第10話 闘う相手は見えないけど、護るべきものは明白だ
文字数 6,143文字
今日で四回目、土日を挟んで四日連続になる。週末には、来週は大丈夫だから、と言っていたのだが、月曜の夕方にやはり連絡が入った。そして今日も五時過ぎにメッセージが届き、さすがにこれはただごとではないと思った。大した残業はないし(しないし)、負担に感じるわけでもないのだが、尋常でないのは事実である。西江衛は七時半には着くと返信した。
渋谷で早苗と一緒に田園都市線に乗り、梶が谷で改札を出るまで見届ける。西江はそこから二子玉川まで戻り、大井町線に乗り換えて帰宅する。もちろん先週末の金曜日にはふたりで食事をした。が、木曜も月曜も、梶が谷の改札の内側で背中を見送っている。理由はわからない。早苗がわからないという以上、西江にも成す術がない。とにかく家に帰れないと言うのである。厳密には、渋谷で電車に乗り込めない、梶が谷で電車から降りられない。そういう話だった。
この日も渋谷の地下道で落ち合い、早苗がしっかりと握り締める手を引いて、一緒に電車に乗った。早苗は窓辺に立ち、腕を絡めて西江に体を預けたまま、虚ろな眼で窓の外――しばらくは地下の暗闇だが――を見つめている。時々ふと西江を見て力なく微笑む。そして、ごめんなさい…と口にする。声は電車の音に掻き消されて聞こえない。だが、ごめんなさい…と唇が動くことはわかる。
二子玉川で地上に出ると、すぐに鉄橋を渡る。早苗の表情が少し柔らかくなる。渋谷から二十分ほどで梶が谷に着く。やはりしっかりと握り締める早苗の手を引いて、一緒に電車を降りる。階段を昇り、改札の手前で立ち止まると、早苗はちょっと躊躇ってから西江の手を離し、微笑みながら胸の前で小さくその手を振るのだ。ありがとう…と言いながら。
この日、四度目の火曜日のことだが、早苗の背中を見送った西江は、その場でずいぶん前に交換したはずの桐谷麻友の電話番号を探した。麻友はすぐに出た。渋谷のカフェにひとりでいた。会いたいと告げると、このままカフェで待っていると応えた。西江はちょっと考えてから、いったん改札を出て、そのまますぐに回れ右をして入り直し、滑り込んできた渋谷方面行きの電車に飛び乗った。
「ちょっと待ってね」
西江が向かいに座ると、一見して学術系とわかる薄い冊子を開いていた麻友はそう言って、ちらっと上げた顔をすぐに戻した。西江はコーヒーを飲みながら麻友の顔を眺めて待った。驚くような速度で瞳が左右に動き、あっという間にページをめくる。そのスピードで理解が追いついているのか…と西江は感心しながらも、麻友の瞳の動きをおもしろく眺めつつ待った。
学部のゼミで早苗と知り合って間もなく、地元の同じ高校から東京にやってきた三人の仲間を紹介された。桐谷麻友はその中のひとりである。一目見て、この子がいちばん頭が切れるのだろうと西江は感じ取った。高樹玲奈はどこにでもいる、一生懸命で可愛らしい女の子。安曇大和は優秀さよりも人を惹きつける天性の魅力が際立つタイプ。そしてこのグループには、安曇大和の恐ろしいくらいに綺麗な姉と、さらにはフロリダに全日本クラスのスイマーが控えていた。
西江は率直に、どうしてこの中に早苗がいるのだろう?と不思議に思った。幼馴染みだとは聞いたけれど、早苗は明らかに異分子に見える。その感覚を裏付けるように、彼らと過ごす時間を西江は楽しいとは感じなかった。ただ、いま目の前にいる桐谷麻友には邪念がまったくない。うっかり地上に紛れ込んでしまった無邪気な天使が、天上に連れ戻されるまでの時間を楽しんでいる。こうして眺めているこちらのほうも、こんな物思いが馬鹿々々しくなってくる。
