第3話 池内家の総帥と契約を交わす

文字数 4,278文字

 早苗は月曜日の朝一番に電話をかけた。池内常葉からは翌火曜日の夕方を提案された。場所は彼女が勤める製薬会社の研究所、身分証(学生証)を持って受付を訪ねれば、オープンスペースまで迎えに来てくれる。用意するものはなにもない。体だけ持って来て、あ、脳ミソも忘れずにね――と電話の先の常葉はそう言って笑った。
 こうして「池内」とのつながりを維持している(維持されている)理由は、早苗が大和の幼稚園からの幼馴染みであるという経緯があってのことだけではない。もちろんそれは重要なきっかけであり、それがなければ「池内」と関係する可能性などまったくなかったろう。しかし、決定的に早苗が――たとえば桐谷麻友や高樹玲奈などと――違うのは、彼女が地元でも有数の歴史ある進学校において、理数系でほぼ主席に近い成績を残してきたという実績にある。麻友も玲奈も大和の元・現彼女であるという以上の関わりを、たとえば常葉や夏馬と結んではいない。彼女らは「安曇」の家には上がれても、「池内」の本家には上がれない。が、早苗はそこに上がることができる。おそらく大和の友人の中で、唯一ただ一人だ。
 火曜日の午後三時四十五分、早苗は豊洲駅からタクシーに乗った。朝から曇りがちのこの日は、冬に戻ったように冷たい夕暮れとなった。受付で学生証を見せるとセキュリティカードを渡されて、案内表示のB7に入って待つように言われた。このカードではB7のドアしか開けることはできず、かつB7以外のドアにカードをかざすとアラームが鳴るから気をつけるようにと注意を受けた。
 嫌なシステムだな、と思いながら、早苗はきれいに刈り込まれた芝生の中を縫う道を、案内表示を確かめつつ歩いた。雨の日はどうするのだろう…? きっと濡れずに行けるルートもあるに違いない。芝生の上にはぽつぽつと地面をついばむ小鳥の姿があって、残念なことに博物学には暗いので名前は出てこないけれど、早苗はその小鳥たちに導かれるような不思議な気分の中で歩いた。
 ほどなくB7ドアにたどり着く。やや緊張気味にカードをかざすと、ドアノブの周りがふわっと緑色に点滅し、グロッケンシュピールを叩いたような音がした。ドアはスライド式で、おそらく補助動力がついているのだろう、握りをつかんだだけですうっと造作もなく左に開いた。
 芝生の庭を望んで大きな硝子に囲まれた円形の空間に、椅子やテーブルが何組か置いてある。そのひとつに、大柄な池内常葉がこちらを向き、足を組んで座っていた。
「久しぶりね」
「ご無沙汰しています。先日はご馳走になりました」
 歩み寄った早苗は丁寧に頭を下げた。
「ああ、全然足りなかったって、あとで夏馬に酷く怒られたわ。大勢だったんだって?」
「そうなんです。彩日香さんと諸岡くんと、それに彩日香さんの

も」
「聞いたけど、ねえ、ほんとに彩日香の

なの?」
「その日に会ったばかりで連れてこられたと言ってました」
「ああ、やっぱりそんな話」
「でも、とってもいい子でしたよ。明るくて、可愛らしくて」
「ふ~ん。まあ、彩日香のことはどうでもいいわ。私の部屋に行きましょう」
「はい」
 そこから先、常葉の研究室までに六つの扉を抜けた。いずれも常葉が前に立つとなにもしていない(ように見える)のに扉が開き、早苗がくぐり抜けるとすっと閉じた。六つの扉が背中で閉じるタイミングから、これは私が抜けるのを確かめて閉じていると感じた。おそらくなんらかのセンサーが池内常葉を識別し、彼女に連れが一名あることを承知しているシステムが、早苗を追って扉を閉じるのだ。
 ソファを勧められて腰を下ろし、早苗がセキュリティシステムに関する推察を口にすると、ほぼ当たっている、と常葉が微笑んだ。

