第15話 退職までの日々の学び

文字数 4,436文字

退職を決めた途端に独身寮周辺の景色が寂しく見えてきた。
今までは静かなこの環境に助けられてきた。
この景色は間もなく過去になって薄らいでいく。



運命はいくつもの次の手を用意している。

利重さんは早稲田大学を名前くらいしか知らない。
私立大学はお金持ちのボンボンが行く所だと思っている。
「国語の先生になってみたいんです」
「そうか、そうだったんか。早川あまり部屋の外へでなかったからな」
「ええ、毎日5~6時間勉強をしていました」
「俺はてっきり寂しくて部屋で泣いてるんじゃないかと思うていたんじゃ」
「ええ、孤独な勉強は寂しかったです」
「うん、いつもいつ誘ってやろうかと考えちょったよ」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「じゃあお祝いに一杯飲むか、あとで何かお祝いをしてあげるよ」
話していても後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
職場の先輩たちは新入社員を早く一人前にしてやろうと気を使っている。
それなのに自分の行為は会社に対する背信行為だった。

「先輩、そこが相談なんです」
「どうして、いい事じゃろうが」
「だって私は、会社のためじゃなく、自分のためにここを利用したんです」
「う~ん、別によかろうが。特に仕事をサボったわけじゃないんだろ」
「でも、会社にとっては役に立ってないんです」
「馬鹿いうな、ちゃんと給料分だけは仕事をしておるよ」
「いいえ、伊藤さんの下で簡単な手伝いをしていただけです」
「それが大事なんじゃよ、伊藤さんお前の事だいぶ褒めてたぞ」
「休憩ばっかりしていた私をですか?」
「よく気が付く人間じゃから、助かるよって」
「あんな事誰だって出来ますよ」
「いや、早川、いい所も悪い所も自分じゃあ気がつかないんだ」
「誰でも出来る簡単な仕事のような気がしますけど」

利重さんは私のいい所を探そうとしてくれている。
自分では自分の事はわからない事が多い。
自分が基準なのでいい所でも悪い所でも気がつかない。
他人は悪い所は言ってくれない。他人はいい所でもあまり言ってくれない。
こっちから心を開いて聞いてみなければわからない。
自分から悩みを話す事が相手に信頼を得ることも気がついてきた。

「先輩の言われた事をするんだって、出来不出来があるんじゃ」
「あんな事にもですか?」
「気が利かない人間が助手になると、じれったくて自分がやったほうが早ようなる」
「じゃあ、私の仕事も役に立っていたんですか」
「お前が、工具や材料にシールを貼っていたな」
「名前がすぐに覚えられなくって、先輩から聞いた言葉をメモしておいたんです」
「誰もあんな事はでけんぞ」
「だって、間違っちゃ困ると思って」
「それから小さな部品を、あいうえお順や番号順に並べていたよな」
「ええ、見つける時間が惜しいと思ったんです」
「あれ、みんなびっくりしておったぞ、ただもんじゃないって」
「だってそのほうが早くできて、時間が無駄にならないんです」
「あと工作機で切削した金属の削りカスを種類別に分けてたな」
「ええ、もったいないなと思ってね、気持ちが貧乏なんです」
「あれも驚いたよ、回収業者が褒めてたぞ」
「そんなことも、役に立ったんですか」
「お前、ポケットにいつもペンとメモ用紙持っていたろ」
「はい、ばれちゃいましたか。暇を見て勉強してたんです」
「仕事のメモじゃないんか。近頃あんな奴はいないって、伊藤さん驚いちょったぞ」

余った時間は勉強に使うためだった。メモ用紙も勉強のためだった。
周囲の人はいいほうに評価してくれていたのだ。
自分の仕事が給料に見合っていたと聞いたのは嬉しかった。
自分の目的の為にお金や施設を利用した給料泥棒だと思っていた。

