第4話 合唱コンクールでの事

文字数 6,747文字

7月 第1日曜日 
神田の共立講堂で合唱の発表会がある。
東京へ行くのも初めてだった。初めてスーツを着て外に出る。
スーツを着ると生活のステージが上がったような気がする。
待ち遠しくなってきた。口パクでやる事に特に恥ずかしさはなかった。
新しいスーツを着て外出できる事のほうが嬉しかった。
着るものによって気持ちが変化するような気がした。
共立講堂には電車で行く。独身寮の先輩、利重さんと一緒に行く事になっている。

八幡宿の駅でメンバー全員が集合し、総武線でお茶の水まで行く。
午前10時から開催され11時ごろが出演予定になっていた。

朝6時には食堂で食事を済ませた。スーツに着替え7時に利重さんの部屋に行った。
「おはようございます」
「おお、早川か、入れや」
「失礼します」
「おお、けっこうスーツが似合うじゃないか」
「ネクタイこれでいいですか」
「ああ、ええよ、よくできたのう」
利重さんの部屋は臭かった。布団は敷きっぱなし。作業服は脱ぎっぱなし。
ちゃぶ台の上には焼酎の一升瓶がある。お皿や箸、食い物のカスが散らかっていた。
あまり気にしないタイプのようだ。

「焼酎でも飲むか?」
「いいえ、今日は発表会ですから」
「何時に集まるんだったっけ」
「八幡宿に8時半です」
「じゃあまだ大丈夫だな」
「8時15分に社宅前のバスに乗れば間に合います」

利重さんは焼酎をコップについでクイッと一杯飲み干した。豪快な人だった。
「早川、口パク、面白くなかろうが」
「いいえ、面白いです、何か演劇しているようで」
「お前は、オンチだからのう」
「自分でも、オンチに気がつかなかったんです」
「みんな、最初はオンチやで」
「そうなんですか」
「普段の会話では歌わんやろ」
「そうですよね」
「歌って初めてわかるんじゃ、自分の高い声と低い声がな」
「ああ、そういえばそうですね」
「だんだん、歌っているうちに面白うなってくるんじゃ」
「そうなんですか」
会話しながら着替えたり頭をとかしたりしている。
散乱している衣服の中から選び出しそれなりの格好がついてきた。

利重さんは自分の事を見抜いていたようだ。
「おまえ、あまり歌に関心ないじゃろ」
「何でわかるんですか」
「そりゃ、顔見りゃわかるわい」
「先輩はどうして歌が好きになったんですか」
「俺は、カラオケで気が付いたな」
「そんなもんですか」
「そりゃ酔って歌を歌えば、誰でも気持ちがええがな」
「カラオケうまいんですか」
「気持ちがええど、大声で歌うのは。今度連れていいってやろうか」
「はい、でも自分はだめかもしれないです」
「お前はまだ、自分の声を知らんからの」
「ええ、大きな声で歌った事ってまだないですね」
「まあ、今日は口パクでいけや、そのうちカラオケスナックでもいこうや」
「はい、お願いします」
「何でも楽しくなければうまくならんでな」
人の優しさは顔ではわからない。淡々と話す利重さんに人間の大きさを感じた。

二人でバスに乗り八幡宿へ向かった。駅ではすでに殆どのメンバーが集まっていた。
宮原澄子も黒いスカートに白いワンピース姿だった。
人は着る物によって性格が違って見える。今日の宮原澄子は目がトロンとしてない。
少し理知的に見える。少し大人っぽく見えた。
あ、お化粧が違うようだ。目の周りがいつもよりはっきりしている。
女のお化粧ってこんなに雰囲気が変わってしまうもんなんだ。

そういう自分だって今日はバイタリスを頭につけて、髪を七三に分けてきた。
スーツを着てネクタイを締めれば誰だってよく見える。
いい物を着れば高級そうな人に見える。外見は世渡りの大事な要素になりそうだ。

9時前にはメンバー全員がそろったようだ。リーダーの小海さんが人数を確認した。
小海さんを先頭にしてゾロゾロと総武線に乗り込んだ。
この中で口パクを知っているのは、小海さんと利重さんだけだ。
誰にもバレないようにしていなければならない。
そう考えると、ちょっと可笑しさがこみ上げて来た。

