第38話

文字数 1,073文字

 翌日、総一郎は全さんを連れて、明心寺へ行った。もちろん、他のものには総一郎が一人でぶらぶらと不機嫌そうな顔で歩いているだけに見える。
 境内の庭を竹箒で掃いていた娘が、総一郎に気付くと、手を止めて、満面の笑みを向けた。それに気付いた総一郎は、ちょっと驚いた顔で手を上げた。
「よう、ふみちゃん、久し振りじゃねえか。看護師、とうとうやめたんか」
 娘は「もう」と頬を膨らませたが、悪い気分ではないようだ。高く結った黒髪を、子犬の尻尾のようにびゅんびゅん躍らせて、総一郎の元に駆け寄った。
 彼女の名は文香。慈光の五つ下の妹で、実家から離れた松本市内の病院に勤める看護師である。文香は母親似で、慈光やその父のようにでっぷり肥えているわけではなく、ほっそりと小柄で、色白の丸顔が愛らしい。唯一、慈光と似ている黒目がかった丸い目も、いいように作用している。
「お母さん、足くじいちゃったでしょ、山菜採りに行って。だから、しばらく、休みのときは帰ってくることにしたの」
「松本からじゃあ、けっこう往復時間、かかるだろう、大変だなあ」
 総一郎の言葉に、文香はほんのり頬を紅色に染めた。
「時間はかかるけど、総ちゃんにも会えるし、そんな大変じゃないよ」
 はにかみながら眩しそうに総一郎を見上げる文香に、彼はきょとんとした顔で首をかしげた。その様子を見ていた全さんはたまらず噴き出し、ひやかすような口調で言った。
「総一郎さんは、朴念仁ですねえ」
「なんだよ、それ」
 振り返り、誰もいないところに口を尖らせる総一郎の行動に、文香は「あっ」と声をこぼし、眉間にしわを寄せ、ぎゅっと目を細めた。
「あれ、お客さま、だよね。男の人、かなあ」
 慈光にはまったく亡者の姿は見えないが、文香は集中すれば、ぼんやりと見ることができる。ここだけは、父や祖父の血をしっかり受け継いでいる。
「さすがだねえ、ふみちゃん。やっぱこの寺、ジコ―より、ふみちゃんが婿とって、跡継いだほうが、いいんじゃねえか。そうすりゃ、じじいもおやじも、安心できるだろうに」
 文香は首をすくめると、上目遣いで言った。
「そういう話、あったんだよ。総ちゃんにお婿さんに来てもらったらどうかって。今でもお母さんは、いっそ、そうして、三人でお寺を盛り立ててくれたらいいのにって言ってるよ」
「がはは、やめてくれよお、俺、一生、ジコ―のお守りなんて、勘弁だよお」
 笑いながら手を振り、文香の横を通り過ぎる総一郎の背中を、娘はすねた顔で見つめていた。
「もうっ」
 癇癪をおこして竹箒を振るうと、勢いに驚いた雀たちが、一斉に飛び立っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み