第7話 入学試験までの半年間

文字数 5,758文字

見えない力から与えられたようなこの独身寮の6畳の部屋。
自分だけの自由な世界だった。
孤独な部屋では自分の思考を邪魔するものがいなかった。
受験勉強も限りなく集中してできた。
食事もお風呂も自由な時間でよかった。
工場の3交替の勤務体制が幸いした。
いつまで勉強していても、いつまで寝ていても自分の都合でよかった。
8時間の労働さえ真面目にやっていれば、あとは全部自分の時間だ。
親兄弟、隣近所、友人知人等、人間関係の煩わしさがない世界だった。


・・・・・一生の中で一番集中できた時期だったと思う。
・・・・・この時期の影響で孤独な時間が好きな性格になってしまった。
・・・・・今でも知らない居酒屋でポツリと飲む一人酒が好きだ。

工場へ働きに行くのも楽しかった。
宮原澄子もトロンとした目で「おはよ~」と挨拶してくれる。
一番勤務の土曜日には、先輩から飲みに誘われることが多くなった。
時間がもったいないとは感じなかった。
自分を可愛がってくれるその優しさが嬉しかった。

コーラス部では9月にピクニックに行く事が決まった。また楽しみが増えた。
清水が時々部屋に遊びに来てくれた。たわいない馬鹿話も楽しい時間だ。
市原が工場の帰りに歌声喫茶に連れて行ってくれた。気持ちよく歌を歌えた。
それぞれの形が違う人の優しさがあった。
寮に帰るといつもの孤独の世界で勉強をした。
働く仲間の世界と、自分だけの孤独な世界がドア一つでつながっていた。

10月には入学願書を千葉駅前のの大きな書店で購入した。
準備するものがだんだん明らかになってきた。
高校の卒業証明書、成績証明書、添付する顔写真が必要だった。
入学金と授業料で27万円必要だった。本の中には13万円くらい貯まっていた。
3月まで6回の給料と冬のボーナス1回あればギリギリ何とかなりそうだ。

期限までに高校の卒業証明書を貰いにいかなければならない。
日曜日には高校の事務はやっていない。
どうしても1日は工場を休まなければならなかった。
高校に電話して郵送してもらう方法も考えた。
臆病で気が小さい私は、大学を目指している事が会社の人にバレルのが怖かった。
受験勉強をする為に入社した事を知られたくなかった。
この環境も毎月貰っている給料も、すべて大学受験の為に利用している。

独身寮は会社の社員が管理人をしている。
管理人が個人宛の郵便物を割り振っていた。管理人は総務課の管轄だった。
管理人に大学からの入学願書や高校からの郵便物を見られたくなかった。
「入学願書在中」「卒業証明書在中」等の郵便物は不審に思われそうだ。
自分で取りに行くほうが安全だった。

11月の上旬
上司の伊藤主任に頼んで1日休ませてもらった。
適当な嘘を理由に書いた。会社や職場に対し申し訳ない気持ちがした。
普段の日にずる休みをして受験準備の行動をするのが後ろめたい感じがした。

貼付する顔写真は写真屋さんで撮影してもらわなければならない。
入学願書の写真は学生服のほうがいいように思った。
入社してすでに半年以上たっている。高校の時の学生服を来て外に出るのは恥ずかしい。
学生ズボンと白いワイシャツを着た。学生服は黒いビニールバックに包んで手に持った。

八幡宿の駅前に写真屋さんがあった。写真屋さんの前でバックから学生服を出して着た。
バックは丸めてポケットにしまい、写真屋さんで「車の免許書用」の写真といってお願いした。
気が小さくて臆病な性格はこんな所まで気を遣う。
写真屋さんにまで隠す必要はないのに入学願書用とは言えなかった。
入学願書は文学部だけにした。入学試験費用がもったいない。
写真は2枚しか必要ないが、その後のことを考えて10枚作ってもらった。
今でも40数年前の写真が、写真屋さんの小さな封筒のままで残っている。
捨てるのには惜しい気がしてアルバムの中に挟んである。


学生服はバックに入れ、その足で卒業証明書を貰いに群馬県太田市にある母校まで出向いた。
この時は家に寄らなかった。太田駅行きのバスの中から実家が遠くから見える。
その日は帰る所ではないように思った。太田駅に近づくと左手に加藤の家がある。
バスは加藤の家の前の停留所で止まる。家の中が丸見えだが誰もいなかった。
その右手に、バスからは見えないが小中可南子の家がある。
文化祭に行った5か月前が遠い過去のような気がした。
合格するまでの半年間は会いたくなかった。

太田駅で乗り換えて高校まで歩いていった。
高校まで行くには村岡良子の家の前を通らなければ行けない。
道の左側には村岡良子の家がある。道路に面している。
東武線の線路の踏切を渡ると10mくらい先に見えてくる。
村岡良子は大学に行っているが、お母さんがいるかもしれなかった。
もし見つかったらどうしようとハラハラしてきた。
あれから手紙も出していない。ごちそうになったお礼もしていない。
何もしないことは無視と同じだ。後ろめたいことはいくつも思い当たる。