頭の中で色々思いを巡らせた。口をパクパク開けている自分の姿を想像していた。
電車の中で市原が私を見つけて寄って来た。
「おお、早川がまたニヤニヤしている」
「ああ、市原か、調子はどう?」
「何ニヤニヤしているだよ、本番前で緊張しないのか」
「うん、緊張なんかしてないよ」
「お前いい度胸しているな」
「市原でも緊張するん?」
「あたりまえだのクラッカーだよ」
「へえ~、そうなんだ、市原でもなあ」
「何いってんだよお前、緊張しないほうが変だよ」
市原も秘密は知らない。市原だけにでも話したくなってきた。
この事を知ったらみんなは驚くのだろうか、噴出すのだろうか。
自分が本番で笑い出さないように気をつけなければならない。

あと2時間後には発表会。
電車の中ではあっちこっちで小さな集団が出来ていた。
それぞれのグループが音符を見ながら口を開けたり閉じたりしている。
電車の中なので声は出せない。小さな声でかすかに歌っている。
まるで全員が口パクをしているような光景だった。
自分も真似して、音符を見ながら口パクの練習をした。
いくら口パクでも歌の言葉と合わせなければ不自然になる。
やればやるほど腹の底から可笑しくなってきていた。

ニヤニヤしていると人は寄ってきやすいようだ。宮原澄子も寄って来た。
「何をニヤニヤしているの、気持ち悪~い」
「うん、別に・・・・」
「早川君って、何を考えているんかわからないな」
「いいじゃない、何考えたって自由だろ~」
「ほんとに可愛くないんだから、もお~」
もうちょっと話したかったが、鈴木さんのほうに戻っていってしまった。
「宮原さんの事を考えていたんだよ」と言えばよかった。
まだそんな気の効いた事を言える自分ではなかった。

今日は利重さんの後をついていく。利重さんが声をかけてくれた。
「早川、もし歌いたくなったら歌ってもかまわんぞ」
「ええ、大丈夫です、それはありませんから」
「終わったら、一緒に飯でも食べようや」
「ありがとうございます」
「食べ物は何が好きなんじゃ」
「稲荷ずしとか、海苔巻きです」
「お前は安上がりな奴じゃなあ」
「他に思いつかないんです」
「鰻とか、握り寿司とかあろうが」
「見た事はありますが、食べた事はありません」
「じゃあ、あとで市原と一緒に食べに行こう」
利重さんは私の事を気にかけてくれる。人に優しくされる気持ちのよさを感じた。

共立講堂でコンクールが開催される。
御茶ノ水駅から徒歩で向かった。共立講堂は大きな建物だった。
利重さんの後をついて行く。近代的な講堂だった。
1000人以上は入れるような講堂だった。会場は半分くらい人で埋まっていた。
ステージには万国旗が並べられている。あのステージに立って合唱をする。
横にはグランドピアノが置いてある。
高い天井からはいくつものライトがステージを照らしていた。
左右、中央、2階席にはビデオ撮影用のカメラが設置されていた。

自分の想像を超えたものだった。緊張感が高まった。
頭の中では高校の体育館程度を想像していた。
あのステージの上に立つだけでも度胸がいる。
体が震えてきた。オシッコがしたくなってきた。
「先輩、トイレはどこでしょうか」
「俺も知らんけど、見つけりゃあるだろ~」
「ちょっと行って来ていいですか」
「かまわんけど、先に控え室に行ってからにせんか」
「はい、すごい所ですね」
「うん、俺もこんなどでかい所でやるのは初めてだな」
「なんチームくらい出るんですか」
「午後10チーム、午前10チームくらいやったな」
「そうですか、前にも経験あるんですか」
「こういう場所はないけど、コーラス部で2度目位かなあ」

控え室は学校の教室みたいな所だった。部屋には普段見た事のない年配の方もいた。
工場の偉い方が応援に来ているようだ。リーダーの小海さんを激励していた。


リーダーの小海さんがみんなを集めこれからの予定を説明した。
説明のあと、最後の仕上げに2~3回の練習を繰り返した。
私も最後の口パクの練習をした。バレないように身振り手振りにも気をつけた。

あと30分後にステージに上がるといっていた。
緊張しないようにといっている小海さんも、いつもの表情ではなかった。
市原がトイレに行って来ると言ったのでその後についていった。
他の2~3人もぞろぞろとついてきた。

いよいよ、番が近づいてきた。
トイレから帰るとみんなステージに並ぶ順序に整列していた。
片手に楽譜を持っていつでもステージにいける形になっていた。
「早川君、利重さん後ろに立ってね、頑張ってね」
「はい、頑張ります」
小海さんはニコッと笑った。私もニコッと笑い返した。

