第3話 合宿の翌朝海岸で散歩

文字数 5,351文字

朝5時ごろ目が覚めた。
7時に朝食。朝8時から6時間の合唱特訓がある。
この保養所から海岸までは近かった。一人で散歩に行こうと思った。
市原はまだ寝ている。市原の布団のそばにはウイスキーの小瓶が転っていた。
こいつは体裁のいい不良のような気がした。

まだ自ら酒を飲む習慣はなかった。
以前バスの中で飲んだウイスキーは刺激的だった。
興味があった。どうしてウイスキーがおいしいのだろう。
ウイスキーの小瓶を手にとって見た。
まだ少し残っている。ふたをとって匂いをかいて見た。香りはいい。
市原の真似をしてみたくなった。
タバコを吸って、ウイスキーをラッパ飲みしてみたくなった。
市原のタバコとマッチもある。

大人になれそうな気がした。
タバコに火をつけた。ウイスキーを口に含んだ。一度失敗している。
飲み込まなかった。口の中で液体を転がした。口の中が焼けるようだった。
2度目は何でも慣れてくる。不良になったような気がした。
タバコの煙で市原が起きてきた。

「おおおおお、早川何やってんだよ」
「ウイスキーって、うめえじゃねえかよ」
「何考えてるんだ、朝っぱらから」
「今日、工場は休みだろうが」
不良の口のきき方を真似てみたつもりだった。
「おまえ、寝ぼけてるんか」
「寝ぼけてねえよ~」
「早川、お前にはそういうの似合わないよ、顔が子供すぎるよ」
「やっぱりそうかな~」
「頭が寝癖でクシャクシャだぞ、風呂でも入って来いよ」
「そうするか、酔っ払っちゃったみたいだよ」
「俺の真似なんかすんなよ、お前には詩集が似合うんだよ」
「馬鹿にすんなよ、俺だって大人だよ」
「へえ~、どうしちゃったん。誰か好きになったんだろう」
「ふざけんなよ、誰も好きじゃないよ」
「宮原を散歩に誘ってみようか、砂浜を散歩なんてムードが出るぞ」
「いいよ、俺はひとりで行くよ」
「面白そ~、宮原誘ってみよ」
「誘うのは市原の勝手だけど、俺の名前出すなよな」
「あ、早川あかくなっている、子供だなあ」

気持ちはもう宮原と砂浜に行っている。少し酔ったのかもしれない。
市原はドライヤーで頭をセットしている。自分もドライヤーを使いたくなった。
「市原、そのあと俺にもドライヤー貸してくれる」
「いいけど、早川どうしちゃったん。急に色気づいちゃって」
「ば~あか、寝癖で頭がクシャクシャなんだよ」
「じゃあ待っていろよ、宮原と鈴木に声をかけてくるからな」

市原は部屋を出て行った。市原は私に出来ない事をさらっとやっている。
同じ年なのにこの差はどこから出てくるのだろう。
気持ちがドキドキしてきた。寝癖の頭をセットしよう。
洗面所には市原の電気ひげそりもあった。
ヒゲは生えていないがあごに当ててスイッチを入れた。

市原が戻ってきた。
「お、おまえ何してるん。ヒゲなんかないだろ。6時に玄関で待合わせだぞ」
「うそだろう。メトロンが来るっていった?」
「あたりまえだろ~、断られるようなら誘わないよ」
「何ていって誘ったん」
「早川に頼まれて誘いに来たっていったんだよ」
「ウワ~、それだけはやめてくれよ」
「ばあか、宮原はお前に気があるんだぞ」
「うそ言うなよ、俺と会うといつも口を尖らせているぞ」
「お前ほんとに子供だな~」
市原が又一段と大人に見えた。
もうすぐ6時になる。市原はタバコを吸い始めた。
本当に貫禄が違う。煙たそうに目を細めて吸う姿が様になっている。

<海辺の砂浜>


すでに玄関には鈴木さんと宮原さんがいた。
二人とも昨夜と服装が違っていた。
一泊の合宿でもそれなりの小道具をそろえている。
私のポケットには靴下一足と詩集の単行本1冊だった。
昨日の靴下は洗面所で洗っておいた。ハンカチは1枚しかなかった。
母ちゃんがどこからか引っ張り出してきた1枚だった。
ズボンのポケットにもう1ケ月以上入れたままだ。
ハンカチを使うという習慣がなかった。

