第5話 運命の早稲田大学見学

文字数 5,291文字

大学の入学願書入手は10月頃になる。
入学願書提出が1月末。
入学試験が2月中旬。
合格発表が2月下旬。
合格すれば3月に会社を退職する。
来年4月から大学に入学する。
合格した場合のアルバイト先も見つけなければならない。
大学近くの住込みで雇ってくれるような所を探したい。
住込みの新聞配達なども考えられる。

受験勉強は極秘にやっているので誰にも相談できない。
早めに手を打ち事前の準備をしなければならない。
入学願書に必要な高校の成績証明書も入手しておかなければならない。
願書に貼付する写真も準備しておかなければならない。
一つでも見落としや準備を怠ると1年間が無駄になってしまう。
学習計画書に忘れないように準備事項のメモを入れていく。

何のためにこんな事をやっているのかと疑問に思う事がある。
“貧乏の連鎖から抜け出したいためだ”と自分に言い聞かせる。
会社の寮に住んでいると貧乏生活が感じられないようになる。
“もっとかっこのいい立派な人になるためだ”と自分を納得させる。
大学に行かなければ立派な人になれないのかと又疑問が湧く。
“憧れの人から立派な人になったね”と言われたい。
社会的に信用できる学校の先生ならりっぱにみえるだろうと思った。
つまらない動機なように思えたがそれ以上は考えない事にした。
何でもいいから心を揺さぶる目的があれば頑張れる。
憧れの人が山の向こうで待っていると思うだけで立派な目的になっている。
世の中で役立つような立派な人間になるとかは、今の私には縁がないことだ。

働きながらの受験勉強は苦しいと思う時もある。
生活に不自由がなくなると、安易なほうに逃げてしまうのが不安だった。
今は特に不自由な生活はしていない。朝昼晩の食事もうまいものが食べられる。
思った以上の給料も出ている。寮には少しずつだが友達も出来始めてきた。
工場では職場の仲間が優しくしてくれる。
コーラス部では宮原澄子をはじめ若い女性がいる。
先輩の女性達からも優しく声をかけてもらう事もあった。
誰でも知っている有名な会社だ。一生ここでお世話になってもおかしくない。
いまは何不自由のない快適な生活だ。このままずっと平穏に暮らすほうが楽なような気がする。

でも何か違う。このまま楽を選べば運命の連鎖は断ち切れない。
生活は楽になったが、人間性の成長や豊かな人生がこれで決まったとは思えない。
大事な事は、2度とないこの青春の時期に、未来の人生の基礎造りをしなければならない。
大学受験は未来の道を開く一歩になる。もちろん無学でも立派な人はいる。
この時期の過ごし方で未来への道が分かれてしまう。
この青春の時期をどう過ごすかが大きな岐路になる。

父ちゃんの実家も母ちゃんの実家も生活レベルは低かった。
父ちゃんの親も母ちゃんの親も貧しい暮らしだった。
それでも食うことはできたので両親とも特に問題意識を持っていない。
貧しいのは当たり前だと思っている。
汗水たらして一生懸命に働くことが大事だと思っている。
それはそれで立派だと思う。
両親は頭を使って工夫して、生活レベルを上げる事には関心がなかった。

小学生の頃は特に貧しいという事を意識していなかった。
子供の時は土地や畑や山林が個人の持ち物と知らなかった。
小さな林の中にカブト虫のいる栗の木があった。
「ここは俺んちの林だから勝手にとるなよ」と言われたこともある。
着ている服や持ち物や食べ物に貧富の差があるのは気にならなかった。
生まれつきこの貧しい家庭で暮らしてきたので、この生活が普通だった。
中学生の頃、ほのかに恋心を抱くようになってから貧しい事が気になってきた。

片思いの小中可南子から「早川君、いい感じ」といわれた時。
この子が彼女になったらどんなにいいだろうと思った。
着ている物も持っている物も体裁の悪いものばかりだった。
母ちゃんがバリカンで刈ってくれる頭はいつもとら刈りだった。
ズボンも兄ちゃんの薄汚れたお下がりだった。
白いシャツもお下がりで黄ばんでいた。
片思いするようになってから自分の姿を意識するようになった。
この貧しい生活から抜け出したくなった。
小中可南子の姿を見かけると気が付かないように身を隠すようになった。

高校に入学するのも大学に行くのもすべて親の権限になる。
親の生活力がなければ大学にいけない。
だから貧乏というものは代々抜け出せないものと感じていた。
それでは貧乏の連鎖が断ち切れないような気がした。

