第16話 風に砕け散った少年

文字数 9,107文字

 一週間は事もなく過ぎた。西江の帰りが遅くなったのは木曜日だけで、職場の飲み会だから食事は要らないと連絡があった。とはいえその日も西江は一次会だけ顔を出し、九時過ぎには帰ってきた。まさかそんなに早いとは思っていなかった早苗はちょうどシャワーを浴びている最中で、浴室のドアがノックされたことに仰天し思わず悲鳴を上げた。
 引っ越しの翌週から、早苗も研究室に通いはじめていた。二宮教授には池内常葉から連絡があったそうだ。夏馬ではなく、ましてや彩日香であろうはずはなく、すでに常葉は早苗を我が物と認識している証だろう。日暮れて研究室を出る早苗は、躓くことなく西江のアパートに帰ることができた。駅の案内表示に見知らぬ路線や見知らぬ行き先を見てしまうことも、自分のアパートがある渋谷に向かおうとしてしまうことも、そして未知のなにものかに唆されて新宿に出てしまうことも、もう起こらなかった。
 早苗は西江の腕の中で毎晩あの剥がれ落ちて行く欠片を見た。懐かしく、大切だったはずのものが映り込んでいる、あの割れた鏡のような欠片だ。それらはきらきらと瞬きながら早苗の足元に広がる薄靄の中に落ちて行った。それらが落ちて行くのは早苗が昇っているからでもあった。そしてそれらが映す懐かしいものを、早苗はやはりすぐに忘れた。逃げて行く夢の断片を追うようなことはしなかった。西江の体重と体温と、なによりも互いの汗が二枚の皮膚を浸透する愉悦に浸った。
 週末、小さな収納ケースを買った。早苗の下着やハンカチなどが入ればいい、その程度の小さな収納ケースである。ハンガーを必要とする服は、西江がワイシャツを畳むことに切り替えて、元々あったクローゼットに収まった。早苗が衣装持ちでなかったことが幸いした。それで段ボール箱がひとつ減った。しかし一週間を越してもそれ以上の段ボール箱は減らなかった。敢えてそれを減らそうとしなかったと言うべきかもしれない。ふたりともが暗黙のうちに、それをむしろ積極的に許容した。そこに段ボール箱が積まれたままになっている景色にこそ、初めて知る歓びがあった。
 西江がふと気がつくと、早苗は段ボール箱の山の向こうに隠れた。もちろん少し体を傾ければ、あるいはその場で立ち上がれば、小さくしゃがみ込んでいる早苗の姿はすぐに見つかった。西江は段ボール箱の山を回り込み、隠れたつもりの早苗を後ろから捕まえた。そんな子供染みた遊びを使って、早苗は西江を誘った。それは早苗が見出した誘惑の技法だった。西江もすぐにそう理解した。ふっと早苗が段ボール箱の陰に姿を隠すのは、探し出し、見つけ出してほしいというサインなのだ。

 二週目となる新しい月曜の朝、ふたりは前の週にそうしていたのと同じように、一緒に西江のアパートを出た。大井町線のその界隈は下町と呼んでいいのだろう。新興住宅街の一角であった梶が谷の駅周りとは様相がかなり違う。ここは古い街で、賃貸物件も多く、商店街もけっこう賑わっているが、昭和レトロな風情であり、要するに、すべてが住人の手によって造られている。東京で生まれ育った西江にも、独り暮らしをはじめるまでは、まったく馴染みのない街だった。
 電車はすぐに乗り換えることになる。朝は意識をしっかりしておかないと、早苗は西江のあとについて行きそうになる。人波に紛れて消える白いシャツの背中を見送りながら、彼はどうして行ってしまうのだろう…としばらくぼんやりと考える。やがて、彼には仕事という大義があり、それは愛を犠牲にすることによってしか崇高さを維持できない、不具な代物であったことを思い出す。そして、犠牲にされることの幸福を想い、その満足感に包まれながら、大学に向かう。
 学部生のときから夏休みも特別に長く休むことはしなかった。勉強も研究も終わりというものがない。院生になれば学会の準備もある。今年は修士論文にも手をつけなければならない。そもそも早苗は一生勉強することになると池内常葉から言われている。西江と計画した北陸への旅行以外、この夏も毎日通いつづけるつもりでいた。西江も旅行以外は――当然――仕事なのだ。
 勉強をしていれば、ぼんやりしてしまうことはない。勉強をしていれば、早苗は淡々と知識を吸収して行くひとつの半永久的な自動装置になる。この装置の製作者・製作時期・製作意図はわからない。きっと自分で拵えたのだと、早苗はそう考えている。いつなのか、なぜなのか、早苗には記憶がない。あるいはその記憶には手を触れることができない。そうした物語は世の中に無数にあり、これもそのようなもののひとつだろうと思っている。

