第15話 可愛らしいパジャマ、図柄はクマ

文字数 5,586文字

 このうえない幸福感と、もはや理由を見失った症状とが、早苗の中で共存していた。引っ越しまでの三日半――火曜の夜から土曜の朝まで、朝晩の食事を西江とふたり向かい合ってとった。西江が仕事に出かけると、入れ替わって彩日香がやってきて、日中を一緒に過ごした。彩日香は本を読み、編み物をした。早苗は食事を作り、洗濯をし、掃除をし、買い物に出かけた。その合間はふたりで窓の外を――建物と空しか見えないので空のほうを――ぼんやり眺めて過ごした。
 西江のワイシャツや下着や靴下を洗濯するのは初めてだった。そもそも男物の洗濯は経験がない。高校を卒業して東京に出てくるまで、母は料理や掃除の手伝いは求めたが、なぜか洗濯の手伝いは求めなかった。急な雨があって、たまたま母が外出していた際に、とりあえず取り込んでおいてくれとだけ頼まれたことはある。だが、それをたたんで箪笥にしまうことは、すべて母がやった。早苗は自分のものだけを持って部屋に上がり、あとは居間の隅に寄せておいた。
 そして土曜日の午後、引っ越し業者が去ったあと、段ボールが積み上がりいっぺんに物置と化した西江の部屋で、早苗にはその窮屈さが妙に嬉しかった。キッチンや洗面やトイレに往き来するたびに、お互い首をすくめたり背筋を伸ばしたりして空間を譲り合う。それをふたりしておかしそうに笑った。早苗が笑うから、西江も笑った。シングルサイズのベッドはやはり狭くて落ちそうだったけれど、それもおかしかった。早苗が壁側になり、だから落ちそうになるのは西江のほうで、だから余計におかしかった。

 日曜日、朝から晴天で真夏日が予想されていた。八時前に眼を覚ました西江は、早苗がもう起きているのを見つけた。パジャマのまま床に姿勢正しく座り、テレビの音を消して、どこか日本の田舎を鉄道で旅するような番組を観ていた。西江は寝ころんだまま肩ひじで頭を支え、しばらくその後ろ姿を眺め、積み上がった段ボール箱に眼をやって、昨日の出来事が現実であることを確かめた。昨日はそんな余裕はなかったけれど、狭いながらも少し部屋のレイアウトを変えなければと思い、ぼんやりとイメージしてみた。そういえば昨日、トランクルームにはまだ余裕があると、「池内」のふたりが言っていたのを思い出した。出せるものは出してしまったほうがいいかもしれない。
 ふと、このことは早苗の実家にはどう伝わっているのか、あるいはまだ伝わっていないのか、それを「池内」に確かめなければと思った。しかし今日は難しいだろう。今日は早苗と離れる時間はないはずだ。明日、出社したら「池内」に電話してみよう。もちろん彼らに任せておけばいいことなのだろうが、どのような話になっているのか、どのような話にしようとしているのか、それだけは知っておきたい。
 そんな気配に気づいたのか、早苗が振り返った。西江が微笑むと、早苗はテレビを消して立ち上がり、ベッドの端に斜めに腰掛けて、西江の顔を見下ろした。きちんと眠れた眼をしている。右手で西江の頬に触れ、昨日から伸びた髭を確かめるように撫でた。
「おなか空いてる?」
「そうだね」
「なにか作るわ」
 ベッドから腰を上げた早苗は、段ボール箱の間を縫ってキッチンに向かった。西江はその背中を追うために、寝ころんでいた体を起こした。早苗はコンロと冷蔵庫を前にふと首を傾げ、西江を振り返った。
「ここ、あなたの部屋だった……」
「そうだよ」
「そうよね。そうだったわ。…フライパンとか適当に使っていい?」
「もちろん」
 西江が微笑むと、早苗は冷蔵庫を開けてその前にしゃがみ込み、中を覗き込んだ。西江は段ボール箱の山の向こうに隠れてしまった早苗の背中を追うために、ベッドの上で膝立ちになった。
「これいつ買ったもの?」
「どんなに新しくても月曜日だね」
「月曜日? 今日は日曜日? 六日前か…」
「でも月曜には買い物した記憶がない。日曜は早苗と江ノ島に行って、あの日も買い物には出ていない。だからいちばん新しいもので先週の土曜日だ」
「土曜日には買い物したの?」
「それは確かだよ。早苗を迎えに行く前にした」
「取り敢えず全部火を通したほうがいいってことね」
 早苗は冷蔵庫から卵とレタスとベーコンとトマトを取り出した。レタスは見るからに萎れて変色した何枚かを捨て、トマトは包丁を入れてみてその手応えから大丈夫と判断した。
「パンかお米はある?」
「パンは冷凍庫」
「……ほんとだ。バゲットが凍ってる。凍るのね、これ」
