第1話 ある夜のサプライズ

文字数 5,490文字

 昼食中に、正月以来になる誘いを受け取って――正月に集まったのは郷里だった――食事を終えた松田早苗(まつだ・さなえ)は、午後は研究室には戻らずに、いったん帰宅して近くのカフェに入ると何本か論文を読んでから、時間に余裕をもって中目黒に向かった。中目黒ということは、おそらく「池内(いけうち)」の人間が誰か顔を出すのだろう。夏馬(なつめ)さんか、常葉(ときわ)さんか……(かのう)さんだったら楽しいのにな、と思った。
 そう言えば、今日は彩日香(あすか)さんが来る。カフェに座っているとき、大和(やまと)からメッセージがあった。友達を連れてくるらしい。彩日香さんに友達?――考えてみれば、まずそこに驚いておくべきだろう。あの人の口から「友達」なんて言葉を聞いたことがあったろうか。相手は彩日香さんのことを「友達」だとは思っていないかもしれない。ありそうな話である。彩日香さんはそういう悲しい運命を背負っている人だ。
 店にはもう麻友(まゆ)大和(やまと)が座っていた。彩日香はまだ来ていない。「池内」の人間も。
「早いね、ふたりとも」
 言いながら、早苗は大和の隣に座った。いつも大和の隣には早苗が座る、そこに玲奈(れいな)がいない限り。その玲奈は今日は来ない。だから大和の隣には早苗が座る。この場所を捨て切れなかった。この場所を思い切れなかった。それが、早苗がいま東京にいる理由だ。麻友だけがそれを知っている。当の大和は知らない。玲奈はたぶん気づいているけれど、知らないふりをつづけている。
「私たち勉強嫌いだから、ナエちゃんと違って」
「そういう理由?」
「それよりさ、彩日香さんが友達連れてくるとか言ってるんだけど、どういうこと?」
「友達だと思ってるのは彩日香さんのほうだけなんじゃない?」
「やっぱり? ナエちゃん相変わらず身も蓋もないこと言うけど、やっぱそうだよねえ」
「大和はなにか聞いてないの?」
「俺はなんも聞いてない。ただ友達連れっていいか?て言われただけ」
 大和は嘘がつけない。嘘が下手だ。それは昔から変わらない。そこは放っておいてあげよう。彼は見かけによらず傷つきやすい。早苗は話題を変えた。
「池内はだれ?」
「どうして池内?」
中目(なかめ)のときはいつもそうじゃない?」
「ああ、まあ、夏馬さんが来る」
「夏馬さん? 彩日香さんそれ知ってる?」
「知らない」
「可哀そうなことするわね、大和も」
「違うって。サプライズがあるんだよ。夏馬さんがサプライズを連れてくる」
 まったく、その程度の隠し事も我慢できないのか。相変わらずだな、大和は。呆れながらも、早苗はちょっとおもしろい気分になった。
「そういうことか。へえ、そうなんだ。それは楽しみ。彩日香さんの泣き顔が見られるわけね、今日は。勉強サボって来てよかった」
 それから三人で近況を共有し、とはいえ二ヶ月ほど前に会ったばかりだから大して変わり映えもせず、とはいえ高校からの付き合いだから話題に困ることもなく、先にビールで乾杯をしてしまい、彩日香さん遅いね…と麻友が時計を見たちょうどそこへ、彩日香が「友達」を連れて登場した。約束の時間から二十分ほど遅れている。時間通りに来たためしがない、いつもの安曇彩日香(あずみ・あすか)だ。
「見飽きた顔が並んでるねえ。相変わらず仲がおヨロシイことで。けっこう、けっこう!」
 見飽きているのはお互い様である。だから三人は――早苗も麻友も大和の眼も――彩日香の後ろに立つ

に釘付けになった。これが彩日香さんの友達!? びっくりした。物事に動じることの少ない早苗でさえ、思わず眼を見張ってしまった。いくつだろう? 酒席に呼ばれるのだから成人はしているはずだが、まるでまだ高校生のようだ。まあ、可愛いと言っていいのだろう。この年齢で女の子が可愛くなかったら困る、というレベルはやや超えているという評価はしてあげてもいい。それにしても、相変わらず怖いくらいに綺麗な彩日香さんと並んで立つこの違和感は、ちょっと酷い。
 彩日香に促されて麻友の隣の席に入ったその女の子は、北原希美(きたはら・のぞみ)と自己紹介をした。
「なんか、よくわからないんですけど、お邪魔することになってしまって、すみません。……よろしくお願いします」
 