 この日は昼過ぎに客の訪問を受けた。受付からの内線電話で「安曇」と聞いて驚いた。迎えに降りると、そこには見慣れた美女が立っていた。この人はどこにいてもなにか場違いな印象を与える。なんと言えばいいか、たとえば法廷の隅で娼婦が客をとっているような……。すると右手から、とんとんとんと足音が近づいてきて、やはり見慣れた田舎のお嬢さまがやってきた。
「ナエちゃん電話しても出ないから来ちゃったよ」
「ああ、ごめんなさい。ずっと研究室に籠ってて」
「そうだろうと思ってさ。少し話せる?」
「はい、大丈夫です。…え~と、カフェに行きますか?」
「そうね」
 教職員と院生のために用意されているカフェは、いつもとさほど変わらない景色だった。学部のように夏休みが来るといっぺんに学生が消えてしまうようなことはない。昼食が終わった時間帯で、少し混み合っている。早苗がIDカードを見せて、ほぼ中央のテーブルについた。
 まったく美人という存在は面倒くさい。そうでなくても男の多い空間で、視線を集める安曇彩日香と桐谷麻友は平然としている。白衣を羽織ったまま降りてくれば良かった。着ているものはグレードの差もないカジュアルなものだけれど、だからこそ一層それが際立つのだ。
「アイスコーヒーでいいですか?」
「私、クリームソーダ!」
「お子様かよ」
「クリームソーダとか置いてないから」
「わかってるって。ナエちゃん固いね、相変わらず。ちょっと勉強し過ぎじゃない?」
「私は勉強しないとダメなの。あなたとは違うんだから。…で、麻友はなに?」
「アイスレモンティー」
 益々視線が強く(熱く?)なったことにげんなりしながら、早苗はアイスコーヒーをふたつとアイスレモンティーを注文し、それらが届くまでの間、黙って目の前のふたりのおしゃべりを聴いた。こうして見ていると、彩日香と麻友は姉妹のようだ。美人で勉強ができて裕福で、それらを賢く上手に使いこなしてきた妹と、それらに翻弄されて傷だらけになってきた姉と――早苗は大和の幼馴染みで、小さなときから彩日香のそばにいたはずなのに、ついにそんな関係にはならなかった。早苗は彩日香が怖かった。それは十四歳までの大和がこの姉を恐れたからだ。それで早苗も彩日香に近づくことができなかった。……そういえば、彼はどこに行ってしまったのだろう――
「ナエさ、私の家庭教師やってくれない?」
 テーブルに飲み物が並ぶと、すぐに彩日香が――いや、その前にガムシロップを三つもアイスコーヒーに投げ込んでから――見れば麻友までがそんなことをしている――本題を切り出した。夏馬も、彩日香も、そして大和もまた、池内のおかしな人間たちは、どうしてこんなにたくさんの砂糖をコーヒーに入れるのだろう――
「彩日香さんの?」
「私、いまさらだけど、もう二十六だけど、やっぱり四大行くことにしたから」
「東京で?」
「当たり前じゃない。予備校はもう決めたんだけどね、いろいろ訊ける人間が欲しくてさ。昨日ちょっと麻友にやってもらったら、この子、教えるの下手くそで」
「私さ、なんで?て聞かれても、なんでなんで?なのかわかんないんだよね。なにがなんで?なの?みたいな感じになっちゃって、ぜんぜん解決しないわけ」
「う~ん、彩日香さんなら構わないのかもしれませんけど、いちおう私、バイトは禁止されてるんです」
「誰から?」
「常葉さん」
「げっ! まさかお小遣いもらってる?」
「はい、頂いてます」
「そうか。もうそういう話になってるのか。それじゃあダメだね。うん、ナエは諦めよう」
「なになに? お小遣いってどういうこと?」
 バイトの時間は勉強に充てるようにと、早苗はこの四月から月五万円のお小遣いを受け取っていた。相手は池内常葉である。正直、生活費は実家(と、すでに就職している兄)からの仕送りで充分に足りており、五万円は持て余す。そもそもバイトするくらいなら勉強しろと言われているのだから、お金を使う時間もない。同じ状態に、大和も置かれている。生活に必要なお金は安曇のほうで充分に手当てされているのだが、小遣いだけは常葉が出している。正確に言えば、「池内」が出している。つまり、これはそういう意味だ。彩日香も当然そうだから、早苗の話を聞いて即座に諦めた。大和は麻友には話していないらしい。……そういえば、彼はどこに行ってしまったのだろう――
