第8話 まるで天からの贈り物

文字数 5,915文字



高校の正門を後にした。来てよかった。
二人の先生に励まされて、早稲田大学合格の希望が決意になった。
「やればできるよ」の大人からの励ましの言葉は心強かった。
思い出だの初恋だのと女々しいことは言っていられない。
早稲田大学の大先輩から頂いたパーカーの万年筆が早稲田の匂いがする。
運がこっちを向いてきた。この運を生かしてみよう。

大通りにでると又次の心配が出てきた。村岡良子の家の前を通らなければならない。
一難去ってまた一難。人生難問ばかり。村岡良子に手紙を出しておけばよかった。
ご馳走になったのにお礼もしていなかった。義理を欠くと世間は渡り辛い。
下向き加減にとぼとぼと太田駅に向かって歩いて行った。
右手にはパーカーの万年筆がしっかりと握られていた。
ワイシャツのポケットには高橋先生の電話番号が入っている。
期待と、励ましと、優しさと、思いやりが込められている。
歩きながら眼がウルウルしてきた。鼻から水が出てきた。
胸がつまり熱い気持ちがこみ上げてきている。
ハンカチを持つ習慣がなかった。こんな時にこそハンカチが必要だった。

貧しい事でも、苦しい事でも、恥ずかしい事でも。
悔しい事があっても泣いたことなんてなかった。
嬉しくて涙が出るなんて初めての事だった。自分が人の優しさに弱い事を知った。

高橋先生は厳しい言葉で教えてくれた。
荒木田先生は優しい言葉で教えてくれた。
叱って育てるほうがいいと思う先生と、褒めて育てるほうがいいという先生がいる。
みんな信念を持ってやっている。どちらの教え方にも思いやりがあった。

叱られてくじける人。叱られて成長する人。褒められて図に乗る人。
褒められて成長する人。すべては受けるほうの意識にある。
受ける側に成長する意識があればどんな言葉も自分のためになる。
どんな言葉も向上心があればそれが力になる。

気がついたら村岡良子のうちは過ぎていた。一難は無事に通り過ぎた。
東武線太田駅の前にある熊谷行きのバス停の前に着いた。
電車から降りてくる人、電車に乗ってどこかへ向かう人。
みんなそれぞれの人生がある。目の前の運命は自分の行動によって変化していく。


熊谷駅行きのバスに乗った。途中の「飯田バス停」の近くに加藤の家がある。
寄って見ようと思いついた。誰もいなければ次のバスに乗って帰るつもりだった。。
加藤の家には弟の尚がいた。ヒサシと読み、チャーボーと呼んでいる。
チャーボーは中学2年生。自分より年下なのに堂々と早川君と呼ぶ。
「早川君か、どうしたん」
「あんちゃんはまだ帰ってこないん?」
「いつも5時半頃になるよ」
「チャーボーは今何しているん?」
「渡辺君に勉強を教わっているんだよ」
「渡辺って、誰、友達?」
「何言ってるん、早川君の中学の時の同級生だよ」
「え、あの東大に行った渡辺か?」
「そうだよ近所なんだよ、時々勉強教えてくれるんだよ」

奥の子供部屋に行くと渡辺がいた。
「おお、早川どうしたん、千葉の工場へいったって聞いたけど」
「うん、今日はちょっと都合があって戻ってきたんだよ」
「久しぶりだな~、こっちへこいよ」
「渡辺、東大に合格したって聞いたけど」
「うん、やっとな」
「家から通っているん?」
「うん、太田駅を7時ごろ出ても9時ごろにはついちゃうよ」
「へえ~、通ってるいるんだ、大変だな」
「どうってことはないよ」

渡辺の顔は自信に溢れている。
ちょっと自信家で生意気な面もあったが加藤の友達でもあった。
中学の成績は常に1~2番だった。
「早川もけっこう成績がよかったのにな、工業高校を出て石油工場勤務か」
「しょうがねえよ、大学なんて行けねえよ」
「早川だったら群大くらい入れたんじゃないか」
渡辺はけっこう無神経に話をする。それも上から目線で話してくる。
私の中学時代の成績は10番以内に入ったり出たり中途半端な成績だった。
渡辺から比べたら馬鹿に等しい。