らしく、ぺこりと頭を下げた。ああ、やっぱりそんな感じだったわけか、と早苗は苦笑した。まあそうだろうとは思っていたけれど、要するに拉致されてきたわけだ。見るからに脇の甘そうな様子からして、逃げ出す隙など与えられなかったのだろう。
「どうよ、大和。言った通りでしょ? ピッチピチでしょ? こいつらとは肌の張りが違うでしょ?」
 テーブルに右肘をついて乗り出して、左腕で馴れ馴れしく肩を抱き寄せながら、見知らぬ場に連れてこられて緊張いっぱいの北原希美の困惑に、彩日香が容赦なく拍車をかけた。が、俄かに大和の眼が泳ぎはじめた。麻友と早苗に睨まれて、逃げ場を探そうとしている。
「ねえ、大和。ちょっといいかしら?」
 と麻友がまず口火を切った。
「いまの彩日香さんの発言についてなんだけど、あなたから解釈というか釈明というか、そういうなにかこの由々しき事態にふさわしい言葉添えが必要なんじゃないかとね、私もナエちゃんもそう考えるわけだけれど、もちろん聞かせてもらえるわよね。そうでしょ、ナエちゃん?」
「そうね。説明責任は明らかに大和にあるわね。あなたは彩日香さんからこの

