった。
ここで学ぶイメージが湧かない。今の自分の力では吹飛ばされるような気がした。

大隈重信像の前に行った。しばらく眺めていたが何のメッセージもなかった。
この半端な自分にはまだ語りかけるものがない。まだ自分が子供過ぎる。
小中可南子の思い出だけで学習を続けるにはあまりにも弱い。
もっと、自分の精神的な成長がなくてはならない。
初恋の人からかっこよく思われたいという気持ちだけで入れるわけがない。
たわいない気持ちでこの大学に挑戦する事がいかに無謀であるかを感じた。


この大学で何をするのか。
そういう素朴な疑問が湧いてきていた。
自分がこれから何をしようとしているか。
これからどこへ向かおうとしているのか。

大隈重信像をみていると自分が恥ずかしくなってきた。
あの子が好きだのどうのは、あまりにも幼稚すぎた。
食べるものが美味いだのまずいだの、あまりにもレベルが低すぎた。
着る物がかっこがいいの悪いのは、どうでもいいような気がした。

大隈重信像は何も語らない。
ただ、自分を根本的に見つめ直すきっかけになったような気がする。
もっと人間的に成長しなければならない。
もっと精神的に自分を見つめ直さなければならない感じがした。
大きな課題を貰ったような気がしてきた。もっと大事なことがある。
ここへ来て何を学ぼうとしているのか何も決めていなかった。
ただ入りたいだけでは、いつまでもその熱意が続くわけがなかった。
初恋のイメージだけで自分を鼓舞するには無理があった。
何を学び何を目指すか。まったく考えていなかった。

校舎の前では5~6人の男女が集まって歌を歌っていた。
一人の持つギターに合わせて歌っていた。楽しそうだった。羨ましかった。
あの人たちはそれぞれの環境の中で大きな壁を乗り越えてきている。

早稲田大学には校門がなかった。フラフラとキャンパスの中へ入っていった。
大隈重信銅像の右手には、椅子に座った高田早苗の銅像があった。
演劇博物館前を通ると坪内逍遥の胸像があった。
その台座の歌碑には逍遥を偲んだ、會津八一の和歌が刻まれていた。
自分とは次元の違う世界があるのを感じた。

この大学へ入るにはあまりにも自分が小さい。
貧しいとか片思いとか、詩集を読んで心を癒す自分が頼りなかった。
文学を志す事がどういうことなのかわかっていなかった。
なぜ文学なのか。なぜ国語の先生になろうとしているのか。
どう頭を巡らせても答えは浮かんでこなかった。

漠然とではあるがこの大学に入れば何かが掴めるような気がした。
この大学を目指す思いが、心の底から湧き上がる感動になり始めている。
この大学に入るには受験勉強をやり直さなければと言うあせりを感じた。
生ぬるい暗記の繰り返しでは到達できない不安を感じた。

時刻は5時を過ぎていた。高田馬場駅のほうへ向かった。
通りすがりの古本屋で「日本文学概論」を買った。
古本に早稲田大学の匂いを感じた。

それから駅の近くの書店に入った。今の参考書だけでは足りない気がしていた。
大学の近くだけあって参考書や問題集が豊富に揃っていた。
帰りの交通費だけを残して問題集を3科目各2冊ずつ買った。
受験科目は、国語、日本史、数学の3科目に絞ってあった。
国語と日本史はすぐに絞り込む事ができた。
迷ったのは最後の1科目を英語か、数学にするかだっった。
数学は好きな科目だった。白黒がはっきりした所が好きだった。
英語は外国へは行けない気がしていたので力が入らなかった。

帰りの電車で「日本文学概論」を読んでみたがちっとも理解できなかった。
無駄にするわけには行かないので、合格のお守りとして使おうと思った。
手には6冊の問題集がある。今日からは新鮮な勉強が出来る。
頭の中には大隈講堂の姿がはっきり思い出せる。

高田馬場から秋葉原で乗り換えて総武線で千葉駅に行く。
帰りの電車は迷う事がなかった。
途中の上野駅で無意識に降りてしまった。田舎に帰るのと勘違いしてしまったのだ。
次の電車を待っている間に田舎の父ちゃんと母ちゃんの姿を思い出した。
二人とも東京へ来たことはなかった。

父ちゃんは朝早くから夜遅くまで自転車に荷物を積んで働いていた。
母ちゃんは朝から晩まで内職をしていた。
自分が大学を目指しているなんて夢にも思っていないだろう。
やっと高校までは行かせて貰った。高校を出れば子供が働いてお金が入る。
そうすれば生活が少しは楽になる事を期待していたと思う。
親を裏切る行為をしているようで、少し後ろめたい思いがしていた。
兄ちゃんも姉ちゃんも働きに出て家計を助けている。

8月の夏休みには家に帰りたくなかった。
大学を目指している事がばれたら怒られる。
大学へ合格するまでは黙っていようと決心した。
うるさく催促されるまでは家には帰らない。
いつ帰ってくるかを楽しみに待つ母ちゃんを思うとかわいそうな気がする。
それでも、この今の希望が失われるほうが怖かった。
未来は自分で切開いて行くしかない。
大学に入ることで、人生が大きく変わることは間違いないと思う。