「うひゃあ! ナエちゃんもう逃げられないね」
「別に逃げたいとは思ってないけど」
「でも困ったな。ナエがダメとなると、もうほかに見当たらない」
「やっぱり大和に頭下げるしかないよ!」
「姉貴の腐った脳ミソの世話なんかできるか!とか言われそうだなあ」
「うわあ、言いそう、それ。大和は絶対それ言うね」
「チクショウ! 私のほうが全然デキたっていうのにさ!」
 この人たちは私とはなんの関係もないゲームを楽しんでいることに気づいていない。ルールは同じように見えるかもしれないけれど、私はゲームに参加しているわけではないのだ。コミュニケーションが成立しているように見えても、根本的なところに行き違いがある。私にとってこれは現実なのだ。私はずっとそのゲームに加わっている

をしてきたけれど、そうしないと大和と関わることができなかったから、ただそれだけの理由で

をつづけてきただけなのだ。私はもうあなたたちのゲームから降りている。どうしてこの人たちはそのことに気づかないのだろう。大和だったらきっとすぐに気づいてくれるはずなのに。……そういえば、彼はどこに行ってしまったのだろう――
「ナエちゃん的にはさ、常葉さんオッケーならオッケーな感じ?」
「まあ、ほどほどの時間であれば」
「ちょっと麻友、あんた常葉さんに交渉持ちかける気?」
「やってみる価値はあるんじゃないかなあ」
「無理無理! 池内でいちばんおっかない人だよ?」
「彩日香さんにとってはね。私には怖がる理由なんてないもん」
 女の会話が結論というべきものに向かわないのは、そもそも欲するものがないからだ、と聞いたことがある。目的地を持たずに歩くのであれば、同じ道を何度歩いても痛痒を感じない。同じ印(sign)の周りをぐるぐる回っている。そうして〈場〉が宙に浮いてしまうことに、安曇大和というのは決して苛立ちを覚えない珍しい男だった。しかし大和自身に付けられた印(sign)の周りを彼女たちがめぐることだけは絶対に許さなかった。それは唯一、高樹玲奈にのみ許された特権だ。しかしどうして高樹玲奈に特権が与えられたのだったか。そもそも大和に付けられた印(sign)とはなんだったろう。印(sign)の周りを回るとはどういう意味だったか。……そういえば、彼はどこに消えてしまったのだろう――
「麻友は余計なことしなくていい。癪だけど、大和に頼むから」
「常葉さんてそんなに大変な人かなあ」
「実はあの人が旦那を殺したんだよって言われたら、私は信じる」
「ウソ!? 常葉さんの旦那さんて死んじゃったの?」
「いや、再婚してぴんぴんしてるけど。その相手が気持ち悪いくらい『女です!』って感じの人でさあ」
「おお、常葉さんとは真反対の方角に逃げ出したわけだ」
 麻友が常葉を説き伏せるという話はあっさり流れたようで、早苗は胸を撫で下ろした。カフェの客が入れ替わりはじめている。昼食時間の延長ではなく、そろそろ午後が始まろうとしている。早苗は腕時計を見た。思わず二度、三度と確かめた。十七時十三分? そんなはずはない。十二時きっかりに昼食を済ませている。止まっていたのか。狂っているのか。そういえば研究室では腕時計を外していた。壁に掛かった時計を見ていた。あるいはディスプレイの時刻を見ていた。今朝から腕時計を見ていないということか。あるいは昨日の夕方から。昨日は確かに見ていない。日曜日だから。その時間は夕食の支度をしていたはず。いや、西江とベッドの上だったかもしれない。
「夏休みどこ行くの? 西江くんと一緒だよね?」
「え? ああ、北陸」
「北陸!? え、金沢入ってる?」
「入ってますよ、もちろん」
「いつ?」
「え~と、木曜から金曜。三日と四日が金沢です」
 彩日香が目を丸くしている。なにが起きたというのか――
「そこ、私も金沢にいるんだけど……」
「ウッソ!? ええ、そんなことってあるの? スゴイね! でも彩日香さん、なんで金沢?」
「ヒカルの実家。――ああ、ヒカルってのは希美の彼氏ね」
「ついて行っちゃうの?」
「連れて行かれるの。あの子は一週間くらい泊るはずだけど、私は最初だけ」
「ねえねえ、新幹線も同じだったりして。ナエちゃん何時? 彩日香さんは? 覚えてる?」
