第17話 砂糖とミルクはひとつずつにしてください

文字数 6,582文字

 八月二日の朝、いつもと同じ時間に目を覚ました早苗は、習慣で洗濯機を回しそうになり、手を止めた。部屋に干して出かけてもいいけれど、今日は時間がない。いや、あるけれど、余裕を持って動きたい。少し早すぎるくらいに東京駅に入り、できればカフェのテーブルなどで向かい合い、新幹線が発つまでの時間を楽しみたい。そうだ、そこで遅めの朝食をとるというのはどうだろう。旅支度はもう昨夜のうちに済ませてある。最後に化粧品とかスマートフォンの充電器とかを入れれば出かけられる。そうすれば洗い物もない。この部屋に今日の生活をひとつも残すことなく、一日を始められる。今日は出かけるだけ。そうして速やかに特別な時間へと移行する。
「おはよう。どうしたの?」
 洗濯槽を覗き込んだままぼんやりしていた背中に声をかけられ、振り返った。
「おはよう。洗濯しそうになっちゃった……」
「ああ、ははっ」
 西江は笑いながら洗面で顔を洗い、鏡で寝癖を少し気にしてから、髭を剃りはじめた。
「ねえ、東京駅で朝ご飯にしない?」
「うん、いいよ」
「フレンチトーストとか食べたいな」
 体を入れ替えて早苗が洗面台の前に立ち、西江は肩口から首を伸ばして髭剃りをつづけた。手を洗い、化粧水を頬から馴染ませて行く。これを二回。ちらちらと鏡に映る西江と眼が合って、そのたびに笑みを返される。乳液を手にしたところで、早苗はどうにも耐えられなくなった。
「あっちでやって」
「どうして?」
「いいから!」
 と、肘で西江を洗面所から押し出した。このプロセスにはどう考えても「見るなのタブー」が適用されなければならないだろう。さほど化けるわけでもないけれど、乳液までのスキンケアを終えた先には、そうは言っても飛躍が待っている。そこには断絶があってしかるべきだ。考えてみれば、西江はいつも朝食ぎりぎりまで起きてこないから、このタイミングで鉢合わせするのは初めてだった。実際、さほど化けるわけでもないのだけれど。
 早苗がメイクを終えて洗面所からそっと覗き見ると、西江の髭剃りも終わっていて、スーツケースのキャリーバーをがちゃがちゃといじっていた。さっきからなんの音だろうと思っていたところだったので、早苗はそのまま覗き見をつづけた。どうやら引き出したバーが収まらなくなってしまったらしい。横顔が明らかに焦っている。機能的には引き出せないほうが困るのだが、収まらないのも格好が悪い。西江はいつも、なにをするにも力を余しているふうだから、そんなふうに困っている様子を眼にした早苗は、ちょっと嬉しくなった。
 しばらくあちこち押さえてみたり傾けてみたりしているうちに、なんの拍子かすぽっとバーが収まった。が、西江はそこではまだ表情を変えず、また引き出して収め、引き出して収めを三回ほど繰り返し、ようやく安堵したようにふ~っと息を吐いた。と、西江がさっと顔を向けた。早苗もぱっと身を引いた。が、見つかってしまった。西江は「見ーたーなー」とわざと低い声を響かせながら大股になって洗面所を急襲し、早苗は悲鳴を上げながらユニットバスの中に逃げ込んだ。
「ちょっと…そんなことしてる時間ないから」
「朝食を新幹線の中まで持ち越せばいい」
「フレンチトーストが食べられないじゃない」
「コンビニでも売ってるよ」
「出来立てのふわふわのが食べたいのよ。だから、ちょっと……」
 結局メイクはやり直しになり、残して行く洗濯物も少し増え、ぎりぎりの時間になってしまった。
 スーツケースを手に、西江が先に靴を履いてドアを開けた。早苗は小さなリュックを肩にかけ、部屋を出る際に手抜かりがないかと振り返った。
 昨日引っ越してきたばかりのような景色である。段ボール箱が床を占領し、ベッドとキッチンと洗面所とを往来するための通り道が、わずかに人一人分ほど空いている。段ボール箱はすべて同じ引っ越し業者から受け取ったはずなのだが、いつの間にか、誰がやったのか、ロゴマークもおおかた潰れ、クラフト地も色とりどりに散らかって、子供の工作教室のようになっている。
