第11話 西江衛の千里眼

文字数 1,910文字

 西江は翌日、三時過ぎに自分から早苗にメッセージを送った。今日は水曜日だから六時までに上がる。時間があるから早苗の部屋で食事がしたい。一緒にスーパーで買い物して帰ろう。渋谷のいつもの地下通路で待っている。――と、早苗からすぐに返信があった。西江はそこから二時間余り、就職してから初めて全力疾走した。おそらく同僚の目にも、背中から立ち昇る熱気が光の屈折を歪める様が見えていたことだろう。五時四十五分には持ち物をすべてロッカーに片づけ、上着を片手にオフィスを出た。
 待ち合わせ場所に現れた早苗は、昨日までの申し訳なさそうに縮こまった様子から打って変わり、少し恥ずかしそうに西江に近寄ったり離れたり、眼を合わせたり逸らしたり、そわそわしながらホームを歩き、電車に乗り、駅に降りた。スーパーは仕事帰りの客で混み合っていた。ふたりは青果コーナーからゆっくりと店内をめぐった。メニューはベビーリーフのサラダ、アボカドのジェノベーゼパスタ、スズキのムニエルに決まった。早苗がロールケーキに恋をしてしまったので、最後にそれも買い物カゴに入った。それと、ハウスワインの白を一本。
 西江がキッチンに立つのを早苗は嫌がった。どうして?と尋ねても、いいから!としか答えない。西江はしかたなく、テレビ画面と早苗の後ろ姿を交互に眺めながら、所在無げに待った。完成!という声を聞いてテレビを消した。西江がワインを注ぎ――ワイングラスがなかったのでガラスのコップだ――乾杯をした。早苗はパスタの塩が薄いと言ったが、西江はこれくらいでいいと応えた。
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「中途半端に褒めると後悔するわよ。ずっとこのままになるから」
「大丈夫。ずっとこのままでいい」
「そ、ならよかった」
 それから西江が、初めてちょっと本気で仕事をした、と笑いながら話した。早苗に六時前には上がれると言ってから、ふと見通しの甘さに気がついた。明日課長に呼ばれるかもしれない。デートの約束があったので必死でした、とかなんとか言い逃れよう。きっと呆れて、元の平穏な日々が継続される。ぼんやりしていると、今日はデートじゃないのか?とか揶揄われたりしてね。
「ねえ、どうして急に連絡してくれたの?」
「きっと三時くらいからずっと迷って、五時くらいにやっと連絡するんだろうなあ、て気がしたから」
「なんて千里眼……」
「これまでの早苗を見ていれば、自ずとそういう結論にたどり着く」
「私はわかりやすいってこと?」
「いや、俺にセンスがあるってこと」
「そうね。とっても楽になったわ、ほんとうに」
「とりあえず毎日三時過ぎに連絡する」
「うん」
「どうしようもないときは誰に頼めばいい?」
「……麻友、かな」
「桐谷さんね、了解」
 食事を終えて、紅茶を淹れて、ロールケーキを食べながら、夏休みの相談をした。ザルツブルクという西江の提案は即座に却下された。そんなお金は初めから持っていない。本当は福井のハーモニーホールに行きたい。世界最高レベルのホールがなぜか福井にあり、八月の始めに大きなピアノコンクールの予選会が催される。世界レベルと称賛される大ホールで、子供たちが一生懸命に弾くピアノを聴くという趣向に、早苗は一も二もなく賛成した。
 日程は八月の第一週――一日目・富山、二日目・金沢、三日目・福井、四日目・静岡、五日目・帰京――北陸新幹線で東京を発ち、北陸三県を回る。帰りは琵琶湖畔から東海道に出て、先日約束を果たせなかった早苗の生まれ育った町に少しだけ立ち寄る。
 水曜の昼過ぎに富山、木曜は昼前に金沢、福井には金曜の午後に入り、土曜日の午前中にはハーモニーホールで子供たちのピアノを聴く。静岡着は夜。日曜の午前中、早苗の案内で町を歩き、午後の早い時間に東京に帰ってくる。
 食事は? 温泉は? そもそも予算はどれくらい? こんな旅行は初めてよ!と早苗が叫ぶ。一ヶ所でのんびり過ごすほうがいい?と西江が尋ねると、もっと忙しくてもかまわないと早苗が笑う。いっぱい歩いていっぱいお話しして、くたくたになって宿に入りましょう。きっとこれまででいちばん楽しい夏休みになるわね。きっとそう。間違いないわ! ああ、あなたったら、なんて素敵なの! こんな計画をこしらえていたなんて、私、ちっとも知らなくってよ!
 計画は立った。二ヶ月先の約束が交わされた。明日には旅行会社で働く西江の友人にさっそく連絡をとる。週末までに早苗がガイドブックを買い漁る。西江は十時に早苗のアパートを出た。湿度が高い。梅雨が近づいている。この夏の計画が、台風に吹き飛ばされないことを祈ろう。
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