第1話

文字数 1,732文字

 倉木総一郎は大あくびをした。
 薄暗い四畳半の中央で、長身を折りたたむように背中を丸めて胡坐をかき、スウェットのズボンのすそをたぐり上げて脛を掻きながら手焼きせんべいをかじる。ぼさぼさに伸びた前髪の隙間から覗く細い目は、目の前の座卓の上のモニター画面に向けられていた。
 映像は、ぴかぴかに磨き上げられた板張りの部屋を見下ろしている。そこには、黒い法衣の上に金糸が施された豪華な袈裟を着こんだ、でっぷり肥えた坊主の後頭部、そして、その坊主と向かい合わせに座った、見るからに高級ブランドのスーツを着た初老の婦人の顔が映し出されていた。
 せんべいをかじる音しかさせない総一郎にしびれを切らせ、坊主はわざとらしい咳払いを繰り返す。仕方なく、総一郎は、インカムマイクに向かって口を開いた。
「その人も、思い込みだよ。何にも憑いてない。適当に慰めて、高い祈祷料もらっとけばいいんじゃねえか」
 耳に突っ込んだイヤホンから、総一郎のなげやりな言葉を聞くと、坊主は静かに頷き、婦人の目をまっすぐ見据えた。
「奥方、あなたの背後に、ご高齢の男性が見えます。色が黒くて、目が大きい。おそらく、あなたと血縁関係のある方だと思うのですが、お心当たりはありませんか」
 色黒の婦人は大きな目をぱちぱちさせて、握った手を口元にあて首をしきりに捻っていたが、すぐにぱっと顔を上げると「もしかして」と呟いた。
「それは、私の祖父かもしれません。色黒で、大きなぎょろ目をしておりました。けれど、どうして祖父が私にとり憑いているのですか」
 不安そうに身を乗り出す婦人に坊主は真面目くさった顔で頷きかけると、数珠をじゃりじゃりと握りしめ、目を閉じて低い声で語った。
「とり憑いているのではありません。あなたのことを心配して様子を見に来られたのです。どうにも物思いにふけっているのは、あなた自身のお心の問題。お子様たちが独立されて、あなたは自分の役目を終えてしまったのではないかと思っておられる。あなたはあなたの人生を楽しむことができていない。もっと、広い視野で世の中を見るのです。新しいコミュニティに、例えば、踊りだとか、絵画だとか、そういった趣味の会に参加するなどして、もっと、残された人生を充実させてほしい、そう願って、お爺様はあなたに語りかけておられます」
 婦人は大きな目をいっそう大きく見開き、息を吸い込むとうんうんと勢いよく首を上下させた。
「そうかも、そうかもしれません。私、学生時代、テニスに夢中でしたの。けれど、段々に、日々の暮らしに追われて、そういったものを忘れていました。祖父は、それを覚えていてくれたのですね。もう一度、テニスを始めてみます」
 そう言って、彼女はレースのハンカチで目頭を押さえた。坊主は目を閉じたまま太い眉毛を寄せ、数珠を握り直し、腹の底に響くような声で経を唱え始めた。婦人は慌てて背筋を伸ばし、頭を垂れて手を合わせる。
 数分間、ありがたそうな経を唱え、最後にカッと目を見開くと、恐ろしい形相で締めの「カーッ」という喝を入れた。
「お爺様は安心して、あなたの元を去られました。どうですか、もやもやしたものが晴れたように感じませんか」
 坊主の言葉に婦人は顔を上げた。さきほどまでは眉間にしわを寄せ鬱々としていたのが、今は、ふっきれたような、晴れ晴れとした明るい表情である。
「はい、なんだか重たかった肩が軽くなりました。ご住職様、ありがとうございました」
 婦人は入って来たときとはくらべものにならないくらい、軽やかな足取りで、鼻歌までまじえて本堂を後にした。もちろん、たっぷりの寄進をして。
 婦人を送り出した坊主は、ふうっと息を吐き、短い両手をつきあげめいいっぱい伸ばすとゆっくり振り返った。
 途端に、先程までの威厳に溢れた険しい顔がだらしなく緩んでいく。同じ人物とは思えない腑抜けた表情で並びのいい白い歯を見せてにいっと笑うと、どっしりと鎮座するご本尊の仏像を仰ぎ見て言った。
「総ちゃん、お疲れさん」
 三メートルはある仏像の眉間の白毫に埋め込まれたカメラが、じっと坊主を見据えた。
「何がお疲れさんだ、ナマクラ坊主め」
 総一郎の呆れ声に、坊主はしれっとした顔で坊主頭をほりほり掻いた。
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