第27話

文字数 2,172文字

 市街地から外れ、田んぼに囲まれた住宅街の片隅にある動物保護施設『ハロー』は、二階建て住居の一階部分で保護された犬や猫の世話をして、定期的に譲渡会を開いている。室内にはたくさんのケージがあり、そのほとんどに、犬や猫が入っていて、新しい飼い主を待っていた。
 事前に連絡をしていたので、施設の責任者である依頼人の女性がすぐに現れた。そして、二人の生者は目を丸くして、同時に顔の筋肉を緩ませた。
 なんとも美人である。年齢は二十七、八で、肩にかかるほどの茶色い髪を後ろで束ね、大きな黒縁眼鏡をかけている。眼鏡の奥のぱっちりとした、黒目がかった二重の瞳が子犬を思わせる。
 花びらのような愛らしい唇が動いて「はじめまして、向井沙耶です」と言葉を発するのを、二人はうっとりした顔で眺めていた。
「なあ田辺さん、確かに、力になってやりたいって思うよな、うん」
 総一郎が彼女に気付かれないように田辺に囁くと、彼は「へへへ」とまんざらでもない表情で頭を掻いた。
 一人と一匹の亡者がいれば、犬や猫が大騒ぎするかと思ったが、どうやらチョビはこのあたりの犬猫とはだいたい懇意にしているようで、犬はうれしそうに尻尾を振り、猫は何食わぬ顔でごろりと横になっている。犬や猫がリラックスして上機嫌なことに、沙耶は不思議に思ったが、二人が動物好きだから、この子たちもそれを感じているのだろうと、勝手に解釈した。
「あの、田辺さんのお仕事を引き継いでるってお電話で伺いましたけど、生前にそんなお約束をされてただなんて。あの方は、きっちりされてるから安心だ、信頼できるよって知り合いの獣医さんから紹介されたんですけど、本当に、お気の毒なことに…」
 目を潤ませ俯く彼女にみとれて、ニヤニヤしているだけの総一郎と慈光に対して、田辺が咳払いをした。もっとも聞こえているのは総一郎だけである。仕方なく、田辺に照れ笑いを向けてから、口を開いた。
「あの、だいたいのことは田辺さんが残した資料で把握しているのですけど、できれば、もう一度、犬がいなくなったときの状況、聞かせてもらえます?」
「はい。パピーちゃん、あ、わんちゃんの名前なんですけど。そのパピーちゃんをうちで預かってから三日後のことだったんです。あの子はこの一番奥の、通用口に近いケージに入ってました。夜中の、たぶん、二時頃だったと思うんですけど。わたしの住居はここの二階なんですが、どうも一階の方が騒がしいことに気付きました。わんちゃんたちが警戒するような声で鳴いていたんです。それで、驚いて駆け下りてみたら、ここの通用口が開いていて。そのうえ、パピーちゃんのケージだけ開けっ放しで、姿がなかったんです。通用口の扉のガラスが綺麗に切り取られていて、鍵を開けたみたいなんですけど、わんちゃんたちの声に驚いて、泥棒は逃げちゃったんでしょうね。そのとき、何かのはずみでケージが開いたのかもしれません。まさか、保護された犬や猫しかいないところに泥棒が入るなんて、思ってもみなくて。ちゃんと、セキュリティーを付けていなかったことが悔やまれます」
 沙耶は美しい形の眉を寄せ、目を伏せた。鼻の下が伸びそうになるのを堪えた総一郎は、ちらりと慈光に横目を向けた。今にも彼女に飛びつきそうだったので、肘で横っ腹を小突いた。慈光はびくりと身体を震わせ、すぐに顔を引き締め、わざとらしく咳払いをすると、僧侶の声で訊ねた。
「パピーちゃんがいなくなったことを、飼い主の多賀さんにはお知らせになったのですか」
 彼女はこくりと頷いた。
「とても心配されてましたが、私を責めるようなことはひと言もおっしゃらなくて。それどころか、私が心労で倒れるんじゃないかって、気遣ってくださって。それがかえって、申し訳なくて、ごめんなさい」
 そう言って、彼女は眼鏡をはずし、ハンカチを目頭にあてた。くすんくすんと洟をすする姿がなんとも痛ましい。そこで二人のタガが緩んだ。
 思わず彼女の左肩に総一郎が、右肩に慈光が、それぞれ手をかけた。田辺が「こらこら」と突っ込み、チョビがウーと唸り声を上げるが、慈光には聞こえないし、総一郎は無視する。
「そんなに思い悩んじゃダメだよ、俺たちが絶対、見つけてあげるから」
 総一郎が声をかけると慈光も僧侶の声を出す。
「大丈夫ですよ、御仏は、あなたの良き行いを見ておられます。きっと、パピーちゃんは帰ってきますよ」
 沙耶はゆっくり顔を上げた。ハンカチをぎゅっと握って笑みを浮かべる。鳥肌が立ちそうなほど、美しい。
「ありがとうございます。田辺さん、あんなに懸命に探してくださってたのに、きっと、急に亡くなられて、心残りに思ってらっしゃるんじゃないかと。だから、田辺さんにもちゃんとご報告したいんです。どうか、よろしくお願いします」
 沙耶の真摯な眼差しに、二人はちょっぴり反省した。今の彼女は、犬の心配だけではなく、田辺の死も悼んでいて他のことなど頭にない。それに比べて、下心だけで行動してしまう二人は、なんとも情けない限りである。バツが悪そうに、総一郎は田辺の様子を横目で窺う。恐縮しきった顔で深々と頭を下げる几帳面な探偵の姿に、ますます肩身が狭くなった。
 同情したチョビがクウンと鳴くと、他の犬や猫たちが共鳴した。生き物たちの悲しそうな声がいつまでも響いていた。
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