についてはなにも聞いていないと断言した。この事態を予測し得る立場にいる唯一の人間でありながら、事前にしかるべき手を打っておくことを怠った。そのための時間的猶予は充分にあったにも関わらず」
「あの、私……」
 思わぬ展開に、そわそわと周囲の顔を見まわす希美を、麻友が隣からにっこり笑って制した。
「あなたはなにも心配しなくていいのよ、希美ちゃん。私たちと同じ被害者のひとりなんだからね。彩日香さんにも責任はないの。あなたを連れてくることはきちんと事前に伝えていたから。いまここで罪を問えるのは大和ただひとり。――さあ、この色男、どうするつもりかしら?」
「べ、弁護人を要求する!」
 早苗に出口を塞がれて、左腕をがっちり締め上げられていた大和は、天井に向かって叫んだ。
「十万から相談に乗ろう」
 その天井から太く張りのある声が降ってきて、いかつい顔をした大男が、どかんと早苗の隣に腰を下ろす。と、入れ替わるように、がたんとテーブルに膝をぶつけ、彩日香が飛び上がった。
「な、なにしにきたの!?
「酒席に呼ばれてきたつもりだったんだが、どうやら法廷が開かれるようだね」
「誰が、誰が夏馬なんか呼んだのよ!」
「さあ、誰だったかねえ」
「私、聞いてないんだけど! ちょっと、大和――どういうこと、これ!?
「彩日香、こういうことだよ」
 さらにもう一人、今度はよく陽に焼けたすらりと背の高い若者が現れて、弟の大和に食ってかかる彩日香に微笑んだ。なにがどうなっているのか、希美は目の前で繰り広げられるあまりの急展開に、すでに気を失いかけている。
 ――さ、主役のお出ましだ!
 と、早苗はさっきから眼を真ん丸にしている希美の様子を楽しんでいたのだが、そこで注目先を彩日香に移した。
 お目付け役である池内夏馬の登場に、その怖いくらいに美しい顔を歪めて蒼褪めていた彩日香は、最後の声の主を見た途端、弾かれたように席を飛び出して、その首に抱きついた。いかにもハンサムな若者は、照れくさそうに笑っている。そして彩日香が抱きついた首元には、見るからに彩日香の手編みとわかる、つまりは不器用なことこの上ないマフラーが巻かれていた。
 全員の視線が、彩日香の震える背中に注がれた。こういう場面では珍しく、座席から眼を細めて従妹を振り仰いでいる池内夏馬の横顔を、早苗はすぐ真横から不思議そうに眺めた。いつもなら、こうして席に座って場に留まるようなことはせず、ここまでの段取りが期待した通りに運ぶのを見届けると、知らぬ間に姿を消してしまう人なのに。
諸岡(もろおか)くん、今日着いたんですか?」
「そうだよ」
「彩日香さんに内緒で?」
「大和と示し合わせていたらしい。彩日香にサプライズを仕掛けたいから手伝ってくれ、と頼まれたんだよ。僕が急に現れて彩日香の緊張を一気に引き上げといて、返す刀で諸岡を登場させる。――しかしこれは、ちょっと刺激が強すぎたみたいだ」
「夏馬さんも今日はご一緒されます?」
「そうだね。お邪魔でなければ」
「全然そんなこと。そもそもここは『池内』が持つって聞いてますし」
「え、大和、そうなの?」
「常葉さんから三万もらいやした!」
「おいおい、七人いるんだろう? この店じゃ半分にもならない」
「あとは夏馬がなんとかするよ、と叔母様はおっしゃってましたです!」
 夏馬はひとつ嘆息してから、好きにしていいと言った。
 彩日香と諸岡が席に着いたのは、そうしてどれくらい経ってからだったろう。先に諸岡が北原希美の隣に座り、互いに自己紹介をしている間、彩日香は化粧室に駆け込んで、なかなか戻って来なかった。涙の跡を拭い、眼の腫れがひくのを待って、ようやく現れはしたものの、自分が連れてきたはずの希美にはかまわずに、諸岡の外側に座ってしまい、借りてきた猫のよう…という直喩があるけれど、その場の会話には一切参加せず、諸岡の肩に頭を寄せたまま、幸せそうに眼を瞑ってしまった。
 大和・麻友・希美の三人が、なにかの話題でどっと盛り上がったとき、早苗はちょんと肘をつつかれた。右手に向いていた顔を左手に動かしきる手前で、囁き声がそれを制止した。
「叔母が君に会いたがっている」
「常葉さんが?」
「今月中に連絡してもらえるかい?」
「ああ、はい……」
「これで研究室に直通する」
 テーブルの下で、夏馬からそっとメモを手渡された。ちらっと見ると、電話番号が書いてある。池内常葉が勤める製薬会社の研究所内の、彼女個人の研究室への直通番号という意味だろう。まさかとは思うけれど、私をあそこに引っ張ってくれるのだろうか…?
 早苗はまだマスターを終えたあとのことを考えていなかった。漠然とこのままドクターに上がるつもりでいた。その先にどこかたどり着きたい場所があるわけではない。生まれながらに勉強ができて、できることをしているのが楽しくて、いや、気が楽で、ここまでやってきただけだ。
「悪い話じゃないはずだよ」
 夏馬が気を持たせるようなことを口にして、早苗がメモ紙をジーンズのポケットに押し込んだとき、ふと斜め向かいの諸岡と眼が合った。自分のほうを向いてくれるのを待っていた様子である。
「早苗さん、どうしよう…?」
「なに?」
「この人、寝ちゃったんだけど」
 ほんとうだ。彩日香さん、眠ってる……。この人は口を開かなければ、頭を働かせなければ、その鋭い切れ長の眼を開かなければ、もうお人形みたいに綺麗で可愛らしい。女の私ですら思わず見蕩れてしまうほどに。いまメモを手渡してくれた夏馬もまた、同じように従妹の様子を見ているはずだ。お任せするのがいちばんいい。どうせここ中目黒には、「池内」のマンションがすぐそこにある。
「諸岡、ちょっとこの先まで運んでくれるか?」
「もちろんです。それでいいですか?」
「ほかにどうしようもないだろう」
「わかりました。行きましょう」
 諸岡はその場でひょいっと彩日香を抱き上げると、軽々と立ち上がった。
「諸岡くん、そのまま帰っちゃう?」
「みんなが残ってるなら戻るけど」
「じゃ、戻ってきて。どうせ追い出されるまでいるはずだから」
 立ち上がった夏馬と諸岡と、背負われた彩日香を見送るテーブル奥の三人は、もうすっかり酔っぱらっていた。北原希美はどうやら年上の人間に囲まれることに慣れているようだ。不必要に甘えるでもなく、背伸びをしない自然な振る舞いに、早苗はちょっと感心していた。育った環境のせいもあるだろう。父親が経営する会社のオフィスと、家族が暮らすフロアとが、同じビルに同居していると言う。全然お金持ちではなかったと話す言葉にも、過剰な謙遜がない。彩日香さんはどうやってこんな子を拾ったのか――夏馬からこそっとお金(大和の三万円を補填する金額)を受け取って、夏馬・諸岡のふたりの大男が彩日香を連れ出す背中を見送った早苗は、新しい顔を迎えた馴染みの仲間たちのおしゃべりの輪に戻った。
 結局この夜、諸岡は酒席に戻らなかった。「池内」のマンションに着いたところで彩日香が眼を覚ました。そういう連絡を大和が受け取った。ふたりで戻って来い!と大和は騒いだが、それは無茶な要求だろう。諸岡がどれくらい日本に滞在するのかわからないけれど、それが長かろうと短かろうと、今日が特別であることは変わらない。
 酔った仲間たちの話に笑いながら、早苗はそっとジーンズのポケットに手を当てた。そこに、〈池内常葉〉に直通する連絡先が入っている。三月中に連絡をするよう求められた。早苗の知る限り、常葉は一族の元締めである。もちろん早苗は「池内」の人間ではない。だから常葉の話は早苗自身の問題に間違いない。やはり仕事の話か。それを期待していいのか。いや、今は考えるのはやめておこう。こういうときは予断なく会うほうがいい。
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