「待って」
 と、早苗が外廊下に出ようとする西江の腕を引いた。
「ん、忘れもの?」
 と、西江がスーツケースを押さえながら振り向いた。
「段ボール箱がいっぱいだわ」
「そうだね」
「だれがあんな落書きをしたの?」
「君だよ」
「私…? 嘘よ」
「カラフルで俺は気に入ってるけどね」
 早苗はぼんやりと狭い玄関口に立ち尽くした。鮮やかな発色の水性顔料インクが十数色は使われている。地がクラフトだから決して美しくはない。けれども薄汚れたように濁ってもいない。それは本当に、小さな子供たちが大勢で寄って(たか)って思い思いの色を撒き散らし、騒ぎ楽しんだばかりの景色に見える。だが、そこはふたりの生活の場

あった。

もなにもない、生活の場そのものだ。朝起きて顔を洗い、洗濯機を回し、食事をして着替えをして、テレビを見たり、シャワーを浴びたり、本を読んだり、ベッドの上で不可解な夢を見たりしている場所だ。
「さ、行こう。本当に乗り遅れる」
 西江に手を引かれて外に出た早苗は、ドアの閉まる音を聞き、鍵をかける音を聞き、外廊下を歩き、階段を降りて、駅への道を急ぎながら、何度もアパートを振り返った。道を曲がり、もう建物の向こうに隠れてしまってからも、駅の改札を抜けホームに上がったあとも、走り出した電車のドアの窓からも、早苗は部屋に積み上げられた段ボール箱を探した。なにか大切なものが取り出されずにある。誰かに見られて困るものではないけれど、見られたら少し恥ずかしい。だからできれば中身を開かずに処分してもらいたい。でも、そんなこと、誰に頼めばいいのだろう……。
 それにしてもいつの間にあんなになってしまったのか。あれではお客様をお招きするなんてとても無理。積み上げたままになっているうえに、落書きまでしてあるなんて。本当に、いったいだれがあんなことを。……私? 違うわ。私はあんなことしない。本当は西江くんなんでしょう?

 東京駅の構内は想像していた以上に混み合っていた。時間の余裕を失くしてしまったふたりは京浜東北線からまっすぐに新幹線の改札を抜け、ホーム上でサンドイッチとコーヒーを買った。西江は〈結婚しないことの完璧な理由〉を早苗に譲った。が、二人掛けの席は進行左手になる。高崎から佐久平まで、そして上越妙高から富山までの間、列車がほぼ西進することを、早苗はシートポケットに入っていた路線図で知った。西江に開いたページを見せて指差しながら、
「晴れたら交替ね」
 と言った。
「日本海側に出たら晴れるみたいだよ」
「ほんとうに?」
「うん。週末までずっと晴れの予報だ」
「なんてことなの! 東京はずっと冴えない天気だって」
「晴れ女か晴れ男か、どっちなんだろうね?」
 笑いながら、西江がテーブルの上にサンドイッチの包みを並べた。
「タマゴ、ツナ、ハムチーズレタス、照り焼きチキンにアイスコーヒー――完璧だな」
「フレンチトーストのはずだったのに……」
「あれは合意の上だった」
「合意なんてしてないから」
「俺が服を脱がせ易いようにしてくれたよ」
「そんなことしてません」
 ツナサンドの袋を破き、早苗は少し頬を膨らませて窓の外に顔を向けた。発車までもうあと数分に迫っている。座席はほぼ満席に近い。平日だが、車内の半分ほどは夏休みの気配だ。ふたりの頭上にもスーツケースが乗っている。キャリーバーは素直に収まってくれた。
「きっとね、彩日香さんじゃないかと思うの」
「ん? なにが?」
「だから、晴れ女よ」
「あの人、そうなの?」
「ううん。ビギナーズラックみたいな話。たぶん、こんな旅行、初めてだと思うから」
「そうなんだ」
 ぼんやりした西江の反応に、はっとして早苗が窓の外から顔を戻した。
「ごめんなさい。…西江くん、わからないわよね」
