第2話 葉山でコーラス部合宿

文字数 6,093文字

6月 第2土曜日
終業後、工場正門前にコーラス部のメンバーが集まつた。
正門前には小型バスが来ていた。コーラス部のメンバーは25人くらいだった。
これから葉山に向かい会社の保養所で一泊する。
明日の朝6時に起きて6時間位練習すると聞いていた。
また、経験したことのない別な世界が体験できそうだ。

5月の慰安旅行と違ってバスの中では誰もお酒を飲んでいなかった。
時々、先輩の女性がキャラメルやチョコレートを持ってきてくれた。
バスの中ではあちらこちらで歌を歌っている。
大学出の先輩達は仕事の話や社会の出来事を話題に会話をしている。
飲んでいるものは缶コーヒーやミネラルウオーターだった。
水を買って飲むということが信じられなかった。
教養のある人たちは話題が豊富だった。
人生のステージで話題は変わる。価値観も変わる。この人たちはレベルが違う。
バスの中は今まで経験したことのない興味ある風景だった。

市原はどんな時でもどんな人とでも会話ができる。
特に色んな知識があるわけではなさそうだ。
市原を見ていると人の話題に入っていくコツが判る気がした。
「ほんとですか?」
「それって、面白そうですね」
「へえ、そうなんですか」
「すごいですね」
相槌、共感、興味、褒める。この繰り返しで会話になっている。

人の話題の中に入って行くにはこのへんが大切なようだ。
知識がなくても相手の話しを聞くだけで充分会話は成り立っている。
何も知識も話題もない者が会話に入る条件のような気がした。
市原はもって生まれた性格なのか自然にこなしている。
自分が育った環境では「おとなしい子」がいい子の代名詞だった。
それはもう通用しない事を感じ始めていた。
急に性格は変えられないが少しでも改善しようと思った。

バスの中では外の景色を眺めたり詩集を読んだりしていた。
先輩達は時々声をかけてくれた。
「おなかすいていないか」
「ええ、少し。いいえ、まだ大丈夫です」
「あと、30分くらいで着くと思うよ」
「そうですか」
「保養所に着いたら食事があるよ」
保全課の先輩達のようにしつこさがなかった。下町と山の手の違いのように感じた。

出発してから2時間くらいで目的の保養所へついた。
会社の厚生施設のようだ。芝生のある庭で2階建ての施設だった。
食堂にはもうすでに食事が用意されていた。
リーダーの小海さんがみんなに声をかけた。
「明日は朝8時から練習しますので、それまではゆっくりして下さい」
泊まる部屋は1階の6畳の和室だった。市原と一緒だった。
窓からは広い庭の芝生や植木が見えた。貧乏人が来られるような所ではない。

一つ一つの決断が運命を切り拓いていく。あの日、家出の決断をした。
そしてこの工場を選んだ。この合宿もこの工場の一員になったからできる事だった。

夜9時ごろメトロン澄子が部屋に入ってきた。
メトロン澄子は私のほうを見て口を尖らせプイッとした。
それから市原に向かって声をかけた。
「市原君、同期の子が部屋に集まっているんだけど来ない?」
「おお、そうか、行こうか、何か食いもんくらいあるんだろうな」
「うん、お菓子とか、飲物ならね」
「早川、一緒に行ってみないか」
「宮原さん、俺も行っていいの?」
「来たかったら来れば。メトロンって言うのはやめてよね」
女の恨みは長い。いつまで機嫌が悪いんだろう。

同期の市原には笑顔で気軽に話している。
「じゃあすぐ行くよ、なんていう部屋」
「2階の楓の間、階段を上がって左側の一番奥の部屋なの」
「わかった、着替えたらすぐに行くよ」
「じゃあ、待ってるね」

市原はバックから白っぽい軽装に着替えている。
「あれ」、市原は着替えを持ってきたの」
「当たり前じゃん、1泊する時は常識だよ」
「その、着ている物、何ていうん」
「ジャージーだよ、このくらいは持っていろよ」

