第13話 欠落する記憶

文字数 4,097文字

 翌週火曜日に、今日はどうしても迎えに行けない、と西江からメッセージが届いた。麻友さんに頼もうか?と尋ねられ、早苗は今日は大丈夫だと思うと返した。週末の江ノ島での記憶が体の隅々にまだ残っている。事実、渋谷の地下道までは迷うことなく降りることが出来た。が、そこで足が止まってしまった。そこからさらに下へはどうしても足が動かなかった。さらに下へ降りるには西江の手が必要だった。だから早苗は西江の姿を探した。今日はいないとわかっているのに、でも、どうしていないのかわからなくなった。
 すぐに早苗はその場にしゃがみ込んだ。両手の先でこめかみを強く抑えた。鼓動がそこまで上がってきている。目の前が明るくなったり暗くなったりを繰り返す。ビジネススーツの女性に声をかけられた。大丈夫です、と答えて立ち上がった。そのまま目の前を行き過ぎた白いシャツの男を追って歩き出した。地下道をいくつか曲がり、エスカレーターを降りた。いつの間にか前も後ろも、昇ってくるエスカレーターも、周りは白いシャツの男で埋め尽くされている。
 降りた先の案内板を見て、ここは違うと思った。聞いたこともない路線の名前が、聞いたこともない行き先の案内が、ここは違うと早苗に告げている。回れ右をして、また白いシャツの男を探した。いた。後を追ってエスカレーターを昇った。地下道をしばらく歩いた。階段を昇った。大きな道に出た。たくさんの車が行き交っている。信号があった。坂道が見えた。あそこだ、と早苗は思った。信号を待ち、信号が変わって、道を渡った。坂の途中で路地に入った。
 建ち並ぶ古いビルを見て、ここは違うと思った。見たこともない灰色の壁と薄暗い窓が、見たこともないネオンサインが、ここは違うと早苗に告げている。回れ右をして、また白いシャツの男を探した。いない。白いシャツの男は消えてしまった。早苗をひとり湿ったビルの谷間に残して。早苗は慌てて駆けだそうとした。と、いきなり腕をつかまれた。横から右ひじを握る手に引っ張られた。それは指の長い細くて白い手だった。その先に、見飽きたはずの美しい顔があった。
「……彩日香さん」
「こんなところでなにしてるの?」
「私、うちに帰るところなんです。でも今日は西江くんがいなくて、だからエスカレーターを降りたんですけど、知らない改札に出てしまって、だからエスカレーターを昇ったんですけど、知らないビルの間に入ってしまって、白いシャツを着た西江くんが、ずっと私の前を歩いていて――」
「わかった。こっちおいで」
 彩日香に腕を抱え込まれ、早苗は硝子の嵌まった木製のドアを入った。カウンターの前を通り、奥のテーブルの前に立つと、彩日香がそこに座っているふたりの人間に言った。
「ごめん。今日はここまで。また明日ね」
 立ち上がった女の子に見覚えがあった。座っている男の子は金髪で碧い眼をしている。
「早苗さん!?
 女の子がびっくりした顔で声を上げた。この子、私を知ってるんだわ、と早苗は思った。が、女の子を思い出すことができず、また頬からこめかみへと鼓動が上がってきた。金髪で碧い眼の男の子がテーブルを片付けはじめる。見ると、たくさんの写真が――建物を写した写真が広がっていた。男の子はそれを丁寧に集めて封筒に入れた。女の子はまだ早苗を見ていた。どうしてそんなに私を見るのだろう、と早苗は不思議に思った。でも、女の子は男の子にテーブルを押し出されて行ってしまった。じゃあね!と彩日香が呼びかけて、女の子が振り返りつつ、男の子が笑顔で手を振った。
「座りなさい。私の隣がいいわね」
 彩日香に言われ、壁を背にした長椅子に並んで座った。彩日香はまだ早苗の腕を抱えていた。彩日香がホットココアを注文した。店員が女の子と男の子が残していったグラスを片付けた。底のほうに溶けた氷が汚く残っていた。早苗は彩日香の顔を見た。いつ見ても綺麗だな、と思った。
「いまココア頼んだから。あったかいもの飲んで、甘いもの飲んで、落ち着こう」
「彩日香さん、私、どうして……」
「いいから。こういうことって誰にでもあることだから」
「私、でも、私……」
「大丈夫だよ。ほら、すぐにココアが来るからさ」
 突然、早苗の前を白いシャツの男が横切った。その顔はどこからどう見ても西江には似ていなかった。エスカレーターを降りた先の案内表示板がフラッシュバックした。それは田園都市線と半蔵門線とが接続していることを告げていた。知らないはずがない、アパートの最寄り駅につながる路線である。そして早苗は自分の身になにが起こっていたかを悟った。
「……私、私、壊れちゃったんですか?」
 早苗の眼から涙が溢れるようにこぼれた。彩日香が肩を抱いて引き寄せた。
「壊れてない。壊れてないよ。松田早苗はそんな簡単に壊れるような女じゃないって」
 がたがたと震えながら泣き崩れる早苗を、彩日香はさらに胸の中に抱え込んだ。店のマスターがそっとテーブルの端にココアを置いた。彩日香とちょっと目を合わせると、なにも言わずにカウンターの中に戻った。彩日香は自分のバッグを片方の手で探り、スマートフォンを取り出した。