やがて冊子を読み終えた麻友が、ふうっと大きく息を吐いた。
「役立たず!」
冊子を放り投げる仕草をして見せてから、無造作に足元のバッグに突っ込んだ。
「ロクでもない論文読まされると、ほんとイラつくよね。…あ、西江くんさ、ロイヤルミルクティーご馳走してくれない?」
「いいよ」
「ついでにこれ片付けて。あ、ホットでお願いね。それと砂糖は三つだから」
空になった麻友のカップを手に腰を上げ、代わりにホットのロイヤルミルクティーと砂糖を三つ持って西江がテーブルに戻ると、麻友は頬杖をついてなにやら笑みを浮かべていた。
「ナエちゃんと喧嘩した?」
「そんな迷惑な話で君を探したりしないよ」
「ふ~ん。どれくらい深刻なの?」
「いまのところ手も足も出ない、かな」
「あなたが? マジで?」
「先週の水曜か、火曜か、月曜か、早苗と会ってる?」
「会ってない。ナエちゃんは毎晩ずっと西江くんとお楽しみ、という設定になってるから」
「酷いな。高校生じゃあるまいし」
先週の木曜日から始まった早苗の奇妙な言動を西江から聞き、麻友はしばらく瞳を天に向けて考えた。その可愛らしい顔つきといい仕草といい、まったく本当にラファエロの描いた天使そのものだ。聖母子の足元で、人間が考え事をする様子を真似ている、あの天使たちである。
「そうしてもらわないと、どこか違うところに行ってしまう、て感じかな?」
「まあ、そういう感じだよね」
「入れ揚げてるホストがいるとか――てことはないよねえ。先週かあ、水曜には大和と玲奈と三人で飲んだけど、ナエちゃんの話は特になかったなあ。…それって突然始まったの? ほら、名古屋のあとさ、なんか予兆みたいのなかった?」
「あのあとは落ち着いてたよ。そもそもあれも、よくわからないままなんだけどね」
「ナエちゃんはなんて言ってる?」
「大和くんの事故を思い出したって」
麻友は思わず息を呑んだ。それから片手で髪をぐしゃっとつかみ、慌てて乱れた髪を整えてから、その大きな瞳でじっと西江を見た。表情の抜けた桐谷麻友の顔を見るのは初めてのことで、西江は緊張した。麻友は西江の眼を見つめながら、しばらく迷った。が、迷っても意味がないと覚悟を決めて口を開いた。その先のことは、いま考えてもしょうがないと割り切った。
「プールサイドに行っちゃいけなかったのよ」
「どういうこと?」
「ナエちゃんは事故を見てるの。大和の右足が失くなった瞬間を」
「そんなこと……初めて聞いた」
「ごめん。今のはウソ。でもホント。事故現場にいたわけじゃなくて、病院にいたの。そこで足を切断したばかりの大和に会った。手術のほんと直後よ。そこで見ちゃったの、包帯でぐるぐる巻きになってる大和の右足を。で、踝から先がないって聞かされた。大和の口から直接。…大和、笑ってたのよ、そのとき。…ナエちゃん、あれから一度もプールサイドには行ってない」
安曇大和が幼馴染みであることは、もちろん聞いている。それに、高校二年の春まで、彼が事故に遭って右足を失うまで、県内で諸岡和仁と競うほどのエリートスイマーであったことも。早苗を通じて知り合った彼らが、あるいは西江の知る彼女らが、そうして安曇大和と諸岡和仁を軸につながっていることを、西江は自分なりに組み立てて理解していた。だが、諸岡和仁が残っていたことで、西江は状況を読み違えたのかもしれない。彼らがそろって諸岡和仁を応援していたから、それも安曇大和の姉の恋人ですらあると聞いていたから、そんな場面が隠されていたとは想像し切れなかった。こんな簡単なことを――。