「だから、辞めるって言ってもちっとも卑屈になることはない」
「ああそうですか、先輩に話してよかったです。気持ちが楽になりました」
「こっちだって、お前から学んだ事は多かったぞ」
「そんな事があるはずはないですよ」
利重さんはいつも褒めてくれる。上手にお世辞を言ってくれる。
利重さんは山口県の出身なので言葉の訛りがひどい。
それでも理解に困るほどではなかった。自分ではあんまり気にしていないようだ。
職場の殆どが山口県人なので保全課では山口弁が標準語のようになっている。
「おまえの群馬訛りはひどいの~」といつも言われている。

利重さんはさらにこの先のことまで心配してくれる。
「ところで東京に行って住む所はどうするんじゃ」
「ええ、いちおう考えている所があるんですが」
「俺の姉ちゃん夫婦が上野の湯島に住んでいるじゃけんど」
「お姉さんが東京にいるんですか」
「俺が電話しておいてやるから、困った時にはいつでも寄ってみいや」
「ありがとうございます」
「姉ちゃんは面倒見がいいぞ、飯くらいいつでも食えるで」
「先輩のお姉さんなら安心です」
「確か、旦那は大学の講師をしてるといったな」
「どこの大学ですか」
「よう聞かんじゃったけど、戸塚のほうだといってたな」
「戸塚なら、早稲田大学ですよ」
「うん、姉ちゃんの結婚式の時、婿の友人が都の西北を歌ってたよ」
「そうですか、早稲田の講師なんて羨ましいですね」
「一度訪ねてみな、住所と電話番号書いておくけな」
「ありがとうございます、助かります」
「困ったときはお互い様じゃ」

両国の会社の件がなければこちらにお世話になっていたかもしれなかった。
運命は次の手段も用意してくれている。

<伊藤主任の家族の温かさ>
今日は午後5時からの2番勤務だ。部屋に帰って4時間ほど寝た。
枕元に退職願いを置いて寝た。明日は誰かに提出しなければならない。
仕事で一番お世話になっているのは伊藤主任だった。
自分の身近な人から順番に進めていくのが礼儀のように思えた。

バスが工場の正門に着くと警察の車や報道関係者の車が何台か止まっていた。
事故当時のあわただしさはなくなっていた。
工場の生産ラインも半分くらいは動き始めていた。
総務の小池係長も取材陣の応対に忙しそうにしていた。
保全課の職場は普通の状態に戻り一番勤務の人が帰り支度をしていた。
伊藤係長は緊急出勤したまま、継続して2番勤務するようだ。
伊藤係長はヘルメットを被ったまま、休憩室で1人でタバコを吸っていた。

「おお、早川か、今朝はびっくりしたろう」
「ええ、どうなる事かと思いました」
「うん、いつも爆発するわけじゃないから安心しな」
「原因はなんだったんですか」
「うん、ガス漏れで、それに静電気が引火したらしいな」
「静電気ですか」
「詳しい事はよくわからないんだよ、企業秘密ってやつだな」
「保全係の人は怪我がなかったんですか」
「今回は修理中じゃなかったからな」
「もう通常に戻ったんですか」
「うん、大体大丈夫のようだな」
「消防署の現場検証が済んだら、全ラインがまた動き出すよ」
「今日は忙しくなりそうですか」
「普通だよ、もうやることはやったしな」
「あの~、相談があるんですけど」
「なんだい、改まって。まさか辞めたいっていうんじゃないだろうな」
「ええ、実は退職願いを持ってきたんですが」
「なんだい急に、一難去ってまた一難かい?」
「3月末には辞めたいんです」
「どうしたんだい、仕事も慣れてきて面白そうにやってたようだけど」
「ええ、仕事は楽しいんですけど」
「どうした、爆発事故が恐くなったか」
「ええ、そうじゃないんですけど」
「いつもの早川のようじゃないな、なんか理由あるならはっきり言えよ」