 新幹線の時間は違った。二時間以上も違う。彩日香が東京を発ったとき、早苗はちょうど金沢に――いや、富山に着いている。そもそも最初の行き先からして違うのだ。麻友は酷く残念がった。自分が出かけるわけでもないのに。我々を同じ新幹線に乗せてどうしようと言うのか。もちろんどうしようという当てもなく騒いでいるのだろう。いかにも麻友らしい。…それで、家庭教師の件はどうなったのか。話が完全に脱線してしまった。現役を求めるのであれば、確かに早苗か麻友か大和になる。さすがに静花では彩日香の相手は務まらない。やはり大和しかいない。ああ、大和に頼むという話に落ち着いたのだっけ。……そういえば、ほんとうに彼はどこに消えてしまったのだろう――
「あの、大和はいま、どうしてるの?」
 早苗がぽつりと口にした問いに、彩日香と麻友がドキリとしたように顔を見合わせた。
「どうしてる、て?」
「え、だから、彼いま、どこにいるの? なにしてるの?」
「なにって、たぶん玲奈の部屋でゴロゴロしてるんじゃない? もう就職決まったし」
「就職? 彼、就職するの?」
「大和が学者とかって、ありえないでしょうが」
「そうかな。よくわからないけど……」
「なに言ってるの? ナエちゃんいちばん付き合い長いくせに」
「でも、本当にわからないから」
 だって、私、どうしたわけか、もう彼の顔もうまく思い出せないのよ。ねえ、彼にはなにか印(sign)があったわよね? どんな印(sign)だった? 私、さっきからずっと考えているんだけど、どうしても思い出せないの。どうしてかしら。おかしいわね。彼、幼馴染みだったはずなのに――
 早苗はぼんやりと首を傾げた。その様子に、彩日香と麻友が怪しみ訝しみつつ視線を交わすのを、早苗は気づいていない。そしてまた腕時計を見た。十七時十三分――違う。これは止まっているのだ。壁を探す。カウンターの後ろに時計がある。十四時十三分――どうして同じ十三分なのだろう。これでは十四時も怪しく思えてくる。早苗はじっと壁の時計を見つめた。秒針がない。だから長針を見つめる。ゆっくりと、十四時十四分になった。大丈夫。世界はまだ動いている。
 麻友が椅子を立った。彩日香も続けて立つと伝票を手にレジに向かった。その背中を眼で追ってから、早苗も腰を上げた。麻友がなにか話しかけている。が、早苗の眼はふたたび壁の時計の上にあった。会計を待つ間に、十四時十五分になった。大丈夫。世界はまだ動いている。
 カフェを出たところで三人は別れた。校門へ向かうふたりをしばらく眺めてから、早苗は研究棟に歩き出した。今日は久しぶりに陽射しが強い。西江からメッセージが届くまで、あと四十五分。早苗は十五分前くらいからじっとスマートフォンを握りしめて待つ。すでに一緒に暮らしているのだから意味を喪失しているメッセージなのに、西江は今もそれを続けてくれている。それまでの三十分をどう過ごそうか。なにかに手をつけるには中途半端な時間である。建物のゲートに学生証をかざす。エレベーターの前で思い出した。大和に付けられた印(sign)――そうだ。彼には右足がない!
 エレベーターのドアが開く。ゆっくりとストレッチャーが出てくる。前後に看護婦がいて、右側には医者がいる。早苗は廊下の長椅子を立ち上がり駆け寄った。懐かしい顔はいつもの笑顔で迎えた。よかった。大事には至らなかったのだ。早苗も応えて笑顔をつくろうとした。が、それは途中で遮られた。見ろよ、もう泳げねえ…と笑顔のまま顎と眼で足元を示した。早苗はその視線の先を追った。包帯の巻かれた右足の踝から先が、きれいに失くなっていた。
 エレベーターのドアが閉まる。早苗はゆっくりと眼を閉じる。二学期の始業式が終わり、教室に戻ってみると、なにやら空気が緊張していた。いちばん廊下側の前から四番目の席に、松葉杖が見えた。男子生徒がひとりで座っている。周りには誰もいない。早苗は机の間を真っすぐにいちばん前の自席に向かう。カバンを置き、椅子を引き、腰を下ろす。だが、振り返れない。どうしても振り返ることができない。右斜め後ろで待っているはずの懐かしい顔を。
 エレベーターが無人で動き出す。早苗は教室のいちばん前の席に座っている。話し声を聞いている。右斜め後ろから、よく知っている声と、まったく知らない声のおしゃべり。ほかの声は聞こえない。よく知っている声が「高樹さん」と呼ぶ。まったく知らない声が「安曇くん」と呼ぶ。よく知っている声が「玲奈」と呼ぶ。まったく知らない声が「大和」と呼ぶ。