仕方がない。諸岡和仁という名前の煌びやかさに眼を眩まされたのは自分のほうだ。冷静に考えてみれば、考えてみるまでもなく、彼があの中にいることに、もっと強い違和感を持つべきだったろう。彼は競泳のエリートかもしれないが、ほかの秀才連中とは明らかに異質だ。早苗ではなく、彼こそが異分子だ。彼を取り除いて眺めれば、彼らをつなぐ軸は速やかに安曇大和と松田早苗に移行する。彼らがたびたび口にする「池内」という名前も意味を持ちはじめる。早苗の就職先は安曇大和の叔母が勤める製薬会社だ。それも大和の叔母が直接に早苗を口説いた。彼女は「池内」の人間。安曇大和と同じ一族。おそらく幼い頃から早苗をずっと見て来たのだろう。
早苗を求めるというのは、そういう一切を引きずり出してしまうわけか。そうであれば、諸岡和仁が引退するという今であれば、西江がやるべきことはひとつしかない。安曇大和と松田早苗のふたつの軸が再確立されてしまう前に、早苗をしっかりとこの腕の中に抱き留めておく。今はまだ誰もそのことに着手していない。まだ諸岡和仁の最後のレースの余韻に浸っている。今はまだ無意識の底で蠢いているだけだ。しかしおそらくもう始まっている。安曇大和と松田早苗は知らず知らずに引き合っている。そういう磁場のようなものが形成されつつある。
「麻友さん、ありがとう。よくわかったよ」
「わかったって、なにが?」
「俺は毎日辛抱強く早苗を送りつづける」
「なにと闘うつもり?」
「なんだろうね…。闘う相手は見えないけど、護るべきものは明白だ」
「うおっと、カッコいいじゃん! 誰かわたしにもそんなこと言ってくれないかなあ」
「そもそもなんでこんなに可愛らしい女の子がひとりでカフェに?」
「あ、やっぱそう思う? 今日中に眼を通しておきたい論文がまだあと四本もあってさ、家帰ると寝ちゃうし夜の学校怖いし、それでここなの。たぶん閉店までいるから、西江くん、用事が済んだらさっさと帰って。あ、ミルクティーご馳走さま。ナエちゃんをよろしくね」
追い出されて、西江は混み合う渋谷の街に出た。少し頭を冷やそうと思い、センター街の脇からブックオフに入った。クラシックのCDの棚を端から順に眺めて行く。シベリウス、ショスタコーヴィッチ、この辺りかな。朝比奈のシベリウスは…ないか。ムラヴィンスキーのショスタコーヴィッチね。五番は持ってるし、八番がないかな。…ない、残念。いや、コンチェルトはやめよう。今日は抑揚のないほうがいい。ん、ラズモフスキーの三番とハープ?
スメタナ・カルテットか。シベリウス、ショスタコーヴィッチ、スメタナ――いい加減な並べ方をしているなあ。作曲家、作曲家、演奏家――けれどもそのお陰でラズモフスキーが目に入った。いいだろう。おもしろい。よし、これにしよう。
自由が丘で乗り換えて、十時半にアパートに着いた。食事を買い忘れた。冷凍庫にあったパスタをレンジにかけ、パンを焼いた。あとはトマトにキュウリ。よく冷えている。冷え過ぎなくらいだ。小さくCDを流す。……さて、どれくらい時間がかかるだろう。一緒に暮らしてしまえば表面上は解決しそうだが、いま早苗が首を縦に振るとは思えない。一ヶ月ならまったく問題ない。が、三ヶ月まで行ったらもう〈病い〉と言うほかない。いや、本当にそうか…?
