第24話

文字数 966文字

 桜もすっかり散ってしまって、青々とした葉桜がまぶしいある日の朝、総一郎は、いつも通り、明心寺に出勤した。門をくぐって、境内に踏み込んだとき、遠くからチョビの鳴き声が聞こえたので振り返って目を凝らした。
 チョビは賢明に石段を駆け上り、総一郎の足元まで走って来ると、何やら慌てた様子で彼の後ろに隠れた。そして、足の隙間から、自分が駆けてきた方をじっと見据えて、ウーと気弱な唸り声を上げる。威嚇しているというより戸惑っているように見える。何事かと思い、総一郎はチョビが唸る先に顔を向けると、石段をよろけながら登ってくる一人の男の姿が目に入った。
 年齢は総一郎よりも少し上くらい。三十代半ばから四十手前。髪はぼさぼさで、無精ひげをはやし、中肉中背。ポロシャツにコットンのジャケット、よれよれのジーンズ姿のさえない男だ。その男は、総一郎に目を向けると、バツの悪そうな笑みを浮かべた。
「あ、あの、その犬は、こちらの犬なのですか」
「ああ、そうだけど。あんた、こいつに何か用か」
 総一郎は後ろにチョビをかばったまま、怪訝な顔を向けた。男は「そうかあ、違ったかあ」と肩を落とし「ああ、どうしよう」と頭を抱えてしゃがみこんだ。そこへ、慈光が顔を出した。チョビがうれしそうに尻尾を振る。
「あ、総ちゃん、おはよう。あれ、もしかして、今日はチョビが来てるの」
 慈光にはチョビの姿は見えないが、気配は感じるようである。
 総一郎は首を捻って慈光を振り返ると、薄笑いを浮かべながら言った。
「ああ、でも、どうやらチョビのヤツ、客を連れてきたらしい」
 慈光には見えない男の様子を語ってやると、坊主は首をかしげて辺りをキョロキョロ見渡し、眉を八の字に下げて、遠くに向かって申し訳なさそうに言った。
「あの~、どなたか存じませんが、お話があるんでしょうか。もし、そうなら、生きた方の予約が二組あるので、その後でもよろしいでしょうか」
 男はしばらく、呆気にとられた顔で、総一郎と慈光とチョビを順繰りに見ていたが、不意に背筋を伸ばして、ゆっくりと頭を下げた。
「確かに、実体がないわたしには、もうどうすることもできません。ご住職、よろしくお願いします」
 追いかけられて不機嫌だったチョビだが、どうにも困っている男の様子に、多少同情したのか、きょとんとした顔で小首をかしげていた。
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