良い大学に入れば良い所で働ける。
良い所で働けば収入がよくなる。
収入がよくなれば生活レベルは上がる。
それに人間的な成長も期待できる。
生活レベルが上がれば片思いの人とも交際できるような気がした。

中学校の国語の先生がいいと思った。好きな学科の先生になれるからだ。
漠然とだが先生になるなら、高校よりも中学校のほうがいいと思えた。
自分の能力では高校生を教える資質はありそうにない。それに気が小さい事もある。
それに公立の先生は公務員になる。公務員は安定している。
自分なりの打算が働いた。特別奨学金を貰うほど優秀な成績ではなかった。

姉ちゃんも兄ちゃんも中学卒業で就職している。
学問には無関心な家庭だった。大学までいける生活レベルではなかった。
ここにいてはこの生活から抜け出せないような気がしていた。
幸いにも高校へはいけた。高校を卒業すれば大学への道が開ける。
この家から出れば目的が叶うような気がした。

雨漏りのする家にいるのが嫌だった。
ひび割れた壁の家にいるのが嫌だった。
家出する事ばかりを考えていた。

今こうして快適な環境で生活していると目的を失いかけてくる。
受験勉強も同じことの繰り返しで飽きてきた。これに何の意味があるのか。
漢字を覚えたり、因数分解を解いたりの繰り返しに疑問を感じる事が多い。
物思いに耽る日々が多くなってきた。
日曜日には近くの林の中に散歩に出た。
林の中を何時間もボーっと歩く事が多くなった。
林の中には小さな沼があった。
その小さな沼の畔で、鏡のような水面を見ながら考えていた。
人生ってなんだろう、生きるってなんだろうと青臭い事を考えていた。

身近には好きになり始めた宮原澄子もいる。
積極的に声をかければ交際できるかもしれないと思った。
宮原澄子と交際するのに大学の資格は要らなかった。

小中可南子も村岡良子も大学1年生だった。
自分も大学に行かないと二人が手の届かない所へ行ってしまう。
二人には大学受験を目指していると言ってしまった。
いまさら、目的を途中でやめるのはかっこ悪いように思えた。
何年か後に逢った時にはかっこいい自分の姿を見せたかった。

小中可南子の顔を、声を、匂いを思い出して沼の水面を眺めていた。
水面には小中可南子の姿は浮かび上がってこなかった。
頭の中には村岡良子の姿が浮かんできた。村岡良子のほうが身近な存在に思えた。

しばらく村岡良子に手紙を出していない。あれから2ヶ月も経ってしまった。
すぐに手紙を出すと約束していたのに出さなかった。
すべてに対して中途半端な自分の性格が嫌になってきた。
だめだ、この性格を変えなければ何一つ成功しないように思えてきた。
あ~あ、この沼の中に身を入れて、いっそ楽になってしまいたくなってきた。
相談する友達もいない。一人の世界をさまよっている。孤独は感傷的になる。
このままス~っと沼に吸い込まれれば、悩みが一瞬に消えるような気がしてきた。
ポケットの詩集を取り出し落ち込む心を慰める。


・・・いざ行かむ 
・・・いきてまだ見ぬ山を見む 
・・・この寂しさに君は耐ふるや
・・・なにゆえに旅に出づるや 
・・・なにゆえに旅に出づるや 
・・・何故に旅に
・・・・・・・・・・・若山牧水

受験勉強も競争相手がいない。同じことの繰り返しでは不安が募ってくる。
学習意欲も失いかけていた。すべての事が心細くなってきた。
不安が広がっていく。この先が見えてこない。寂しさがつのってくる。
村岡良子は山の向こう。小中加奈子は雲の上。この毎日に何の意味があるのだろう。
茫然としながら小さな沼の畔で水面に映る雲の流れを見ていた。

ふと、あることを思いついた。急に大学を見に行きたくなった。
まだ午後1時、時間は充分にある。
目的の大学はまだ写真でしか見たことがなかった。
行って見てどんな姿なのか見ておきたい。
現実に大学の姿を見れば何か変わるかもしれない。
学生運動が新聞で連日のように報道されている。
募集状況が変化しているかもしれない。

住所は大学案内に載っていた。不安なのは東京に一人で行く事だった。
迷子にならないか心配だった。行ってみるしかない。
有名な大学だから誰に聞いてもわかるだろう。

うっそうとした林を抜けて独身寮に戻った。ズボンやシャツを履き替えた。
本の中から5千円出して財布に補充した。とにかく高田馬場へ行こう。
悶々とした思いはすでに消えていた。
すぐにでも大学を見たかった。それだけで頭の中は一杯になっていた。

