第8話 あれは事故扱いにしよう

文字数 3,669文字

 三ヶ月に一度は実家に顔を出し、食事をして一泊はすること――。諸岡の日曜はチームメイトの応援と食事会で潰れることを承知していたので、彩日香はこの日に合わせて四月のタスクを済ませてしまう考えだった。名古屋で希美を「のぞみ」に乗せてから、自分は「こだま」に乗って静岡に降りた。朝から希美の計画に付き合って歩かされたので、くたくたになって実家に着いた。シャワーを浴びて食事をしたら、さっさと横になってしまうつもりだった。玄関で見慣れぬ――いや、見知ってはいるがここにあってはならない――途轍もなく大きな靴を眼にするまでは。
 靴の持ち主から、お疲れ、と声をかけられて、リビングの前をうつむき加減に素通りし、そのまま廊下を真っすぐ抜けてキッチンを覗くと、やはり母が鼻歌混じりに――それくらい嬉しそうにという意味である――食事の支度をしていた。彩日香が顔を出すからではない。珍しい客人のせいだ。彩日香はふたたび廊下を戻り、階段を上がって自室だった部屋――今日はベッドに布団を敷いてくれてある――の机の上にバッグを置き、明かりを点け、壁にかかった鏡に向かった。なんとなく手櫛で髪を整えて、バッグから化粧ポーチを取り出したが、軽くファンデーションを叩き、リップを塗り直すだけにとどめた。
 ひとつ深呼吸をし、ゆっくりと階段を下りた。最初から気になっていたのだが、父の気配がない。この時間になって食事に合わせて帰宅するような行動パターンは記憶になかった。恐らく今日はゴルフから食事という流れなのだろう。それだったらもう少し入念に化粧をしてもいいかもしれない…と考え階段の途中で足をとめた。が、そのまま廊下に降りた。今度はリビングの前を通らないルートで改めてキッチンを覗いてから、同じルートでふたたび階段の下まで戻り、溜め息をついた。諦めるしかない。悪い報せを持って来たのであれば、早く聞いてしまったほうがいい。
 リビングに足を踏み入れると、もう一度、客人は最初と同じ言葉を口にした。
「お疲れ」
「うん、夏馬もね」
「北原は無事帰ったのか?」
「さっき東京に着いたってメッセージがあった」
「それはよかった。――立ってないで座れよ、おまえの家だ」
「……そうね」
 テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろすと、彩日香はそっと探るように顔を上げた。
「彩日香、綺麗だな」
「あ、ありがとう」
「髪を伸ばしてるのか?」
「そろそろ少し切る。暑くなる前に」
 彩日香はふと髪に手をやって――綺麗だと言われて気を良くし――夏馬に見える側でそれを耳の後ろに掻き上げた。が、そこで夏馬が微笑んだものだから、急に恥ずかしくなってしまい、慌てて元に戻した。
「今日は芳乃に会いにきた」
「お姉ちゃん? なにかあったの?」
「さんざん愚痴を聞かされたよ。この春の異動が不本意だって話でね。三時間でコーヒー三杯だ。さすがに気持ちが悪くなった」
「スポーツ振興とか、だったよね?」
「今度は児童福祉だそうだ」
「なんか、あんまり違わない気がするけど」
 夏馬はちょっと笑っただけで、答えなかった。これは違う。大丈夫だ。母に顔を見せ、母を喜ばせて、そのためだけに立ち寄った。悪い報せは持っていない。少なくとも私に関わる話は持っていない。彩日香はそう確信して、少し緊張を解いた。
「うちに泊まるの?」
「いや、本家に行く。その前に、食事を終えたら早苗の話をしたい」
「あ、うん、わかった」
 彩日香にはさっぱり理解できないのだが、母は――あるいは母の姉と妹は――要するに伯母と叔母は――夏馬に会うと少女のように嬉しくなってしまうらしい。むろん叔母といっても常葉は例外である。いや、もしかすると例外ではないのか? とにかくこのデカくてゴツくておっかない従兄は、社会的にはなんの肩書きも持たない無価値な人間であるにもかかわらず、一族の中では誰よりも特別な場所にいる。
 父はやはり外で食事をしてくるらしい。三人でダイニングテーブルを囲み、母の渾身の手料理を口にしながら、彩日香は今日は自分の身辺事情が話題にならないことに安堵しつつ、この時間を楽しむことができた。同じ三人でも、母と父と囲むのと、母と従兄と囲むのとでは、まったく違うテーブルになる。楽しみながらも、彩日香はやはり早苗のことを考えた。