まだ世渡りの道具が足りないようだ。靴下だけはポケットに入れてきた。
足の臭いのは経験上知っていた。靴下だけは履き替えた。
市原の後について2階に上っていった。通りがかる各部屋から賑やかな声がする。
「おお、みんな楽しくやっているようだな」
「うん、何しているんだろ」
「人それぞれだよ」
どうも市原の言葉は大人びている。


市原が勢いよく襖を開けた。楓の間には4~5人の女の子が集まっていた。
みんな軽い服装に着替えていた。二人が入っていったら拍手が湧き起こった。
10畳以上はあるちょっと広めの和室だった。
窓からは海が見えた。暗い海に幾つもの灯りが点々と光っている。
夜の海もまたロマンチックな風景だった。

木製のテーブルの上にはお菓子や飲み物がいっぱい並んでいた。
キャンディ、バタープリッツ、チョコレート、前田のクラッカー。
ペプシコーラ、ファンタオレンジ、ファンタグレープ等色々あった。
その他、バナナやリンゴ、ミカンなども並んでいた。
それぞれがお菓子を食べながらおしゃべりをしていた。

まだ全員の名前を覚えてない。工場では胸に名札が付いているので問題はなかった。
メトロン澄子以外は顔と名前が一致しない。
会話の中で呼び合っているのを聞きながら頭の中で覚えた。
女の子がいる部屋というのは何となくウキウキする。

鈴木という女の子は活発な子だ。
「早川君!メトロンっていうのはかわいそうだよ」
「うん、いつも言っているわけじゃないよ」
「宮原さん気にしているよ」
「メトロンだって、おれのことオシッコたかしぃって言ったからさ」
「じゃあ、今日から、お互いに早川君と宮原さんにしたら?」
「うん、俺はいいけど」
「じゃあ、そうしてよね」

テーブルの上に載っている食べ物が気になっていた。
みんな食べたこことのないものだった。
鈴木さんがコップにファンタグレープを注いでくれた。
うま~い。ピリッと炭酸が効いてぶどうの味がほんのりした。
独身寮の自販機にもあった気がする。これからはたまに飲んでみようと思った。

「どうぞ、お菓子も食べて!」
「ほんと、食べていいの」
「どうぞ、どれ食べてもいいよ」
さっきから食べたかった。やっと許可がおりた。
長年の習慣で食べていいよと言われなければ手が出せなかった。
みんな生まれて初めて食べるものばかりだった。
前田のクラッカーは特にうまかった。一袋全部食べてみたかった。
社宅前の雑貨屋でも売っていた。その時は特に気にならなかった。
食べないものは味がわからない。わからなければそれで済む。
生きていくためには特に必要ないものだった。
食べてみると、たまには買ってもいいなという気がした食べ物だった。
こうやって無駄遣いが始まっていくんだなという気がした。

目のクリッとした川田さんという女の子が声をかけてきた。
「みんなでトランプでもしない」
トランプなんてしたことがなかった。まだまだ世渡りの道具が不足している。
この部屋は鈴木さんが仕切っているようだ。
「その前にさあ、自分の一番好きな歌を一曲ずつ歌おうよ」

わあ~、食べていたクラッカーがのどに詰まりそうになった。
好きな歌なんて一曲もない。聞いたことはあっても歌詞まで知らないよ。
まさか自分が人前で歌うなんて考えてもいなかった。
一人ずつ歌を歌うことが決まったようだ。何か断る理由を見つけよう。
ああ、ヤバイ!飲み物も飲んだし、お菓子も食べたあとだった。
ここで帰るのは恥ずかしくってできない。指名されないように下を見ていた。

鈴木さんはみんなを見渡した。
「誰からいく!あたしからやろうか」
みんなからパチパチ拍手が起こった。女子なのにあんな勇気はどこから出るんだ。
今までの人生では考えられない事だった。へんな所へ入り込んでしまった。
「じゃあ行くわよ、何にしようかな」
小峰さんという女の子がバックから歌詞カードを取り出してきた。
「これ使って!」
「わあ、サンキュー助かる、じゃあ、私が先に歌うからみんなもついてきて」
「はあーい、鈴木さん頑張って」
「歌い終わった人が、次の人を指名してね」
「はあ~い」
「じゃあ、山のロザリアから行くね」