安曇大和か。厄介な相手だな。いっぺんになにもかも進め過ぎたんだよ。就職のこと、俺のこと、それにプールサイドまで。一度に片づけようとしちゃダメだ。時間をかけていい。別に三ヶ月でもいい。半年かかってもいい。十七年分だろう? それとも二十三年分か? それでも俺たちには時間はまだたっぷりある。使えるだけ使えばいい。俺はそれを〈病い〉だなんて言わないから。
カフェを追い出されるギリギリで論文にすべて眼を通した。が、当たりはひとつだけ。七本読んで一本しか当たらなかった。当たりがあっただけでも良かったの? なんとも言い難い。外れの傾向をつかめたのは、それはそれで収穫だった。が、疲れた。帰ろう。帰って寝よう。バナナとヨーグルトがあったはず。空腹で目が覚めなければそれでいいじゃないの。
終電に近い電車は混んでいた。麻友の賃貸マンションまでは十分もかからない。駅から五分、急げば三分。相当に恵まれている。その充足感はしっかり自覚している。私に足りていないのは、私をガッカリさせない男だけ。要求は至極単純――自分がなにを知らないか、自分になにができないか、それをちゃんと承知して振る舞えること。たったそれだけのことなのに、どうしても出会えない。そういう男がいないとは思わない。ただ、そういう男はなぜか私に惚れてくれないのだ。
まだ若いのだろうなあ、とは確かに思う。二十三、四で老成してしまうのも如何なものか。となれば、勢い年上ということになる。四十を不惑と呼ぶのが真実であれば、つまり四十だ。今年最少でも十六の年齢差になる。ピッタリ四十でないとしても、一回り以上は離れてしまう。以前大和には、理想は叶さんだと言った。固有名としての池内叶ではなく、代表名としての池内叶である。叶さんは現実解が実在する証拠だ。しかし、どうしたことか、私の前には現れない。
部屋に入ると真っすぐにカーテンを開け、窓を開けた。密閉された空気を入れ替えたい。窓から射し込む街の灯りだけで腕時計を外し、ストッキングを脱ぎ、ネックレスやイヤリングを外し、部屋着に着替える。窓を閉め、カーテンを閉めてから、部屋の灯りをつける。洗面に行って脱いだ服を洗濯籠に放り込んだら、鏡の前に立って化粧をすっかり落とす。最後に束ねていた髪をほどく。
――誰かとしゃべりたい……
今日は西江くんとおしゃべりした。いや、あれはおしゃべりじゃない。西江くんの頭の中はナエちゃんのことでいっぱい。目の前にいる私はAIロボットみたいなものだった。あんなのはおしゃべりとは言えない。…退屈ね。人生がこんなに退屈なものだなんて知らなかった。
――私、ちっとも知らなくってよ
オースティンとかの翻訳でよく出会う言葉遣いだよね。これっていったいどこの言葉なんだろう。いわゆる山の手のお嬢様たちはこんなふうにしゃべってたってこと? 私も地元じゃけっこうなお嬢様なんだけど、聞いたことがない。田舎のお嬢様だからかしらね? かしらね、とか……
――なにか食べなくちゃ……
私さっきなにを食べればいいって思ったんだっけ? ああ、バナナとヨーグルトね。…て、バナナなんかないじゃないの! ヨーグルトだけか。あ、シリアルがあったはず。ああ、あったあった。よかった。これでお腹が空いて目が覚めちゃうなんてことにはならない。
――ナエちゃん、なにやってるのよ!
西江くんが私に電話してくるなんて、よっぽどのことだからね。ナエちゃん、頭がおかしくなったと思われてるんだよ。狂女よ、狂女。ロル・V ・シュタインみたいな。どういうこと? 西江くんが私に電話してくる前に、ナエちゃんから私に電話があるべきじゃないの?
西江くんには言わなかったけどさ、ナエちゃん、新宿に行ったんでしょ? 小田急線に乗ったんでしょ。経堂に行っちゃったんでしょ。それくらいわかるよ。なんでいつまでもそんなバカやってんのよ。ナエちゃんがバカなのは知ってるけどさ、昔のほうがもう少しマシだったんじゃないの?
