第34話

文字数 1,906文字

 二人は嬉々として、沙耶にパピーを渡しに行った。もちろん、これをきっかけに、彼女を食事にでも誘おうと、よからぬ下心を抱えている。どちらが先に誘うか、じゃんけんで決めたところ、慈光が勝った。くやしがる総一郎を見て、田辺がなぜか意味深な笑みを浮かべている。
 パピーの姿を目にした沙耶は、しゃがみこみ顔を手で覆って泣き崩れた。責任感だけではなく、彼女もまた、パピーを可愛がっていたのだ。それに応えるように、パピーは彼女のそばに駆け寄ると、手や顔をペロペロと舐めて、無事を報告した。
 その心温まる光景を眺めて、ひと段落したところで、彼らにとっての本題である話を慈光が持ちかけようとしたときに予期せぬ出来事が起こった。
「沙耶さんっ」
 背後から、見知らぬ男の声がした。沙耶が顔を上げ、総一郎と慈光の背後に目を向けて、笑顔で手を振った。ついでにパピーも尻尾を振っている。
 二人はゆっくり振り返った。息をきらせて駆けてくる白衣の男が目に入った。
 年のころは三十半ば、伸ばした髪をうしろで束ねた総髪は、何だか昔の医者みたいだ。きりりと太い眉に切れ長な目元が、精悍な印象を際立たせる。
 男は二人を通り過ぎ、沙耶のそばに近付くと、片膝を地面につけてかがみ、パピーと目線を合わせた。尻尾を振り、顔を舐めまくる犬に頬ずりしながら、背や首の後ろをなでてやる。
「見たところ、元気そうですね。怪我をしている様子もない。でも、念の為、連れて帰って、診ておきます。その方が安心でしょう」
「先生、ご心配をおかけしました」
 沙耶の顔がほころぶ。今までで一番、美しい笑顔だ。じゃれるパピーを片手で相手しながら、男は沙耶の肩に手を置いた。
「とにかく、無事でよかった」
 穏やかに見つめ合う美男美女は、ものすごくお似合いである。なんだか、居場所を失ってしまった総一郎と慈光はもじもじしながら、情けない声をかけた。
「あの…」
 すっかり二人の存在を忘れていた沙耶は、はっとして顔を上げ、はにかんだ。つられるように、男も顔を上げ、人の良さそうな笑みを口元に浮かべて会釈する。
「先生、こちら、倉木総一郎さんと光明池慈光さん、田辺さんに代わって、パピーを見つけてくださったんです。あ、こちら、獣医の波田野先生です。うちに来る動物たちの健康状態をボランティアで診ていただいてて。いつも、助けてくださるんです。そうそう、田辺さんを紹介してくださったのも、波田野先生なんですよ」
 二人はまた目線を合わせて微笑み、揃って頭を下げた。あまりにもわかりきった結末に、総一郎と慈光は引きつった顔で笑い返して、その場をそそくさと立ち去った。
 帰り道、ずっとニヤニヤしている田辺に、総一郎は恨めしそうに訊ねた。
「あんた、知ってたんだろ」
 田辺は眉をひょいと上げて、いたずらっぽい笑みを返す。
「沙耶さんと波田野先生、先月、婚約したんです。それで、波田野先生の動物病院の横の土地を買い取って、そこに保護施設を新設するんですって。そうなれば、多賀さんも安心ですから、寄付の件もよく考えるでしょう。よかったですねえ」
 相手が亡者だけに、ぶん殴ることもできない。奥歯を噛んで睨み付けても、頭を掻きながら「だって、お二人がそこまで沙耶さんにいれこむとは思ってもみなかったんでねえ」と、ひょうひょうと言ってのけるだけである。
 仕方なく、総一郎は、慈光に言った。
「おい、ジコ―、さっさとこの、喰えないヘボ探偵をあの世へ送っちまえ」
「そうだね、もう思い残すことはないですよね、田辺さん」
 不機嫌な顔で数珠を取り出す慈光を見た田辺は、一歩、後ろに下がると慌てて両手を振った。
「ま、待って、待ってください」
「何だよ、まだなんかあるのかよ」
 口をゆがめる総一郎に、田辺は「てへへ」と笑いかけた。
「あの、最後に、わたしのアパートの片付け、お願いしていいですか。四十九日に兄が来たときに、いろいろ困ると思うので。ほら、大家さんにも、お二人が片付けるって言ったじゃないですか」
 亡者の言葉を伝え、目を丸くする慈光と顔を見合わせていた総一郎は、揃ってはあっと大きなため息をつき、肩を落とした。
「わかったよ、やりゃあ、いいんだろ、やりゃあ。まったく、几帳面な亡者なんて、もうこりごりだ」
「仕方ないねえ」
 それぞれに投げやりな言葉を吐き、ダラダラと歩き出す二人に、田辺はペコペコしながら後を追う。
 ずっとついてきていたチョビは、このまま一緒にいると、自分もうっかり成仏させられてしまうと思ったのか、ウォンと一声鳴いて彼らと反対の方向へ駆け出した。
 総一郎は振り返り、愛犬の姿が遠く薄れて消えてしまうまで、目を細めて見送った。
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