行くときは見つからなくても、また帰りにも通らなければならなかった。
田舎の通りはめったに車は通らない。まして普段のお昼頃は人もいない。
アスファルトの県道を、一人でトボトボで歩く姿は目立つ。
見つかったらその時だ。早歩きで村岡良子の前を通り過ぎた。
横目で家の様子を伺ったが誰もいないようだった。
応接間がチラリと見えた。花瓶には黄色い花が飾ってあった。
片思いの小中可南子が座っていた所だ。

この日は犯罪者のような気がして落ち着かなかった。
親や会社に隠れて受験するのは本当に後ろめたい。
駅から歩いて15分くらいのところの母校があった。
校門を入るとやっと気が落ち着いてきた。
午後の授業が始まった時間だった。校庭には誰もいなかった。
高校の事務所の受付で用件を伝え証明書をお願いした。

事務所の中に2年生と3年生の時の担任だった高橋先生の姿が見えた。
高橋先生は私に気が付いたようだ。歩いてこっちに向かって来た。
悪い事をしているわけではないがなんか怒られそうな気がした。
高橋先生は群馬大学工学部を出て技術科の担任をしていた。
新聞配達などをして苦学して卒業したと聞いていた。就職指導も担当していた。

高橋先生のお世話で今の工場へ入った。
「おお、早川じゃねえか、今日は何しに来たんだ」
「はい、卒業証明書と成績証明書を貰いに来たんです」
「へえ~、何に使うんだい」
「来年大学を受験しようと思っているんです」
「郵送でもよかったんじゃねえか、何でわざわざ取りに来たんだい」
「ええ、ちょっと事情があって」
「おめ~、千葉の石油工場へ就職したんだよな」
「はい、独身寮に住んでいます」
「工場の仕事がきついんかい」
「いいえ、仕事は楽です」
「じゃあ、どうしたんだい」
「大学へ行って、学校の先生になりたいんです」
「そんなこと言っていなかったじゃねえか」
「あの時は親の手前、大学へ行きたいなんて言えなかったんです」
「そうか、悪い事じゃねえやな、それでどこを希望してるんだ」

先生には言わなければならないと思った。
「恥ずかしいんですが・・・」
「そんな柄じゃねえだろ、言ってみな」
「早稲田大学文学部です」
「馬鹿やろ~、望みが高すぎら~」
「でも、どうしても入りたいんです」
「工場へ入って、どうやって受験勉強が出来るんだ」
「勤務が三交替なんで、時間はあります」
「早稲田なんて無理じゃねえのか、ほかにいくらでもあるだろ」
「早稲田って、そんな難しいんですか?」
「う~ん、早川の力じゃ逆立ちしたって入れねえだろうな」
「だめでしょうか?」

高橋先生は頭を抱えて困った顔をしている。
「俺、今時間が空いているから、ちょっとこっちへ来いや」
「はい・・・・」
「早川は、時間は大丈夫なんか?」
「はい、今日は有休をとってきています」
「昼飯は食べたんか?」
「うう~ん・・・」
「中華そばでもとってやるか」
「いいえ~~はい。ありがとうございます」

高橋先生は事務所の女の子に中華そばの出前を頼んでいた。
高橋先生の後をついて図書室いった。
怒られているわけではないが、先生ってなんか怖い気がする。
高橋先生は一冊の本を持ってきた。それは大学の入試難易度が書いてある本だった。
「早川、ちょっとこれを見てみろ」
「はい・・・」
そこには全国の大学の入試難易度のランク表があった。
早稲田大学は上の上のほうだった。
「ほかにもあるだろ~、なぜ早稲田なんだ」
「ええ、ちょっとかっこいいような気がして」
「そんなんで入れるわけないだろ~」
「だめですか?」
「駄目ってわけじゃないけど、見てみろよこれ、無理だろうよ」
「今、一日7~8時間勉強しています」
「時間じゃねえよ」
「落ちたら今の工場で合格するまで働きます」
「う~ん、文学部に入って何になりてえんだって」
「国語の先生になりたいんです」
「じゃあ、ここなんかどうだ。ここなら可能性があるぞ」
「でも・・・、どうしても早稲田に入りたいんです」
「おめえ、昔から頑固だったからな」
「すいません・・」
「入学金や学費はどうするんだ」
「いま、給料を貯めています」

高橋先生は深いため息をした。
「おめえ、計画的犯行だな」
「あの時は言えなかったんです」
「太田にだって、寮のある工場はいっぱいあったよな」
「近くだと、家から通わなけりゃならいから嫌だったんです」
「何で千葉のほうまで行くのか不思議に思ってたんだよ」
「家にいたんでは勉強できないと思ったんです。お金も貯まらないし」
「そうか、そこまで考えたんか、俺にも一言くらい言えよ」
「すいません」
「あやまることはねえけど、困ったもんだな」
「受かる可能性がある所にしたらどうなんだ」
「入学金と授業料が一番安いんです」
「品物じゃねえんだぞ、高い安いじゃねえよ」
「無理でしょうか?」
「どうやって勉強してるんだ」
「参考書を暗記して、問題集で力試しをしています」
「うん、間違っちゃいねえけど、人には能力ってもんがあるんだぞ」

