第4話 そして、中目黒の晩餐
文字数 6,439文字
中目黒のマンションは、池内夏馬が東京にやってきた際に購入したものだと聞いている。3SLDKで、いまは常葉 ・叶 ・静花 の三人が暮らしており、静花がやってきた二年前に夏馬は追い出された。三人は大和の叔母と叔父と従妹にあたり、女二人は訳あってのことだが、三人とも「池内」の姓を持つ。「池内」には評判の四姉妹がいて、三番目が常葉、末娘が静花の母親だ。静花が上京する際、一人暮らしはさせられないという理由から、夏馬の部屋をあてがうことに本家で決められた。「池内」の本家には四姉妹の長姉と二兄弟の長男が暮らしている。決めたのがこのふたりだというわけではない。三女の常葉が持ち込んだその話を、姉と兄が了承した。
この辺りの経緯は、早苗にはよくわからない。どうやらこのマンションの所有者は池内常葉の一筆にはなっておらず、割合はむろん知らないけれど、池内本家の名前も並んでいるらしい。先代――夏馬・彩日香・大和・静花らの祖父――が残した資産は大きく、名義上はすべて長男である夏馬の父親に譲られたものの、実質的に一族共有の資産として扱われており、一族のだれに・なぜ・いくら使うかは、概ね常葉が判断しているという話である。そして、常葉の判断を助けるために、夏馬が一族並びにその周辺の情報を日常的に収集しているわけだ。
たとえば彩日香が東京に出ることも、夏馬から話を聞いた常葉が条件付きでそれを認め、夏馬がアパートを探し、お金は安曇家と池内家の双方で折半されている。――そういう話を、数年前から「池内」の人間は早苗の前では声をひそめることなく話すようになった。おそらくその頃から、常葉はいずれ早苗を自社の研究所に引っ張り込むことを考えていたのだろう。そもそも二宮教授の研究室を推したのも、思い返してみれば常葉だった。常葉の研究に貢献できる知識・技能を獲得し、かつ交渉しやすい二宮研究室に早苗を置いておこうという算段だったのだと、Yesと応えたあの日、早苗は理解した。
そして同時期に、つまり早苗の前で彼らが「池内」の内情を隠すことなく話しはじめたその時から、夏馬の〈仕掛け〉が早苗の日常を収集し始めたはずである。早苗はその〈仕掛け〉がどういうものであるかは知らないものの、それによって丸裸にされることは承知している。西江衛という男の存在も、夏馬はすでに把握していた。半年ほど前に西江の身辺調査を依頼した際、基本的なプロフィールは収集済みだった。夏馬が早苗を見ていたことの疑いようのない証左である。「池内」がなぜそのようなことをするのかについては、早苗には推測はあっても、憶測の域を出ない。
麻友はおそらく収集の対象にはなっていない。玲奈もそうだろう。「池内」との距離だけが問題ではないのだ。早苗は庇護すべき(その必要のある)人間と見られている。もちろん「池内」のために庇護するのであって、だれかれ構わず心配だからそうするわけではない。そうするだけの能力を持ち、実効性の伴う手段を持った誰かでなければ、責任をもって庇護することなどできはしない。必要なのは優しさや慈しみではない。なにしろそれは、盲目的な信頼(差し出すこと)から絶対的な安心(忘れ去ること)への不等価交換なのだから。
早苗のような常客が多い「池内」のダイニングテーブルは、八脚の椅子で囲むことができる。長辺に三名ずつ、短辺に一名ずつ。参加人数が何名であろうと、キッチンに近い短辺はキッチンの支配者である叶(大和の叔父)の席と決まっている。常葉はその右手に座る。夏馬は必ず常葉の向かい側の、ただし正面にならない席を選ぶ。滅多に同席することはないけれど、彩日香は可能な限り常葉の死角に入ろうとする。そして早苗は、中でもいちばん気安い叶のすぐ隣になる長辺の端を選んできた。
