第6話 祝福の陰にはいつも謀が隠される
文字数 4,401文字
下北沢の居酒屋は騒々しく混み合っていた。個室を予約してあったものの、歓迎会のシーズンということもあってか、団体客ならではの喧騒が店内に充満している。会話の妨げにはならないけれど、なんとなく落ち着かない。二時間と区切られたことは、却って良かったのではないかと早苗は思った。
三人だけで集まるのは久しぶりだった。高樹玲奈は今日も来ない。なにかあった?と尋ねた麻友に、おまえらが嫌いなんじゃね?と大和が笑って、麻友に頭をはたかれた。笑えない話ね…と早苗が口にすると、笑えないのはナエちゃんのその呟きだよ、と麻友が真顔になった。
「大和、本当になんにもない?」
「だから職場の歓迎会だって。いま有楽町で飲んでるから」
「電話するよ?」
「いいよ」
「じゃ、しない」
そうね、大和は嘘はつかないものね、少なくとも私たちには――早苗はあっさりと追及の旗を降ろした麻友を見た。美人で裕福で優秀で、高校一年の夏から冬の間まで、大和の恋人だったことがある。ふたりはただ、彼/彼女は自分にふさわしい相手だと思ったというそれだけの理由で、うっかり付き合ってしまった。が、ほどなく馬鹿々々しくなったので別れたけれど、ウマが合ったから、なんでも話せる友達として関係を継続することにした。…と、早苗は聞いている。
本当に、なんて馬鹿々々しい話だろう。十六歳の年の暮れにそれを聞き、何事もなかったかのように三人で初詣でに出かけたあと、正直しばらく大和のことがどうでもよくなった。二年から同じクラスになったが、早苗はどこか白けた思いを抱きつつ、いつも周りに人を集める大和と麻友を、少し離れて眺めていた。……大和が事故に遭う直前まで。別人になった大和が――いや、私たちが別人扱いしてしまった大和が――あろうことか高樹玲奈を選んだ瞬間まで。あの衝撃の二学期まで。
大和から右足を奪った事故から、間もなくもう七年が経つ。
そうか、玲奈はもう六年以上も大和のそばにいるのか。大和はもう六年以上も飽きずに玲奈と一緒にいるのか。確かに可愛らしくはあるけれど、街を歩けばいくらでも転がっていそうな、石を投げれば簡単に見つけられそうな、あんなおもしろくもなんともない女と。よほど
「ちょっとなにこれ!? めちゃくちゃ美味なんだけど!」
京野菜ならぬ鎌倉野菜のサラダをつまみながら、麻友が叫んだ。どれどれ?と大和も手を伸ばす。なんとなく早苗もその蕪だか大根だか見慣れぬ野菜に箸をつけた。そういう私たち三人こそ、もう八年にも渡り、相も変わらずだらだらとこんな関係をつづけている。池内のリビングに似ている、とふと早苗は思った。これは特別なことでもなんでもない。ただ親密なだけだ。もっと言えば、長く一緒にいるだけだ。考えすぎてはいけない。もっと素直に受け入れないと……あら、これ、ほんとに美味しいわね。
「そうだ、ナエ。常葉さん、給料いくらくれるって?」
「そんな話まだしてないわよ」
「なんだよ、いちばん大事なとこじゃんか」
「ナエちゃんさ、○○○○とか△△△みたいなの作るんでしょ?」
「麻友、それただの風邪薬。そもそもメーカー違うし」
「あ、じゃあ、あれだ。密かに人体実験とかしてて、地下にバイオハザード的な世界が――」
「あったら連れてってあげるわ。健康な成人男性のサンプルとして」
「常葉さん家 も怪しいよね。あそこのビール、絶対なにか混ざってると思うな。時々変な味しない?」
「ふたりともバカ過ぎ」
このふたりは私みたいな専門馬鹿には絶対にならないオールラウンダーの秀才なのに、会えばいつもこんなことばかりしゃべっている。いや、