大和を探しちゃダメじゃない。あそこはもうただの空虚なんだから。なんにもないんじゃなくて空虚があるだけなの。空虚に置き換わってるの。だから失敗するに決まってるの。それくらいわかるでしょうに。ほんとにほんとにほんとにバカなんだから!
渋谷で早苗と一緒に田園都市線に乗り、梶が谷で改札を出るまで見届ける。西江はそこから二子玉川まで戻り、大井町線に乗り換えて帰宅する。もちろん先週末の金曜日にはふたりで食事をした。が、木曜も月曜も、梶が谷の改札の内側で背中を見送っている。理由はわからない。早苗がわからないという以上、西江にも成す術がない。とにかく家に帰れないと言うのである。厳密には、渋谷で電車に乗り込めない、梶が谷で電車から降りられない。そういう話だった。
この日も渋谷の地下道で落ち合い、早苗がしっかりと握り締める手を引いて、一緒に電車に乗った。早苗は窓辺に立ち、腕を絡めて西江に体を預けたまま、虚ろな眼で窓の外――しばらくは地下の暗闇だが――を見つめている。時々ふと西江を見て力なく微笑む。そして、ごめんなさい…と口にする。声は電車の音に掻き消されて聞こえない。だが、ごめんなさい…と唇が動くことはわかる。
二子玉川で地上に出ると、すぐに鉄橋を渡る。早苗の表情が少し柔らかくなる。渋谷から二十分ほどで梶が谷に着く。やはりしっかりと握り締める早苗の手を引いて、一緒に電車を降りる。階段を昇り、改札の手前で立ち止まると、早苗はちょっと躊躇ってから西江の手を離し、微笑みながら胸の前で小さくその手を振るのだ。ありがとう…と言いながら。
この日、四度目の火曜日のことだが、早苗の背中を見送った西江は、その場でずいぶん前に交換したはずの桐谷麻友の電話番号を探した。麻友はすぐに出た。渋谷のカフェにひとりでいた。会いたいと告げると、このままカフェで待っていると応えた。西江はちょっと考えてから、いったん改札を出て、そのまますぐに回れ右をして入り直し、滑り込んできた渋谷方面行きの電車に飛び乗った。
「ちょっと待ってね」
西江が向かいに座ると、一見して学術系とわかる薄い冊子を開いていた麻友はそう言って、ちらっと上げた顔をすぐに戻した。西江はコーヒーを飲みながら麻友の顔を眺めて待った。驚くような速度で瞳が左右に動き、あっという間にページをめくる。そのスピードで理解が追いついているのか…と西江は感心しながらも、麻友の瞳の動きをおもしろく眺めつつ待った。
学部のゼミで早苗と知り合って間もなく、地元の同じ高校から東京にやってきた三人の仲間を紹介された。桐谷麻友はその中のひとりである。一目見て、この子がいちばん頭が切れるのだろうと西江は感じ取った。高樹玲奈はどこにでもいる、一生懸命で可愛らしい女の子。安曇大和は優秀さよりも人を惹きつける天性の魅力が際立つタイプ。そしてこのグループには、安曇大和の恐ろしいくらいに綺麗な姉と、さらにはフロリダに全日本クラスのスイマーが控えていた。
西江は率直に、どうしてこの中に早苗がいるのだろう?と不思議に思った。幼馴染みだとは聞いたけれど、早苗は明らかに異分子に見える。その感覚を裏付けるように、彼らと過ごす時間を西江は楽しいとは感じなかった。ただ、いま目の前にいる桐谷麻友には邪念がまったくない。うっかり地上に紛れ込んでしまった無邪気な天使が、天上に連れ戻されるまでの時間を楽しんでいる。こうして眺めているこちらのほうも、こんな物思いが馬鹿々々しくなってくる。