この日は叶の左右に常葉と早苗が向かい合い、早苗の隣に大和、夏馬と並び、常葉の隣に静花が座った。彩日香の姿はない。場所が「池内」のマンションであり、常葉と夏馬がふたりとも同席すると聞いたから、ありもしない見え透いた用事をこしらえて逃げたそうだ(と、大和が言った)。
「休み中、彩日香はどうしてる?」
食事がはじまると、まず片付けるべきものを終わらせるべく、常葉が口を開く。
「先週までは図書館。今週は北原の家に通っているようだね」
「北原?」
「諸岡が帰ってきた日に
「ああ、例の
「いや。北原にその必要はない。程よく恵まれて育ったお嬢さんだ。彩日香と共鳴はしない」
「早苗にはどう映った?」
「夏馬さんと違いません」
「そ。じゃあ、しばらく放っておきましょう」
それから静花の母親のことや、早苗の知らない大和と同世代の誰かのことや、あるいはそうした一族の人間、及びその人間に対して極めて強い影響力を持つ人物の近況などが共有される。わかりやすい例を挙げれば、後者は彩日香にとっての諸岡のような人間のことだ。問いかけるのは常葉であり、夏馬が淀みなく答えて行く。叶や大和や静花は半分くらいその話を聞きながら、まったく違う話題をテーブル上で遠慮なく交叉させる。稀に先ほどの北原希美のように早苗などの第三者に声がかかることがある。声を掛けられた人間は簡潔にYes / Noを返すのが暗黙のルールだ。
とはいえ、この儀式は数分で終わる。それ以上の長い議論が必要となる事案があれば、食後に常葉と夏馬が姿を消す。残る人間たちはリビングでお茶を飲み、テレビを見たりゲームをしたり、ただおしゃべりに興じたりしているうちに、夜が更ける。
これをどう理解すべきなのか、早苗はしばしば考えさせられてきた。一族ではなく、ただ大和の幼馴染みに過ぎない早苗が、どうしてここまでの情報に触れる機会を与えられ、かつ稀とはいえ意見を求められるのか。常葉が早苗の能力を買っていることは承知していた。だから常葉と二宮教授との会話に歓びはあっても驚きはなかった。しかしそれだけではないように思う。それだけでここに座る資格があるとは思えない。そう、早苗は疑っているのだ。今まさにこのテーブルを一緒に囲んでいる、三人の独身男性の存在について。
池内叶――正確な生年は知らないが、おそらく四十代前半。某有名私大の商学部教授。専門は経営学、経営戦略における意思決定プロセスの研究。この家のキッチンの支配者。つまり料理好き。好きというレベルを超越している腕前である。もうあと五つくらい歳が近ければ、早苗はきっと真剣に叶に恋をしていただろうと思う。正直いまでも、大和と話すより叶と話すほうが楽しい。もちろんそれは、大和と話すときには雑念というか、邪なイメージが過 ぎるからでもあるのだが。
池内夏馬――三十歳。池内におけるこの世代(大和の世代)の最年長者。大学から東京に出てきたものの、卒業せず除籍になった。家業が忙しくてね、と以前早苗が尋ねた際には笑ってそう応えた。彩日香はこの夏馬を極端に恐れている。大和や静花にはそうした様子はまったく見受けられない。早苗も怖いと思ったことはないが、正直つかみどころのない人間だ。池内の中でも突出して背が高く、雰囲気は穏やかだが、実は止め処ない饒舌の一面を併せ持っている。