 大和にはあなたに責任があると言ったが、彩日香は本当はそうは思っていない。大和と早苗はあの頃、いわゆる大人の真似事をしていた。ふたりはひとつだった。ひとつだと思っていた。だからあれは鏡に映った自分を確かめる行為に似ていたのだろう。ただ、鏡の中の自分には触れることができないけれど、ふたりは言うまでもなく鏡像ではないのだから、自分に――いや自分ではない相手に――触れることができたのである。
 いつ始まったのかは知らない。大和もよく覚えていないらしい。たぶん十代に入ってから、だろう。が、中学を卒業する前にはやめた。恐らくもっと前からふたりは気づいていたはずだ。ただそれをなかなか受け入れることができず、ずるずると先延ばしにしていたのに違いない。要するに、受け入れざるを得ないことが起きたのだ。どちらかの体に、あるいはふたりの間に。自分たちは鏡像などではまったくないという事実を知らされる出来事が。彩日香が知っているのはそこまでだ。
「彩日香、パンツが見えるぞ」
 夏馬はカーペットの上に胡坐をかいて座り、彩日香はベッドの端に無造作に脚を組んで座っていた。それでも視線が水平に交差するように感じるほど、従兄の体は大きい。それだけでもう争う気が失せてしまう。別に殴り合いをはじめようとしているわけではないのだが。
「男の前でそういう座り方をするのはよろしくない」
「私もう二十六なんですが」
「つまりだよ――彩日香は中学のときの分離の失敗だと言う。他方で、麻友は事故のときの受容の失敗だと言う。僕にはふたりとも同じことを言っているように聞こえる」
 食事を終えて彩日香の部屋に上がり、そういう話をしているところだった。
「いずれも唐突かつ乱暴に、目の前で大和を奪われた」
「乱暴に?」
「抗いようのない自然の暴力みたいなものだと思ってくれ」
「ああ、そういう意味。でも、奪われたって?」
「だから、大和を代表して表象するもののことだよ」
「はっきり言うわね……」
「でもさあ、彩日香、大和は二度目だって言ったんだろう?」
 チョコレートをひとつ口の中に放り込みながら、夏馬は急に気の抜けた調子で言った。
「だったら、なんにもしなくていいんじゃないのか?」
「二度目って、なにが?」
「早苗の悲鳴を聞くのは二度目だって、おまえにそう言ったって聞いたぞ」
「ああ、そうそう。二度目だって言ってた」
「間違ってるのがおまえか麻友かは置いといて、早苗はどちらかでは悲鳴を上げていない。少なくとも大和はそれを聞いていない。だからこれが二度目だという勘定になる。だとすれば、これで開いた口は閉じたことになる。わかるかね?」
「ぜんぜん」
「とにかくあれは事故扱いにしよう。みんなにもそう伝えておいてくれ」
「それでいいの?」
「ほかに打ち手がない」
「わかった」
「それよりおまえ、このところどうだ?」
 急に正面から尋ねられて、彩日香は慌てて組んでいた足をほどき、真っすぐにそろえた。
「約束した通りに、ちゃんとやってます」
「気分は?」
「気分は、まあ、悪くないかな」
 と首を傾げた。
「悪くない、て程度か?」
「あ、いや、かなりいいわね、うん」
「ふ~ん」
 そこでまたひとつ、チョコレートを口にした。相変わらず甘いものが好きらしい。遺伝子のせいではなくて、私はこの人のこの悪癖に感化されたのかもしれない。感化というか、馴化させられたと言うべきか。もう二十代も後半に入ったのだから、早く脱しないと大変なことになる。
 もう二つ三つ、個包装されたチョコレートを大きな手につかむと、夏馬が腰を上げた。彩日香はまた――今度はわざと意識的に――足を組んだ。
「あら、ハグもキスもしないで帰るつもり?」
 夏馬はちょっと考えてから、ベッドの端に腰掛ける彩日香に歩み寄り、上から額にキスをした。そのまま背中を向け、部屋のドアを開けたところで、ふと振り返った。
「明日は六時過ぎの『こだま』に乗るから」
「ウッソ!? そんなの無理だって!」
「嫌ならここで寝てろ。東京からアパートの荷物を送ってやる」
「わかりました。さっさと寝ます!」
「それがいい」
 彩日香は頭から布団を被り、見えないように舌を出した。二十六の女がすることじゃないわね、と思い直し、夏馬が家をあとにする物音を確かめてから、シャワーを浴びに階下に降りた。その間に諸岡から着信があった。慌てて折り返し、少し話をして、明日六時過ぎの「こだま」に乗らないとまた軟禁状態に戻されると愚痴を言ってから、部屋の明かりを消してベッドにもぐり込んだ。
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