 西江は答えずにちょっと笑みを浮かべ、照り焼きチキンサンドを頬張った。どちらなのだろう?と早苗は迷った。知らなくてもいい、という意味なのか、教えてもらってない、という意味なのか。けれども、安曇彩日香のことを話すのは難しい。西江が知っているのは東京に出て来てからの彼女だけ。それではなにも伝わらない。伝えようがない。それでは、彼女を知るのは不可能だ。どうすればいいのだろう。どう言葉をつなげばいいのだろう。
「俺が知っているのはね」
 と、早苗の躓きを覗き見たように、西江が言った。
「彼女は君の幼馴染みのお姉さんで、来年君の上司になる人の姪だということ。…合ってる?」
 早苗はじっと西江の顔を見たまま頷いた。
「じゃあ、それで充分。俺にはそれ以上あの人に関する情報は必要ない」
 早苗はもう一度、今度は正否の答えではなく、了承の意思表示として、頷いた。
「お、出発するな」
 ベルが鳴り、アナウンスが叫んでいる。車両のほぼ中央に座るふたりには、ドアの閉まる様子は聞こえなかった。ゆっくりと足元が動き出し、西江が窓の外に眼を向けて、早苗もそれを追った。
 ホームを抜け出ると大手町の高層ビル群が建ち並び、ガラス窓に皇居の緑が映り込む。ふたりは顔をそろえ、静かに走り去るこの大都市を象徴する景観を見送った。早苗の耳元で、西江がサンドイッチを咀嚼する音が聞こえる。早苗にはそれがなぜだかおかしくて、くすっと笑った。
「なに?」
「西江くんはなんでも美味しそうにもりもり食べる人」
「そうかもなあ」
「ねえ、正直に言って。これまで私が作ったもので、実は無理して食べたことない?」
「ある」
「あるの? なに? 教えて?」
「食べ物じゃないけど、俺はコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れたい」
 まさか…と思った。意識して考えてみたこともなかったけれど、それだけは絶対にないと考えていた。表情を硬くした早苗に、しかし西江はにやっと笑い返すと、サンドイッチが入っていた袋の底から、ガムシロップとミルクのカップをふたつずつ取り出して、手のひらの上に置いた。
 思わず早苗の手が伸びた。驚いた西江は成す術なくガムシロップとミルクを奪われた。呆然とする西江に、早苗がゆっくりと首を横に振る。何度も何度も繰り返し。見開いた瞼の下側に涙が溜まり、瞬くと滴がすっと零れ落ちた。西江の手が、慌ててそれを早苗の顎の下で受け止めた。
 ふたつの手のひらで包み込むようにガムシロップとミルクを握り締めたまま、早苗の頭ががくんと落ちた。西江はさっと両腕を差し出し、早苗の上体を支えた。胸に押しつけられた額の熱を感じる。これまでそうしてきたように、そうすることしか知らなかったように、このときも解釈だとかその先にある理解の可能性だとかは捨て置いて、西江はただ目の前の女の体を受け止めた。
 とはいえ、西江衛にもひとつだけわかっていることがある。確かにちょっと、少しばかりおかしなところがあるかもしれないが、それを差し引いたとしても、いや、それをすべてひっくるめて、松田早苗が愛おしい。おかしなところもすべてひっくるめて、だ。愛おしいというのは、すべてをひっくるめて受け取ることを、あるいはすべてをひっくるめて差し出すことを、それだけを意味するものではないか。
 西江は早苗の手の中からガムシロップとミルクを取り上げて、テーブルの上の袋の中に戻した。
「ごめんなさい……」
 早苗はガムシロップとミルクを取り上げられた手のひらで顔を覆い、かすれた声を絞り出した。
「……こんなふうにあなたを巻き込みたくなかったのに」
「俺はずっと巻き込まれたいと思ってきたよ」
「あなたはなにも知らないから」
「知らないからこそできることもある」
「そんなに簡単なことじゃないのよ」
「だけど、やってみようよ」
 顔を覆っていた手を離し、早苗が顔を上げた。
「なにをするの?」
 早苗の手を握り、西江は体を少し近づけて微笑んだ。
「まずはすぐに部屋を探そう。君のあの段ボール箱がすべて片付いて、トランクルームも空っぽにできる部屋だ。どのあたりがいいかな? 三鷹とか、調布とか、あの辺も良さそうだよね」