休憩室の電話が鳴って伊藤主任が応対に出た。
「早川、話しはあとで聞く。減圧弁のパッキンの交換だ。準備してくれ」
「はい、今すぐ用意します」
「結論を急ぐ事はないよ、今日仕事が終わったら俺んちに来いよ」
「はい、伺わせて貰います」

やはり伊藤主任も爆発が原因だと思っているようだ。
タイミングが悪いがどうしてもこの日しかなかった。
何とか今日中には済ましておきたかった。
来週には両国の会社に行ってアルバイトや寮をお願いしに行く予定がある。
伊藤主任の住んでいる社宅は独身寮の目の前にある。
賄いの伊藤さんと娘の小夜子さんの3人暮らしだ。

爆発事故の後だったのでかなり仕事は多かった。
生産ラインの現場の人と建設業者が徹夜で復旧作業を続けていた。
2番の勤務は夜中の1時で終わった。

「じゃあ、いったん寮へ帰ったら俺んちまで必ず来いよな」
「はい、伺います。こんな夜遅く大丈夫ですか」
「母ちゃんは慣れているよ。これから食事だよ」
「奥さんは寮の賄いもやってるんでしょう、大変ですね」
「人の心配より、自分の心配をしなよ」
「はい、そうですね」
「2号棟の105だから、独身寮の目の前だよ」
「はい、時々窓から小夜子さんの姿が見えましたから知っています」
「早川、毎日娘を覗いていたんじゃないだろうな」
「覗いてはいませんよ、いつもカーテンが閉まっていますから」
「娘くらい、いくらでも見せて上げるよ」

伊藤さんの社宅へ伺ったのは2時頃だった。玄関のブザーを鳴らした。
食堂で見慣れている賄いの伊藤さんが顔を出した。
「早川君、いらっしゃい。待っていたよ、さあ上がって」
「おじゃまします。夜遅くすみません」
「2番勤務は今が夕方とおんなじよ、気にしないでゆっくりして」

狭い玄関を上がると8畳くらいのキッチンがあった。
その奥には2部屋あった。伊藤さんは2DKと言っていた。
玄関には花が飾ってあり壁にも絵が掛けてあった。
キッチンのテーブルにも花が活けてあった。
温かい家庭の雰囲気が漂っていた。
奥さんが台所で何か温めている。
大きな冷蔵庫から色々テーブルに運んでくる。

奥から浴衣に着替えた伊藤さんが出てきた。
「早川お風呂に入ってきたんか」
「いいえ、着替えてそのまま来ました」
「じゃあ、うちの風呂にでも入ってみるか、小夜子の匂いがするぞ」
「いえいえ、あとで寮へ帰って、ご飯食べてからお風呂に入ります」
「今日はうちで食事をしていけよ、工場から家内に電話しておいたんだよ」
「でも寮にも食事がありますから」
テーブルの上には2人分の料理が用意された。

奥さんが台所から声をかけてきた。
「早川君、寮の食事はないわよ、さっき賄いの林さんに連絡したから」
「そうなんですか。じゃあ遠慮しないでここでいただきます」
「父ちゃん、ビールでも飲んでいて、料理は今温めているから」
「そうだな、おお、早川飲めや!遠慮すんなよ」
「はい、頂きます」
「早川も入った頃から比べると、ずいぶん成長したな」
「そうでしょうか?」
「最初の頃は、おびえた子犬みたいだったよ。いつもオドオドしていてさ」
「大人が恐かったんです」
「なんでだ、みんなから意地悪でもされると思ったんか」
「田舎から出てきて誰も頼るものがいなかったんで、不安だったんです」
「職場では、早川に意地悪をする奴が誰かいるんか?」
「いいえ、みんなよくしてくれています」
「こないだ岸野に怒られていたろう、あれは何だったんだ」
「あれですか?私の勘違いだったんです」
「何でも言ってみろよ」

利重さんと違って伊藤主任は直属の上司。私が辞めれば仕事に影響が出てくる。
伊藤主任に一番迷惑がかかりそうだ。

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