総武線で秋葉原駅までいった。秋葉原駅から山手線に乗り換えれば行ける筈だ。
秋葉原駅には想像を超える人がいた。歩くのにも苦労するくらいだった。
秋葉原駅では何本ものホームがある。電車はゴウゴ~とひっきりなしに走っていた。
山手線で高田馬場駅まで行きたい。どれに乗っていいかわからない。
一つホームを間違えてだけで異国の地に行ってしまうような気がした。
通りすがる人はみんな忙しそうでホームの場所を聞く隙がなかった。
切符を切る駅員さんも忙しいそうで聞くチャンスがなかった。
タバコを吸いながら暇そうにしている人がいる。恐ろしそうで声がかけられない。

駅構内の案内を見ながら山手線のホームを探した。
階段を登ったり降りたりしてやっと山手線のホームに辿りついた。
高田馬場は山手線の上りなのか下りなのかわからない。
上野に向かう電車が上り、田舎へ行く電車が下りは知っていた。
どんな路線でも上り下りはあることくらいわかる。
ホームの左右で山手線が反対の方向に向かって走っている。
どっちが上りか下りかわからない。

勇気を出して聞くしかなかった。顔が優しい親切そうな年配の人を探した。
なかなか理想の人はいなかった。みんな脇見もせずに歩いていて、聞く隙がない。
暇そうなのはやはりタバコを吸っている人になる。
中年の男の人に恐る恐る聞いてみた。
「すいません、ちょっと伺っていいですか」
返事をしない。私の顔を眺め回している。勇気を出して聞いてみた
「高田馬場に行くには、どっちに乗ったらいいですか」
「高田馬場? どっちに乗っても行くよ」
田舎者に見られて馬鹿にされたようだ。そんな事があるわけがない。
上りと下りとあるのにどっちでもいい筈はない。
「ええと、高田馬場なんですが」
「だから、どっちへ乗っても行くよ」
「ああそうですか、ありがとうございました」
これ以上聞くと怒られそうだった。都会の人は信用できない。平気で嘘をつく。

次は中年の女の人に聞いた。一回聞くと少し気持ちが慣れてくる。
「すいません、高田馬場は上り下りどっちへ乗ればいいんですか」
「そうね~、どっちでもいいんだけど、どっちがいいかしら」
その中年の女の人は普段着だった。近くに住む人に思えた。知らない筈がない。
又馬鹿にされたような気がした。
「高田馬場駅っていうんですが」
「どっちがいいかしら、どっちでも同じくらいじゃない」
「高田馬場は新宿のほうだと思うんですが」
「ええ、じゃあこっちのほうがいいかしらね」と3番線を指さした。
「ちょっと待って、こっちのほうがいいかしら」と2番線を指さした
どっちでもいい? そんなことがあるわけがない。いい加減なふざけた答えだった。
誰にも教えてもらえない。都会の人は冷たい人が多いような気がした。
忙しそうにしていても駅員に聞いたほうがいい。聞くのもだんだん慣れてきた。
「すいません、高田馬場駅はどれに乗ればいいですか」
「山手腺3番ホームにお回り下さい」やっぱり駅員は話が早い。

早速新宿方面の山手線に乗った。電車の中に山手線路線図が貼ってあった。
そうなんだ。山手腺は丸く一周していた。つまりどちらに乗っても行けたのだ。
山手腺は上り下りではなく、内回りと外回りという事もわかった。
高田馬場駅は秋葉原から円の反対側に位置していた。
おじさんの言葉もおばさんの言葉もみんな本当だった。
田舎もんだと見られて馬鹿にされているわけではなかった。
高田馬場駅は秋葉原からだと、どちらが早く着くか迷う距離にあった。
まさか電車が円を描くように走っているなんて想像もできなかった。

高田馬場駅に着いた。多少人数は少なかったが自分の田舎の比ではなかった。
見るもの見るもの珍しいものばかりだ。大学に辿りつけるか心配になってくる。
まだ明るいうちに見つけなければならない。
こんな都会で暗くなったら何がおきるかわからない。
高田馬場駅を降りたがどっちへ歩いて行くかがわからなかった。

行きかう若い男女がみんな早稲田大学の学生に見えた。
暗くなる前に大学の見学をしておきたい。
何かの力に導かれるようにしてここにたどり着いた。
見えない力は、岐路に立つと何らかの方法で進むべき方向を示してくれる。
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