第5話 でも、オレンジを選ぶのは私

文字数 4,771文字

 池内さんも相変わらずだよなあ、と二宮教授は苦笑した。松田くんにはまだ手伝ってもらいたかったと言われたことは、早苗にとってなによりも嬉しかった。教授は覚悟していたらしい。ただ、マスターが終わったところとは考えていなかった。ドクターの途中だろうと漠然とそう思っていたようだ。まさにこれからというところで攫われた格好だった。
 同じ研究室でも半分以上の人間は来春での就職を考えている。早苗はその中に数えられてはいなかったはずで、だから突然の報告は衝撃をもって受け止められた。同じ郷里の高校の大先輩であり、幼馴染みの甥もいるという程度の背景説明では、彼らを納得させることができなかった。上京後は月に一度は自宅での食事に呼ばれてきたというところまで聞き出され、やっと解放してもらえた。それでも、早苗のほうから追いかけたわけではないという話は、おそらく誰も信じていないだろう。
 二日迷ってから、西江衛にもメッセージを送った。数秒後に(たぶん仕事をサボってスマホをいじっていたのだ)、「お祝いしよう!」と返ってきた。そうなることがわかっていたので、早苗は迷ったのである。先日ふたりで食事をしてからまだ日が経っていない。そこが第一の問題であり、珍しく早苗のほうから連絡をすることが、第二の問題である。距離の縮まり方が不本意だ。西江はその程度ですっかり誤解するようなおバカさんではないけれど、気分を良くしていることは間違いない。
 西新宿の高層ビルの最上階から夜景を望む(そこまで昇れば嫌でも見える)レストランを予約されてしまった。ドレスコードがあるほどの話ではないのだが、どこから誰がどう見てもデートにしか映らない。白衣のまま駆けつけてやれば良かった、と思った。
「また舌打ちしたそうな顔してる」
「今日は騙し討ちに遭ったわけじゃないのにね。どうしてかしら。どうしてだと思う?」
「それは俺のほうこそ知りたい」
「…と、答えておいたほうが良さそうだ。ずばりと言い当ててしまうより」
「よそうよ、そういうの」
「そうね。せっかくお祝いしてくれるんだものね」
「まあ、食事だけだけど」
「持ち帰って処分に悩む手間が省けるわ」
 それならどんなものなら

されずに早苗の部屋に長く残り続けられるのか?――西江に尋ねられて、早苗は首を捻ってしまった。飾り物は迷惑だ、必要なものは揃っている、多くても邪魔に感じることなく役割をしっかり果たしてくれるもの……。消耗品しか思い浮かばない。
「すべての男は消耗品である、て言った人がいたね」
「どういう意味?」
「さあ、読んでないからわからない。ずいぶん昔の本だし」
「じゃあ、あなたは私の消耗品なんかで満足なの?」
「最後まできっちり使い切ってくれたら嬉しいだろうな。カラカランッて音がするまで」
「その音、食事中には不適切」
「ごめんごめん。最初に思い浮かんだ消耗品がそれだったもんだから」
「でも西江くん、ちょっといまさらな感じなんだけど……」
「なに?」
「あなた、その――私のどこが好きなの?」