安曇大和――二十三歳。同い年の幼馴染み。幼稚園から高校まで一緒に通った。ただ同じ建物に通ったというだけでなく、お互い相手が唯一の理解者だと思っていた。少なくとも早苗はそうだ。だから桐谷麻友の登場に動揺したし、高樹玲奈を未だに受け入れられずにいる。大和は高校二年の夏に事故に遭い、右足の踝から先を失って、県内でもエリートだった水泳の道を閉ざされた。当時のライバルの一人が諸岡和仁である。早苗はそのときなぜか大和に寄り添うことができなかった。どうしてそうすることができなかったのか、今になってもよくわからない。
……たぶんこれは私の過剰な想像の、妄想の、あるいは欲望の産物に過ぎないのだろう。なぜなら去年、夏馬は西江衛を薦めたのだから。夏馬が常葉と思惑を異にして動くとは思えない。あるいは夏馬は、僕は早苗はごめんだよ、と暗にそう伝えたのか。それとも――
「早苗さんはモロさんの応援行く?」
斜め前に座る静花の声にさりげなく顔を向けた。
「静花ちゃん行くの?」
「大和が行かないって言うから、私どうしようかと思って。ひとりじゃダメって常葉さん言うし……」
「なぜ行かないの? 代表選考会よね?」
「どうせ惨敗するから、見たくねえ」
「惨敗? 諸岡くんが?」
プールサイドの時計は、早苗の中では七年前に止まったまま埃をかぶっている。そこから大和の姿が消えたあと、針はもうぴくりとも動かない。早苗の知っている諸岡も、だからまだ大和ががむしゃらに水を叩き、でもどんなに足掻いても絶望的に追いつくことのできなかった、スマートで色白の美少年の姿のままだ。早苗たちが東京の大学に進み、諸岡がフロリダに渡ったあとは、たまに顔を見せる安曇彩日香の恋人でしかない。色白だった少年が、その間に日に焼けた青年に変わった。
「そんなのまだわからないよ!」
と静花が叫び、テーブルが一瞬、静まった。
「わかってんだよ。モロはもう終わってんだよ。B決勝だってどうだか――」
「大和、やめなさい」
常葉の一声で大和は口をつぐみ、苦い顔をしてそっぽを向いた。静花は真っ赤になって頬を膨らませている。泣き出しそうだな…と早苗にはそう見えた。が、静花はふんっと鼻を鳴らしただけで、手にした箸に怒りを移して食事に戻った。なんでもすぐに泣き出しそうな可愛らしい顔をしていながら、静花は決して泣かない。泣いたほうが得なのに、と静花を見るたびに早苗はいつもそう思う。こういう可愛らしい女の子は、めそめそしているほうがウケがいい。ひょっとすると彩日香のほうがすぐに泣く。ああいう怖いくらいの美人こそ、黙って見つめ返せばすべてを思うがままにできるのに。
「名古屋なんて日帰りできるでしょ?」
「せっかく新幹線乗って出かけるんだから、泊まりたい」
「茉莉花 のとこならいい、て言ってるじゃない」
「お母さんとこって東京と名古屋の真ん中だよ? ぜんぜん意味わかんないよ。常葉さんて、ほんとイジワルだよね。私だってもう二十歳だよ? 大人だよ? どうしてダメなの?」
「まだ二十歳の子供だから」
「二十歳はもう大人です!」
「静花はまだ子供です」
そこで夏馬が思わず吹き出して、静花がきっと睨みつけた。
「じゃあ夏馬さんが連れてって!」
「あいにく四月は立て込んでてね」
「いっつもごろごろしてるだけじゃん。なんにもしてないじゃん。なんかしてるとこ見たことないよ。私こっちきてから二年経つけど、一度も見たことない」
「だから、子供にはわからないんだよ」
「また子供って言った。もういい! ごちそうさま!」
パシンッと箸を叩きつけるように置いて、ダイニングを飛び出してしまった。一緒に行ってあげようか、とは早苗は言わない。そういう解決の仕方を「池内」が好まないことはよく知っている。実際、夏馬も叶も助けようとはしなかった。できないわけではない。ただこれは諸岡和仁の問題だから、大和か彩日香が頭を下げない限り、周りは自分からは手を貸さない。たとえばそういうルールだ。これも、地上では〈池内常葉〉と名乗っている神様が決めたルールのひとつである。