やがて冊子を読み終えた麻友が、ふうっと大きく息を吐いた。
「役立たず!」
冊子を放り投げる仕草をして見せてから、無造作に足元のバッグに突っ込んだ。
「ロクでもない論文読まされると、ほんとイラつくよね。…あ、西江くんさ、ロイヤルミルクティーご馳走してくれない?」
「いいよ」
「ついでにこれ片付けて。あ、ホットでお願いね。それと砂糖は三つだから」
空になった麻友のカップを手に腰を上げ、代わりにホットのロイヤルミルクティーと砂糖を三つ持って西江がテーブルに戻ると、麻友は頬杖をついてなにやら笑みを浮かべていた。
「ナエちゃんと喧嘩した?」
「そんな迷惑な話で君を探したりしないよ」
「ふ~ん。どれくらい深刻なの?」
「いまのところ手も足も出ない、かな」
「あなたが? マジで?」
「先週の水曜か、火曜か、月曜か、早苗と会ってる?」
「会ってない。ナエちゃんは毎晩ずっと西江くんとお楽しみ、という設定になってるから」
「酷いな。高校生じゃあるまいし」
先週の木曜日から始まった早苗の奇妙な言動を西江から聞き、麻友はしばらく瞳を天に向けて考えた。その可愛らしい顔つきといい仕草といい、まったく本当にラファエロの描いた天使そのものだ。聖母子の足元で、人間が考え事をする様子を真似ている、あの天使たちである。
「そうしてもらわないと、どこか違うところに行ってしまう、て感じかな?」
「まあ、そういう感じだよね」
「入れ揚げてるホストがいるとか――てことはないよねえ。先週かあ、水曜には大和と玲奈と三人で飲んだけど、ナエちゃんの話は特になかったなあ。…それって突然始まったの? ほら、名古屋のあとさ、なんか予兆みたいのなかった?」
「あのあとは落ち着いてたよ。そもそもあれも、よくわからないままなんだけどね」
「ナエちゃんはなんて言ってる?」
「大和くんの事故を思い出したって」
麻友は思わず息を呑んだ。それから片手で髪をぐしゃっとつかみ、慌てて乱れた髪を整えてから、その大きな瞳でじっと西江を見た。表情の抜けた桐谷麻友の顔を見るのは初めてのことで、西江は緊張した。麻友は西江の眼を見つめながら、しばらく迷った。が、迷っても意味がないと覚悟を決めて口を開いた。その先のことは、いま考えてもしょうがないと割り切った。
「プールサイドに行っちゃいけなかったのよ」
「どういうこと?」
「ナエちゃんは事故を見てるの。大和の右足が失くなった瞬間を」
「そんなこと……初めて聞いた」
「ごめん。今のはウソ。でもホント。事故現場にいたわけじゃなくて、病院にいたの。そこで足を切断したばかりの大和に会った。手術のほんと直後よ。そこで見ちゃったの、包帯でぐるぐる巻きになってる大和の右足を。で、踝から先がないって聞かされた。大和の口から直接。…大和、笑ってたのよ、そのとき。…ナエちゃん、あれから一度もプールサイドには行ってない」
安曇大和が幼馴染みであることは、もちろん聞いている。それに、高校二年の春まで、彼が事故に遭って右足を失うまで、県内で諸岡和仁と競うほどのエリートスイマーであったことも。早苗を通じて知り合った彼らが、あるいは西江の知る彼女らが、そうして安曇大和と諸岡和仁を軸につながっていることを、西江は自分なりに組み立てて理解していた。だが、諸岡和仁が残っていたことで、西江は状況を読み違えたのかもしれない。彼らがそろって諸岡和仁を応援していたから、それも安曇大和の姉の恋人ですらあると聞いていたから、そんな場面が隠されていたとは想像し切れなかった。こんな簡単なことを――。