 エレベーターが降りてくる。早苗は眼を開けて、思い切って振り返る。壁に背をもたせ、義足の右足を上に組んで座る男子生徒が、こちらに顔を上げて笑っている。左手を机の上に突き、左腰を机に預けて立つ女子生徒の背中が、盛んに右手を動かしてしゃべっている。男子生徒がなにか言葉を口にする。弾かれたように女子生徒が体を折り曲げて笑う。早苗にはもう声を聞き取ることができない。
 エレベーターのドアが開く。見知った院生がふたり、早苗とすれ違った。早苗はゆっくりと乗り込み、十一階のボタンを押した。エレベーターのドアが閉じる隙間から、見知った院生の驚いたような顔が見え、閉じたドアの向こうに消えた。動き出したエレベーターは、かたかたと不快な音を立てながら昇りはじめた。早苗は行き先階ボタンの並んだパネルに倒れかかった。
 エレベーターが昇って行く。パネルに倒れかかった早苗の眼に、薄明るい部屋が映し出される。机、本棚、クローゼット、窓にはカーテンが引かれ、その下にベッドがある。ベッドの上で、少女と少年が向かい合って座っている。ふたりともなにも身につけていない。少女の手が、少年の髭の生えはじめた顎を撫でる。少年の手が、少女の膨らみはじめた胸を撫でる。
 エレベーターが止まり、ドアが開く。誰も降りない、誰も乗らないまま、ドアが閉まる。エレベーターは十一階に留まったまま、息を吐き出して静かになる。その中で、少女と少年が互いの体を探っている。どこを触っても違うことに驚き、戸惑っている。いつの間にこんなに違ってしまったのか、それがわからずに、それが知りたくて、いつまでも相手の体を探しつづける。
 エレベーターは動かない。低い空調の音だけが聞こえている。少女と少年はなかなか探索をやめようとしない。ふたりにはどうしても受け入れられない。けれども答えはどこにも見つからない。ただ、どこもかしこも違っている。探れば探るほど、違いばかりが見つかってしまう。やがて少年のほうが諦めて手を離す。だが、少女のほうは諦めきれずに手を伸ばす。
「松田くん!? どうした?」
 声をかけられて、早苗は倒れかかっていたパネルから顔を上げた。
「……すみません。ちょっと眩暈がして」
「保健室に行こうか?」
「いえ、大丈夫です」
 廊下に出た早苗は、心配そうに見守る二宮教授の前をすり抜けて歩き出した。二宮は早苗が研究室のドアを開けるまで見送ってから、待っていたエレベーターに乗り込んだ。早苗はエレベーターが動き出す音を聞いてから、いったん体を入れた研究室から廊下に戻って突き当りまで歩き、非常階段に出た。北を向いて日陰になった十一階の踊り場には強い風が吹いていた。密集するオフィスビルが果てしないように重なり合っている。あいだに覗く緑はどこの森だろう。
 あまりに鮮明だったフラッシュバックのせいで体が軽く、ふわっと風に浮き上がりそうになった。早苗は思わずコンクリートにしゃがみ込んだ。鉄の桟の間からは、やはりどこかの森の樹冠が見える。あそこに行きたい。――早苗はしゃがみ込んでいた踊り場に膝を突き、這うようににじり寄って鉄の桟を両手でつかんだ。足元から地上まで三十メートルほどはある。足が竦んだ。桟を握りしめたまま座り込んだ。あそこには行けない。あそこには行けない。あそこには行けない……
 強い風が早苗の髪を乱暴に搔き乱し、面白そうにスカートの裾を翻す。ここには露わになった女の太腿にまとわりつく眼差しはない。早苗は踊り上がったスカートの裾を抑え込む代わりに、それを思い切ってたくし上げ、両脚を投げ出すように座り直した。風が雀躍した。早苗はパンプスも脱ぎ捨てた。風は躍り上がって歓んだ。のけ反って天に顎を上げると、風は首から胸へと飛び込んできた。
 ぱりんと音がした。鏡の割れる音だ。少年は吹き飛ばされた。割れた鏡となって砕け散った。十一階の非常階段の踊り場から、きらきらと煌めきながら落ちて行く欠片を風が拾い上げ、森の樹冠へと運び去る。いますぐ西江に抱かれたい。――立ち上がった早苗は裸足のまま非常階段を駆け下りた。脱ぎ捨てたパンプスは、受け取った風が地上にそろえてくれているはずだ。
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