の意味合いを知りたかったけれど、それ以上は訊くなと常葉の眼が言っていたので、早苗も微笑むだけにとどめた。
 常葉は冷蔵庫から取り出した紙パックのブラックコーヒーをふたつの紙コップに注ぎ、早苗の向かいに腰を下ろした。「池内」の人間は、大和も彩日香も夏馬も静花も、キッチンの支配者である叶までもが、見ているだけで気持ちが悪くなるほどにコーヒーを甘くする中で、常葉はホットもアイスもブラックである。もしかすると、「池内」の中では常葉ひとりかもしれない。
「雑談からはじめるのと用件から片づけるのと、どっちがいい?」
「雑談は先ほど終わりました」
「そうね」
 コーヒーをひとつ口にして、常葉は「用件」を片づけにかかった。
「就職かドクターか決めてる?」
「就職活動を始めていないので、おそらくこのままドクターに進むことになるかと」
「おそらく?」
「私には具体的にやりたいことがありません」
「勉強は楽しい?」
「はい。ただそれだけの理由で大学に残りました」
「私が早苗を雇いたいと言ったら、Yes? No?」
「Yesです」
「なぜ?――いや、これは答えなくていいわ。でも早苗、あんた少しは迷ってみたらどう?」
「私は不純な動機を抱えています」
「純粋な動機なんて世の中あるかしらねえ」
「たとえば、倫理的であるとか……」
「それはただの規範よ。守るべきものではあるけれど、求めるものじゃない」
 話しながら常葉は腰を上げ、ソファからデスクに移った。
「今日、二宮さんいた?」
「いらっしゃいました」
 早苗の胸が早鐘を打つ。常葉は迷いなく受話器を取り上げ、早苗が通う大学院の代表を通じ、早苗の指導教授の二宮につながるのを待った。じっと早苗を見つめながら。早苗も常葉の視線に耐えながら。――だって常葉さん、迷ったら見えてしまうではないですか。見てしまうではないですか。それは見たくないんです。見えたらもう恥ずかしさに耐えられません。見たらもう平気で立ってはいられません。〈松田早苗〉はそうあってはならないのです。〈松田早苗〉はそのようにあることはできないのです。それでは〈私〉は消えて失くなってしまいます。
「ああ、池内よ。久しぶり。……うん、そうよねえ。木之下教授の十年じゃない?……そうそう。……いや、山崎さんは私行けなかったのよ。……ええ、聞いてるけど。……ねえ、それはまた今度にしてくれない?……わかってるから、それは。でさ、いまちょっといい?……あなたのところに松田って女の子いるじゃない?……そう、松田早苗。あの子、うちにくれないかな?……もちろんそうよ。……本人はどっちでもいいって言ってるわ。……ほんとだって。いま目の前にいるんだから。……そうよ。……なにを考えるの?……いい話だと思わないって?……だったらいま決めちゃってよ。こっちも採用枠押さえたいからさ。……それはちゃんとやるって。とりあえずあなたの『うん』がなきゃ始まらないでしょ?……そうよ。……当たり前じゃない。……じゃ、いいのね?……決めちゃうわよ?……オッケー、ありがとう。さっそく事務方に回しとくわ。……なによ?……なにが?……ああ、また始まったのね。……はい、はい。……ああ、そうね。今度ゆっくり聞いてあげる。……わかった、わかった。ちゃんと時間つくるわよ。……はい、約束します。……はい、はい。……はい、はい。…………」
 しばらく耳を澄ませてから受話器を置いた常葉が、早苗に片眼をつむってみせた。
「あそこまた学長で揉めてるの?」
「知りません、私は」
「ま、いいわ。――早苗、あんた来年からうちに来て」
「ありがとうございます」
「とりあえず、一生勉強することになったって思っとけばいいから」
「それはもうぜんぜん大丈夫です」
 ふうっ…なんていう人だろう。知ってはいたつもりだったが、ここまでの立ち回りを目の前で見せられてしまうと、もう溜め息しか出てこない。彩日香さんが「池内でいちばんおっかないのは常葉さんだ」と言っている本当の意味が、今日ようやくわかったような気がする。――早苗はもう澄まして取り繕うことは考えず、バッグからハンカチを取り出して、額やこめかみに浮いた汗を拭った。学生証を出せと言われて手渡すと、その場でコピーを取って返された。そのとき目の前の紙コップに入ったコーヒーを思い出し、早苗は一息に半分ほどを飲み干した。
「このまま食事に行きたいとこだけど、今日は無理なのよ。また近々ね」
「私のほうはいつでも」
 助かった。このところちょっと飲み過ぎている。土曜日も西江とけっこうぐずぐずと話し込み、結局日曜は洗濯と掃除を済ませるのが精いっぱいだった。飲んでも顔に出ない体質なので、つい飲まされてしまう。きちんと意識を保って帰宅できるから、自分にも過信がある。気をつけないと、いずれどこかで失敗をしでかしそうだ……。
 でも、私は働くことになった。一生勉強することに決まった。研究職。勉強していればお金がもらえる。違うかな? よくわからない。常葉さんの部屋は二宮教授の部屋によく似ていた。棚に並んでいる、床に積んである、本や冊子の背表紙の色や字体が。日本語と英語の比率も。ソファの傷み具合、ブラインドの色褪せた具合、そしてなによりも、当人の匂いしかしないところ。
 両親は喜ぶだろう。兄も眼を丸くするだろう。確か売上高は一兆円を超えているはず。見なさい、これがあなたたちの〈松田早苗〉よ。だけど

は驚かない。安曇大和、桐谷麻友、諸岡和仁――ナエが稼ぐなら来年から飲み会の予算アップだな。常葉さん上司になったらすっごい怖そうだねえ。さすが早苗さん、やっぱり頭のいい人は違うよなあ。……もう眼に見えるようだ。
 高樹玲奈が問題なのではない。問題なのは

のほうだ。陽の当たる道だけを歩いてきた人たち。私は彼らと同じ道を歩きたかったのか、あるいは彼らが膝を屈する姿を見たかったのか。どうして彼らのそばにいるのだろう。大和が好きだから。それがまず第一だ。高樹玲奈に納得できないから。それも間違いない。だけど、たぶん、まだなにかある。もっともっと根源的なもの。〈松田早苗〉を支えている脆くて不確かなもの。それを眼にしたら、〈私〉が消えて失くなってしまうもの。
 あと一年、なにをしよう。マスターもらうだけじゃつまらない。なにか探そう。でもどうやって? 私、やりたいことなんてひとつもない。やっぱり今日は常葉さんと食事をしたかった。帰りは豊洲の駅まで歩こう。もう日が暮れる。芝生の上の小鳥たちはどこに消えてしまったのかしら…。
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