チャーボーが横から口を出してきた。
「あれ、早川君だって、来年早稲田受験するんじゃねん?」
「ええ!チャーボーが何で知ってるん。加藤のやろう弟に話しちゃったんだな」
「いいじゃん、悪い事じゃねんだから」
「え、早川、早稲田を目指しているんか」
「まだ決めたわけじゃないけど」
「早稲田じゃ難関だぞ。文学部だと偏差値68~70くらい必要じゃねえかな」
「そうか、無理かなあ」
「俺なら楽勝だけどな。早川は高校の時、偏差値どのくれ~だった」
「う~ん 65近辺でウロチョロだよ」
「それに、塾も言っていねんだろ」
「そんな暇も金もないよ」
「あきらめなよ。大学だけが能じゃないよ」
「だめでもともと、落ちたらあきらめるよ」
「そんな気持ちじゃもっと無理だよ」
「何かいい方法ねえかな」
渡辺には馬鹿にされそうで知られたくなかった。
中学の時渡辺と同じクラスだった。
試験の前には渡辺は山をかけるのが得意だった。
渡辺が山をかけた所は殆ど試験に出てきた。
渡辺が他の秀才たちと話しをしているのを横で聞いていた。
聞いていない振りしてメモを取ったこともあった。

渡辺が何か考えている。
「そうだ。俺が使った参考書があるよ」
「へえ、東大に合格に使ったもん」
「うん。早稲田なら3科目だんべ。受験科目は何?」
「う~ん 一応、日本史、数学、国語なんだけど」
「国立は5科目だからみんなあるよ。ちょっと待ってろよ」
「ほんとかよ。信じられねえよ」
「そろそろ捨てようかなと思っていたんだよ」
渡辺君が東大受験に使った参考書をくれるという。
「ちょっと取りに行ってくらあ」

10分くらいで渡辺が戻ってきた。目の前の紙袋の中には参考書と問題集がある。
それも東大に合格した渡辺が使ったものだ。すごい宝物を手にした気分になった。
「合格したら、なにかお礼をするよ」
「いいよ、別に気にしないで」
「ありがとう、ほんとに助かるよ」
「がんばれよ、応援しているからな」
また、胸がつまってきた。
自分はやさしさに弱い。ハンカチがない。立ち上がって二人に背中を向けた。

「じゃあ、今日はこれで帰るよ、チャーボー、兄貴によろしくな」
「もう帰るん、もうすぐあんちゃん帰ってくるよ」
「また来るよ、じゃあな、しっかり勉強しろよ、チャーボー」
「うん、早川君もがんばれよ、また来いよな。参考書良かったね」
「うん。チャ―ボーのおかげだよ」
「うん。前にさあ、大学行くんだったら参考書あげるって言われたんだよ」
「わ~ほんとかよ。チャーボにいくわけだったんだな」
「おれも早川君でよかったよ。俺は大学に行く頭はないしな」
年上の私を「君」と呼ぶのが気になるが、どうもチャーボーは憎めない。

加藤の家を後にしてバス停に向かった。
目標がはっきりしてくると必要な道具が集まってくる。
目標を口に出すと応援してくれる人が出てくる。
自分の妄想だけでは前に進んで行かない事を知った。
こんな偶然があるなんて信じられない。ふらっと立ち寄った加藤の家に渡辺がいた。
そして渡辺の大事な参考書が手に入った。天からの助けとしか考えられない。

バスの中で渡辺に貰った参考書を開いてみた。
ゴミ箱に行く筈の参考書が今は自分の宝物なっている。
参考書にはそこいら中に要点がメモ書きしてあった。
すました顔をしていた渡辺が見えない所で頑張っている姿が思い浮かんだ。

