第12話 もう雨は降らない?

文字数 2,031文字

 自分のほうから働きかけ、手続きを逆転させてみると、思いのほか気分が楽になった。あれから木・金と梶が谷の改札まで送り、土曜日も研究室に行った早苗と渋谷で待ち合わせ、水曜と同じようにスーパーで買い物をしてアパートで料理を(やはり早苗が)作り、そのまま日曜の朝を迎えた。
 渋谷の地下通路にやってくる、あるいは待っている早苗を見る瞬間が、西江はいちばん好きだ。嬉しいのと恥ずかしいのが目まぐるしく表情を変えて行くその様子に、西江は愛おしさが痛いほどに深まって行くのを感じる。生来的にそうしたことを演じられる女ではないとわかっているだけに、言葉にできない暴力的で破壊衝動にも似た欲情を刺激された。
 土曜の夜、声を押し殺そうと手のひらで口を覆う早苗の姿を眼下に見つめながら、自分は本当はなにを求めているのだろうと疑った。同じ疑いを、早苗も同時に抱いているように感じた。合わせる肌の、あるいは皮膚の向こうにあるものを、引き破ってでも暴いてみたい――そこには間違いなく出会ってはいけないなにものかが待ち構えている。およそ、人間とはそういうものだ。
 真夏日がつづいた週末から、日曜は梅雨時らしい曇天に変わった。ぽつぽつと少しだけ雨も落ちた。ふたりは下り電車に一時間余りを揺られ、江ノ島の浜辺にやって来た。やや強い南風が吹いていた。早苗は初めからそのつもりでストッキングを着けずに家を出て、波打ち際で裸足になった。こういうときスカートは重宝だなと思いながら、西江もチノパンの裾をまくった。
 早苗のワンピースの柄は赤みの強い薄紫のクレマチス――'mental beauty' と 'artifice' を花言葉に併せ持つのはどういうわけだろう? 美しい精神は策略を好む、あるいは策略が隠されているからこその美しさか。ふだん声を上げて笑うことの少ない早苗の弾んだ笑顔が、強い風に吹き飛ばされるのを楽しんでいる。西江はそれを初めて聞くように聞き、初めて見るように見た。
 海岸通り沿いのレストランで食事をした。
 早苗は浜で拾った貝殻をテーブルの上に並べた。
「なんだか私、幸せだわ」
 と、並べた貝殻を数えるように指先で触りながら、早苗が呟いた。
「西江くんにもそう見える?」
「見えるよ。だから俺もこのうえなく嬉しい」
「そうね。嬉しそうな顔してる」
 顔を上げて微笑んでから、急いでテーブルに視線を落とした。
「なにが起きてるの? 西江くんの顔を見ると恥ずかしくなるのは、どうして?」
「きっと俺のことが好きになったんだよ」
「好きだったわよ、前から。…けっこう、ね」
「そうだったかねえ」
「ああ、どうしよう! 困ったわ……」
 早苗は両手を頬にあて、頭を振った。
「私になにか飲ませた? 中国四千年の知恵の結晶みたいな」
「そんなものがあるなら、ぜひ常葉さんの会社で製造すべきだね」
「三時になると、私、じっとスマホを握り締めて、画面を睨みつけてるのよ」
「へえ。そのときの顔をこっそり見てみたいな」
「見られたら、きっと私、生きていけない……」
 食事が運ばれてきた。早苗は口をつける前に、フォークとスプーンで三分の一ほどを、西江のプレートに移した。少しの間、雨粒が海を臨むガラス窓に当たり、滴が流れた。流れ落ちる滴をいくつか見届けてから、その横顔を待っていた西江に向き直り、慌ててスプーンを使いはじめた。
 天候はこれ以上崩れる心配も、回復する期待もない。水族館でも入る?と西江が尋ね、水族館は高いわ…と早苗が首を振った。こないだボーナス出たばかりだから――もっといい使い道があるはずよ――夏のホテルのグレードを上げるとか?――あれで充分――新幹線をグリーン車にするとか?――無駄遣いね――僕らの引っ越し代に残しておくとか?――まあ、たとえば…――じゃあ、そうしよう。
 ふたりはふたたび砂浜に降りて、だが今度は波打ち際には近寄らず、乾いた砂の上に並んで座り、それぞれに違う景色を見た。早苗の視覚野には郷里の浜辺が映っている。友達と遊びに行った十八年間の夏や冬の断片だ。春や秋の光や音だ。西江の視覚野はなにものにも浸食されていない。ただ隣に座る早苗の体を、隣の空間を埋める人間の豊かさを感じている。眼は、早苗に預けてしまった。
 帰りの電車ではふたりとも少し居眠りをし、小田急から東急に乗り換えるときには階段を駆け下りた。そういえばなにもお土産を買わなかったことに気がついて、バッグの中から早苗が取り出した貝殻に笑い、また駅前のスーパーに寄って買い物をした。
 この日はもう雨は降らなかった。この夏はもう雨は降らないのか? 少なくともこの日はもう雨は降らなかった。夏がはじまるまでには、まだ少しばかり時間がある。季節が変わるためには雨が降る必要がある。少なくともこの土地ではそうだ。そういう気候地帯なのだから、しようがない。
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