第22話

文字数 2,409文字

 総一郎と慈光の出会いは、二十年ほど前に遡る。二人がまだ小学四年生のことである。
 当時、二人は同じ小学校に通っていたが、クラスが一緒になることもなく、互いが何となく顔を知っているという程度の間柄だった。
 その頃の総一郎は、人付き合いが苦手な少年だった。人には見えないモノが見えることが普通ではないと悟り、できるだけ人前では、何が見えても口を開かないようにしていた。しかし、子供というのは敏感で、同級生たちは、彼が自分たちとどこかが違うというのを肌で感じ、あまり深くつきあおうとするものはいなかった。また、無口なのに喧嘩っ早いという性質だったことも災いした。
 以前、中学生三人にカツアゲされていた同級生を目にして、見て見ぬふりなどという器用な真似ができない総一郎は、間に割って入った。  
 当然、話し合いでは収まらず、三対一という不利な状況の喧嘩になる。けれど彼は、血だらけになりながらも、その中学生たちに立ち向かい、最後にはリーダー格の少年が泣いて謝るという結末になった。その武勇伝は学校中に知れ渡り、それ以来、倉木はヤバイ奴というレッテルを貼られ、怖いような、憧れるような、ますます一目置かれる存在となってしまったのである。
 一方、慈光はといえば、想像どおりのいじめられっ子だった。おっとりしていて、争いごとを嫌い、難癖をつけられても文句も言えない。
 その上、でっぷりと肥えていたので、動きが鈍い。残酷な子供たちにとっては、いじめてくださいと言わんばかりの条件が揃っていた。寺の子ということも、どこか違う世界の子のように見られていたのかもしれない。そういう意味では、彼もまた、周囲にとけこめない子供であった。
 そんな、まったく両極端な二人を結びつけたのが、一匹の子犬だった。
 調度、梅雨に入って間もなくの頃。総一郎は、しとしとと雨が降る中、傘をさして、一人下校していた。彼の自宅は山の麓の旅館で、小学校からは大人の足でも徒歩四十五分はかかる。まして、子供がだらだらと歩いているのだから、おおかた、一時間以上かけて通学していた。
 近所に何人か、学年の違う子供たちもいたが、みんなで連れ立って集団登下校するのを嫌がり、また、放任主義の両親も、本人が一人で通うと言っているのだから、無理強いするのもよくないだろうと、入学式の翌日から一人で学校へ行って、帰ってきた。総一郎にとって、長い通学路を他人と連れ立って歩くなんてことは、拷問に近いことで、一人の方が、よっぽど気楽だった。
 だから、その日も当然、一人で道草をくいながら、気ままに歩いていた。
 雨が降り注ぐ田んぼの端にかがんで、ご機嫌な大合唱を奏でる蛙たちをぼんやり眺めていたとき、クンクンと、子犬の鳴く声が聞こえた。総一郎は顔を上げ、辺りを見渡した。  
 田んぼと田んぼの間を通る農道が交差する道端に、夫婦の道祖神がちょこんと置かれている。その横で、耳がピンと立った薄茶色の子犬がお座りして、総一郎のことをじっと見ているのに気が付いた。総一郎は満面笑顔で立ち上がり、子犬の側へ駈け出した。それを見た子犬は、くるんと巻いた小さな尻尾をちぎれんばかりに左右に振って、わんわんと、少年を急かせた。
「なんだ、お前、びしょぬれじゃねえか」
 総一郎は子犬に傘をさしかけ、持っていたハンカチで頭や顔を拭いてやろうとするのだが、子犬はそんなことよりも遊びたいのか、ドロドロになった前足を振り上げて、総一郎に飛び掛かる。すると、彼もうれしくなって、傘を放り出して子犬と遊んだ。
 そうして雨の中、泥だらけになりながら子犬とじゃれあっていたのだが、ふと、嫌なことを思った。こうして遊んでいても、この子犬を連れて帰ることはできない。
 彼の家は、旅館を営んでいる。だから、動物を飼うことを禁止されていた。悲しい現実を目の当たりにして、急に気分が滅入ってしまい、まだ遊び足りない子犬がじゃれてくるのを呆然と眺めていた。そのときである。
「ねえ、その犬、きみとこの子なの?」
 なんだかどんくさそうな声が背後から聞こえて、総一郎は振り返った。そこには白くてでっぷりと肥えた少年と、おかっぱ頭の少女が色違いのお揃いのレインコートを着て、傘をさして立っていた。少年は総一郎と同い年くらい。たぶん同じ小学校だ。見たことがある。少女の方はまだ小学校に上がる前くらいだ。二人は手を繋いでいる。丸い目がよく似ているので兄妹だろう。
 無愛想に顔を向けるだけで何も答えない総一郎に向かって、少年は無邪気な笑みを見せてから、妹に目を向けた。
「ふみちゃん、捨て犬じゃないみたいだよ、ちゃんとおうちがある子だから、大丈夫だよ」
 妹もにっこりと笑って兄を見上げる。仲のいい兄妹だ。
 総一郎は二人に向き合うと、口を尖らせた。
「違うよ、俺の犬じゃない」
 それだけぼそりと呟くと、踵を返して立ち去ろうとした。子犬がその後を追って来たので「駄目だよ、うちには連れてってやれないんだ」とすねた口調で言った。
 その言葉を理解したかのように子犬が立ち止まった。すると、また、太った少年が、声をかけてきた。
「ねえ、じゃあ、この犬、僕んちに連れて帰っていいかなあ」
 総一郎は立ち止まったが、振り返らない。それにかまわず、太った少年は言葉を繋ぐ。
「妹がさあ、子犬が濡れててかわいそうだっていうから、一緒に様子を見に来たんだ。もし、迷子か捨て犬だったら、うちに連れて帰ろうと思って」
 総一郎は黙ったまま背中を向けていた。その背に向かって、さらに声は続く。
「うち、明心寺ってお寺なんだ。この犬、しばらくそこで暮らすことになると思うから。飼い主が見つからなかったらずっといるから、もし、よかったら、会いにきてあげて」
 総一郎は両手をぎゅっと握ると、振り返ることもせず、がむしゃらに走り去って行った。足元でびちゃびちゃと撥ねる泥水が、ひどく冷たく感じた。
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