朝6時に旅館の玄関に行った。市原が先に声をかける。鈴木さんが答えた。
「おはよう、よく眠れたかい?」
「ああ、市原君おはよう。よく眠れたよ」
「じゃあ、朝の散歩でもいくとするか」
「ここから近いの?」
「うん、歩いて4~5分じゃない」
「市原君は、ここ初めて?」
「そうだな、初めてって言えるだろうな」
「どういうこと?」
「電車の中からなら何回も見た事あるよ」
「そうなんだ。電車でどこへ行ったの」
「三崎口に親戚があるんだよ」
「じゃあ、京浜急行で行くんだ」
「そう、おまえ、良く知ってるな」
市原は女の子にも“おまえ”という。それが大人びて聞こえた。
市原の会話はたわいない話題でも円滑に進んでいて隙がない。
会話は“思いつきとあいづち”で進むことがわかった。

市原を挟んで、鈴木、宮原が並びその後ろに私が歩いていく。
2~3分で海が見えてきた。朝日がきれいだった。波が静かだった。
太平洋の見える砂浜を歩く。島崎藤村の「椰子の実」が頭の中に浮かんできた。


・・・名も知らぬ 遠き島より
・・・流れ寄る 椰子の実一つ
・・・故郷の岸を 離れて
・・・汝はそも 波に幾月
・・・もとの木は 生いや茂れる
・・・枝はなお 影をやなせる
・・・われもまた 渚を枕
・・・ひとり身の 浮寝の旅ぞ
・・・実をとりて 胸にあつれば
・・・あらたなり 流離のうれい
・・・海の日の 沈むを見れば
・・・激り落つ 異郷の涙
・・・思いやる 八重の汐々
・・・いずれの日にか 国に帰らん

自分ならどんな詩を書くか頭を巡らせていた。

前を歩く宮原澄子の横顔がきれいに見えた。頭の中には小中可南子が浮かんできた。
小中可南子と砂浜を二人で一緒に歩く姿を想像をした。
その想像を村岡良子に置き換えてみた。次に二人を左右において砂浜を歩いた。
想像は自由だ。心の中は人には見えない。右の小中可南子とは手をつないで歩いた。
左の村岡良子は私の腕に自分の腕を絡ませてくる。
小中可南子は「椰子の実」を口ずさんでいる。夢のような海岸の風景が想像できた。

「早川君、何ニヤニヤしているの」
鈴木さんが声をかけてきた。
「こいつね、時々一人でニヤニヤするんだよ、気持ちが悪いんだよ」
「何かいいこと思い出してニヤニヤしているのよ、そうでしょ」

いっぺんに現実に戻された。宮原も冷やかしてくる
「誰かいい人思い出しているんでしょ」
「うるさいな、何考えたって自由だろう」
「あたしがその人の代わりに手を組んで歩いてあげようか」
「いいよ、一人で歩いていたいんだよ」
「ば~か、せっかく言ってあげたのに」
「市原とでも手を組んで歩きなよ」
「ふん、もう何も言わないから」

話は冗談からのほうが進みやすい。
「うん、ありがとう、代わりに歩いてくれる」と言えばよかった。
咄嗟にこの言葉が出るにはまだ修行が必要だった。

海岸の砂浜を散歩しているのはわれら4人だけではなかった。
二人連れ、三人連れ等コーラス部員の半数くらいが砂浜を散歩していた。
おはようの挨拶しながら徐々に合流し15~6名に膨れ上がった。
誰かが歌うとみんながその歌を合唱する。歌う集団が散歩している。
私のロマンチックなムードは消えた。

合唱の特訓がすでに始まってしまった感覚だった。
歌声は海岸に響きながら移動して行く。動く歌声喫茶のようになってしまった。
全員で歌っていると恥ずかしさはなくなる。すれ違う人達も拍手してくれる。
小海さんがワンフレーズで歌いだすとそれに続いて集団が合唱する。

♪ジェッシージェムス彼は~人を殺し~列車を襲い
♪金を盗って貧しい人に~与えてやったという~
♪ジェッシーには優しい妻と~子供があった~
♪けれど卑怯者に撃たれて~最後をとげたのだ

もうすでに発表会の練習が始まっている。歌いながら保養所に帰っていった。
歌はあまり気が乗らない。歌っている振りをして小さな声でいい加減にやっていた。

保養所に帰ると朝食が準備できていた。腹が空いていたのでご飯を3杯お替りした。
9時からは保養所の芝生で課題曲の練習になった。
発表会の課題曲は「早春」だった。自由曲目は「ジェッシージェイムス」だった。
各パートに分かれて練習したり、合同で練習したりを繰り返した。
「早川君、もっと大きい声で!」リーダーから注意された。
はっきりいってあまり歌は好きではなかった。
リーダーの小海さんはどうも私の音程が気になるようだ。
「早川君、そこはあと半音高くして」
少し大きく声を出すと音程が外れるようだった。
私は大きい声を出すと浪曲のように唸ってしまう。父ちゃんの影響がここ出てくる。
「早川君、パートをバスに変えてみようか」
「はい バスですね」
「じゃあ、片山さんのほうに行って教えて貰って下さい」