 早苗の部屋に上がるのは初めてだったが、そう教えられなくても間違いなくそれとわかる、いかにも早苗らしい部屋だったので、彩日香は思わず笑みを浮かべた。ベッドに座った早苗は辺りを見回して、そこが自分の部屋であることを初めて認識したように、顔を赤くした。
「すみません、夏馬さんまで」
「うん。いつもの早苗に戻ったみたいだな」
「私、パニックみたいになってしまって……」
「そうだね。まあ、よくあることだよ。彩日香なんて257回はやってる」
「そんなにやってない! 大体なんでそんなきっちりした数字なのよ。フェルマー素数だし」
「ああ、それで出てきたのか。なんで257なんだろう?て思ったんだよ」
「いい加減なヤツ」
 隣に座る彩日香は苦々しげにそう吐き捨ててから、気遣うように早苗の髪や頬を撫でた。夏馬はふたりから離れ、本棚の前に立った。見事に専門書しか並んでいない。ミステリーくらい読んでも罰は当たらないだろうに、と夏馬は苦笑した。
「西江は何時くらいになるって?」
「あと二十分くらいじゃないかな」
「西江くん、呼んでくれたんですか?」
「だってほかにいないでしょう? そもそも西江のせいなんだし」
「別に、西江くんのせいじゃ……」
「西江のせいだよ。渋谷の地下に早苗を置いとくなんて」
「でも、最初から今日は来れないって言ってて、だから私――」
「いいから。あいつが来たら、私を放置するなんて酷い!て泣いてやれ」
「……彩日香さん、諸岡くんにそんなことするんですか?」
「私はしないわよ」
「じゃあ、私もしません」
 夏馬に笑われて、彩日香はまた苦い顔をすると、ベッドから腰を上げた。本棚の前にしゃがみ込んでいる夏馬の頭を叩いてからキッチンに向かい、勝手に冷蔵庫を開け、なんにもないね…と呟いた。
「ナエ、お腹空いたよね? 夏馬、もっかい西江に電話してさ、お握りとか買って来いって言ってよ」
「言ってある」
「あら、気が利くじゃない?」
「彩日香もこういうときの対処

は手際がいいな」

、てことはないわよ」
「だけだろう? おまえが編んだマフラー見たけど、あれは酷いよ。諸岡が気の毒だ」
「な、なんでマフラーとか……。いま関係ないでしょ!」
 それからはテレビをつけて、適当にチャンネルを回しながら、彩日香と夏馬は他愛もないおしゃべりをつづけた。もうふたりとも早苗の出来事には触れなかった。早苗はベッドの端に腰掛け、床に座る彩日香と夏馬の背中を見ていたのだが、西江がいまここに向かっていると思うだけで、嬉しくて自然と頬が緩んでしまう。私は本当にどうしてしまったのだろう。まるで母親を求める乳児のようではないか。いつもの場所に彼がいないというだけで、それは承知していたことのはずなのに、あんなことになってしまうなんて……。
 あのときなにが起きていたのか、彩日香に腕を引っ張られるまでの記憶が斑模様になっていた。あそこに彩日香がいたのは偶然だったのか。あの店を私は知っていたのだろうか。北原希美も――あれは希美ちゃんだった――噂に聞くハーフの彼氏も一緒だった。噂? 誰から聞いたのだろう? やはりおかしい。記憶に混乱がある。今日のことばかりでなく、もっと前の出来事にも欠落があるように感じる。そう、感じるのだ。絵の具が剥がれるように、ページが抜けるように、音符が落ちるように、私の中で静かに欠落が始まっていることを。でも、どこで? どうして?
 早苗は彩日香と夏馬の背中をじっと見つめている。だけどまだふたりには話せないと思った。

とか、

とか、そんな曖昧なことでは伝えられない。西江には話せるだろうか? いや、話せない。話したところで、たとえば優しく抱き寄せられるだけで、きっとなにもかもどうでもよくなってしまう。事実いま私は早く彼に抱き寄せられることを待ち切れずにいる。早く彼の腕の中に身を投げ出すことを待ち切れずにいる。そうして私の中で、おそらく

私の中で、なにかが剥がれ、抜け落ちて行くのだろう。でもそのことに、いったいなんの問題があるのか?
 西江がやってきたのは十時に近かった。彩日香と少し会話をして、夏馬に丁寧に頭を下げて、西江が早苗のそばに近寄るのと入れ替わるように、池内のふたりは部屋を出た。チャイムが鳴ったときからもう、ドアが開く前からすでに、早苗は恥ずかしさと嬉しさとで下を向いてしまっていた。隣に西江が座り、手を握り、肩を寄せ、こめかみに唇を押しあてられたとき、早苗はもはや地上に生きるものではなくなった。地上へと剥がれ落ちて行くものの欠片が一瞬だけ眼に映ったが、そしてそこにはなにか懐かしい姿が映っているようにも見えたのだが、早苗はすぐにそれを忘れた。
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