♪山の娘ロザリア~~~
♪いつも一人歌うよ~~
鈴木さんが高いソプラノで歌い始めた。
そのあとについて、みんなが歌いだす。
ハモっている人もいる。
10畳の和室は歌声喫茶のようになってしまった。

自分にとっては急に居心地の悪い部屋になってしまった。
目の前のお菓子のほうも気になっていた。いつ指名されるかわからない。
お菓子なんか食べている場合ではなかった。気持ちが落ち着かない。

歌を聞きつけて隣の部屋からも先輩達が入ってきた。
タンブリンを手にしている人もいた。ギターを抱えてきた先輩もいた。
10分くらいすると10畳の楓の間に全員が集まってきた。
それぞれが適当に場所を陣取り畳に座り始めた。歌が好きな人たちばかりだった。
これだけ人数がいれば番がまわってこないだろうと安心した。
目の前の残ったお菓子を又食べ始めた。

歌は次から次へと続いていった。コーラス部だけにみんな歌がうまかった。
「コーラスごいや」 コーラを飲みながら心の中でダジャレを作った。
篠原さんに感化されて、なんでもダジャレが浮かんでくるようになっている。
テレビで見る歌手よりうまいと思える人もいた。知っている曲も多かった。
「ともしび」 「トロイカ」「カチューシャ」 「ヴォルガの舟唄」
「山賊の歌」 「ステンカ・ラージン」だいたいこんな歌だった。

指名しなくても次から次へと誰かが歌い出す。それに続いて全員で合唱している。
市原は「乾杯の歌」を歌った。声量もあり音程もしっかりしていた。 
歌い終わると全員から拍手喝采を浴びていた。
宮原さんは「忘れな草をあなたに」を歌った。
きれいな透明の声だった。顔と声が合わないが澄んだ声で歌っていた。
歌い終わると宮原さんにも賞賛の拍手が沸き起こった。
歌はどんどん続いていった。自分も歌っているような振りをしていた。

さらに歌は続く。
「ゴンドラの唄」「山男の唄」「琵琶湖周航の歌」「おお牧場はみどり」 
「おおブレネリ」「アルプス一万尺」コーラスに似合う歌ばかりだった。 
「サンタ・ルチア」を歌ったリーダーの小海さんはすばらしかった。
誰もが合唱をやめて聴き入っていた。迫力のある声は部屋中に快く響き渡った。

すでに部屋へ来てから2時間くらい経っていた。
田舎のうちは歌なんていう環境とは程遠い世界だった。
歌といえるかどうかわからないが、父ちゃんの歌には悩まされていた。
父ちゃんはお風呂に入ると必ず何か歌っていた。
機嫌のいいときは、何かわけのわからない民謡を唸っていた。
♪富士の白雪ゃノ~エ 富士の白雪ゃノ~エぇ~富士のサイサイ
 白雪ゃ~ぁ 朝日~で 溶け~る
母ちゃんと喧嘩した時や機嫌があまりよくないときは浪曲を唸っていた。
♪旅~ゆけばぁ~ 駿河の里にぃ~茶のかおりぃ~♪

殆ど歌わない日はなかった。どっちかを歌っていた。
子供達は父ちゃん歌で機嫌を判断できた。
父ちゃんが機嫌のいいときは何となく嬉しかった。
私は小学校4年生位まで父ちゃんとお風呂に入っていた。
父ちゃんの歌が終わるまではお風呂から出る事ができなかった。

父ちゃんの歌は長かった。
♪富士の白雪ゃノ~エ・・・・ではじまる。
最後にくる歌詞が待ち遠しかった。
♪ 三嶋あ~へそそぐ。~~~これでやっと終わる。
父ちゃんはお風呂の中で私にこの歌を歌わせた。
何十回も聞かされたので全部そらで歌えるようになった。
ちょっとでも間違えると間違えた所から又歌わされた。
この歌が終わればお風呂から出られるので夢中で歌った。
父ちゃんの倍くらいのスピードで歌った。
無学な父ちゃんが歌えるんだから誰でも知っている歌だと思っていた。
もし指名されたらこれしかないなと腹に決めていた。