図書室に国語の担任の荒木田先生がやってきた。
荒木田先生は私が3年生の時は進学指導を担当していた。
大好きな先生だった。
荒木田先生は早稲田大学の文学部を卒業していた。
この先生に影響されて早稲田に入りたかったのだ。
ほかの科目はたいしたことはなかったが国語の成績はよかった。
荒木田先生はいつも励ましてくれていた。
荒木田先生はアルバイトをしながら高校へ通っていた事も話してくれた。
私も高校生の時、鉄工所でアルバイトをしていた。
荒木田先生と話すと大人っていいなあと思えて安心した。
荒木田先生と話をすると将来の夢が想像できた。
「おお、早川君か。今日はなんだい」
「ご無沙汰しています、ちょっと訳があって」
「大学にでも入りたいって言うんだろ」
「はい、それで、証明書を貰いに来たんです」
「やっぱりな、それでどこへ行きたいんだ」
「ええ、・・」

高橋先生がそれに答えた。
「こいつ、早稲田大学の文学部に行きたいっていうんですよ」
「へえ~、そいつはすげえな」
「どうですか、もっと易しい所がいいって言っているとこなんですけど」
「う~ん、僕だって入れたんだから、いいんじゃないですか」
「荒木田先生とはレベルが違いますよ、こいつ、落ちたらへこみますよ」
「早川君は頑張り屋だから可能性がないとは言えないですよ」
「だけど、高望み過ぎるんじゃないですか」
「やってみなけりゃわからんですよ」

私の横で二人の先生の議論が始まってしまった。居づらくなってしまった。
中華そばの出前が届いた。腹が減っていたが先生はまだ議論している。
許可がなければ食べられない。高橋先生がやっと気がついたようだ
「早川、のびないうちに食え」
「ありごとうございます。頂きます」

先生同士で私の事についてまだ話している。高橋先生が私のほうを向いた。
「早川、模擬試験受けてみるか」
「模擬試験てなんですか」
「11月に旺文社でやっている模擬試験があるんだよ」
「どこでやるんですか」
「どこの高校でも出来るよ」
「うう~ん・・・」
「それで、自分のレベルがわかるよ」
「受からなくてもともとですから、特に・・・」
「そうだよな、わかったからってやめるおめ~じゃないからな」

高橋先生は私の性格だけはよく知っている。
荒木田先生が応援してくれた。
「早川君、人間やって出来ない事はないぞ、ここ一番頑張ってみな」
「はい、ありがとうございます」

事務所の女の子が書類をそろえて持ってきた。
高橋先生が手帳を破いて自宅の電話番号を書いてくれた。
「わからない事があればここに電話しな、相談に乗るからな」
「はい、その時はお願いします」
「気を抜くなよ、お前よりもできるやつが全国で何万人といるんだからな」
「はい、頑張ってみます」
「体も大事にするんだぞ、あまり無理すんな」
「はい」
「俺はこのあと授業があるから、これで行くけど頑張れよ」
「今日はありがとうございました」

先生は笑って図書室から出て行った。高校の時は近づくのが恐かった。
今日はなかなかいい先生だと見直した。
恐いのは物の言い方だった。怒ったような口ぶりが恐かった。
高橋先生は損している。そうやって最初から優しく言えば誰からも好かれるんだよ。

荒木田先生も午後の授業があった。
「じゃあ、早川君がんばれよ、君ならできるよ」
「ありごとうございます。頑張ります」
「途中でくじけないようにするんだぞ」
「それだけは自信があります」
「じゃあ、来年は僕の後輩ということだな」
「は、はい・・・」
胸のポケットから万年筆をとって渡してくれた。
パーカーの万年筆だった。図書室を出て行く後姿もかっこよかった。
図書室で調べ物をしている時の荒木田先生の姿が憧れだった。
ノートにすらすらと万年筆で書いていた。その万年筆を私にくれた。

図書室は私一人になった。ああ、やっと終わったという感じだった。
まさか、こんな事になろうとは思わなかった。
私の事で大人の議論になってしまった。大学受験を言ったのはこれで5人目だった。
加藤、小中、村岡等にはまだ子供同士の夢物語で済む。
今回は高橋先生、荒木田先生に大学に行く決意を告げた。
もう取り返しのつかない宣言をしてしまった。
大人への宣言は責任を伴う。夢や希望ではなくなり大人への挑戦に変わった。
大変な事になってしまった。絶対にやらねばならない。

早く帰って勉強しよう。
校門を入った時と校門をあとにした時の気持ちは大きく変わっていた。
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