仕方がない。諸岡和仁という名前の煌びやかさに眼を眩まされたのは自分のほうだ。冷静に考えてみれば、考えてみるまでもなく、彼があの中にいることに、もっと強い違和感を持つべきだったろう。彼は競泳のエリートかもしれないが、ほかの秀才連中とは明らかに異質だ。早苗ではなく、彼こそが異分子だ。彼を取り除いて眺めれば、彼らをつなぐ軸は速やかに安曇大和と松田早苗に移行する。彼らがたびたび口にする「池内」という名前も意味を持ちはじめる。早苗の就職先は安曇大和の叔母が勤める製薬会社だ。それも大和の叔母が直接に早苗を口説いた。彼女は「池内」の人間。安曇大和と同じ一族。おそらく幼い頃から早苗をずっと見て来たのだろう。
早苗を求めるというのは、そういう一切を引きずり出してしまうわけか。そうであれば、諸岡和仁が引退するという今であれば、西江がやるべきことはひとつしかない。安曇大和と松田早苗のふたつの軸が再確立されてしまう前に、早苗をしっかりとこの腕の中に抱き留めておく。今はまだ誰もそのことに着手していない。まだ諸岡和仁の最後のレースの余韻に浸っている。今はまだ無意識の底で蠢いているだけだ。しかしおそらくもう始まっている。安曇大和と松田早苗は知らず知らずに引き合っている。そういう磁場のようなものが形成されつつある。
「麻友さん、ありがとう。よくわかったよ」
「わかったって、なにが?」
「俺は毎日辛抱強く早苗を送りつづける」
「なにと闘うつもり?」
「なんだろうね…。闘う相手は見えないけど、護るべきものは明白だ」
「うおっと、カッコいいじゃん! 誰かわたしにもそんなこと言ってくれないかなあ」
「そもそもなんでこんなに可愛らしい女の子がひとりでカフェに?」
「あ、やっぱそう思う? 今日中に眼を通しておきたい論文がまだあと四本もあってさ、家帰ると寝ちゃうし夜の学校怖いし、それでここなの。たぶん閉店までいるから、西江くん、用事が済んだらさっさと帰って。あ、ミルクティーご馳走さま。ナエちゃんをよろしくね」
追い出されて、西江は混み合う渋谷の街に出た。少し頭を冷やそうと思い、センター街の脇からブックオフに入った。クラシックのCDの棚を端から順に眺めて行く。シベリウス、ショスタコーヴィッチ、この辺りかな。朝比奈のシベリウスは…ないか。ムラヴィンスキーのショスタコーヴィッチね。五番は持ってるし、八番がないかな。…ない、残念。いや、コンチェルトはやめよう。今日は抑揚のないほうがいい。ん、ラズモフスキーの三番とハープ?
スメタナ・カルテットか。シベリウス、ショスタコーヴィッチ、スメタナ――いい加減な並べ方をしているなあ。作曲家、作曲家、演奏家――けれどもそのお陰でラズモフスキーが目に入った。いいだろう。おもしろい。よし、これにしよう。
自由が丘で乗り換えて、十時半にアパートに着いた。食事を買い忘れた。冷凍庫にあったパスタをレンジにかけ、パンを焼いた。あとはトマトにキュウリ。よく冷えている。冷え過ぎなくらいだ。小さくCDを流す。……さて、どれくらい時間がかかるだろう。一緒に暮らしてしまえば表面上は解決しそうだが、いま早苗が首を縦に振るとは思えない。一ヶ月ならまったく問題ない。が、三ヶ月まで行ったらもう〈病い〉と言うほかない。いや、本当にそうか…?