「諸岡はこれを最後にやめるのね?」
「そういうこと」
「無様な姿をあんたには見られたくない」
「俺ならそう考える。だから俺は行けない」
「わかった。…じゃ、夏馬、悪いけど頼むわ」
「了解」
「でさ、帰りに本家寄ってきて。あと、時間が合えば芳乃 もね」
「芳乃?」
「あとで話す」
常葉がテーブルの上に顔を戻すと、夏馬はすっと椅子を立ち、ゆっくりとダイニングを出た。早苗は耳を澄ませた。ややあって、廊下を駆けてくる足音が勢いよくドアを開け、その勢いのままに飛び込んできた静花が、腰掛ける常葉の首に抱きついた。
「常葉さん、大好き!」
「意地悪ババアじゃなかったの?」
「え、だれがそんな酷いこと言ったの? あ、大和ね。酷いよ、大和。謝りなさい!」
「ごめんなさい。もう二度と口に致しません……」
「うん。大和も謝ってることだし、常葉さん、許してあげて」
「はい、はい。わかったから、ちょっと離れてよ。首が苦しい」
静花の後ろから夏馬が席に戻り、間もなく食事が終わった。叶がキッチンに立ち、コーヒーを淹れている。あとで…と言った通り、常葉と夏馬はリビングには向かわずに、常葉の部屋か書庫に向かった。残る四人でテーブルの上を片付けてから、リビングでお茶の時間になる。静花がノートパソコンを持ち出して来て名古屋の観光案内を検索し、両脇から叶と早苗が覗き込む。大和はひとりでテレビをつけ、見たい番組が見つからないのか、くるくるとチャンネルを切り替えた。
望んだことはなんらかの形でいつか必ず実現される――それが「池内」だ。静花が名古屋に出かけることなど些細な出来事だが、こうしたことの積み重ねが「池内」を維持している。それをいまは常葉が引き受けている。そしておそらくいずれ夏馬がそれを引き継ぐことになる。いつまでそうすることが必要なのかわからないが、早苗が知る限り、おそらく常葉の父であり夏馬の祖父である〈池内桔馬 〉の記憶が消えるまで、なのだろう。もし
ただし常葉は、父・桔馬の意思・遺志を遂行するためではなく、それを挫折させるために意識的にこの立場を引き受けた。ここに集まっているのは知恵の多い人々ではあるけれど、彼らの戦略はあのような、静花の「常葉さん、大好き!」のような、取るに足らない出来事を積み上げて行くことだ。ただし、たとえばその日のレースが大和にとって、そして当の諸岡にとってどのような意味を持つのかを明らかにしたうえで。もちろんそれが静花に知らされることはない。静花には不必要だからだ。静花はそのために一度、あの席から姿を消さなければならなかった。
だから夏馬は最初には静花を助けなかった。しかし夏馬はいずれ(いやすぐにでも)静花が救われることを承知している。大和が名古屋に行かない理由が明らかにされ、常葉が静花を救い出すことを求めたとき、夏馬は驚きもせずに了解した。静花が常葉に抱きついて「大好き!」と叫んだところからは、もう見慣れた茶番の繰り返しである。謂れのない罪を着せられた大和が簡単に頭を下げたことも。そこでちょうど食事が終わったことも。そして叶がコーヒーを淹れはじめたことも。彼らはそれが、それこそが、父の、祖父の意思・遺志を挫くものだと信じている。
早苗が生まれ育った町で、〈池内桔馬〉の名を知らないものはいない。大人たちはみな苦しげに身を捩らせて――ただし子供たちの耳には聞こえないように――その名を口にする。なぜなら〈池内桔馬〉はあの町が生み育てた
十五分ほどで常葉と夏馬がリビングに姿を見せた。静花はさっそく常葉をつかまえて、ホテルの予算をめぐる厳しい(勝ち目の薄い)折衝をはじめた。夏馬は結局もの静かな美術番組にチャンネルを落ち着かせた大和の隣に腰掛けた。