私は憧れを放棄しよう。憧れていたのだと素直に認めたうえで、同一化への欲求を封印しよう。深い深いところに閉じ込めて、二度と出てこられないようにしてしまおう。西江くんなら、きっと理解できる。助けてくれる。寄り添ってくれる。私のこの厄介な怪物がいつかふたたび暴れ出さないよう、優しく慈しみつづけてくれる。早苗は初めて自分の一部を――それも扱いに窮していたなにものかを――誰かに委ね、預けてみることを決めた。いや、
「ナエちゃんはどう思う?」
「私、数論なんてわからないわ」
「違うって。モロのこと。大和行かないって言うんだけどさ。知ってる?」
「知ってる」
「これが最後だっていうなら、惨敗するとこだって見届けるべきだと思うんだよね。そう思わない?」
「大和がなに考えてるか知らないけど、私は行くわよ」
「ほんと? じゃ一緒に行こう!」
「駄目。彼と行くんだから、邪魔しないで」
「カレ!?」
麻友と大和が同時に声を上げた。
「そう、カレ」
と、早苗は彼らの認識を助けるために、同じようにカタカナに置換して復唱した。
「ど、どこの、だ、だれよ?」
「なんで麻友がそんなに動揺するの?」
「だって、だってだって、そんなのナエちゃん、ぜんぜんわからなかった……」
「そうね。火曜日に決めたばかりだから」
「決めたって、なにを?」
「だから、お付き合いすることを」
麻友と大和がじっと顔を見合わせている。誰だ?わかるか?という探り合いだろう。ややあって、大和がノートパソコンを引き寄せると、ぱたぱたっとキーボードを叩いた。瞳孔を大きく開いた麻友の眼が、記憶を探って動き回っている。と、一瞬眼を剥いて、さらに瞳孔が(おそらくそれが最大値だろう)大きく拡がってから、すっと閉じた。次に眼を開いたとき、麻友は満面の笑みを浮かべた。
「西江くんだ!」
早苗は微かに表情を動かし、黙って頷いた。
「やったね、ナエちゃん!」
「デカいの釣ったなあ!」
「
「おめでとうだね! おめでとう!」
「ありがとう」
「西江はいいよ。あれはいい。あんなの探したってそうは見つからないぜ」
「夏馬さんと同じこと言うのね」
「夏馬さん、なんて言ったの?」
「早苗の人生にこれ以上の出物が現れるとは思えない」
ふたりとも弾かれたように笑い出した。テーブルの上のグラスがひっくり返るほどに手足をばたつかせ、大和は大柄な体をそっくり返し、麻友は長い髪を広げて突っ伏して。新歓で盛り上がる団体客にも負けず劣らず声を上げ、腹を抱え、そうして盛大に早苗を祝福した。
「そんなに笑わないでよ……」
珍しく、早苗が顔を赤らめている。へえ…と大和は懐かしいものを見るような思いがした。中学を卒業して以降、こんな早苗を見たことがあったろうか。それは大和の前では起こらなかったのか、起きていることに大和が気づかなかったのか、どちらもありそうなことだと思った。一言で片づけてしまえば、中学の卒業と同時に、幼馴染みという時間は終わったのである。それは唐突な出来事で、当然驚きはしたけれども、すぐに納得感が降りてきて、大和は早苗を見ることを――あるいは大和を見る早苗を探すことをやめた。
けれども、一度だけ、大和はかつてそうであったときと同じように、早苗を探したことがある。一年後の五月に交通事故で右足の踝から先を失い、義足を着けて登校した二学期の始まりの最初の数日のことだ。大和は自分が集める哀れみの視線の中で、きっと変わらない眼差しで見てくれているはずの早苗を探した。だが、大和はそれを見つけることができなかった。どうして見つけられないのか、大和が混乱の中で自棄的になりかけていた時、およそこれまで出会ったことのない瞳が現れた。高樹玲奈のそれだ。
玲奈の父親は義手を着けていた。働いている工場で機械に巻き込まれ、左腕の肘から先を失っていた。玲奈は父親の義手をよく知っていた。彼女はそれから眼を逸らすことなく、むしろ事故のあと父親との距離を縮めていた。父親の義手の手入れを手伝いながら、それをきっかけに、失くしていた対話の時間を取り戻していた。だから初めに声をかけたのは、もちろん玲奈のほうだったのだ。ふたりの会話は玲奈の父親の義手と、大和の義足との構造的な違いの確認からはじまった。