「あれ、冷凍庫に入れるのって普通じゃないの?」
「うちではしなかったけど」
 コツコツッと凍ったバゲットどうしをぶつけると、早苗はキッチンを見回した。なにを探してるんだろう?と西江も首を伸ばした。探していたものはダイニングテーブルの上にあった。
「このままトースター?」
「ちょっと湿らせる」
「どうやって?」
「手に水をつけてさっと撫でるだけ」
 それで質問は終わりのようだった。早苗は段ボール箱の山の中から迷わずにひとつを開けるとエプロンを取り出した。西江はベッドの上に胡坐をかき、この部屋のキッチンに初めて立つ早苗の後ろ姿を眺めた。引っ越したばかりの新婚夫婦みたいだと思ってちょっと笑った。そこで、そういえばまだ今朝になって一度も早苗が笑っていないこと、微笑んですらいないことに気がついた。いや、気づいてはいたのだが、そこで初めてそのことを考えた。そして、考えすぎだという結論をすぐに出した。
 しかしその結論は少し早すぎたようだった。食事の支度が整って、西江が二人分のコーヒーを淹れたときも、ダイニングテーブルに向かい合って座ったときも、早苗の作った卵とレタスとベーコンとトマトの炒め物が美味しいと言ったときも、早苗はただ表情の乏しいぼんやりした顔を向けるばかりで、やはり笑みを見せなかった。食事を終え、二杯目のコーヒーを淹れても、まだどこか不思議そうな様子で部屋を見回している。ここがどこなのか、まだ本当にはわかっていないように見える。
 お皿を片付けて洗い、シンクの端の水切りに並べ――ここでも早苗は手を出させなかった――西江を振り返りながら無造作にエプロンを外したとき、早苗は急にひゃっと小さな声を上げた。首から外しかけたエプロンを胸の前に抱き締めたまま、びっくりしたような眼で西江を見つめた。それから、慌てて段ボール箱を見回して、だが探している箱がすぐに見つからなかったらしく、すとんとその場にしゃがみ込んでしまった。
 西江の視界から、小さなダイニングテーブルの向こう側に、早苗の姿が消えた。西江は立ち上がってテーブルに両手を突き、身を乗り出して覗き込んだ。と、早苗が上目遣いで待ち受けていた。
「どうしたの?」
「私、パジャマ……」
「うん?」
「だから、これ、パジャマなの……」
「なんだ、急に恥ずかしくなったわけ?」
 頷いて、見る間に首筋まで真っ赤になった。西江が声を上げて笑うと、早苗はますます体を小さくして、だが、そこでようやく、初めて少し、小さな笑みを浮かべた。笑いながら、西江は内心ほっと息をつく心地がした。ダイニングテーブルを離れ、段ボール箱の前に立って、声をかけた。
「服の箱にはなんて書いた?」
「覚えてない」
「『洋服』って書いてあるのかなあ……」
「軽いやつよ、たぶん」
「適当に開けてみてもいい?」
「ダメ!」
「じゃあどうするの? そのまま一日そこにしゃがみ込んでる?」
 もう一度、今度は段ボール箱の山の上から覗き込むと、早苗はまだ顔を赤くしながら、どうしよう…と進退窮まってしまったように、首を傾げていた。西江はずかずかと段ボール箱の山を回り込み、しゃがみ込んでいる早苗の前に現れて、同じように腰を落とした。
「な、なに…?」
「シャワーを浴びよう」
「シャワー?」
「べとべとしてない?」
「ちょっとしてる」
「じゃ、シャワーだ」
「お先にどうぞ。その間に私――」
「一緒にするんだよ」
「……一緒は、困るわ」
「どうして?」
「どうして? どうしてって――そうね、どうしてかな……」
 西江の顔を見ていた早苗が、また首を傾げた。西江はそのままその場を動かなかった。だから早苗は足の裏でにじるように後ろに下がった。西江も同じだけ前に出た。また早苗が後ろに下がった。同じだけ西江が前に出た。が、すぐに早苗の背中が冷蔵庫の扉に触れ、それ以上の後退を許さないところまで来てしまった。
 早苗はちらっと振り返り、そこに冷蔵庫の存在を確かめると、西江に向き直り、どうするの?という顔をつくった。西江が膝をついて上体を伸ばしたので、早苗は思わず身をすくめながらも、すぐに真っすぐ西江の胸に倒れ込んだ。西江が腕を回し、早苗も胸にエプロンを抱えたまま、ふたりして膝立ちになった。早苗の腕の下から西江の手がエプロンを引き抜いた。
「シャワーを浴びようよ」
「はい」
「一緒にね」
 早苗は声にせず頷いた。

