第12話 人生は人の情けの歯車

文字数 4,269文字

安田さんは短髪で背が低く、目のギョロッとしたやくざ風の人だった。
第1印象はあてにはならないが、厳しくて恐い感じがして緊張した。
「おまたせ、早川君だね」
「はい、そうです」
「人を訪ねる時は前もって連絡したほうがいいぞ」
「はい、すいません、さっきそう思ったんですが、気が付いたらここにいました」
「まあ、そう緊張すんなよ。ところで今日は何の用だい」
「はい、アルバイト先を探しているんですが」
「ああ、天田さんから聞いているよ」
「今日が入学試験の受験日だったんです」
「確か、早稲田の文学部って言っていたよな」
「はい、受かるかどうかわかりませんが、やるだけやってみました」
「早稲田に入って、そのあと何になりたいんだい」
「教員免許を取って、国語の先生になろうと思っています」
「なぜ早稲田なんだい、ほかにいっぱいあったろう」
「授業料や入学金が一番安かったんです」
「それだけじゃねえだろー」
「ちょっと名前も有名で、かっこいいかなあと思って」
「正直だな、真面目を絵に描いたようだな」
「すいません・・・」

そんな恐い人ではなさそうだ。だんだん緊張感がなくなってきた。
人を包み込むような感じの人だった。
「ところでアルバイトするなら、いつ頃からになるんだい」
「合格発表日が2月26日です。それからになります」
「いっちゃあわりーけど、落ちたらどうするんだい」
「それは、まだ考えていません」
「今の会社はいつごろ辞めるんだい」
「3月の給料がもらえるのが25日なのでそれまでいるつもりです」
「ふ~ん。みんな自分の都合ばっかりなんだなあ」
「生活費がギリギリなんです。だから3月26日からお願いしたいと思っています」
「次の日からこっちの会社かい、綱渡りみたいだな」
「自分の頭ではそれしかありませんでした」
「予定や計画は少し余裕を見ておかないと、住む所も無くなるんじゃねえか」
「はい。今考えるとその通りです」
「ちゃんと、次の手次の手考えて動かなきゃ世の中渡れないぞ」
「はい、すいません」
「まあそれはいいとして、住むとこはどうするんだい」
「まだ、決まっていません」
「やっぱりな。住むとこもないから、そっちも頼むよって天田さん言っていたなあ」
「こちらで、それもお願いできればと思っています」
「おんぶにだっこかよ・・・」
「すいません、お願いできますか」
「合格しなかったら、そのあとどうする?そこだよな」
「受かるような気がするんですが」
「そうは問屋がおろさねえよ、世の中そんな甘くないんだよ」
「すいません」
「謝ることはないよ、こっちもはっきりしなけりゃ決めようがないからさ」

ここが一番弱い所だった。落ちた時の事をはっきり決めてなかった。
今日も自分の事しか考えていなかった。苦し紛れに思い付きを言った。
安田さんはタバコを吸いだした。
思い切ってその思い付きを言葉に出した。
「もし落ちたら、この会社で社員として雇ってもらえませんか」
「おおおお~、都合のいい事考えているな」
「やっぱりだめですか」
「駄目じゃないけど、はっきりすれば手はあるよ」
「じゃあ、落ちてもこの会社でお願いします」
「じゃあはねえだろ、たいした会社じゃねえけどさ」
「すいません、じゃあじゃなくて、ぜひお願いします」
「若いっていいな、あつい熱が伝わってくるようだよ」
「すいません、自分勝手で」
「そうか、ここに勤めるんなら考えようがあるな」

ここで嫌われるわけにはいかない。出来るだけ言葉を選びながら話した。
「どっちにしても、部屋が必要になるな」
「大部屋でもかまいません」
「うん、寝るくらいはできるけどな、学生は勉強もしなけりゃなんねえしな」
「寝る所さえあればそれで充分です」
「今、船橋に独身寮を作っているんだけど、完成が3月に中旬になるんだよ」
「船橋じゃちょっと遠いんですが」
「いや、早川君じゃなくて、独身者と新入社員用だよ」
「あ、すいません」
「そうなれば、ここの4階の寮が1部屋空くな」
「今はいっぱいなんですか?」
「うん。実は今4階の一人部屋に住んでいる大学生がこの3月で卒業するんだよ」
「天田さんから聞いています。法政大学の人ですか」
「うん、そいつを船橋寮に移してもいいな」
「申し訳ないですから、大部屋でもかまいません」

1人部屋なら最高だ。でもそんな厚かましい事を言えなかった。
それは、相手のお情けを待つしかなかった。
「こっちも人手が足りないからなあ、ここに勤めるのがわかれば何とかなるよ」
「はい、合格してもしなくっても、こちらでお願い致します」
「じゃあ、そういう方向で進めてみるか」
「お願いします」
「一人部屋だったら、もし落ちてもまた受験勉強が出来るよな」

安田さんは落ちたときの事まで考えてくれた。
就職先と1人部屋が内定したようだ。あまりうまく事が運びすぎる。
おじさんから相談を受けて、前もって考えてくれていたのかもしれない。
人間は表面だけの顔じゃない。話してみるとその人の心の顔が見えてくる。
顔の第一印象は当てにはならない。第1印象で人を判断してはならない。