独身寮へ帰って学習計画の建て直しをした。
高田馬場で買ってきた新しい参考書と問題集が各教科1冊。
それに渡辺から貰った参考書と問題集が追加された。
渡辺から貰った参考書にはポイントがチェックされている。
渡辺が試験に出る所の山を当てるのがうまいのは直感ではなかった。
それなりの努力をしていた。
繰り返して勉強する事によって大事なポイントに優先順位を付けられる。
理解が深くなると問題として出題されそうな所が見えてくる。
何冊かの参考書を比較すると間違えそうな所がわかってくる。
その結果、試験に出そうな所が予想できるようになる。

それは山勘ではなく努力した者の当然の結果だった。
渡辺の参考書には努力の結果が赤と青の色鉛筆で色分けされていた。
各項目の先頭には、○、◎、●等の記号が付けられていた。
大事な項目が目で見てわかるように管理されていた。
繰り返し学習する際の能率が上がるようになっている。
大事なチェックポイントが丁寧な字で読みやすく書かれていた。
渡辺の何年間かの努力の結果がこの参考書だった。
その大事なチェックポイントの視点が私とはだいぶ差があった。
持って生まれた能力の差を見せ付けられた。
生活だけではなく能力にも貧富の差がある事を思い知った。
自分の能力の足りなさは能力のある者を見習うしか方法がない。
能力のある者の真似をすればその近くまで行く事ができる。

ただ漠然と暗記を繰り返していた自分との差が大きかった。
暗記ではなく理解が必要だった。基本的な理解がなければ応用問題は解けない。
この渡辺の参考書には大きな刺激を受けた。

問題集は模擬試験のつもりで時間を決めて解答した。
それをグラフにして、理解度が目に見えるようにした。
同じ問題集で2度目のテストをしない。今までは同じ問題集を繰り返していた。
2度目は100点近くになる。それで自己満足していた。

気分転換に詩集を見ることもなくなった。
気休めに初恋の人を思う事もなくなった。
人生の初めての難関に向かう闘志のようなものがでてきている。
この渡辺の参考書が偶然ではないような気がした。
求めれば求めたものが自分の近くにあるような気がする。
渡辺は加藤の友人だった。
今日ここに渡辺がいなければ、別の時に会っていたかもしれない。

12月も暮れにになった。入学試験の日程表を学習計画書に記入した。
出願期間: 1968年1月5日~1月26日
試験日 : 1968年2月17日(土)
合格発表日:1968年2月26日(月)

あと残す所2ヶ月しかない。緊張感で集中力が増してきた。
学習時間を1時間追加した。

3交替勤務が幸いして独身寮はいつも静かだった。
こっちから誘わない限り部屋に尋ねてくるものがなかった。
100%に近い学習時間の管理が出来た。学習は予定通りに進んでいる。
問題集も残す所いくらもなくなってきた。
また新しい問題集を買わなければならなかった。

年末が近づいている。
12月30日から翌年の1月2日まで家に帰る事にした。
時間が惜しい気もするがお正月くらい家に帰らないと両親が心配する。
7月から一度も家に帰っていなかった。毎月5千円の仕送りを予定していた。
貯めたお金の中から帰らなかった6か月分の5千円札を白い封筒に入れた。
願書発送のために買っておいた封筒が余っていた。

工場では冬のボーナスが出た。6万円は思った以上の金額だった。
本の中にはすでに20万以上貯まっていた。
出来るだけ1万円札を使わないようにしていた。
千円札や5千円札を混ぜて入学金を払いに行くのはかっこ悪いと思った。

12月30日午前中に独身寮を出た。上野駅でカステラを買ってお土産にした。
カステラはまだ食べた事がなかった。テレビでよく宣伝をしていた。
31日には金山に登って夜景を見よう。元旦には加藤の家に行く事にしよう。