私のどこが…という意味でいい?」
「まあ、そういうことかな」
「うん。それにはふたつの答え方がある。――ひとつは、君が毎晩同じ質問を繰り返し、俺が毎晩同じ答えを繰り返す、というやり方。もうひとつは、俺が消耗され尽くすまで延々と君にその答えを説明しつづける、というやり方。――さあ、どっちがいい?」
「どっちにしても、ずっと西江くんと一緒にいないといけないんじゃない」
「答えのない質問をするからそうなる」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「どうすればいいか? 君がいま成すべきことを俺に訊いてる?」
「そう。だって、私はもうこれまでの延長線上にはいられない」
「仕事が決まってしまったから、てこと?」
「ちゃんとしておきたいのよ。あなたのことだけじゃなくて、いろいろなこと」
「君は相変わらず真面目だね。仕事なんて、始めてしまえばなんでもないものだよ。朝起きて、職場に行って、やるべきことを済ませたら、家に帰って寝る。毎日がその繰り返しだ。それを繰り返す毎日がやってくるだけだ。幸福だとは言い難いけど、悲しくもないし、苦しくもない。思いのほか楽しいこともあったりする。…でもまあ、いいだろう。君がちゃんとしておきたいと言うならね。――よし、早苗、眼を閉じて、ちょっと想像してみてくれ」
「なに?」
「まず眼を閉じてくれなくちゃ」
「変なことしないでよ」
「そこは信じようよ」
「わかったわ。…どうぞ、言ってみて」
「西江衛が、君のよく知っている可愛らしい女の子と、スーパーでオレンジを選んでいる、ありふれてはいるけれど、ちょっとあたたかな情景」
「それは――」
 ほぼ反射的に、高樹玲奈の顔が浮かんだ。一度結ばれてしまったイメージを回収することは難しい。できるのは、さらに強い別のイメージによって置き換えること……。だが、あいにく早苗には、高樹玲奈を超えるそれの持ち合わせがなかった。さらに〈オレンジ〉が、スーパーの入り口近くに積まれた〈オレンジ〉が、すでにそれをしっかりと係累してしまっている。高樹玲奈というのは、それこそスーパーの〈オレンジ〉の山の前に立ち、そこから食卓に乗せるいくつかの〈オレンジ〉を選ぶ、そのようなことを成すために生まれてきた女だ。
 いま、テーブルは窓に向いて半円(よりさらにいくらか削られた円の外縁)を成しており、ふたりは窓の外の夜の都市を望んでいた。その丸みは、相手の顔から眼を逸らすことよりも、相手の顔に眼を向けることのほうに、わずかではあるものの、より多くの物理的エネルギーを求める形だった。たとえば頬杖をついて真っすぐに前を見たとき、相手の姿は視界のおよそ三割程度まで浸食してくるが、視界の七割は、求めない限り意味を持つ可能性の少ない都市の夜景が占める。ただ、視覚は聴覚ほどの遮蔽機能を持たない。聴かないことはできても視ないことは難しい。錯視がそうであるように、視覚は〈私〉の言うことを聞かない。
 いま、しかし早苗は眼を閉じている。視覚は瞼によって、強制的にその働きを無効化されている。代わりにイメージが、スーパーで〈オレンジ〉を選ぶ高樹玲奈の姿を、早苗の視覚野に

いる。瞼を開けば、七割の夜景と三割の西江が飛び込んでくるはずだけれど、このイメージを吹き飛ばしてくれる保証はない。視覚が送り込んでくる像は、このイメージと同じところに浮かぶわけではない。どうすれば吹き飛ばせるのか。それはもちろん、そうは言ってもやはり、早苗が瞼を開けない限りわからないことだ。七割の夜景と三割の西江が、早苗にどんな言葉をしゃべらせるか、どんな行動を促すか、瞼を開けてみないことにはわからない。このまま瞼を閉じたままでいたのでは、正直どうにもならない。
 いま、西江は瞼を閉じた早苗の横顔を斜め隣りから見つめている(はずだ)。西江の隣には可愛らしい女の子がいる。たとえば高樹玲奈のような。いや、

ではなく、隠喩としての高樹玲奈そのものが。それも、ふたりで〈オレンジ〉を選んでいるのだ。よりによって、あの陳腐なことこの上ない、朝の平和な食卓を飾るほか能のない、現代文明の幸福を象徴するがごとく、ホームセンターで売られている安っぽいパステル画のような〈オレンジ〉を……
 ……ねえ、西江くん、そこはどうして〈果物〉とか〈フルーツ〉とかではいけないの? どうして〈オレンジ〉に限定したわけ? 困るわ、そんなの。女の子はただ〈可愛らしい〉だけなのに、選んでいるのは〈オレンジ〉だなんて、そんなの、なんていうか、そう――早苗は眼を開けた。
「そんなの、ズルいわ」
「ズルい?」
「オレンジとか言わないで」
「オレンジが問題なの?」
「そうよ。女の子はどんなに可愛らしくてもかまわないけど、その子と一緒に〈オレンジ〉を選ぶのはやめて。〈オレンジ〉は、それは――私が選ぶわ」
 瞼を開けた早苗はまっすぐ前を向き、そこまで落ち着いてしゃべってから、西江に顔を向けた。西江は不思議そうな眼をしている。困惑はしていない。狂女を見るようには見ていない。つまり意味がつかめず困惑しているのではなく、