十六歳の少年と少女の間では、奇妙な会話である。だが、義足を着けることになった安曇大和という少年の前で、義足そのものの構造や技術を興味津々に探り、それを使いこなすための工夫や苦労に共感する高樹玲奈という少女の瞳は、早苗の不在――早苗を見つけられないこと――を覆い隠した。大和は玲奈の手を借りて立ち上がった。大和は玲奈の手に支えられて歩いてきた。いまでも玲奈がいなかったらきっと歩けないし、この義足 で立つこともできない。そう思っている。
そのような経緯 なら、むろん早苗だって承知している。高樹玲奈にそれがなければ――それというのはつまり父親の義手のことだが――安曇大和に話しかけることなど、そもそも近寄ることだって、彼女にできたはずがない。あのとき大和が玲奈に救われたのは事実だろう。だが早苗は、大和がいまでもなお玲奈がいなければ歩けないと考えていることまでは、知らなかった。そうしたことが、すでにもう見えなくなっていた。見えなくなっていることに、まだ気づいていなかった。
おそらくそれは、早苗がそのような能力を――かつては持っていたのに――失ったという意味ではない。早苗の不幸は、あるいは現在の不能は、大和が失った足は早苗の足でもある、というわかり方をしてきたところにある。だがあのときすでにそのような関係性は終わっていたのだから、早苗は失われた大和の足を自分の足として同時に失うことなど、本当はもうできなかったのだ。だから次にやってくるのは、それを自分の足とは似ても似つかない少年の足として発見し直すことだった。事の正しい順序からして自ずからそうなるし、そうなることは避けられない。しかし、早苗にはいまもなお、まだそれができていない。
三人だけで集まるのは久しぶりだった。高樹玲奈は今日も来ない。なにかあった?と尋ねた麻友に、おまえらが嫌いなんじゃね?と大和が笑って、麻友に頭をはたかれた。笑えない話ね…と早苗が口にすると、笑えないのはナエちゃんのその呟きだよ、と麻友が真顔になった。
「大和、本当になんにもない?」
「だから職場の歓迎会だって。いま有楽町で飲んでるから」
「電話するよ?」
「いいよ」
「じゃ、しない」
そうね、大和は嘘はつかないものね、少なくとも私たちには――早苗はあっさりと追及の旗を降ろした麻友を見た。美人で裕福で優秀で、高校一年の夏から冬の間まで、大和の恋人だったことがある。ふたりはただ、彼/彼女は自分にふさわしい相手だと思ったというそれだけの理由で、うっかり付き合ってしまった。が、ほどなく馬鹿々々しくなったので別れたけれど、ウマが合ったから、なんでも話せる友達として関係を継続することにした。…と、早苗は聞いている。
本当に、なんて馬鹿々々しい話だろう。十六歳の年の暮れにそれを聞き、何事もなかったかのように三人で初詣でに出かけたあと、正直しばらく大和のことがどうでもよくなった。二年から同じクラスになったが、早苗はどこか白けた思いを抱きつつ、いつも周りに人を集める大和と麻友を、少し離れて眺めていた。……大和が事故に遭う直前まで。別人になった大和が――いや、私たちが別人扱いしてしまった大和が――あろうことか高樹玲奈を選んだ瞬間まで。あの衝撃の二学期まで。
大和から右足を奪った事故から、間もなくもう七年が経つ。
そうか、玲奈はもう六年以上も大和のそばにいるのか。大和はもう六年以上も飽きずに玲奈と一緒にいるのか。確かに可愛らしくはあるけれど、街を歩けばいくらでも転がっていそうな、石を投げれば簡単に見つけられそうな、あんなおもしろくもなんともない女と。よほど