「市原君は早川君の右となりね、頑張ってね」
「やだなあ、早川の隣か、音程狂わされちゃうな」
市原はいつでも気の効いた軽い冗談が言える。
みんながクスクス笑い緊張感が少し取れたようだった。
口パクに音程が狂わされるようならたいした実力ではない。
私が歌っていない事を気づいていない。

利重さんがわざとらしく私を援護する。
「市原が思うほど、早川はオンチでねえど」
「そういえばこの頃、早川の声が気にならなくなったな」
「誰だって、これだけ練習すればうまくなるでよ」
可笑しくなって笑ってしまった。
「早川、余裕あるな、本番前にニヤニヤかよ」
「市原、心配すんなよ、邪魔しないから」
「本気かよ、早川いつからそんな自信ついたんだ」
「利重さんの愛弟子だよ、うまくならないほうがおかしいよ」

時間になったようだ。リーダーの小海さんが最後の檄を飛ばす。
「じゃあ、みんな頑張っていこう、普段どおりね、緊張しないでね!」
27人のメンバーがゾロゾロとステージに向かって歩いていった。
ステージは広かった。客席は半分くらい埋まっていた。
ステージから見る世界は生まれて始めてみる光景だった。
スポットライトが当たり演劇の役者になったような感じがした。

小海さんが指揮席に立って指揮棒を上げた。
ピアノのイントロが鳴り始めた。天井からマイクがシュルシュルと降りてきた。
頭の上でピタッと止まった。頭の上のマイクが気持ちの焦りに追い討ちをかけた。
会場の観客全員がステージを見つめている。
緊張感は最高に達していた。頭の中は真っ白になっていた。


ピアノの音に合わせて、リーダーの小海さんが指揮棒を振り下ろした。
♪♪あ~さ~の~ひか~り~ や~ま~に~みち~
指揮棒の合図とピアノの催促の音に声が反応してしまった。
小海さんがタクトを振り下ろすと同時に思わず第一声が出てしまった。
口パクのつもりが声を出して歌いだしてしまったのだ。

♪朝の光山にみち~~
♪雲は明るく浮かびたる~
♪そよ風わたり~~
♪白い山肌光かがやく~
・・・・意外に声はまわりに溶け込んでいる。
・・・・小海さんが私の声に気がついたようだ。

♪枝から枝へ鳥はとび交い~~
♪春よ春よ山の春よ~
♪小川のせせらぎ音もかるく~~
♪あけゆく山にこだまする~
・・・・・・自分の声が各パートと和音で反応している。
・・・・・・小海さんが私を見て、タクトを優しく振っている。

♪鳥はやさしくよび交わしゆく~~
♪あけゆく蔵王に雪はかがやく~~
♪讃えよ春を~~
♪讃えよ蔵王~~
♪蔵王の山に春は来たりぬ~~
♪ああ蔵王 蔵王の山~~~・・・・・
・・・・・・声が出る事がわかれば、音程が外れる事はなかった。
・・・・・・声はみんなとハモっていた。
合唱が終わった。ピアノの演奏が静かに終了を告げた。
予期せぬ出来事だった。楽譜を持つ手が脂汗でにじんでいた。
下着がひんやりと冷たかった。

<自分を見つめ直す>

今まで、真面目に人の前で歌うという事がなかった。
“恥じらい”と“ためらい”が自分をオンチにしていた。
つまらない自意識が過剰だったのだ。
極度の緊張感が恥じらいとためらいを忘れさせてしまった。
観客の姿で興奮し我を忘れて夢中で歌う事ができた。

利重さんの言う事は当たっていた。自分の音域に気がつかなかっただけだった。
自分の声を思い切り出していないだけだった。
目の前の環境に心から飛び込んでいないだけだった。
中学、高校と6年間ブラスバンドをやってきた。
楽器の音をピアノに合わせて調律していた。音程が少しでも外れればすぐわかった。
金管楽器の音感は6年間鍛えられてきた。

練習ではピアノの伴奏はなかった。
本番でのピアノの伴奏でピアノの音に合わせようという意識も働いた。
貧しい生活の劣等感が心の中に恥じらいやためらいを生んでいた。
極度の緊張感がそれを取り除いた。一歩道が開けたような気持ちがした。