をただ純粋に不思議がっている。
 だから、早苗は右手を差し出したのだ。貴婦人のように。
 すぐに、西江は左手で受けとめたのだ。むろん騎士(ナイト)のように。
 少し椅子の間隔が遠いようである。ふたりはほぼ同時に空いているほうの手で、少しだけ椅子を寄せた。それぞれがそうしたので、それぞれがそうしようとしていたよりも、ふたりは近くなった。
 早苗はそれがたとえ指先だけであったとしても――実際、西下が受けとめたのは指先だけだった――人の肌に触れることの悦びを思い出した。早苗の指先が思い出しただけでなく、早苗が秘匿してきた原光景もまた、それを思い出していた。その手はもちろんこの手ではないけれど、この手はその手の代役を充分に務められると思った。
 早苗は一度指先を離し、離した手が落ちてしまう前に、すぐに深く差し入れ直した。それは指先の腹から手のひらのすべてへと、接する点を吸いつく面へと拡げ、いや転換し、ふたつをひとつにしようとする情動を呼び起こした。面は、点の集まりとは、そのように違う。
 早苗は西江に微笑んだ。嘘ではない。偽りではない。作り物ではない。まがい物ではない。早苗は西江に微笑んだ。二年も待たせてごめんなさいね、と声に出さずにつぶやいた。本当に、この二年を無為に過ごしてしまったような気がしていた。ふと悔いが生じ、一瞬して消えた。
「週末、名古屋に行かない?」
「名古屋?」
「諸岡くんの最後のレースがあるのよ」
「え? ああ、そうなのか」
「それと、帰りに私の生まれた町を見せてあげる」
 ウェイターの近づく気配に、ふたりは、はっと手を離した。幸いにも――とまあ言っていいのだろう――そこでふたりの上に、「夢から覚める」といったような喜劇は起こらなかった。心得たもので、ふたりの椅子の間が狭まったことを見てとったウェイターは、テーブルの上をしかるべく整え直してから去った。あるいは彼のその

が、ついさっきこの世界に生まれたばかりのまだ幼い結び目を、そこにとどめたのかもしれない。ふたりはそのために、立ち去ったウェイターから椅子の間をさらに縮めるべく唆され、実際そうした。
 店内は広く、空間は贅沢に使われていて、あるいは巧みにレイアウトされており、テーブルが互いに干渉し合うことはない。それでも声を――こうしたときにそうするように――ふたりは囁くほどにひそめた。空気が親密になった。音の伝わり方が変わった。声ばかりでなく、フォークとナイフを使う音も、脚を組み替える音も、探しては見つけ、離れてはまた探すふたつの手も、重なっては揺れ、逃げてはまた重なる瞳までが、これまでにない音を立てて早苗の胸を震わせた。
 負債は督促される前に完済されれば記録に残らない。量子力学がその秘密の抜け道の存在を教えてくれた。けれども私たちは、督促がいつ届くかを予め知ることができない。受け取らなかったことだけが、間に合ったことの証しとなるのだ。いまこの瞬間はまだいい。おそらくまだ大丈夫だ。でも明日の朝はどうだろう? この週末はどうだろう? いまは季節は春だけれど、それでは夏にはどうなっているだろう?
 早苗は拙速だったかもしれない。しかし彼女は、新しい恋人と一緒にプールサイドに座りたいと願ったのだ。このとき、この瞬間に。
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