片山さんは慶応大学出身の品質管理課のエリートだった。
「片山先輩、お願いします」
「うん、気楽にやれよ、昨夜のノ~エ節のようでいいんだよ」
「恥ずかしいです。それ言わないで下さい」
「あははは、君でもやっぱり恥ずかしいんだ」
「じゃあ僕について歌ってみて」
「ハイお願いします」
私の周りで自分の事を“僕”って言う人はいなかった。生まれた環境の違いを感じた。
何回歌っても片山さんと同じように歌えなかった。
「君、もしかしたらオンチかもしれないな」
「ああそうですか、オンチですか」
「それとも、君の音域はやっぱりテノールかもしれないな」
キミって呼ばれたのは初めてだった。少し人間が高級になった感覚がした。

片山さんはリーダーの小海さんと相談していた。どうも私が邪魔そうだ。
そのあと、小海さんが私のところへ寄って来た。
「早川君、今度、利重さんの所へ行って練習してみて」
「はい、もしかしたら、オンチですか」
「そんな事はないよ、練習すればよくなると思うよ」
今まで真面目に声を出していなかった。
利重さんは、テナーのパートリーダーだった。
同じ保全係なので少し気が楽になった。
利重さんは山口県の出身なのでちょっと訛りがある。
「早川、じゃあ、腹に力を入れて歌ってみぃ・・」
「♪♪♪・・・こうですかあ」
「ちょいとちごうな」
「♪♪♪・・・こうですか」
「うん、まあええわ、そのうち慣れるだろ、適当にやっとれ」
「はい、お願いします」


もう少し真面目にやれば直るかなと思って頑張ってみた。
頑張る気持ちが強いほど、だみ声になって音程が合わなくなった。
「どうも早川、合わんな」
「すいません」
「ええよ、仕事じゃないけ、そう気にせんとよか」
「はい、すみません」
「早川、確かブラスバンドじゃったなあ」
「はいそうです。コルネットをやってました」
「じゃあ、多少音符は読めるじゃろ~」
「はい、少しですが」
「じゃあ、自分の声が音符とちごうているんがわかるじゃろ~」
「ええ、この音符通り声が出ないんです」
「わかった、しばらくは小さな声でやってみんさい」
「はい、わかりました」

30分に1回は各パートが集まって合同練習になる。
私は小さな声で目立たないように歌っていた。
周りを意識して歌うと他のパートの人に引きずられて音程が狂ってしまう。

リーダーの小海さんの耳は敏感だった。
「早川君、もう少し抑揚をつけて、みんなに合わせてみて」
自分だけ一人音程が違う。みんなのレベルと大きく差がついてしまった。

意気消沈し、この場に居るのが恥ずかしくなってきた。
声が音符どおりに出ない。オンチを確信した。
今まで大きな声で歌った事がなかった。
父ちゃんとお風呂で歌ったノ~エ節は音程とは関係なかった。
浪曲を真似したことはあるが、浪曲も特に音程は気にしなかった。

発表会は2週間後に迫っている。合宿訓練後の練習日はいくらも回数がなかった。
明日から2番勤務に入り昼休みの練習が出来ない。来週は3番勤務でなお出来ない。
実質上、私にとっては今日が発表会の練習の最後となる。

利重さんがマンツーマンで教えてくれた。細かく小節ごとに利重さんの真似をした。
同じ所を10回以上繰り返した。その時は利重さんの真似をして何とか歌えた。
「大丈夫そうだな、その調子でやってみろや」
「はい、ありがとうございます」
合同訓練になると又他のパートに引きずられて音程が変わってしまう。
小海さんがどうしても私の音程が気になるみたいだった。
小海さんは利重さんを呼んで何か耳打ちしている。
二人とも最初は真剣な顔で相談していた。そのうち二人がニコニコしてきた。
利重さんが笑いながら小海さんにOKサインを出している。
いいアイデアが出たようだ。利重さんがこっちに近づいてきた。目が笑っている。
「早川、おまえなあ、口パクでいけや」
「口パクって言いますと・・・」
「うん、口を開けて、歌っている振りだけしていればいいということじゃ」
「ほんとですか。・・・」
「もう間に合わんで、しょうないやろ」
「ええ、自分はそれでいいですけど・・・」
「発表会の時もそれでいってくれや」
「わかりました・・・・・」

小海さんも笑いながらこっちを見て、ゴメンというように前で手を合わせた。
悲しいような嬉しいような複雑な気持ちだった。
これで苦労から開放された気持ちもあった。
得意でないものはいくら練習しても上達しない。努力しても出来ないものがある。
その努力は得意なものに向ければいい。無駄な努力は自分が落ち込むだけだ。

昼食のとき発表会の案内書が配られた。
小海さんが注意事項や集合場所、集合時間の確認をした。
自分が口パクになったことは誰にも言わなかった。
小海さん、利重さん、私の3人の秘密になっていた。
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