早苗がいる間、大和と夏馬は言葉を交わさなかった。常葉と夏馬は芳乃について、つまり大和の長姉について話をしていたはずなのに。早苗はしばらくふたりの様子を伺っていたが、やがて最も気の置けない叶とおしゃべりをはじめた。
この辺りの経緯は、早苗にはよくわからない。どうやらこのマンションの所有者は池内常葉の一筆にはなっておらず、割合はむろん知らないけれど、池内本家の名前も並んでいるらしい。先代――夏馬・彩日香・大和・静花らの祖父――が残した資産は大きく、名義上はすべて長男である夏馬の父親に譲られたものの、実質的に一族共有の資産として扱われており、一族のだれに・なぜ・いくら使うかは、概ね常葉が判断しているという話である。そして、常葉の判断を助けるために、夏馬が一族並びにその周辺の情報を日常的に収集しているわけだ。
たとえば彩日香が東京に出ることも、夏馬から話を聞いた常葉が条件付きでそれを認め、夏馬がアパートを探し、お金は安曇家と池内家の双方で折半されている。――そういう話を、数年前から「池内」の人間は早苗の前では声をひそめることなく話すようになった。おそらくその頃から、常葉はいずれ早苗を自社の研究所に引っ張り込むことを考えていたのだろう。そもそも二宮教授の研究室を推したのも、思い返してみれば常葉だった。常葉の研究に貢献できる知識・技能を獲得し、かつ交渉しやすい二宮研究室に早苗を置いておこうという算段だったのだと、Yesと応えたあの日、早苗は理解した。
そして同時期に、つまり早苗の前で彼らが「池内」の内情を隠すことなく話しはじめたその時から、夏馬の〈仕掛け〉が早苗の日常を収集し始めたはずである。早苗はその〈仕掛け〉がどういうものであるかは知らないものの、それによって丸裸にされることは承知している。西江衛という男の存在も、夏馬はすでに把握していた。半年ほど前に西江の身辺調査を依頼した際、基本的なプロフィールは収集済みだった。夏馬が早苗を見ていたことの疑いようのない証左である。「池内」がなぜそのようなことをするのかについては、早苗には推測はあっても、憶測の域を出ない。
麻友はおそらく収集の対象にはなっていない。玲奈もそうだろう。「池内」との距離だけが問題ではないのだ。早苗は庇護すべき(その必要のある)人間と見られている。もちろん「池内」のために庇護するのであって、だれかれ構わず心配だからそうするわけではない。そうするだけの能力を持ち、実効性の伴う手段を持った誰かでなければ、責任をもって庇護することなどできはしない。必要なのは優しさや慈しみではない。なにしろそれは、盲目的な信頼(差し出すこと)から絶対的な安心(忘れ去ること)への不等価交換なのだから。
早苗のような常客が多い「池内」のダイニングテーブルは、八脚の椅子で囲むことができる。長辺に三名ずつ、短辺に一名ずつ。参加人数が何名であろうと、キッチンに近い短辺はキッチンの支配者である叶(大和の叔父)の席と決まっている。常葉はその右手に座る。夏馬は必ず常葉の向かい側の、ただし正面にならない席を選ぶ。滅多に同席することはないけれど、彩日香は可能な限り常葉の死角に入ろうとする。そして早苗は、中でもいちばん気安い叶のすぐ隣になる長辺の端を選んできた。
この日は叶の左右に常葉と早苗が向かい合い、早苗の隣に大和、夏馬と並び、常葉の隣に静花が座った。彩日香の姿はない。場所が「池内」のマンションであり、常葉と夏馬がふたりとも同席すると聞いたから、ありもしない見え透いた用事をこしらえて逃げたそうだ(と、大和が言った)。