「ところで今日はどうやってここにきたんだい」
「ええと、早稲田大学から高田馬場駅に出てそれから秋葉原で乗り換えて・・」
「やっぱりそうだったんかい、田舎者は東京に慣れてないからな」
「ほかに方法あるんですか」
「文学部のすぐそばに、地下鉄早稲田駅があるんだよ」
「ええ、気が付かなかったです」
「地下鉄の出口って小さいからな」
「今度見つけてみます」
「そうすれば飯田橋で乗り換えて、両国駅まで20分もあれば着いちゃうよ」
「そうですか、今日は40分くらいかかりました」
「1人で考えたって、たいした事は出来ないぞ、何でも聞いてみるんだよ」
「はい、そうしてみます」

知らないというのは恐ろしい。時間もお金も知らないで無駄に使っている。
何でも聞いたほうが早い。何でも聞く気持ちを持つようにしなければと感じた。

「ああ、もう少しで宮田君が帰ってくるけど合って行くかい」
「あの夜間高校へいっているっていう人ですか」
「うん、早川君の義理の兄貴になるんだって?」
「はい、今年の11月に姉とその宮田さんのお兄さんが結婚するそうです」
「縁っていうのは面白いな、どこでつながっているかわかんねえな」
「本当に自分もびっくりしました」
「今度早川君が入れば、隣の部屋っていうことになるな」
「隣になるんですか、宮田さんの年齢はいくつですか」
「いま、両国高校定時制の3年生だから早川君より2つ上になるな」
「そうですか、どんな人なんですか」
「元気があって、おもしれえよ。今晩3人で一杯やるか」
「ええ、でも今日は今勤めている所が2番勤務で5時から出勤なんです」
「そうか、じゃあ今度来た時に会ってみなよ」
「あの~、履歴書を用意してきたんですけど」
「おお、なかなかやるな、それじゃあとで社長に報告しておくよ」
「はい、今日はどうもありがとうございました」



晴れ晴れとした気持ちで両国駅から電車に乗った。
この会社なら働きながら勉強できる。人の心にも広さや深さがある事を感じた。
2月26日の合格発表まであと1週間となった。

今日は運命の合格発表日。
文学部の掲示板に合格者が掲示される。
発表は午前9時からとなっているが、その時間は仕事で行けない。
この日は1番勤務だった。
通常通りに仕事を終わり、工場から寮に戻って作業服から私服に着替えた。

寮を出たのは6時半頃だった。総武線千葉駅からいったん飯田橋駅で降りた。
新しい生活の場となる飯田橋駅駅から早稲田までは2駅で5分だった。
地下鉄早稲田駅を降りるとすぐそばに文学部の校舎があった。
時刻は夜の9時近くになっていた。
文学部のスロープを上っていくと、突き当たりに掲示板がある。
辺りには人影は見えなかった。掲示板が裸電球でポッカリと浮かび上がっていた。

400人の合格者の番号が掲示板に載っていた。
受験表をポケットから取り出した。最初の番号は0007から始まっていた。
番号がかなり飛び飛びになっている。
不安だった。手にした受験表を何回も見る。自分の番号の近くへ行くのが恐かった。

「あったあ~~~1192」
薄明かりの中でそびえ立つ文学部の校舎。小さな人間が大きな希望の中に包まれた。
大学は合格していた。
文学部の校舎の掲示板の裸電球の下に「1192」の受験番号があった。
小さな歯車が次の歯車にカチッとかみ合った瞬間だった。
これで貧困の連鎖から抜け出せるかもしれないと確信した。
寮に帰った時は夜の11時ごろになっていた。

喜びの後、何か後ろめたい感覚が襲ってきた。
大学合格は今の会社に対する裏切り行為のような気がしてきた。
給料も食事もサークルも、この快適な環境は受験勉強のためのものではない。
すべては労働のために与えられた環境だった。
この環境を我欲のために利用してしまった。
この嬉しさは心の中に秘めておかなければならない。

希望に燃える青春と希望を捨てる青春がある。
この時期の過ごし方によってその後の人生が大きく変わっていく。
ほんのわずかな温かい一言で運命は変わる。
幸い、温かい人の情けに救われて希望に燃える青春を選ぶ事ができた。

3月25日に退職する事を決めた。
その日は3月の給料日という単純な理由だった。
入学金さえ払えば、前期の授業料は少し遅れても何とかなるだろうと思った。

参考書、問題集等を整理して風呂敷に包んで押入れにしまった。
本の中には1万円札と千円札が栞のように挟んであった。
本の中から抜き出したお金を数えてみた。
入学金の25万までにはあと5万円程足りなかった。
母ちゃんに返してもらった5千円札6枚を加えても2万円足りない。
3月25日に出る給料でちょうど25万円になる。
財布の中には4500円残っている。
この4500円であと1ヶ月間の生活をしなければならない。
身の引き締まる思いがした。

今日から受験勉強はしなくてもいい。時間が有り余るほどある。
ただ、これから先1ヶ月、何をしていいか思いつかなかった。

明日からまた工場に行く。合格の嬉しさを誰かに言ってしまいたい気持ちもあった。
今夜はあまり眠りたくなかった。嬉しさがさがだんだんこみ上げてくる。
夜中の1時ごろお風呂に入った。お風呂には誰も入っていなかった。
大きな湯船に1人で入り、今までの事を思い出しながらゆったりとしていた。
張り詰めた気持ちがなくなり開放感が頭いっぱいに溢れていた。

今までの過去の人生は思い出となり。この時から未来への時間が進んでいく。
その延長線上には、さらにその先の人生が築かれて行く。
人生は人の情けの歯車で次から次へ伝わっていく。




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