 要らないものがたくさんあった。要らないというのは、つまり、重なっているものだ。鍋も、フライパンも、まな板も、炊飯器も、電子レンジも、トースターも、コーヒーメーカーも、キッチンタイマーも、クリノメーターも、懐中電灯も、ナイトスタンドも、洗濯籠も、掃除機も、ヘルスメーターも、風鈴も――ひとりで暮らしている部屋の住人がふたりになったからといって、なにもかもふたつ必要になるわけではない。狭いアパートの部屋の窓に、風鈴はふたつは要らない。
「まさかのクリノメーター」
「ほんとね。いつ買ったのかしら…?」
「ここまで日常から外れてくると、選択基準がわからなくなるなあ」
「でも私、使った記憶がないんだけど」
「じゃあ俺のを取っておこう」
「取っておく? 使うの? どこで? なぜ?」
 ひとつひとつ、西江のものをそのまま使うか、早苗のものに置き換えるか、ふたりはサイズや容量や購入時期や痛みや傷や使い勝手やらを比較して、新たに段ボール箱を作り直した。概ね西江の持ち物のほうがグレードが高く、あまり使われていなかったので、早苗の持ち物がふたたび段ボール箱に戻された。
「とりあえず収納ボックスはひとつ買わないといけないね」
「もう置く場所なんかないわよ」 
「このまま段ボールから下着の出し入れをつづけるつもり?」
「ああ、そうね。それもちょっと侘しいわね。でも私、いつまでここにいていいのかしら……」
「いつまででも。なんなら君が――」
「そうじゃなくて、『池内』はどう考えてるんだろうって――西江くん、夏馬さんとどんな話をした?」
「俺が徹夜で帰って来れなかったとしても、もちろん徹夜なんて絶対しないけど、仮にそういう事態に巻き込まれたとしても、早苗は俺の部屋でなら何日でも待つことができる」
 聞いて、一瞬眼を丸くしてから、早苗はふふっと笑った。
「男は崇高な大義のために女への愛を犠牲にする」
「それなに?」
「いいわ。たぶん夏馬さんの言う通りだと思うから」
「そうなの?」
「でも、トランクルームとか、いつまでも預けておくわけにはいかないわよね」
「極めて実際的な解決すべき課題。いつもの早苗に戻ってきた」
 西江が笑みをつくると、早苗はふと真顔になり、少し心配そうに問い掛けた。
「私、おかしかった?」
「今朝からずっと俺を見ても笑ってくれなかった」
「ほんとに?」
「あの可愛らしいパジャマでいることに気づくまでだけど」
 西江の形容に、早苗の頬が引きつった。
「可愛いパジャマだよね。小さなクマちゃんがわいわい遊んでたりして」
「あの、あれは……」
「あんなのどこで買ったの? レジに持って行くとき恥ずかしくなかった?」
「……ネットで買ったから」
「あの極めてプラグマティックな部屋の中に、あんなファンシーなパジャマが隠されていたとはねえ」
「イジワル」
「早苗、笑って」
 もちろん早苗はふいっと横を向いた。横を向いて半分だけ――あるいは横から見たときの不完全な――けれども揶揄されて嬉しそうな――いかにも拙い笑みを西江に差し出した。西江はそれを素直に誘惑の身振りと見て取った。ふたりの間には、比較され、選別された生活の道具が、改めて段ボール箱に詰め直されて並んでいる。ふたりはそれを間に向き合っていた。西江は胡坐をかき、早苗は床の上で斜めに姿勢を崩し。
 エアコンがカタンと音を立てた。早苗はその場を取り繕うようにほんの小さく咳払いをして、姿勢を正した。
 昨夜、どうしてあのパジャマを着てしまったのだろう。うっかり間がさして買ってしまい、ひとりでもほとんど着ていないのに。自分を少しでも可愛らしく見せたかったのか。おそらくそうに違いない。恥ずかしさというものは、いつもあとから思い出したときにやってくる。
 なにか今日中に済ませなければいけない大事な用件がないだろうか、と早苗は頭を巡らせた。自分にではなく、西江にである。ふたりのことではなく、西江個人の用件でだ。けれどもそれはないようだった。たとえあったとしても、この日に限って西江がそれを優先させることはないだろう。日曜日だから、崇高な大義が持ち出されることもない。ああ、早く明日になれば――
 朝からずっとエアコンがつけっ放しになっている。厳密に言えば、ふたりが朝食後にシャワーを浴びたあとからずっとだ。それでも夏はどんな隙間をも埋め尽くす。動けば汗が滲む。さらに動けば汗が流れる。汗に濡れた肌は境界を曖昧にする。汗に濡れた肌は皮膚が持つ役割を無効化する。おそらくそのようなときには、女と男の快楽が、同一化の可能性を孕むことができる。
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