「休み中、彩日香はどうしてる?」
食事がはじまると、まず片付けるべきものを終わらせるべく、常葉が口を開く。
「先週までは図書館。今週は北原の家に通っているようだね」
「北原?」
「諸岡が帰ってきた日に
友達
だとか言って連れてきた子だよ」「ああ、例の
お友達
。あんたその子のこと見てるの?」「いや。北原にその必要はない。程よく恵まれて育ったお嬢さんだ。彩日香と共鳴はしない」
「早苗にはどう映った?」
「夏馬さんと違いません」
「そ。じゃあ、しばらく放っておきましょう」
それから静花の母親のことや、早苗の知らない大和と同世代の誰かのことや、あるいはそうした一族の人間、及びその人間に対して極めて強い影響力を持つ人物の近況などが共有される。わかりやすい例を挙げれば、後者は彩日香にとっての諸岡のような人間のことだ。問いかけるのは常葉であり、夏馬が淀みなく答えて行く。叶や大和や静花は半分くらいその話を聞きながら、まったく違う話題をテーブル上で遠慮なく交叉させる。稀に先ほどの北原希美のように早苗などの第三者に声がかかることがある。声を掛けられた人間は簡潔にYes / Noを返すのが暗黙のルールだ。
とはいえ、この儀式は数分で終わる。それ以上の長い議論が必要となる事案があれば、食後に常葉と夏馬が姿を消す。残る人間たちはリビングでお茶を飲み、テレビを見たりゲームをしたり、ただおしゃべりに興じたりしているうちに、夜が更ける。
これをどう理解すべきなのか、早苗はしばしば考えさせられてきた。一族ではなく、ただ大和の幼馴染みに過ぎない早苗が、どうしてここまでの情報に触れる機会を与えられ、かつ稀とはいえ意見を求められるのか。常葉が早苗の能力を買っていることは承知していた。だから常葉と二宮教授との会話に歓びはあっても驚きはなかった。しかしそれだけではないように思う。それだけでここに座る資格があるとは思えない。そう、早苗は疑っているのだ。今まさにこのテーブルを一緒に囲んでいる、三人の独身男性の存在について。
池内叶――正確な生年は知らないが、おそらく四十代前半。某有名私大の商学部教授。専門は経営学、経営戦略における意思決定プロセスの研究。この家のキッチンの支配者。つまり料理好き。好きというレベルを超越している腕前である。もうあと五つくらい歳が近ければ、早苗はきっと真剣に叶に恋をしていただろうと思う。正直いまでも、大和と話すより叶と話すほうが楽しい。もちろんそれは、大和と話すときには雑念というか、邪なイメージが
池内夏馬――三十歳。池内におけるこの世代(大和の世代)の最年長者。大学から東京に出てきたものの、卒業せず除籍になった。家業が忙しくてね、と以前早苗が尋ねた際には笑ってそう応えた。彩日香はこの夏馬を極端に恐れている。大和や静花にはそうした様子はまったく見受けられない。早苗も怖いと思ったことはないが、正直つかみどころのない人間だ。池内の中でも突出して背が高く、雰囲気は穏やかだが、実は止め処ない饒舌の一面を併せ持っている。
安曇大和――二十三歳。同い年の幼馴染み。幼稚園から高校まで一緒に通った。ただ同じ建物に通ったというだけでなく、お互い相手が唯一の理解者だと思っていた。少なくとも早苗はそうだ。だから桐谷麻友の登場に動揺したし、高樹玲奈を未だに受け入れられずにいる。大和は高校二年の夏に事故に遭い、右足の踝から先を失って、県内でもエリートだった水泳の道を閉ざされた。当時のライバルの一人が諸岡和仁である。早苗はそのときなぜか大和に寄り添うことができなかった。どうしてそうすることができなかったのか、今になってもよくわからない。