あれ
がいいのかしら? でもさすがにあれ
だけで六年以上はもたないわよねえ――「ちょっとなにこれ!? めちゃくちゃ美味なんだけど!」
京野菜ならぬ鎌倉野菜のサラダをつまみながら、麻友が叫んだ。どれどれ?と大和も手を伸ばす。なんとなく早苗もその蕪だか大根だか見慣れぬ野菜に箸をつけた。そういう私たち三人こそ、もう八年にも渡り、相も変わらずだらだらとこんな関係をつづけている。池内のリビングに似ている、とふと早苗は思った。これは特別なことでもなんでもない。ただ親密なだけだ。もっと言えば、長く一緒にいるだけだ。考えすぎてはいけない。もっと素直に受け入れないと……あら、これ、ほんとに美味しいわね。
「そうだ、ナエ。常葉さん、給料いくらくれるって?」
「そんな話まだしてないわよ」
「なんだよ、いちばん大事なとこじゃんか」
「ナエちゃんさ、○○○○とか△△△みたいなの作るんでしょ?」
「麻友、それただの風邪薬。そもそもメーカー違うし」
「あ、じゃあ、あれだ。密かに人体実験とかしてて、地下にバイオハザード的な世界が――」
「あったら連れてってあげるわ。健康な成人男性のサンプルとして」
「常葉さん
「ふたりともバカ過ぎ」
このふたりは私みたいな専門馬鹿には絶対にならないオールラウンダーの秀才なのに、会えばいつもこんなことばかりしゃべっている。いや、
ばかり
ではない。テーブルの隅には――ここはどこにでもある安い居酒屋チェーンの一隅なのに――薄っぺらいノートパソコンがあって、そこには〈弱いゴールドバッハ予想〉に関する2013年の証明が開かれており、食事とおしゃべりの合間に――まるでスポーツバーでディスプレイを眺めるように――PDFのページがスクロールされる。ふたりにとってこれはゲームというか、要するに頭のお遊びに過ぎないのだ。彼らはずっとそんなことをしていても許される。興味と感心を容易く満たす能力を持った、享楽にのみ忠実な二つの魂。私は憧れを放棄しよう。憧れていたのだと素直に認めたうえで、同一化への欲求を封印しよう。深い深いところに閉じ込めて、二度と出てこられないようにしてしまおう。西江くんなら、きっと理解できる。助けてくれる。寄り添ってくれる。私のこの厄介な怪物がいつかふたたび暴れ出さないよう、優しく慈しみつづけてくれる。早苗は初めて自分の一部を――それも扱いに窮していたなにものかを――誰かに委ね、預けてみることを決めた。いや、
誰かに
ではない、西江衛に
だ。そこは間違えてはいけない。そんなものを預けられるのは、固有名を持った人間だけである。「ナエちゃんはどう思う?」
「私、数論なんてわからないわ」
「違うって。モロのこと。大和行かないって言うんだけどさ。知ってる?」
「知ってる」
「これが最後だっていうなら、惨敗するとこだって見届けるべきだと思うんだよね。そう思わない?」
「大和がなに考えてるか知らないけど、私は行くわよ」
「ほんと? じゃ一緒に行こう!」
「駄目。彼と行くんだから、邪魔しないで」
「カレ!?」
麻友と大和が同時に声を上げた。
「そう、カレ」
と、早苗は彼らの認識を助けるために、同じようにカタカナに置換して復唱した。
「ど、どこの、だ、だれよ?」
「なんで麻友がそんなに動揺するの?」
「だって、だってだって、そんなのナエちゃん、ぜんぜんわからなかった……」
「そうね。火曜日に決めたばかりだから」
「決めたって、なにを?」
「だから、お付き合いすることを」
麻友と大和がじっと顔を見合わせている。誰だ?わかるか?という探り合いだろう。ややあって、大和がノートパソコンを引き寄せると、ぱたぱたっとキーボードを叩いた。瞳孔を大きく開いた麻友の眼が、記憶を探って動き回っている。と、一瞬眼を剥いて、さらに瞳孔が(おそらくそれが最大値だろう)大きく拡がってから、すっと閉じた。次に眼を開いたとき、麻友は満面の笑みを浮かべた。