太田の家には夕方の4時に着いた。家では母ちゃんが家の中の片付けをしていた。
「ただいま~」
「ああ、たかしか、ずいぶん帰ってこなかったなあ」
「うん、ちょっと忙しくって・・・」
「電話くらいしろよ、父ちゃん怒ってるぞ、帰ってきたらすぐに謝れよ」
「うん、3交替だから、なかなか電話をかけるチャンスがないんだよ」
「その気になれば、かけられない事はねえだろ~」
「わかったよ、父ちゃん何時ごろ帰ってくるん」
「今日は仕事じまいだから、7時には帰ってくるよ」
「じゃあ、それまで加藤君ちへ行ってくるよ」
「遅くなるんじゃねえど、また怒られるど」
「うん7時までには帰ってくるよ」
「まったく、たまには家にいろよ」
まだ、ぶつぶつ文句を言っている母ちゃんを無視して家を出た。
加藤のうちまでは歩いて10分くらいだった。

「こんちは~」
加藤のかあちゃんが出てきた。
「あら、早川君帰ってきたん」
「ええ、さっきかえってきたんです。加藤はどっかへ行っているんですか」
「子供部屋で麻雀やってるよ、渡辺君も来ているよ」
「じゃあ入っていいですか」
「いま、天ぷら作って持っていくから、ゆっくりしてね」
「すいません、お邪魔します」
子供部屋ではガチャガチャ音がしている。渡辺が声をかけてくれた。
「おお、早川か入れよ」
「渡辺も来てたんだ、この間は参考書悪かったな」
「どう、役に立ちそうかい」
「すっげいな、渡辺にはびっくりしたよ」
「まあな、あのくらいたいしたことはないよ」

加藤の弟は二人いる。中学2年のチャーボーと高校2年の文敏だ。
ブンちゃんと呼んでいる。文敏も秀才だった。
進学校の太田高校でも上位の成績で東大を狙っている。
文敏も私の事を君付けで呼ぶ。
もっとも東大の渡辺にも、君付けで呼んでいるんだからまあいいかと思った。
「早川君、早稲田に行くんだって」
「ブンちゃんも知っていたんか」
「あそこけっこう難しいよ」
「受からなければ、それまでだよ」
「大丈夫だよ、渡辺君の参考書を使ってやっているんでしょ」
「うん、あれには助かったな」
「あれ、僕が貰いたかったんだよ」
「そうだったんだ、悪かったな」
「いいよ、僕には近所に渡辺君がいるから、すぐに聞きにいけるしさ」
「そうだよな、環境そろっていていいな」

チャーボーも麻雀やっていた。
「チャーボーも麻雀できるんだ」
「うん、渡辺君に教わったんだよ、まだよくわかんねえ」
「へえ~、それでもすげえな」
「早川君、俺の代わりにやってみる」
「やったことがないよ」
「じゃあ、兄ちゃんの後ろで見ていたら」

渡辺が麻雀やりながら色々アドバイスしてくれた。
「答えを書くとき、句読点に気を付けろよ」
「ええ?句読点も」
「句読点の付ける所を間違ってもマイナスされるからな」
「そうなんだ、厳しいな」
「それから漢字だって、棒が撥ねるか撥ねないかでもマイナスになるぞ」
「棒って?」
「木っていう漢字は下が撥ねているだろ~」
「それでも減点かよ」
「そうさ、そのくらい注意しないとだめだよ」
「そうか、まだ俺はそのへんがいい加減だな」
「絶対答えは丁寧に書けよ、読みづらいとそれだって減点だよ」
「そうか、そこまでしないと駄目か」
「あと、易しい問題から解けよな、時間配分も考えろよ」
「うん、その辺は注意しているんだけどな」
「時間がなくなってくるとあせるぞ、易しい問題から先にやれば余裕だよ」

どの教科も解答方式は記述式だった。
解答はできても漢字一つ、送り仮名一つ間違っても減点される。
経験者ではなければ気が付かない事を話してくれた。
渡辺に後光がさしていた。まるで天の神様からの贈り物に思えた。
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