……たぶんこれは私の過剰な想像の、妄想の、あるいは欲望の産物に過ぎないのだろう。なぜなら去年、夏馬は西江衛を薦めたのだから。夏馬が常葉と思惑を異にして動くとは思えない。あるいは夏馬は、僕は早苗はごめんだよ、と暗にそう伝えたのか。それとも――
「早苗さんはモロさんの応援行く?」
斜め前に座る静花の声にさりげなく顔を向けた。
「静花ちゃん行くの?」
「大和が行かないって言うから、私どうしようかと思って。ひとりじゃダメって常葉さん言うし……」
「なぜ行かないの? 代表選考会よね?」
「どうせ惨敗するから、見たくねえ」
「惨敗? 諸岡くんが?」
プールサイドの時計は、早苗の中では七年前に止まったまま埃をかぶっている。そこから大和の姿が消えたあと、針はもうぴくりとも動かない。早苗の知っている諸岡も、だからまだ大和ががむしゃらに水を叩き、でもどんなに足掻いても絶望的に追いつくことのできなかった、スマートで色白の美少年の姿のままだ。早苗たちが東京の大学に進み、諸岡がフロリダに渡ったあとは、たまに顔を見せる安曇彩日香の恋人でしかない。色白だった少年が、その間に日に焼けた青年に変わった。
「そんなのまだわからないよ!」
と静花が叫び、テーブルが一瞬、静まった。
「わかってんだよ。モロはもう終わってんだよ。B決勝だってどうだか――」
「大和、やめなさい」
常葉の一声で大和は口をつぐみ、苦い顔をしてそっぽを向いた。静花は真っ赤になって頬を膨らませている。泣き出しそうだな…と早苗にはそう見えた。が、静花はふんっと鼻を鳴らしただけで、手にした箸に怒りを移して食事に戻った。なんでもすぐに泣き出しそうな可愛らしい顔をしていながら、静花は決して泣かない。泣いたほうが得なのに、と静花を見るたびに早苗はいつもそう思う。こういう可愛らしい女の子は、めそめそしているほうがウケがいい。ひょっとすると彩日香のほうがすぐに泣く。ああいう怖いくらいの美人こそ、黙って見つめ返せばすべてを思うがままにできるのに。
「名古屋なんて日帰りできるでしょ?」
「せっかく新幹線乗って出かけるんだから、泊まりたい」
「
「お母さんとこって東京と名古屋の真ん中だよ? ぜんぜん意味わかんないよ。常葉さんて、ほんとイジワルだよね。私だってもう二十歳だよ? 大人だよ? どうしてダメなの?」
「まだ二十歳の子供だから」
「二十歳はもう大人です!」
「静花はまだ子供です」
そこで夏馬が思わず吹き出して、静花がきっと睨みつけた。
「じゃあ夏馬さんが連れてって!」
「あいにく四月は立て込んでてね」
「いっつもごろごろしてるだけじゃん。なんにもしてないじゃん。なんかしてるとこ見たことないよ。私こっちきてから二年経つけど、一度も見たことない」
「だから、子供にはわからないんだよ」
「また子供って言った。もういい! ごちそうさま!」
パシンッと箸を叩きつけるように置いて、ダイニングを飛び出してしまった。一緒に行ってあげようか、とは早苗は言わない。そういう解決の仕方を「池内」が好まないことはよく知っている。実際、夏馬も叶も助けようとはしなかった。できないわけではない。ただこれは諸岡和仁の問題だから、大和か彩日香が頭を下げない限り、周りは自分からは手を貸さない。たとえばそういうルールだ。これも、地上では〈池内常葉〉と名乗っている神様が決めたルールのひとつである。
「諸岡はこれを最後にやめるのね?」
「そういうこと」
「無様な姿をあんたには見られたくない」
「俺ならそう考える。だから俺は行けない」
「わかった。…じゃ、夏馬、悪いけど頼むわ」
「了解」
「でさ、帰りに本家寄ってきて。あと、時間が合えば
「芳乃?」
「あとで話す」