「西江くんだ!」
早苗は微かに表情を動かし、黙って頷いた。
「やったね、ナエちゃん!」
「デカいの釣ったなあ!」
「
釣った
のではなく、釣られた
のです。私の名誉のために申し添えますが」「おめでとうだね! おめでとう!」
「ありがとう」
「西江はいいよ。あれはいい。あんなの探したってそうは見つからないぜ」
「夏馬さんと同じこと言うのね」
「夏馬さん、なんて言ったの?」
「早苗の人生にこれ以上の出物が現れるとは思えない」
ふたりとも弾かれたように笑い出した。テーブルの上のグラスがひっくり返るほどに手足をばたつかせ、大和は大柄な体をそっくり返し、麻友は長い髪を広げて突っ伏して。新歓で盛り上がる団体客にも負けず劣らず声を上げ、腹を抱え、そうして盛大に早苗を祝福した。
「そんなに笑わないでよ……」
珍しく、早苗が顔を赤らめている。へえ…と大和は懐かしいものを見るような思いがした。中学を卒業して以降、こんな早苗を見たことがあったろうか。それは大和の前では起こらなかったのか、起きていることに大和が気づかなかったのか、どちらもありそうなことだと思った。一言で片づけてしまえば、中学の卒業と同時に、幼馴染みという時間は終わったのである。それは唐突な出来事で、当然驚きはしたけれども、すぐに納得感が降りてきて、大和は早苗を見ることを――あるいは大和を見る早苗を探すことをやめた。
けれども、一度だけ、大和はかつてそうであったときと同じように、早苗を探したことがある。一年後の五月に交通事故で右足の踝から先を失い、義足を着けて登校した二学期の始まりの最初の数日のことだ。大和は自分が集める哀れみの視線の中で、きっと変わらない眼差しで見てくれているはずの早苗を探した。だが、大和はそれを見つけることができなかった。どうして見つけられないのか、大和が混乱の中で自棄的になりかけていた時、およそこれまで出会ったことのない瞳が現れた。高樹玲奈のそれだ。
玲奈の父親は義手を着けていた。働いている工場で機械に巻き込まれ、左腕の肘から先を失っていた。玲奈は父親の義手をよく知っていた。彼女はそれから眼を逸らすことなく、むしろ事故のあと父親との距離を縮めていた。父親の義手の手入れを手伝いながら、それをきっかけに、失くしていた対話の時間を取り戻していた。だから初めに声をかけたのは、もちろん玲奈のほうだったのだ。ふたりの会話は玲奈の父親の義手と、大和の義足との構造的な違いの確認からはじまった。
十六歳の少年と少女の間では、奇妙な会話である。だが、義足を着けることになった安曇大和という少年の前で、義足そのものの構造や技術を興味津々に探り、それを使いこなすための工夫や苦労に共感する高樹玲奈という少女の瞳は、早苗の不在――早苗を見つけられないこと――を覆い隠した。大和は玲奈の手を借りて立ち上がった。大和は玲奈の手に支えられて歩いてきた。いまでも玲奈がいなかったらきっと歩けないし、この
そのような
おそらくそれは、早苗がそのような能力を――かつては持っていたのに――失ったという意味ではない。早苗の不幸は、あるいは現在の不能は、大和が失った足は早苗の足でもある、というわかり方をしてきたところにある。だがあのときすでにそのような関係性は終わっていたのだから、早苗は失われた大和の足を自分の足として同時に失うことなど、本当はもうできなかったのだ。だから次にやってくるのは、それを自分の足とは似ても似つかない少年の足として発見し直すことだった。事の正しい順序からして自ずからそうなるし、そうなることは避けられない。しかし、早苗にはいまもなお、まだそれができていない。