もうすでに10時半頃になろうとしていた。
雰囲気はもう終わりに近かった。ああ、何とか指名されずにすんだ。
市原が何も歌っていない私に気が付いた。
「あれ、早川まだ何も歌っていないだろ~」
余計な事を大きな声で言った。宮原さんも日頃の恨みからか市原に加勢した。
「早川君、まだ何も歌ってないよ、ずるいよ」
歌の嫌いな私のことがまるでわかっていない。もうこの子とは終わりだなと思った。
リーダーの小海さんの一言は決定的だった。
「じゃあ、早川君の歌を最後にお開きにしよう」
リーダーの言葉には威厳があった。
「ほんとに何でもいいですか」
「うんいいけど、なんていう歌なの」
「歌の題名は知らないんですけど」
「じゃあ、聞けばわかるかな、歌ってみて」
全員がこっちを注目している

口の中にはまだお菓子のカスが残っていてザラザラしていた。
ビンに残っていたペプシを口に含んでクチュクチュした。
炭酸の泡でカスがよく取れるようだった。口の中のペプシを飲み込んだ。
全員がこっちを注目している。クスクス笑い声が聞こえ始めた。
なかなか踏ん切りがつかない。

お風呂で会った利重先輩もコーラス部だった。
「じゃあ、俺が歌い出し易いように号令をかけてやるよ」
「じゃあ、3.2.1ハイって言うから歌ってみな」
度胸を決めるしかなかった。早めに歌えば3分くらいで済む。
市原が「ガンバレ!ガンバレ!たかしぃ」とはやしたてた。
それに続いて全員が「ガンバレ!ガンバレ!たかしぃ」を合唱した。
利重さんが「サン、ニー、イチ、ハイ!」と掛け声をかけた。
よーしと!! 大声で歌い始めた。

♪富士の白雪ゃノ~エ 富士の白雪ゃノ~エぇ~富士のサイサイ
  白雪ゃ~ぁ 朝日~で 溶け~る
    (部屋の中が驚きで静まり返った)
♪とけて流れてノ~エ とけて流れてノ~エぇ~とけてサイサイ 
  流れて~ぇ~ 三島~へそそぐ
    (女の子達がクスクス笑い始めた)
♪三島女郎衆はノ~エ 三島女郎衆はノ~エぇ~三島サイサイ
  女郎衆は~ぁ お化粧が長~い
    (全員がゲラゲラ笑い始めた)
♪お化粧長けりゃノ~エ お化粧長けりゃノ~エぇ~お化粧サイサイ
  長けりゃ~ぁ お客~が困る
    (先輩達が腹を抱えて畳をたたき始めた)
♪お客困ればノ~エ お客困ればノ~エ お客サイサイ
  困れば~ぁ 石の地蔵さん
    (利重さんが手拍子を打ち始めた)
♪石の地蔵さんノ~エ 石の地蔵さんノ~エ 石のサイサイ
  地蔵さんは 頭~がまるい
    (全員が手拍子をたたいて音頭を取り始めた)
♪頭丸けりゃノ~エ 頭丸けりゃノ~エ 頭サイサイ
  まるけりゃ~ぁ カラスがとまる
    (全員がノ~エの合いの手を入れ始めた)
♪カラスとまればノ~エ カラスとまればノ~エ カラスサイサイ
  とまれば~ぁ 娘島田
    (利重さんが歌に参加した)
♪娘島田はノ~エ 娘島田はノ~エ 娘サイサイ
  島田は~ぁ 情でとける
    (市原が、歌にあわせてふざけて踊り始めた)
♪とけて流れてノ~エ とけて流れてノ~エぇ~とけてサイサイ 
  流れて~ぇ~ 三島~へそそぐ
    (全員が立ち上がり、ノ~エ、ノ~エの大合唱が始まった)

ふぅ~、やっと終わった。大きな拍手と大爆笑が起こった。
恥ずかしかった。又、最後のトリに利用された。仕組んだのが必ずいる。

世の中は安心できない、どんな罠があるかわからない。
大人になったら仕掛ける側の人間になりたいと思った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み