常葉がテーブルの上に顔を戻すと、夏馬はすっと椅子を立ち、ゆっくりとダイニングを出た。早苗は耳を澄ませた。ややあって、廊下を駆けてくる足音が勢いよくドアを開け、その勢いのままに飛び込んできた静花が、腰掛ける常葉の首に抱きついた。
「常葉さん、大好き!」
「意地悪ババアじゃなかったの?」
「え、だれがそんな酷いこと言ったの? あ、大和ね。酷いよ、大和。謝りなさい!」
「ごめんなさい。もう二度と口に致しません……」
「うん。大和も謝ってることだし、常葉さん、許してあげて」
「はい、はい。わかったから、ちょっと離れてよ。首が苦しい」
静花の後ろから夏馬が席に戻り、間もなく食事が終わった。叶がキッチンに立ち、コーヒーを淹れている。あとで…と言った通り、常葉と夏馬はリビングには向かわずに、常葉の部屋か書庫に向かった。残る四人でテーブルの上を片付けてから、リビングでお茶の時間になる。静花がノートパソコンを持ち出して来て名古屋の観光案内を検索し、両脇から叶と早苗が覗き込む。大和はひとりでテレビをつけ、見たい番組が見つからないのか、くるくるとチャンネルを切り替えた。
望んだことはなんらかの形でいつか必ず実現される――それが「池内」だ。静花が名古屋に出かけることなど些細な出来事だが、こうしたことの積み重ねが「池内」を維持している。それをいまは常葉が引き受けている。そしておそらくいずれ夏馬がそれを引き継ぐことになる。いつまでそうすることが必要なのかわからないが、早苗が知る限り、おそらく常葉の父であり夏馬の祖父である〈
それ
が実在する(した)のだとすれば、彼のほかにない。ただし常葉は、父・桔馬の意思・遺志を遂行するためではなく、それを挫折させるために意識的にこの立場を引き受けた。ここに集まっているのは知恵の多い人々ではあるけれど、彼らの戦略はあのような、静花の「常葉さん、大好き!」のような、取るに足らない出来事を積み上げて行くことだ。ただし、たとえばその日のレースが大和にとって、そして当の諸岡にとってどのような意味を持つのかを明らかにしたうえで。もちろんそれが静花に知らされることはない。静花には不必要だからだ。静花はそのために一度、あの席から姿を消さなければならなかった。
だから夏馬は最初には静花を助けなかった。しかし夏馬はいずれ(いやすぐにでも)静花が救われることを承知している。大和が名古屋に行かない理由が明らかにされ、常葉が静花を救い出すことを求めたとき、夏馬は驚きもせずに了解した。静花が常葉に抱きついて「大好き!」と叫んだところからは、もう見慣れた茶番の繰り返しである。謂れのない罪を着せられた大和が簡単に頭を下げたことも。そこでちょうど食事が終わったことも。そして叶がコーヒーを淹れはじめたことも。彼らはそれが、それこそが、父の、祖父の意思・遺志を挫くものだと信じている。
早苗が生まれ育った町で、〈池内桔馬〉の名を知らないものはいない。大人たちはみな苦しげに身を捩らせて――ただし子供たちの耳には聞こえないように――その名を口にする。なぜなら〈池内桔馬〉はあの町が生み育てた
化け物
であったことを、大人たちはみな承知しているからだ。十五分ほどで常葉と夏馬がリビングに姿を見せた。静花はさっそく常葉をつかまえて、ホテルの予算をめぐる厳しい(勝ち目の薄い)折衝をはじめた。夏馬は結局もの静かな美術番組にチャンネルを落ち着かせた大和の隣に腰掛けた。
早苗がいる間、大和と夏馬は言葉を交わさなかった。常葉と夏馬は芳乃について、つまり大和の長姉について話をしていたはずなのに。早苗はしばらくふたりの様子を伺っていたが、やがて最も気の置けない叶とおしゃべりをはじめた。