入試試験まであと6ヶ月あまりになった。
急に時間が惜しくなってきた。この6冊の問題集が終わる頃運命の結果が出る。
小中可南子や村岡良子の姿はだんだん遠ざかっていく。
代わりに大隈講堂と早稲田大学のキャンパスがくっきりと浮かんでくる。
夕方7時に寮に着いた。腹が減っていた。

学生服のまま食堂に向かった。
「あら、早川君学生服なんか着てどうしたの」
「ええ、ちょっと東京見物してきました」
「学生服なんか来て、女の子だましちゃだめだよ」
「そんなことしていませんよ」
「たまにはうちの小夜子とデートでもしておくれよ」
「ちょっと、中学生ではまずいですよ」
「アハハ、早川君あかくなっている、あんたは純情だね」

賄いの伊藤さんはいつも私を冷やかして喜んでいる。
伊藤さんと会話をすると気持ちが落ち着いた。
食事を作ってくれる人は、何か母ちゃんのような思いがする。
立ち振る舞いが母ちゃんと似ている所がある。
でもうちの母ちゃんより品があるし、少し色っぽい所もあった。

部屋に帰り問題集を机の上に並べた。
今までの学習計画を見直し問題集中心の予定に変更した。
「日本文学概論」のお守りを引き出しの中に入れた。
「小中可南子」「村岡良子」の思い出も胸の奥の引出しにしまいこんだ。

午前中、沼の畔で悩んでいた事が嘘のようだった。
午前と午後でまったく違った気持ちになっていた。
大学を見に行った事は神様のお告げのような気がした。
沼には霊が多いという。自分にも力強い背後霊がついたのではないかと思る。

甘酸っぱい初恋の思い出は心の中から消え始めていく。
自分がそれほど頭がよくないのはわかっていた。
たいした勉強をしなくても成績のいい人間を何人も知っている。
頭のいい人間は努力をしないタイプが多かった。
頭はよくなくても、こつこつと努力をしている者のほうが成績はよかった。
頭のいいやつに努力されたら、いくらあがいても勝ち目はないと思った。

私の田舎では、誰も予習や復習を家で勉強してくるものはいなかった。
それでも成績に優劣があった。先生の質問にすぐに答えられるものもいる。
同じ質問に答えられないものもいる。私はどちらにも属さなかった。
頭がいいほうでも悪いほうでもない。答えられる時もある答えられない時もあった。
人はそれぞれ、持って生まれた能力があることはうすうす気がついていた。
本が好きでいつも読んでいるものもいた。本には縁がないものもいる。
人はそれぞれ自分中心に生きている。

小学校4年生の時、山崎先生はお昼の時間に本を朗読してくれた。
外国の物語をよく朗読してくれた。
「アンクル・トムの小屋」「ピーチャーと13人の子供」等だった。
給食を食べながらその物語を聞いた。毎日15分くらい読んでくれていた。
いつもいい所で終わる。次の日のお昼の時間が待ち遠しくなった。
あまり待ちどうしくなって図書室に行って同じ本を探して読んだ。
一度最後まで読むと、次の日に先生が読む内容はわかっていた。
そうすると今まで以上に聞いていて楽しかった。
次の展開を知っている。そこが出てくるのがワクワクした。
先生が声に抑揚をつけて読むとその物語の世界が想像できた。

小学生の頃はグリム童話やイソップの物語が好きだった。冒険物も好きだった。
図書室に時々行って係りの女の先生がすすめてくれる本も読んだ。
自分の生活とは違った世界が楽しかった。みんな本当の話だと錯覚して聞いていた。

中学になると少し興味が変わってきた。
人の苦労話や悲しい話が好きになった。
友情や恋愛の話にも興味が出てくるようになった。
太宰治、島崎藤村、石川啄木なども読んだ。
室生犀星の詩集は悲しかったイメージがある。
悲しかったが何か慰められる感じがした。

物語や小説、童話や伝記等、文字を並べた言葉の世界。
そこから悲しいイメージも感じる。そこから楽しいイメージも感じる。
文字の組み合わせで読む人の頭の中にイメージの世界を形成する。
実生活ではありない生活の想像をする面白さがあった。
楽しい物語も悲しい物語も読み終わると、ああ面白かったと思うのが不思議だった。
高校の頃になると生意気にも哲学書や思想書などを書いた本も読んだ。
物の考え方で人を共感させるものがある事を感じた。
一冊の本の中に一つの世界があった。その世界を頭の中で作り出す作者を尊敬した。

絵の好きな人もいる。音楽の好きな人もいる。スポーツが好きな人もいる。
植物の好きな人もいる。動物の好きな人もいる。
だんだん、年が経つに連れてその人の興味は分かれていく。
人の興味と知識はだんだん差が出てくる。
人の性格も中学の頃から差が出てくるような気がした。

優しい人もいる。意地悪な人もいる。人の事を思いやれる人もいる。
自分だけの事しか考えられない人もいる。人の性格もだんだん差が出てくる。

小学校くらいまではあまり差がないのにそれから大きく分かれていく。
どこかでその差がついてくる。
両親や兄弟、親戚や友達、生まれた環境もあるかもしれない。
小学校や中学で出会った先生の影響もあるのかもしれない。
またその人が読んだ本が大きく影響しているかもしれない。
文学は人の心に異次元の世界を作り出し架空の経験をする。
作者の考え方に共感して、自分もそうなろうと思う。
文学は人間性の成長に大きな力を持っていると感じ始めていた。

何かに共感する事によって自分の性格が作られていくような気がする
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