「それから?」
「少しずつ家具を買い替える。毎年、ボーナスをもらったら、ひとつずつ」
「最初はなに?」
 崩れかかっていた体を起こし、椅子に座り直した。
「たぶん、クローゼットかな。君も働くようになれば、もう少し服が必要になるよ。ちゃんとハンガーに掛けておかなくちゃいけないような服がね」
「その次は?」
 いったん離した手で頬の涙を拭い、また握り直した。
「ダイニングテーブルと本棚と、君はどっちのほうが大事?」
「もちろん本棚」
「じゃあ、本棚にしよう」
「でも、ベッドはどうするの?」
「ふたつ並べる…のは無理かあ」
「また落ちちゃうわね」
「俺がね」
「私がよ」
「俺だって」
「私です! …ちょっと、どいて」
 早苗はリュックを手に席を立ち、進行方向に向かって――顔が見られにくいからだ――やや俯きがちに、だがしっかりした足取りで歩いた。ドアの先の洗面所に滑り込むと鏡を見た。すぐにウェットティッシュを取り出して――乳液はスーツケースに入れてしまったので――丁寧に涙の跡を拭った。
 ――私たち、引っ越しするのね
 今度はほんものの引っ越し。いまの避難生活とは違う。新しいクローゼットですって? ううん、トランクルームのものがあれば充分よ。本棚もね。でも、確かにダイニングテーブルは欲しいかも。なにしろふたりで生活するのだから。父と母になんて言えばいいだろう? それは西江くんが言ってくれる。それは西江くんの仕事。でもいつ? まさかこの週末の静岡で? お父さんにご馳走にならなくちゃ。今夜にでも電話しておかないと。ああ、違う。その前に、今夜は西江くんとお話ししないといけないわね。どんなホテルだったかしら。確か今日はチューリップが見られるはずなのだけれど。
 ――でも、こんな真夏に?
 いけない。早く席に戻らないと。こんなこと考えていてはダメ。砂糖とミルクのことだったわね。いいわよ。でも、太らない程度にしてほしいな。あんなにたくさんはやっぱりダメ。二つも三つも入れてはダメよ。そんなことをしていたら、そんなこと……そう、体に悪いから。
「おかえり」
「ただいま」
 西江が通路に立ち、早苗が窓辺の椅子に滑り込んで、ふたりはふたたび横並びに向き合った。
「あなたの席が空っぽになってたらどうしよう…とか思っちゃった」
「君がこのまま消えてしまったらどうしよう…なんて心配してた」
「ほんとうにそんなこと心配してたの?」
「君こそ鏡の前で迷ってたのはそんなこと?」
「ううん。クローゼットも本棚も要らないな…とか考えてた。それに、砂糖とミルクのこともね」
「どういう結論が出たんだろう?」
「あのね、欲しいのはダイニングテーブル。それから、砂糖とミルクはひとつずつにしてください」
「助かった…。本当は、ブラックしかダメ!とか言われたらどうしよう…て心配してたんだ」
 西江はさっそくテーブルの上の袋から、ガムシロップとミルクのカップをひとつずつ取り出して、手のひらの上に置いて早苗に見せた。仕方がないわね…という顔つきで早苗も頷いた。
 それから、どうしてこんな真夏にチューリップが咲いてるの?と尋ねた。どうしてだろうね…と応えながら、西江はアイスコーヒーにガムシロップとミルクを入れ、ストローで掻き回した。
 早苗は食べかけていたハムチーズレタスサンドを手に取って、はみ出したレタスを落とさないよう慎重に口に入れた。西江もハムチーズレタスサンドのもうひとつに齧りつき、テーブルの上にレタスの切れ端を落とした。
 早苗がそれを指差して眉間に皺を寄せた。西江は指先でつまんで口に放り込んだ。泣きやまない子供を抱いた母親が通路を足早にすり抜けてドアの向こうに消えた。西江が微笑むと、早苗も微笑んだ。西江がアイスコーヒーを口にすると、早苗は少し不満そうな顔をした。   (了)
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