恥じらいとためらいは恋愛も同じだった。
消極的な会話は前に進むはずがなかった。
誰に対しても心を開けなかった。楽しく会話する事ができなかった。
この日から少し気持ちが変わったような気がする。

控え室に戻ると利重さんが声をかけてきた。
「よう歌うたな、早川。最初はびっくりしたしたよ」
「すいません、夢中で歌ってしまったんです」
「気にせんでええよ、ようハモちょったよ」
「自分でもびっくりしています、歌えるとは思ってなかったんですが」
「そんなもんじゃて、何かがきっかけになりよるんじゃ」
「ありがとうございます」
「また、がんばろうや」
市原も声をかけてきた。
「早川、お前変わったな」
「なにが?」
「よく声が出てたよ」
「俺の声、邪魔にならなかった?」
「お前って、ほんとに変なやつだな」
「どこが変なんだよ」
「早川は馬鹿か利口かわかんねえよ」
「それって褒めてるん?」
「うん、そうとってもいいよ」
「じゃあ、ありがとうだな」
「おかしいよな、お前って」

誰に対しても心を開いて話をしていなかった。
いつも相手が気を悪くしないように心の中で言葉を選択した。

市原は時々歌声喫茶で歌っていると言っていた。
歌う楽しさを知っている。利重さんも酔ってカラオケで歌っている。
歌う喜びを知っている。何でも、好きではないとうまくなれない。
自分も歌が好きになれそうな気がしてきた。
「たまには、俺も連れってくれよ」
「ええ、歌声喫茶にか?」
「うん、そう」
「信じられないよ」
「ほんとうだよ」
「いままで結構誘ったけど、いつもいい返事なかったぜ」
「エヘヘ、ちょっと変わったんだよ」

世渡りの道具が少しずつそろい始めている。
これからは気持ちもそれに合わさなければならないような気がした。
市原は世渡りがうまい。大人と対等に話が出来る。
不良の市原を見直す気持ちになってきた。

リーダーの小海さんが右手を出して握手を求めてきた。
「早川君よくやったね」
「すみません、夢中で声を出してしまって」
「うん、よく音程があってったよ、声もよく調和していたしね」
「ありがとうございます」
「君はやっぱり歌えるんだね、音域はテノールぴったりだよ」
偉い人から褒められるといっそう歌が好きになる。
又機会があったら歌いたくなってきた。


コンクールの入賞の発表は午後4時ごろだといっていた。
それまでは各人が昼食を食べたり、合唱を聞いたり自由行動だった。
利重さんが私と市原をお昼に誘ってくれた。
それに同じ保全課の宮原澄子とその友達の鈴木美恵子の5人だった。
共立講堂の外に出た。

お茶の水界隈は見るものすべてが新鮮だった。
すがすがしい気持ちだった。宮原澄子が一段とさわやかに見えた。
自分には関心がないと思う事でもそれに全力投球している人がいる。
自分だけが浮いてはいけない。協調することの重さを感じた日だった。

自分には自信がない。
心の豊かさがない。
明るさがない。
人と会話ができない。
気が弱い。
自意識過剰。
心配性で根が暗い。
数え上げたらきりがない。

だから、小説の中の文章や有名な人の金言名言が心に響く。
気にかかる金言名言は全部現在の自分に足りないところなのだ。
私は気になった金言名言、処世訓はノートに控えている。

 ・現在に全力を尽くそう 過去はもうない 未来はまだこない
 ・心の眼が開けるのは 苦悩に出あったとき
 ・人間、思い通りに生きていたらどこまで堕落するかわからない
 ・自信のある者は謙虚である 自信のない者は傲慢である
 ・水のようにいきいきと 水のように力強く 水のようにこだわらず
 ・自分を生かそうとするならば 他人とともに生きることである
 ・たとえ役に立てなくても 何かの役に立ちたいと思う心が尊い
 ・見る気がなければ何も見えない 聞く気がなければ何も聞えない
 ・一年をふりかえる 反省なき人には進歩なく 計画なき人には向上なし
 ・たった一言が人の心を傷つける たった一言が人の心を温める
 ・掃けば散り 払えば又も散りつもる 人のこころも 庭の落葉も
 ・明日を不安に想うより 今日を懸命に生きよう
 ・奪い合えば足らぬ 分け合えば余る
こうした金言名言を暗唱し、一つずつ性格を直し人間的に成長していきたい。

合唱コンクールは入賞しなかった。それは私のせいではない。
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