安曇大和か。厄介な相手だな。いっぺんになにもかも進め過ぎたんだよ。就職のこと、俺のこと、それにプールサイドまで。一度に片づけようとしちゃダメだ。時間をかけていい。別に三ヶ月でもいい。半年かかってもいい。十七年分だろう? それとも二十三年分か? それでも俺たちには時間はまだたっぷりある。使えるだけ使えばいい。俺はそれを〈病い〉だなんて言わないから。
カフェを追い出されるギリギリで論文にすべて眼を通した。が、当たりはひとつだけ。七本読んで一本しか当たらなかった。当たりがあっただけでも良かったの? なんとも言い難い。外れの傾向をつかめたのは、それはそれで収穫だった。が、疲れた。帰ろう。帰って寝よう。バナナとヨーグルトがあったはず。空腹で目が覚めなければそれでいいじゃないの。
終電に近い電車は混んでいた。麻友の賃貸マンションまでは十分もかからない。駅から五分、急げば三分。相当に恵まれている。その充足感はしっかり自覚している。私に足りていないのは、私をガッカリさせない男だけ。要求は至極単純――自分がなにを知らないか、自分になにができないか、それをちゃんと承知して振る舞えること。たったそれだけのことなのに、どうしても出会えない。そういう男がいないとは思わない。ただ、そういう男はなぜか私に惚れてくれないのだ。
まだ若いのだろうなあ、とは確かに思う。二十三、四で老成してしまうのも如何なものか。となれば、勢い年上ということになる。四十を不惑と呼ぶのが真実であれば、つまり四十だ。今年最少でも十六の年齢差になる。ピッタリ四十でないとしても、一回り以上は離れてしまう。以前大和には、理想は叶さんだと言った。固有名としての池内叶ではなく、代表名としての池内叶である。叶さんは現実解が実在する証拠だ。しかし、どうしたことか、私の前には現れない。
部屋に入ると真っすぐにカーテンを開け、窓を開けた。密閉された空気を入れ替えたい。窓から射し込む街の灯りだけで腕時計を外し、ストッキングを脱ぎ、ネックレスやイヤリングを外し、部屋着に着替える。窓を閉め、カーテンを閉めてから、部屋の灯りをつける。洗面に行って脱いだ服を洗濯籠に放り込んだら、鏡の前に立って化粧をすっかり落とす。最後に束ねていた髪をほどく。
――誰かとしゃべりたい……
今日は西江くんとおしゃべりした。いや、あれはおしゃべりじゃない。西江くんの頭の中はナエちゃんのことでいっぱい。目の前にいる私はAIロボットみたいなものだった。あんなのはおしゃべりとは言えない。…退屈ね。人生がこんなに退屈なものだなんて知らなかった。
――私、ちっとも知らなくってよ
オースティンとかの翻訳でよく出会う言葉遣いだよね。これっていったいどこの言葉なんだろう。いわゆる山の手のお嬢様たちはこんなふうにしゃべってたってこと? 私も地元じゃけっこうなお嬢様なんだけど、聞いたことがない。田舎のお嬢様だからかしらね? かしらね、とか……
――なにか食べなくちゃ……
私さっきなにを食べればいいって思ったんだっけ? ああ、バナナとヨーグルトね。…て、バナナなんかないじゃないの! ヨーグルトだけか。あ、シリアルがあったはず。ああ、あったあった。よかった。これでお腹が空いて目が覚めちゃうなんてことにはならない。
――ナエちゃん、なにやってるのよ!
西江くんが私に電話してくるなんて、よっぽどのことだからね。ナエちゃん、頭がおかしくなったと思われてるんだよ。狂女よ、狂女。ロル・
西江くんには言わなかったけどさ、ナエちゃん、新宿に行ったんでしょ? 小田急線に乗ったんでしょ。経堂に行っちゃったんでしょ。それくらいわかるよ。なんでいつまでもそんなバカやってんのよ。ナエちゃんがバカなのは知ってるけどさ、昔のほうがもう少しマシだったんじゃないの?
大和を探しちゃダメじゃない。あそこはもうただの空虚なんだから。なんにもないんじゃなくて空虚があるだけなの。空虚に置き換わってるの。だから失敗するに決まってるの。それくらいわかるでしょうに。ほんとにほんとにほんとにバカなんだから!